第十三話「目覚めの時間」
深く、暗い海に沈んでいくような感覚。息ができず、声も出ず、ただ、ゆっくりと沈んでいく。
誰かの視線だけが、そこにあった。憐れみとも、軽蔑ともつかない、冷たい目が。
はっと目を覚ます。視界に映るのは、寝室の、見慣れた、何の変哲もない天井。――けれど、なぜか、わずかな違和感を覚えた。
「……」
起き上がって、こめかみに手を当てる。痛みはない。ただ、少し頭が重い。どこかにぶつけたのか。それとも風邪か。
「昨日……俺、何してた?」
思い出そうとした瞬間、鋭い針が刺さったように、頭の奥がチクリと疼いた。反射的に眉をひそめ、舌打ちし、思考を止める。
――何かあった。嫌なことが。
だが、具体的な映像は何ひとつ浮かばない。ただひとつ、「嫌なことがあった気がする」という感覚だけが、薄く胸にこびりついていた。
「……はぁ。ヴィーがいなくなってから、調子が狂ってるのかもしれないな」
自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟く。
ヴィーは二日前から姿を消している。気まぐれな彼のことだ、そういうことはよくある。……まあ、どうせどこかで猫でも追いかけてるんだろう、と思いたい。不穏な書き置きが残されていたのは、確かに覚えている。――だが、そのあと、何かあったはずだ。
「くそ、考えてもわかんねぇな……外、出るか」
頭を振って思考を打ち切る。そのまま立ち上がり、ドアノブに手をかける――そこで、ようやく気付いた。部屋の“違和感”に。
振り返り、部屋を見渡す。
広くも狭くもない、いつもの部屋。だが、確かに何かが違う。間違い探しでもするように、自分の最後の記憶と現在の部屋を見比べる。
見覚えのない書類、報告書、減っているコーヒー。ヴィーが勝手に部屋に入り、コーヒーを飲んでいくのはいつものことだった。だが、今回はそれどころじゃない。まるで――そう、まるで、このデジタル時計が示すように。
三週間分の、記憶が抜け落ちているかのような。
……記憶が、ない?三週間も?
ずっと眠っていたのか?だとしたら誰かが起こしに来るはずだし、なにより書類はきちんと片付いている。
だが、俺には、これをやった記憶がない。じゃあ、誰が?
思考を整理するために部屋を出て、廊下を歩く。吹き抜ける風が、頭を冷やしてくれるような気がした。
ちょうど角を曲がったところで、ジェイの姿を見つける。
「おはよう、ジェイ」
三週間の記憶喪失。この件について、ジェイに聞けば調べてくれるだろう。だが、これ以上、この優しすぎる男に負担をかけたくはない。
「……D。お前の目的はなんだ」
時間が止まった気がした。
ジェイの声には、静かな怒りと、揺るがぬ確信が込められていた。
まっすぐに、俺を射抜くその目。
いつもは穏やかで力の抜けた眼差しが、今は冷たく、硬い。
「おいおい、何の冗談だよ。俺がDに見えるのか?Dは……廃棄された、はずだろ」
「……とぼけるつもりか。目的を言え。エフを返せ」
「…………なるほど」
ジェイの口調に、冗談の余地は一切なかった。
この男は優しすぎるがゆえに、味方を疑うことなどできないはずだ。
なのに、ここまで言い切るということは――
「ヴィーに何か吹き込まれたか?……いや、それだけじゃないな。そこまでハッキリと言うってことは、確信に至るだけの“理屈”があるってことだ」
ぶつぶつと呟きながら、情報を整理していく。
Dという名が出た以上、ヴィーの関与はまず間違いない。それだけではなく、ジェイが疑うに足る“証拠”があったはずだ。
「……俺が、ここ三週間の記憶がないっていうのは……もしかして、関係あるのか?」
「……三週間の記憶が……?」
問いかけると、ジェイは思考の海へと潜っていった。顎に手を当て、何かを考えている。言葉は、出ない。
ジェイが考えをまとめるのを待つ間に、俺も、自分の中で整理を始める。
――D。
俺が、見捨てると決めた元仲間のひとり。
擬態能力の持ち主。見た目だけでなく、仕草や癖までも模倣する技術に長けていた。
もし、あいつが生きていて、俺になりきったとしたら……それは、十分可能だろう。もし生きていればの話だが。
……俺は、見た。
あいつらが、廃棄場へと連れて行かれるのを。
……俺は、知っていた。
あの廃棄場が、死体の山と化した“処分場”だということも。
だから――Dなど、生きているはずがない。
では、ヴィーが嘘をついた?そんなタチの悪い冗談を?
――それも考えにくい。
となれば、残された可能性はひとつ。
Dは、生きている。
「ねえ、二人とも。こんな廊下で何やってんの? 邪魔なんだけど」
背後からの声で我に返る。
振り返ると、そこにはハクの手を引いたヴィーの姿があった。
「ヴィー、聞きたいことがある」
声が重なる。俺と、ジェイの。
「あははっ、息ぴったりじゃん。聞きたいこと、いっぱいあるんだろうけどさ、とりあえず飯にしよう。俺、腹減った」
ずる、と肩から力が抜けた気がした。
あれほど緊迫していたのに、ヴィーの声を聞くと、なんでもないことのように思えてくる。
「……ふっ、なんだ。ヴィー、案外いつも通りじゃないか」
皮肉を込めて言うが、ヴィーは気にも留めず、ただ笑うばかり。
「んー、変わらなきゃいけない理由あった?」
「ジェイにDって単語を出したんだから、すべて知ってんだろ?」
「全部じゃないよ。俺、全知全能じゃないし。……とにかく飯が先。食べ終わったら……みんな集めて、会議しようよ。風の噂、聞かせてあげる」
ここでは話す気はないらしい。
こう見えてヴィーは真面目だ。食事のあと、きちんと話すつもりなのだろう。
「……はぁ。わかったよ。……んで、ジェイ。お前はまだ、俺を疑ってるか?」
ジェイに視線を向ける。
その目は、先ほどまでとは違っていた。
いつもの、優しく、包み込むようなまなざしに戻っていた。
「……いや。皮肉屋のエフに、間違いない」
「一言、余計だよ」
軽口が叩ける程度には、心も回復しているらしい。
俺はジェイの肩を軽く小突いて、食堂へと足を進めた。