第十五話「誰かの選択のその裏側」
灰色の鉄の壁に、切れかけた蛍光灯。冷たく乾いた質感が、部屋全体を覆っていた。
中央には、無機質な黒い楕円形のテーブルが鎮座し、その周囲に並ぶ椅子は十脚。そのうちひとつだけが空いていた。
心臓の鼓動すら聞こえそうな静寂を破ったのは、銀の長髪を指先で弄ぶ少年──ダストだった。
「……全員、揃ったな」
囁くような声。それだけで会議室の全員が静かに彼へと視線を向ける。
擬態能力だけでない、彼の纏う“空気”こそが、リアムにおけるダストの確かな地位を証明していた。
「まず報告。俺がゼロで見聞きした情報は、すべてクレインに送った」
パネルに映し出されたのは、見慣れた──だが今や遠い存在となった──ゼロの幹部たちの姿だった。
「……まあ色々掴んだつもりだけど、大事な場面でヴィーが戻ってきてしまったんだ。エフも、他の誰も俺に気付かなかったのに、あいつだけは見抜いてた。理由は……わからない。風の噂とか言ってたけど、何かしら情報を得る手段があるんだと思う。
……それに、ジェイも。多分……気付いてた。完璧に模倣したつもりだったけど……足りなかった……ごめん、なさい」
声が徐々に小さくなっていく。最初の自信に満ちた語り口とは打って変わり、叱られた子供のように、俯きながら言葉を絞り出す。
「……なんで、謝る?」
片肘をつき、顎を乗せていた男──深い青の髪と瞳をしたカイが、ただ疑問のように問いかけた。
怒っている様子はない。呆れてもいない。ただ、静かに問いかけるだけだった。
だがダストには、それすら責められているように感じられたらしい。さらに俯き、声を落とす。
「……ちゃんと、できなかった。擬態以外、何も取り柄がない俺が……失敗して……無能で……」
その言葉に、会議室の空気が一瞬だけ揺らいだ。誰もがわずかに顔をしかめ、視線を交わす。
「……何を勘違いしてるのか知らないが……俺はお前を無能だと思ったことなんて一度もない。擬態が便利なのは確かだ。でも、それが全てだと思ってるのはお前だけだ。お前は、ダストだ。それ以上でも以下でもない」
カイの言葉に、ダストは呆然とした顔をした。その言葉が、じんわりと、ゆっくりと、心に染み込んでいく。
「……ありがとう」
小さく、けれど確かに明るさを取り戻した声だった。顔を上げたときの表情はすでにいつもの冷静なそれだったが、どこか少しだけ晴れやかにも見えた。
「俺が戻ってきたのと入れ替わりで、エフを返しただろ?で、今日の朝、ヴィーから手紙が届いてた。どうやったのか分からないけど、今朝、俺の枕元にあった……ワイの力、ちゃんと成功したみたいだよ。ここ最近の記憶、エフの中から綺麗に抜けてるってさ」
「……ふふ、失敗するわけないじゃない」
ふんわりと微笑んだのは、淡い桃色の髪と瞳をした少女──ワイ。愛らしい見た目とは裏腹に、その瞳に慈悲の色はなかった。
「記憶を消すのは簡単だったわ。エフの中に残ってた“リアム”に関する記憶なんて、断片的だったもの。あの人、自分で選んだのよ。私たちを、忘れるって道を」
「だろうな。あいつは、忘れたかったんだ……都合の悪い過去も、仲間を捨てたことも、全部」
カイが低く呟いた。“忘れる”という言葉に、ほんの一瞬だけ視線が鋭さを帯びる。
冷たい沈黙が流れる。
やがて、それを破るように、カイが静かに言葉を継いだ。
「……あいつも、いつだって“選ぶ側”だった。俺たちは、ただ“選ばれなかった側”でしかない」
「だからこそ──今度は、僕たちが“選ぶ側”になる。そう決めたんだろ?」
応じたのは、黒縁眼鏡に汚れた白衣。濃い紫の髪と瞳を持つ男──クレイン。手元の資料を捲りながら、視線は上げずに言葉を投げた。
「リアムの方針を、もう一度確認しよう。目的は“ゼロの破壊”じゃない。選ばれなかった俺たちが、“選ばれた”彼らの意味を、全て奪い返す。それがこの組織の存在理由だ」
「……難しいこと言うね」
窓辺にいた赤髪の少女──リナが呟いた。その瞳には、誰かの面影を追うような翳りがあった。
「ねぇ、クレイン。それって、殺すってこと?」
クレインは、淡々と頷いた。
「必要ならね。だが、全てを壊す必要はない。
“ゼロの否定”──成功作という虚構を、根底から揺るがせばいい」
「……くだらないな」
部屋の最奥、椅子にふんぞり返っていた緑髪の男──オルトが鼻で笑う。
「要は捨てられた。そんだけだろ。それ以上でも以下でもねぇ」
「でも、アンタだって未だに“ケイ”に執着してるでしょ?」
リナが口を挟むと、オルトは一瞬だけ視線を落としたが、すぐにニヤリと口元を吊り上げる。
「あれれ?それ言うなら、アイを奪われたのはどこの誰だっけぇ?洗脳できる力があるのに、奪えなかったんでしょ〜?なぁ〜?」
「はぁ?ケイが研究所壊した時、あんたどこにいたっけ?……あぁ、そうだ。廃棄されてたんだよねぇ?」
「……は?」
二人の間に火花が散る。言葉のナイフはさらに鋭くなる──が。
「お前ら、いい加減にしろ」
カイの一言が、部屋の空気を一瞬で凍らせた。二人ともようやく口を噤んだかに見えたが
「そーよそーよ、うるさいったらないわ」
ワイがうんざりしたように呟く。だが…
「って言うけど、ワイだってジェイを壊そうとした“ピエロ”の件、失敗してるじゃん?」
「は?あれはヴィーが想定外だっただけ!それに、あのピエロが弱すぎたのが原因!」
今度はワイとクレインが火花を散らす。
──パンッ!
