第十二話「何者にもなれなかった者」
静まり返った部屋に、二人の時間が止まる。
白いシャツを着たダストは、コーヒーカップをそっと机に置いた。さきほどまで浮かべていた余裕の笑みは消えている。代わりに現れたのは、まるで仮面を剥がされた舞台俳優のような、素顔に近い、だが本当の素顔ではない顔。
ヴィーは足を組み、無造作に椅子へと腰を下ろす。
「……で、いつからだったっけ? ダスト、お前がエフの顔をかぶって、こんな滑稽な芝居をやってたのは」
問いかけではあるが、答えを求めているようには聞こえない。ヴィーは口元をゆるめ、どこか楽しげにダストを見上げていた。
だが、声には感情がなかった。笑ってもいない。ただ、冷たく、底知れない雰囲気だけがそこにあった。
擬態を解くように、ダストは髪を撫で上げ、目を伏せる。次の瞬間、彼の姿はエフから、細身で中性的な本来の姿へと変化していた。影を纏ったようなその容貌は、どこか不安定で、触れれば崩れてしまいそうな危うさを孕んでいる。
ダストは少しだけ肩を落とし、気怠げに答えた。
「……お前には関係ないことだろ、ヴィー」
「関係なくはないさ。俺、エフが好きだからねぇ。気まぐれで冷たいって言われるけど、仲間を傷つけられたら、ちゃんと怒るタイプなんだ、俺は」
その言葉には明確な怒気があるわけではなかった。むしろ、底冷えするような静けさがあった。ダストは眉をひそめる。
「……嘘にしか聞こえないけどな」
「えぇ、ひどいなあ。俺は素直で優しい子だから、嘘なんかつかないよ」
「バカにしてんのか?」
「そんなことないそんなことない」
ヴィーの声には、嘲笑が混じっていた。
「……俺は、お前に憧れてたよ」
ダストの声が、暗く重く響く。
「……は?」
「俺は、何にでもなれるって言われてきた。どんな人間にも、どんな声にも、感情にも、過去にもなりきれる。でも……なりきればなりきるほど、自分が分からなくなった」
「……」
「ゼロの一員としてここにいた時も、研究所でも……俺はいつも“誰か”だった。誰かの真似をして、居場所を奪って、代わりをやって……でも、それがどれだけ上手くても、誰も“俺”を見てくれなかった」
ヴィーは何も言わない。ただ、その感情の読めない瞳でダストを見つめている。ダストの自嘲めいた声が再び漏れると、ヴィーはゆっくりと口を開いた。
「お前さ。何にでもなれる。エフにも、誰にでも。でも……結局、お前は何者にもなれてないんだよな?」
その言葉は、刃だった。柔らかく、しかし鋭利に心の奥へと滑り込む刃。
ダストは顔を伏せる。
「……お前は最初から俺のことを見下してた」
「見下してなんかないさ。ただ――哀れだなとは思ってる」
ヴィーは立ち上がる。音もなく、ダストとの距離を詰めた。手を伸ばせば触れられる距離で、囁くように言う。
「お前らの組織名、リアムって……Life Is A Mistake、だったか。人生は過ち。なんともまあ、自己評価の低いネーミングだこと」
「間違ってないだろ。俺たちは失敗作。捨てられたゴミ。生まれてきたこと自体が――」
「でもさ」
ヴィーは遮った。笑っていた。その目は、笑っていなかった。
「俺には、別の意味に聞こえる。Loser In All Mission。永遠の敗者、ってな」
ダストが息を飲む。
「お前らはいつだって、過去に囚われてる。『あのとき捨てられた』『選ばれなかった』。……で? 今もそのまま、そうやって生きてくのか?」
その問いに、ダストは口元をわずかに歪める。
「だったら聞く。――お前たちは、あのとき、俺たちを救ったのか? 切り捨てたのは……お前らだ」
ヴィーの表情は変わらない。ただ、静かに沈んでいた。
「違うな。お前たちを見捨てたのは――俺だ。俺の意思だ」
一拍、間を置く。
「全員を連れて逃げるのは無理だった。……それは、お前たちも分かってたはずだ」
「……だ、けど」
「エフは全部を救おうとした。抱えきれないほどの荷を、どうにか抱えようとしていた。それを俺が止めた。……俺が、エフを説得した。お前らを見殺しにするように」
