第十七話「不自由な自由」
朝。
白を基調としたゼロのリビングには、どこか張り詰めた空気が漂っていた。その中心にいるのは、銀髪の男──ヴィー。
そして、ヴィーの背後にぴたりと立つのは、紫の瞳の男──エフ。
「……で、まず朝食。今日はパンと目玉焼き、スープ、それと……ハクの分のミルク」
ヴィーが食卓に手を伸ばしながら淡々と口にすると、すかさず背後からエフの声が飛ぶ。
「記録に残せ。“午前七時三十八分、朝食開始”。これもだ」
「細かっ!」
「当然だ。昨日の命令、忘れてないよな?」
「……命令っていうか、もはや脅迫だったけどなぁ」
ぶつぶつ文句を言いながらも、ヴィーは観念したように椅子に腰を下ろす。
──きっかけは、あの“告白”だった。
リアムの過去と、ハクの正体、神の存在。その全てを語ったヴィーに対し、エフは「頼ってくれ」と静かに手を差し伸べた。そして罰として命じた「報告義務」と「失踪禁止」。ヴィーは文句を言いつつも、素直にそれに従っている。
ヴィーの隣では、眠たそうに目をこすりながら、ハクがちょこんと座っていた。
「……ハク、パンちぎっただけで寝ようとすんな。今のうちに食べとけ」
「……ん、あむ」
小さな口でパンを咀嚼しながら、ハクはヴィーにもたれかかる。
そんな微笑ましい光景を、エフは淡々とメモに記録していた。
「はい、次。食後の予定は?」
「ハクと散歩。そのあと裏取引の確認に顔出して、午後は──」
「その裏取引の詳細も」
「お前、刑事か?」
「違う。仲間だ。だからこそ、全部知る」
「重っ……」
ヴィーは肩をすくめながら、報告を続けた。
⸻
昼過ぎ。
取引先とのやり取りを終えたヴィーは、裏路地に戻ってきた。振り返ると、やはりエフがぴったりとついてきている。
「さっきの取引、報告書にするようなもんじゃなかったよな?ただの顔出しだろ」
「細かい積み重ねが、信用に繋がる。お前の言動は曖昧な点が多すぎる。今は帳尻を合わせてる段階だ」
「……言い方ぁ……。それじゃ俺が問題児みたいじゃん」
「違うのか?」
「……否定できないのが悔しい」
ヴィーはふぅとため息をつき、しゃがみ込むようにして空を見上げた。曇りがかった空から、少し冷たい風が吹きつける。
「……最近、こうしてるとさ。やっと日常が戻ってきた気がする」
「何を言ってる。昨日までお前は、地獄を黙って抱えてただろう」
「……まぁね。けど……今の方が、辛いかも」
「なぜ?」
「頼るって、怖い。甘えたら壊れそうになる」
ふと影を帯びたヴィーの横顔に、エフは何も言わず、その隣に腰を下ろした。
「壊れたなら、支え直せばいい。俺たちは、そのためにいる」
「……エフ」
「一人になるなよ。今度こそ」
「……うん」
ヴィーの目に、かすかに優しい光が宿った。
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夜。
ハクが眠りについたあと、暗くなったリビングのソファにヴィーとエフが並んでいた。
「今日の報告、以上。俺、よく頑張ったと思う」
「よくやった。明日も続けるぞ」
「まじか……」
「当然。あと二十九日残ってる」
「くっそ長いよ……」
ヴィーがソファへ沈み込むのを見て、エフは立ち上がる。
「さて、俺はこれで。お前も今日はちゃんと寝ろ。明日も朝から付き添うからな」
「……あぁ、ありがと」
エフの背中を、ヴィーはぽつりと呟くように見送った。
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翌朝。
目を覚ましたヴィーの枕元には、すでにエフが立っていた。
「おはよう、ヴィー。……昨晩、どこにも行ってないよな?」
「……んー、朝から監視官……おはよ、エフ」
「おはようじゃない。報告だ。昨日の別れたあとの行動から、今朝の起床時間、朝食の内容まで、すべて。時間も正確にな」
「……なんでここにいるの」
「お前の監視のためだ」
「はいはい……えーと、別れた後、寝付けなくてコンビニ行った。ロールケーキ買って猫とじゃれて、帰ったの23時。寝たのは2時。起きたのは7時。朝ごはんは……スナック菓子」
「……それは朝食に入らない」
「朝に食べたら朝ごはんじゃん……」
「いいや、今日から俺が作る。野菜も出す」
「えぇぇぇ……!」
その日も、エフは終日ヴィーに付き添っていた。
「買い物に行く」
「ついていく」
「散歩したい」
「もちろん、ついていく」
「ハクと昼寝したい」
「お前の寝相が悪いから様子を見ておく」
「……なぁエフ、もしかして俺に惚れてる?」
「……言ってろ」
どれだけ軽口を叩こうと、エフは離れない。ヴィーが一人にならないように、そばに立ち続けた。
⸻
一方その頃──リアム。
闇に沈んだ作戦室で、クレインは何枚もの写真を眺めていた。
「……これが、今のゼロ。ふん……ふざけた顔してるわりに、痛みを隠せてないな、ヴィー」
その中の一枚には、取引帰りのヴィーとエフの姿が映っていた。監視網に紛れ込ませたカメラが捉えた一瞬だ。
「頼るようになった?ならば、逆手に取ればいい」
写真の中のエフを見つめながら、クレインは静かに目を細める。
「……こいつを壊すのが一番手っ取り早いな」
写真に、赤い×印が記される。
「だが……こいつは最後だ。ズタズタに引き裂くのは、僕の手で。当初の計画通り、まずはジェイからだ」
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夜更け。
「……なあ、エフ。俺、ちょっとだけ予感があるんだよね」
「……なんだ?」
「今度のリアムの動き、今までと違う。探りじゃない。潰しに来る。本気で」
「……どこに来ると思う?」
「“優しさ”に、だよ」
エフは言葉を失う。
“優しさ”──それはゼロの核であり、最大の弱点。
ジェイの存在。仲間の絆。信じる心。支える手。
それらすべてを壊すなら、“優しさ”を標的にするのがいちばん早い。
ヴィーは、どこか寂しげに微笑んだ。
「エフ。もし、俺がまた何か隠してたら──そのときは、容赦なく殴っていいよ」
「……殴る前に、止める」
「……ありがと。ほんとにさ……俺、エフのこと、好きだわ」
「……ふざけるな」
⸻
その夜、冷たい風が、窓の隙間を揺らしていた。
──そして、遠く離れたリアムの一室では。
カイの隣に立つダストが、そっと目を伏せる。
『お前はお前でいいんだ、ダスト』
──ヴィーの言葉が、脳裏に何度もよみがえる。
だが、それだけでは、答えは出ない。
「僕は……どうすれば……」
誰にも届かぬ呟きが、夜の闇に静かに溶けていった。
──今、二つの組織は。
かつてないほど静かに、確実に。
交差の時を迎えようとしていた。