第十一話「偽者」
静かな朝だった。雨の予報はなかったはずなのに、どこか湿気を帯びた空気が部屋の隅に溜まり、じっとりと重たかった。ジェイは静かに、エフの部屋の前に立っていた。
もう何日も続いている。最近のエフは、何かを隠しているようで、ずっと何かを抱えているような様子だった。
書類に目を通す時間は減り、夜更けまで灯りがついたまま。部下が声をかけても返事は曖昧で、食事の量も減っていた。
昔からエフは感情を表に出すタイプではなかった。けれど、彼の揺れは、ジェイには分かる。
「……おーい、エフ。起きてるか?」
軽くノックする。返事はない。
「入るぞ」
そう言って扉を開けた瞬間――
「ああ、ジェイ。おはよう」
そこにいたのは、確かにエフだった。
いつも通りの、普通のエフ。
――だが、あまりに「普通すぎた」。
書類は整然と並び、机の上にも無駄なものは何一つない。カーテンは半分開かれ、朝の光が心地よく差し込んでいる。エフは白いシャツの袖をまくり、コーヒーを淹れていた。
ジェイは立ち止まる。胸の中で重く張りついていた不安が、一瞬で霧散する。
――けれど、違和感はすぐに戻ってきた。
「元に戻った……のか?」
「ん?何がだ?」
エフがくすりと笑う。その笑顔も声のトーンも、完璧に「いつも通り」だ。
ジェイは安心しかけた。けれど、それを喉の奥で押しとどめ、無理に笑って返す。
「ああ、いや。ちょっと、最近元気なかっただろ。心配してたんだ」
「……ああ、ごめんごめん。ちょっと眠れてなかっただけだよ。でも、もう大丈夫。コーヒーでも飲むか?」
差し出されたマグカップを受け取って口をつける。味も香りも、まぎれもなくいつものエフのものだ。
――なのに、なぜだろう。すべての仕草が、どこか嘘くさく感じる。
笑顔の奥の「目」。
その目が、何か違うものを見ているようで、決して自分と交わらないような気がした。
――なにか、違う。
この違和感は理屈ではない。ただ、頭の奥で警鐘が鳴っている。
ジェイは慎重に言葉を選びながら、話題を切り替えた。
「そういえば、ヴィーだけどさ、最近見ないけど……何か聞いてる?」
エフの口元が、一瞬だけ緩んだ。
「……さあ。気まぐれなやつだからな。どこかで散歩でもしてるんじゃないか?」
「……そうか」
いつもなら、この話題を出せば、少し眉をひそめるか、溜め息の一つでもこぼすはずだ。口元を緩ませるなど、ありえない。
特に今回は、ヴィーが不穏な言葉を残して姿を消した。にもかかわらず、今日のエフは、まるでヴィーの不在を喜んでいるようだった。
やっぱり……おかしい。
違和感だったものが、少しずつ輪郭を持ち始める。
ジェイはコーヒーを飲み干し、静かに立ち上がった。
「……ありがとう。目が覚めたよ」
「そうか、それはよかった」
笑顔で手を振るエフに、ジェイも無言で手を振り返し、部屋を出た。
廊下に出て扉を閉めた瞬間――
冷たい汗が、背筋を伝った。
「……誰だ、お前」
小さく呟く。届かぬ問い。しかしそれは、ほとんど確信に近いものだった。
ジェイはそのまま監視室へと足を運んだ。
ゼロの施設内には、各所にセキュリティが張り巡らされている。だが、今のエフについての決定的な証拠を掴みたかった。
「エフの部屋近くの監視カメラ。過去十日分をすべて見せてくれ」
警備担当のキューが少し眉をひそめる。
「……ジェイ……最近、エフのこと気にしすぎ」
「いいだろ。気になるんだよ……なにかが、おかしい」
キューはしばし黙り、パネルを操作し始めた。
映像が表示される。エフの部屋はいつも通り整然としていた。だがある日を境に、何かが変わっていた。
エフが起きる時間、書類を読む姿、コーヒーを淹れる手つき。まるで映像をループさせているかのように、すべてが同じだった。
「……完璧すぎる」
ジェイは呟いた。
朝の動き、時計を見る仕草、椅子に座るタイミング。すべてが、まるで演技しているように、日を追って寸分違わず繰り返されていた。
「キュー。ここの赤外線センサー、何か通った形跡は?」
「……あれ?」
キューの手が止まる。
「ログが……消えてる。出入りの痕跡が、全部。誰かが消したんだと思う……」
「……わかった、何かがいるな。俺が調べておく。キューは心配しなくていい」
ジェイは立ち上がる。
「……直接、確かめるしかない」
静かに言い残し、監視室を後にした。
夜。ジェイは再びエフの部屋の前に立っていた。
誰にも告げず、ひとりで来た。
コンコン、とノックする。返事はない。
ドアノブに手をかけたその時、背後で、するりと空気が揺れた。
咄嗟に振り返るとそこにいた。
銀色の髪の男、ヴィーが、壁にもたれて立っていた。
「よぉ、ジェイ」
「……ヴィ……っ」
思わず声が上ずりそうになる。慌てて口元を押さえた。聞きたいことは山ほどある――どこに行ってた、なぜ黙っていた、今まで何をしていた――
だが、それをすべて飲み込んで、ジェイは訊く。
「……お前、知ってるのか?中にいる『エフ』のこと」
ヴィーは目を細め、皮肉な笑みを浮かべた。
「さあ?本物かもしれないし、偽物かもしれない。けど……ジェイ、お前は自分の中で答えに近づいたから、ここに来たんだろ?」
「……それは……」
「まだ早いよ。今日は俺と話す先約があるんだ」
ジェイは驚いたように目を見開く。
ヴィーは、ひらりと紙片をジェイの胸元に押しつけ、鍵を鳴らして中へと入っていく。
――カチャリ。
鍵の閉まる音が、ジェイを現実へ引き戻す。
残された紙には、たった一行。
『Dが、Fの仮面をかぶっている』
D、擬態能力――何者にでもなれるが、何者にもなれない、男
ジェイは紙をくしゃりと握りつぶし、静かに扉を見つめた。
扉の向こうは、ただ、静寂に包まれていた。
部屋の奥、机に向かっていた「エフ」が、扉の音に気づき振り向く。
「ヴィー、帰ってきたのか。どうした?」
「……久しぶりに、話でもしようか。昔みたいに……ねぇ、ダスト」
ヴィーの口元が、楽しげに歪む。それとは対照的に、エフ……否、ダストの表情からは、静かに笑みが消えていった。
次の瞬間――
静かな部屋に、重く、誰も言葉を発せられないような空気が満ちていった。




