第十話「迫りくる罪」
ヴィーが姿を消した。
それは初めてのことではない。彼は気まぐれで、突然現れては、風のようにいなくなる。それが彼の“いつも通り”であり、ゼロの誰もが、多少なりともそれに慣れていた。
けれど、今回は何かが違った。
誰もが、その違和感に気づいていた。けれど、それを誰も言わなかった、言えなかった。
ジェイは訝しげに窓を見つめていて。アイは笑顔を浮かべながらも、ふとした瞬間に不安げに口を閉ざす。ユーとエイは、いつもより静かだった。他の皆も、口には出さないが、ヴィーの部屋を何度も覗いていた。
そんな中、ハクだけがぽつりとつぶやいた。
「……かえってくるって、いった」
その言葉に、皆がわずかに安堵する中、エフだけは、押し寄せる嫌な予感に、静かに冷たい汗を握っていた。
最初の「紙」が届いたのは、ヴィーが消えて三日目の朝だった。
「……これは」
エフの執務机の上に置かれていた、一枚の紙。真っ白なその中央に、たった一行、鋭く刻まれていた。
『最初に切り捨てたのは、誰だ?』
無意識に周囲を見渡す。すぐに鍵を確認する。だが異常はない。監視カメラにも、記録の不自然な点はない。
誰かが、知っている。
かつての記憶が、脳裏を焼く。自分が選んだ“正しさ”のすべてが、心臓を締めつけた。
エフはその紙を燃やし、何事もなかったかのように、一日を過ごした。
だが、その翌朝にも、また一枚。
『名前を呼ばれることのなかった彼らは、今も地の底で泣いている』
そして、さらにその翌朝。
『それでも、君はあの子たちを見捨てた。切り捨てた』
エフは、毎朝紙を見つけるたびに、静かに震える指で燃やした。誰にも見られないように。誰にも気づかれないように。
けれど、確実に、静かに、精神は削られていく。心にかけた仮面も、日を追うごとに綻びを見せはじめていた。
書類に手が付かなくなり、コーヒーを持つ手がかすかに揺れ、誰かが背後を通るたびに、息を呑むようになった。
「おい、エフ。大丈夫か?」
ジェイが眉をひそめて問いかけたとき、エフはかろうじて笑みをつくった。
「ああ……問題ない。ただ、少し、眠れていないだけだ」
その言葉に、嘘はなかった。だが真実も、なかった。
紙は毎朝、同じ場所に置かれていた。机の中央。まるで、一日の始まりを告げるかのように。
誰かが、部屋に入っている。それは間違いない。だが、誰が?いつ?どうやって?
内部に裏切り者がいるのか?否。ならばこれは、警告か。あるいは……告発か。
八日目。
『ユーとエイを選んだその日、他の子たちは処分された』
『けれど君は、そのことを誰にも言わなかった』
『なぜなら、それが「正しい選択」だったと信じたかったからだ』
紙の言葉は、日に日に直接的になっていった。
エフの脳裏に、処分された番号たちの顔がよみがえる。
失敗作。安定性に欠け、知能も未熟。けれど確かに、生きていた。
見捨てると決めたあの日、あの瞬間、エフはFという役割をまっとうしたに過ぎない。感情を捨て、理性で選んだ。ユーとエイを選んだ。
だがそれは“他の誰か”を、捨てたということに他ならない。
「……Fは、冷たい心を持たない人間だな」
それが責めなのか、哀れみなのかさえ、今はもうわからなかった。
十一日目。
『まだ終わらない』
『彼らは、君を覚えている』
『Fとして命令を下したその声も、背を向けたその姿も』
心が削れていく音が、聞こえる気がした。
――リアム。
処分されたはずの彼らが、生きている。いや、生き残ってしまった。
その執念と憎悪が、今、ゼロに迫っている。
これは、許されざる罪に対する裁きだ。
そして、この“告発”を続けているのは、きっと、あの人物。
“M”。
あらゆる記憶を記録し、決して忘れない存在。どれだけ隠しても、彼女は知っている。Fが犯した罪を。
「……M……来てるのか……?」
それは独り言だった。誰に向けたものでもない、声。
ふと気づく。
紙の文字は、人の感情を拒むような冷たい筆跡だった。まるで記録者の手。懺悔を促すように、ただ事実だけを突きつける。
けれど、それが何よりも、エフを壊していった。
『もう終わりにしよう』
『Fの罪は、もう隠せない』
『今日で終わり』
紙を、くしゃりと握りしめる。
見えない何かが、すぐそこまで来ている。
目を閉じた、次の瞬間――身体が地に叩き伏せられた。
さっきまで気配などなかった。それなのに、まるで最初からそこにいたかのように。
D。H。Y。そして――M。
封じられた身体。声の出ない喉。無理やり顔をあげさせられ、目に映るのは、かつて切り捨てた瞳たち。
Hが、なにか言おうと口を開く。Yの瞳が、静かに、光る。
その瞬間――エフの意識は、深く沈んでいった。