ダストの目が揺れる。
「本当は、あのとき――俺の手で、ちゃんと殺すべきだった。そしたら、こんなに拗れることもなかった」
ヴィーの声は珍しく真剣だった。その瞳は、宙を見ていた。
「……まあ、俺の後悔の話はこのへんで。話を戻すけどな、研究所リアムはもう潰れた。過去にしがみついてるお前らも、いずれ同じように潰れる」
それは怒りでも哀れみでもなく、ただの事実を語る声。未来を見ている者と、過去に縛られた者の差。
「……どうして、お前はそんなふうに言える」
かすれた声でダストが問う。
ヴィーはわずかに微笑んだ。その目に、ほんの一瞬だけ優しさが滲む。
「ずっとお前らを見てた。聞いてたからさ……なあ、D――いや、ダスト」
その名を呼ばれ、ダストは目を見開く。
「本当は、お前のままでいいって、思ってるよ」
ヴィーはそれ以上何も言わなかった。優しさを表に出すことはない。エフを傷つけたことは、許せない。けれど、ダストが壊れることも、望んでいない。それがヴィーという男の矛盾だった。
「誰にもなりきらなくていい。誰の代わりにもならなくていい。お前が、お前のままで立っていてくれたら――それだけでいい」
「……それが、できたら……」
「できないから、今があるんだろ?」
ヴィーの視線がダストに向けられる。それは責めるものではなく、ただの問いだった。
「……俺は、誰かになりたかったわけじゃない。エフとか、誰かみたいに、ただ、少しだけ……強くなりたかった」
「分かってるよ」
ヴィーはふっと笑う。
「でも、“誰か”になろうとした時点で、お前は“お前”じゃなくなった。その時点で、“お前のまま強くなる”道は、自分で閉じたんだよ」
ダストは何も言わず、肩を落とす。仮面の重さを、噛みしめるように。
「……俺は、お前らを潰すって言った。潰すべきだとも思ってる。……でも、それと同じくらい強く思ってる。お前らには、生き残ってほしいって」
ダストは小さく目を伏せた。何かを押し殺すように、唇を噛む。
「……俺が、エフに化けたのは」
「知ってる。あいつの弱いところを突いて、壊した。……だから、今の俺は怒ってる。殺さないけど、しばくかもな」
「……ふふっ」
ダストが微かに笑う。
「やっぱ、お前……怖い、ずるい。なんで、そんなふうに言えるんだよ」
「性格悪いからだろ」
ヴィーは肩をすくめて笑う。
「……ダスト。お前は、もう誰かにならなくていい。俺はそう思うよ」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
まるで、長く張り詰めていた糸が、ふっとほどけたかのように。
「……ああ、クソ……負けたな、俺」
「最初から勝負になってなかったろ」
「ほんと、嫌なやつだ」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
ヴィーは背を向け、扉のほうへと向かう。
その背中に、ダストが声をかけた。
「……俺が、“俺のままでいていい”って……そう言ってくれたのは、お前が初めてだった」
ヴィーの背中がぴくりと動き、振り向く。その目に、呆れたような色が混じっていた。
「お前もたいがい酷い男だよ」
「……は?」
「リアムに戻ったら、聞いてみろ。ちゃんと、自分の言葉で」
「…………うん」
「あぁ、それから。今日中にエフを返せ。今日まで待ってやった。返してくれないなら――お前ら全員、殺すことになる」
「……どこまで知ってるんだ?」
「さあね。風の噂ってやつさ」
「……そういうことにしておいてやる」
ダストの、少しだけ緩んだ表情を見て、ヴィーはバレないようにふっと息を吐く。
「今度は、“ダスト”として……また会おうぜ」
今度こそ、扉が静かに閉まる。
部屋に残されたダストは、しばらく立ち尽くしていた。
そして、小さく、自分の名を呟いた。
「……俺は……ダスト、だ」
今までより、ほんの少しだけ確かな声で。