表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/28

第十三話「目覚めの時間」

 深く、暗い海に沈んでいくような感覚。息ができず、声も出ず、ただ、ゆっくりと沈んでいく。

 誰かの視線だけが、そこにあった。憐れみとも、軽蔑ともつかない、冷たい目が。




 はっと目を覚ます。視界に映るのは、寝室の、見慣れた、何の変哲もない天井。――けれど、なぜか、わずかな違和感を覚えた。


「……」


 起き上がって、こめかみに手を当てる。痛みはない。ただ、少し頭が重い。どこかにぶつけたのか。それとも風邪か。


「昨日……俺、何してた?」


 思い出そうとした瞬間、鋭い針が刺さったように、頭の奥がチクリと疼いた。反射的に眉をひそめ、舌打ちし、思考を止める。


 ――何かあった。嫌なことが。


 だが、具体的な映像は何ひとつ浮かばない。ただひとつ、「嫌なことがあった気がする」という感覚だけが、薄く胸にこびりついていた。


「……はぁ。ヴィーがいなくなってから、調子が狂ってるのかもしれないな」


 自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟く。

 ヴィーは二日前から姿を消している。気まぐれな彼のことだ、そういうことはよくある。……まあ、どうせどこかで猫でも追いかけてるんだろう、と思いたい。不穏な書き置きが残されていたのは、確かに覚えている。――だが、そのあと、何かあったはずだ。


「くそ、考えてもわかんねぇな……外、出るか」


 頭を振って思考を打ち切る。そのまま立ち上がり、ドアノブに手をかける――そこで、ようやく気付いた。部屋の“違和感”に。


 振り返り、部屋を見渡す。

 広くも狭くもない、いつもの部屋。だが、確かに何かが違う。間違い探しでもするように、自分の最後の記憶と現在の部屋を見比べる。


 見覚えのない書類、報告書、減っているコーヒー。ヴィーが勝手に部屋に入り、コーヒーを飲んでいくのはいつものことだった。だが、今回はそれどころじゃない。まるで――そう、まるで、このデジタル時計が示すように。


 三週間分の、記憶が抜け落ちているかのような。




 ……記憶が、ない?三週間も?

 ずっと眠っていたのか?だとしたら誰かが起こしに来るはずだし、なにより書類はきちんと片付いている。

 だが、俺には、これをやった記憶がない。じゃあ、誰が?




 思考を整理するために部屋を出て、廊下を歩く。吹き抜ける風が、頭を冷やしてくれるような気がした。

 ちょうど角を曲がったところで、ジェイの姿を見つける。


「おはよう、ジェイ」


 三週間の記憶喪失。この件について、ジェイに聞けば調べてくれるだろう。だが、これ以上、この優しすぎる男に負担をかけたくはない。


「……D。お前の目的はなんだ」




 時間が止まった気がした。


 ジェイの声には、静かな怒りと、揺るがぬ確信が込められていた。

 まっすぐに、俺を射抜くその目。

 いつもは穏やかで力の抜けた眼差しが、今は冷たく、硬い。


「おいおい、何の冗談だよ。俺がDに見えるのか?Dは……廃棄された、はずだろ」

「……とぼけるつもりか。目的を言え。エフを返せ」

「…………なるほど」


 ジェイの口調に、冗談の余地は一切なかった。

 この男は優しすぎるがゆえに、味方を疑うことなどできないはずだ。

 なのに、ここまで言い切るということは――


「ヴィーに何か吹き込まれたか?……いや、それだけじゃないな。そこまでハッキリと言うってことは、確信に至るだけの“理屈”があるってことだ」


 ぶつぶつと呟きながら、情報を整理していく。

 Dという名が出た以上、ヴィーの関与はまず間違いない。それだけではなく、ジェイが疑うに足る“証拠”があったはずだ。


「……俺が、ここ三週間の記憶がないっていうのは……もしかして、関係あるのか?」


「……三週間の記憶が……?」


 問いかけると、ジェイは思考の海へと潜っていった。顎に手を当て、何かを考えている。言葉は、出ない。


 ジェイが考えをまとめるのを待つ間に、俺も、自分の中で整理を始める。


 ――D。


 俺が、見捨てると決めた元仲間のひとり。

 擬態能力の持ち主。見た目だけでなく、仕草や癖までも模倣する技術に長けていた。

 もし、あいつが生きていて、俺になりきったとしたら……それは、十分可能だろう。もし生きていればの話だが。




 ……俺は、見た。

 あいつらが、廃棄場へと連れて行かれるのを。


 ……俺は、知っていた。

 あの廃棄場が、死体の山と化した“処分場”だということも。




 だから――Dなど、生きているはずがない。


 では、ヴィーが嘘をついた?そんなタチの悪い冗談を?


 ――それも考えにくい。


 となれば、残された可能性はひとつ。

 Dは、生きている。




「ねえ、二人とも。こんな廊下で何やってんの? 邪魔なんだけど」


 背後からの声で我に返る。

 振り返ると、そこにはハクの手を引いたヴィーの姿があった。


「ヴィー、聞きたいことがある」


 声が重なる。俺と、ジェイの。


「あははっ、息ぴったりじゃん。聞きたいこと、いっぱいあるんだろうけどさ、とりあえず飯にしよう。俺、腹減った」


 ずる、と肩から力が抜けた気がした。

 あれほど緊迫していたのに、ヴィーの声を聞くと、なんでもないことのように思えてくる。


「……ふっ、なんだ。ヴィー、案外いつも通りじゃないか」


 皮肉を込めて言うが、ヴィーは気にも留めず、ただ笑うばかり。


「んー、変わらなきゃいけない理由あった?」

「ジェイにDって単語を出したんだから、すべて知ってんだろ?」

「全部じゃないよ。俺、全知全能じゃないし。……とにかく飯が先。食べ終わったら……みんな集めて、会議しようよ。風の噂、聞かせてあげる」


 ここでは話す気はないらしい。

 こう見えてヴィーは真面目だ。食事のあと、きちんと話すつもりなのだろう。


「……はぁ。わかったよ。……んで、ジェイ。お前はまだ、俺を疑ってるか?」


 ジェイに視線を向ける。

 その目は、先ほどまでとは違っていた。

 いつもの、優しく、包み込むようなまなざしに戻っていた。


「……いや。皮肉屋のエフに、間違いない」

「一言、余計だよ」


 軽口が叩ける程度には、心も回復しているらしい。

 俺はジェイの肩を軽く小突いて、食堂へと足を進めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