一発の乾いた銃声が、空気を裂いた。全員が沈黙する。
「……お前ら、黙れ」
銃口を下ろしたカイの言葉に、場が静まり返る。誰もが、その声に潜んだ殺気を肌で感じていた。
「ふざけ合ってる場合か。次は──ないぞ?」
全員が神妙に頷く中、ただ一人、笑みを浮かべた男がいた。透き通る水色の髪の男──ハウル。
「次も許しちゃうくせに」
言葉に出すことはない。ただ口の形だけがそう告げる。カイは一瞬バツが悪そうに視線を逸らすと、小さくぼやいた。
「……うるさいぞ、ハウル」
《何も言ってないよ》
ハウルは手元の端末に文字を打ち込み、ディスプレイを見せる。
カイは眉をひそめた。
「……じゃあ、行動がうるさい」
《それは、ごめん》
からかうような笑みに、カイは小さく鼻を鳴らすと、立ち上がった。
「──さて。今後の作戦を決める」
カイが立ち上がる。その動きだけで、空気が引き締まった。
「まずはゼロの構成員の情報整理からだ。クレイン、任せる」
「あぁ。ダストの報告に、ミューズから得たデータを合わせてまとめてある」
壁のディスプレイに映し出されたのは、ゼロのメンバーの顔写真と簡易的な能力表。その映像を前に、クレインは皮肉っぽく笑いながら話し始めた。
「まずリーダー。ご存知、クソ真面目なエフ。能力も才能も……僕によく似てるんだよ、これが。ほんと、腹立たしいくらい」
「はは。エフも同じこと言ってそうだな」
オルトが吹き出す。クレインは不機嫌そうに目を細めた。
「一緒にすんな。あんな奴とは違う」
「まぁまぁ、次行こう」
カイが軽く口を挟み、次に名前を出す。
「次は──ジェイ」
「能力は、俺と同じ。強靭な肉体と回復力、それだけ。でも……あいつは優しすぎる。それが最大の弱点だ」
「…………そう、カイの言う通り」
クレインもそれ以上は掘り下げず、話題を切り替える。
「ヴィーについては──正直、情報がほとんどない。ダストが直接ゼロに潜ったのに、あれだけはほぼ掴めてない。おかしいくらい」
ヴィーの名が出た途端、ダストが小さく肩を揺らす。だが、口を開くことはなかった。
「次はエイとユー。あれは双子に見えるけど──実際は、ユーがエイの分身。つまりユーは死なない。何度倒しても、エイがいる限り現れる」
「戦闘能力も高いし、最悪の場合、ゼットが裏切る可能性もある」
そう続けたのは、黒一色の衣装と瞳を持つ少女──ミューズ。
「ゼットは、生物兵器として廃棄されたけど……エイとユーだけには従順だったみたい。ダストが擬態しても駄目だったってことは、何か決定的な違いがあるんだろうけど……私には分からない」
「ゼットの暴走条件が分かれば、利用もできるんだけどな」
「……クレイン」
冷ややかなカイの声に、クレインが肩をすくめた。
「言葉の綾だよ。怒らないで」
「……わかってる」
「じゃ、次はエル。能力は“五秒先の未来”を見ること。地味だけど、使い方次第じゃ強い。株とかやれば間違いなく儲かるだろうな」
「……で、そのエルは今、我々が交渉を進めてる最中だろ?」
オルトの確認に、クレインは苦々しそうに頷いた。
「あぁ。今は“ハク”っていう謎の女の情報を探ってる。けど……エルたち自身も、あまり詳しくは知らないみたいだ」
そのことを語るうち、クレインの表情が明らかに曇っていく。
「くそ、やたらと頭の回るウザいのばっかりだ……」
「じゃあ次。エルの会社の別事業、アイドル事務所の看板──アイ・キュー・ユー。この三人の護衛兼マネージャーがエヌ。あいつは気配を完全に消せる。突然消えて、突然現れる感覚を作り出せる厄介な存在だ」
「対策は?」
