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第九話「風の噂」

 ジェイの容体も戻り、すべてが元通りになったように思えたある日。

 ヴィーは、ふと風を感じ取った。


 天気の話ではない。気温も、湿度も、朝焼けの匂いも関係ない。ただ、何かが囁いたのだ。


 ――「ついに、目を覚ました」と。


 誰にも聞こえない囁き。けれど、ヴィーにはそれが聞こえてしまう。彼は、そうなるように“造られた”のだから。


 視えないものが見える。聞こえないはずのものが聞こえる。知らない方が幸せなことほど、彼の中には、染み込むように流れ込んでくる。


「……まだ、起きてこないでくれよ」


 ぽつりと呟いたその声は、自分に向けたものか、それとも誰か見えない存在に向けたものか。

 ヴィーにも、もう分からない。


 気まぐれな仮面を被ったまま、ゼロの廊下を歩く。すれ違う部下に笑いかけ、手を振り、無害なふりをする彼は、いつも通りのヴィー。


「おはよう。今日もみんな元気?いいね、いいねぇ……世界ってさ、こんなにも美しいのに」


 楽しげにそう言いながら、彼は誰もいない空間に、そっと首を傾けた。


「……でも、もうすぐ――きっと、汚れるよ」




 その日の昼、勝手に入り込んだエフの部屋で、ヴィーは窓辺に腰掛けていた。白いカーテンが銀の髪を揺らし、柔らかな光が横顔を撫でている。


「ねえ、エフ。風の噂って、信じる?」

「……何の話だ」

「風が運ぶんだよ。声とか、記憶とか、ほら……いろんなもの」


 エフは書類の手を止めて眉をひそめた。

 ヴィーがこんな話をするときは、大抵“知りたくないこと”を知ってしまったときだ。


「また、何か見た……知ったのか?」

「知ったと言うより、知ってた、って感じかな?」


 ヴィーは小さく笑い、両手を組んで膝に乗せた。


「言わない方がいいかもね。エフ、怖がりだし」

「……言え。お前がそんな顔をしてるときは、ろくなことがない」

「そんな顔ってどんな顔?」

「お前が……本当のことを隠してるときの顔だ」


 ヴィーは、寂しげに目を伏せ、かすかに微笑んだ。


「……じゃあ、少しだけ。風の噂をしてあげる」


 風が窓を叩き、カーテンが揺れる。

 ヴィーの姿はそれに溶け込むようにぼやけて見えた。


「リアムって、知ってる?」

「……俺たちが忘れたいけど、忘れてはいけない場所、だろ?もう……過去のことだ」

「ううん、過去じゃないよ。今のリアムは、死んだはずの人たちの名前だから」


 エフの背筋が、わずかに強張る。


「成功作の裏には、必ず失敗作がいる。知ってるでしょ?」

「……それが、何だ。ヴィー、お前は何を知ってる。何を、聞いた?」

「さあ。多分、知らなくてよかったことだったと思うなぁ」


 ヴィーの声は、あくまで軽く――けれど得体が知れなかった。


「彼らは、生きてるよ。今は“リアム”って名前で。……皮肉だよね。あの研究所の名前が、今は反旗の象徴だなんてさ」

「証拠は?」

「ないよ。ただ、風が……そう言ってた」


 エフは怒りを抑えた低い声で返す。


「風の話だけで、俺は動けない」

「うん。動かなくていいよ、まだね。でも――」


 そのとき、ヴィーの瞳が鋭くなる。眠たげだった銀の瞳が、研ぎ澄まされた刃に変わる。


「ゼロが“綻び始める”のは、もう、すぐそこ」


 そう言い残して、ヴィーは気配ごと消えた。

 エフの呼びかけは、空しく宙を切る。




 夜。誰もいない廊下に、ヴィーの足音だけが響いていた。


「リナ、ハウル、ダスト、ゼット……ミューズもまだ動かない。でも――」


 風が、また囁く。


「見てて、ヴィー。壊れるのは、ここからだよ」

「……知ってるよ。でも、否定する。俺は、それを否定してみせる。だってあいつらの言い分は、間違ってる」


 ヴィーはふっと微笑んだ。


「……リアムのことは、本当は俺が責任を取るべきだったんだ」


 足を止める。


「ごめんね、ハク。俺、ちゃんと育てるって決めたばっかりだったのに」


 懐中時計が、カチリと音を立てる。


「そろそろ、お別れかな。……会いたくなったら、呼んでよ。聞いてるんでしょ?」


 振り返ると、そこにはジェイがいた。彼はただ、無言で立っていた。


「ジェイ、何か聞きたいことある?」

「そりゃ、山ほどある。……なぁヴィー、お前、どこまで知ってて、何をしようとしてる?」

「さあ?秘密だよ」

「じゃあ、一つだけ教えてくれ。お前……死ぬ気か?」


 その問いに、ヴィーはほんの少しだけ黙って、やがて微笑んだ。


「ノーコメント。ただ、これだけは言える。お前ら“家族”は、絶対に死なせない」

「お前が生きてなきゃ、意味がない」


 ジェイがヴィーの腕を掴もうとしたその瞬間、そこにはもう、誰もいなかった。




 翌朝。ヴィーは、消えていた。


 服も、痕跡も、何もかも――最初からいなかったかのように。


 ただ一枚、机の上にメモが残されていた。


『風の声が、聞こえてくる。

始まりの暗い音。

家族の悲鳴に変わらないように、少し出かけてくる。


ちゃんと帰ってくる予定だから。

またね』




 そこに名前はなかった。けれど、誰もが、それをヴィーの筆跡だとすぐに理解した。


 エフはメモを読み、静かに息を吐く。


「あいつ……」


 ジェイはその端に指を置き、ぽつりと呟いた。


「風……嵐が来るのかもしれないな」


 ゼロに、静かに。不穏な幕が、落ち始めていた。




 そして風が、また、誰にも聞こえない声を運んでくる。


「壊すのは、簡単なんだ。守る方が、ずっと難しい……だから、これは君が不利だ」

「――だからなんだよ。俺は俺だ。負けない。折れない。壊させない」


 どこかで、そんな声が確かに聞こえた気がした。

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