「物理的には消えられない。ドアは開けなきゃ通れないし、足跡は残る。つまり、観察力と注意力の勝負だな」
カイは頷き、次に聞く。
「キューは?」
「ハウルにとって最悪の相性。あいつは“音を消す”力を持ってるから、音で操るハウルの力が封じられる。戦場に出るなら、キューは前線に来るはずだ」
《キューちゃんに会えるかも、ってこと?》
ハウルが端末に入力して見せる。クレインは軽く笑った。
「そういうこと」
《それはちょっと楽しみ》
ハウルの口元が、わずかに緩んだ。
「さて、アイについては……ワイとリナの方が詳しいな」
合図するように言うと、ワイが唇を噛みしめながら語った。
「……アイは、私から全てを奪った。あいつの力は感情を操る。そのせいで突然、私は捨てられた。私の大切な人まで……ジェイまで、奪われた」
拳を握りしめるワイ。その横で、リナは恍惚とした笑みを浮かべていた。
「私は逆。アイは、私の全て。あの声も、仕草も、表情も……全部が好き。愛してる。絶対に手に入れたいの」
彼女の歪んだ感情が、部屋にひやりとした違和感を残す。
「……はっ。恐ろしい女たちだ」
クレインが皮肉交じりに吐き捨て、資料に目を戻す。
「それ以外の要注意人物は……クロ。ジェイが拾ったらしいが、特に目立った能力はない。ただ──ジェイがそばに置いている、それが気になる」
クレインは口角を上げて、カイを見る。
「さぁ、リーダー。どこを攻める?」
カイはしばし無言だったが、やがて静かに言った。
「……“優しさ”だ」
「……優しさ?」
オルトが目を細めて問い返す。
「あぁ。ジェイの“優しさ”は、ゼロの象徴。最も美しく、最も脆い」
「……崩すつもりか?」
「違う。“突きつける”。俺たちが何をされ、何を奪われてきたか。選ばれなかった者の視点を、ジェイに正面からぶつける。あいつは、拒めない。冷たく切り捨てられるような人間じゃないから」
「……ジェイ、壊れちゃうよ」
リナがぽつりと呟く。だが、カイはその言葉に頷いた。
「──だからこそ意味がある。ジェイが壊れれば、ゼロは崩れる」
重く、静かな決意が空気を支配する。カイが最後に一言、言い切った。
「これは復讐じゃない。俺たちが置き去りにされた過去を取り戻す戦いだ」
⸻
会議が終わり、灯りが次々と落ちる中──
部屋に残ったのは、カイとダストだけだった。
「……言いたいこと、あるんだろ?」
静かに、でも確信を持った声でカイが言う。
ダストは驚いたように目を見開き、すぐに俯いた。
「……ごめん。けど……俺、今のままじゃ、ゼロと戦えない。ゼロを傷つけられない」
「理由を聞いてもいいか?」
「…………ヴィーに言われたんだ。“お前はお前でいい”、って」
「それは当たり前のことだ」
「……でも、俺には……初めてだったんだ。そんな風に、誰かに言われたの」
カイは言葉を失った。ダストは、続ける。
「……僕、もう何が正しいのか分からない。エフが全部悪いと思ってた。でも……そうじゃないのかもしれない。僕たちの知らない真実がある気がして……」
「いいさ。無理に信じろとは言わない。ただ──止めないでくれ。お前はお前のやり方で、真実を見つければいい。答えを出せばいい。もし助けが要るなら……俺も、みんなも手を貸す」
「…………ありがとう、カイ」
少しだけ涙を滲ませながらも、安堵の笑みを浮かべるダスト。その表情に、カイの顔もわずかにほころんだ。
「……なんだ。ダストも、ちゃんと自分の笑顔を持ってるじゃないか。その方が似合ってる」
「……え?」
言葉の意味を呑み込む前に、カイはダストの頭を軽く撫でると、静かに会議室を後にした。
取り残されたダストは、静かに心の中で──決意を固めていた。




