閑話V「絶対安静の中でー9ー」
夜が、深く、深くなった頃。月明かりだけが静かに照らす病室。
扉が、音もなく開いた。
「……おいおい、怪我人はもう寝てなきゃいけない時間じゃないか?」
銀色の髪を持つヴィーが、軽やかに現れる。
「起きてるの、わかってたんだろ?」
彼はいつものように軽い足取りで部屋に入ってくる。まるで見舞いというより、散歩の延長のように。
「お前が来るとは思わなかったよ」
ジェイは笑った。言葉に棘はない。ただ、心から意外だと感じたのだ。
ヴィーはふふんと鼻を鳴らし、ベッドの縁に腰を下ろす。腰に下げた白い鞭の柄が、微かに揺れる。
「なんでそんなこと言うのさー。俺ってばちょー優しいから、顔くらい見ておこうかなって」
「……ふぅん。嘘くさいな」
「嘘だよ?」
即答に、ジェイは吹き出した。
「そっか、嘘か」
「うん。でも、ほんとのことも少しはあるかも。嘘か本当かは、ジェイが決めて」
ジェイは目を細め、ヴィーを見つめる。彼の瞳は、澄んでいるようで曇ってもいるような、不思議な白。空っぽのようで、すべてが詰まっているようにも見える。
「ヴィー」
「んー?」
「……ありがとう」
「え、なに急に。気持ち悪いな」
「気持ち悪くていい。お前が助けに来てくれたこと、ちゃんと知ってる」
ヴィーは黙った。照れたように、視線を逸らす。
「俺、別にジェイを助けるために行ったわけじゃないし」
「……そういうことにしておいてやってもいい。でも、そうだな──俺を助けに来てくれたやつは、とても強くて、綺麗でな、それに──」
「やめてよ」
ヴィーが遮る。頬は赤く染まり、まるで「泣くのをこらえている子ども」のような表情をしていた。
「そういうの、言わないで。なんか……変な気持ちになっちゃうから」
「……ごめん」
「いいけど」
ヴィーは膝を抱えるように座り、天井を見上げる。
「ジェイが姿を消した時、俺ね、ゼロが終わるなって思った」
「……」
「だってさ。みんな、必ずお前のこと見てたじゃん。バラバラなやつばっかりなのに、みんなお前の背中だけは見てた。追いかけようとしてた」
「そんなこと……」
「あるよ」
ヴィーは静かに言いながら、ジェイに視線を戻す。
「みんなと話して気付いてるでしょ?俺だって、みんなの色を見ればわかる」
「……」
「でも、俺は違う。俺はお前を追いかけたことなんて一度もない。お前が前にいるなんて、思ったことない」
「ヴィー、お前……」
「追いかけるのは俺らしくないし……それにさ。お前が辛くなって、全部投げ出したくなった時、逃げ場が必要だろ?」
「……そんな重荷を、お前に背負わせるわけにはいかない」
「重荷なんかじゃない。知ってるだろ、俺の性格。笑って流して、重荷なんてその辺に捨ててやるよ」
冗談のように言ったその言葉は、冗談ではなかった。
おどける口調のまま、ふとヴィーの声が静かに落ちる。
「今までに殺したやつの顔なんて、ほとんど覚えてないけど……でも、多分、お前が死んだ顔だけは、ずっと忘れられない。夢に見そうでさ……だから……」
「だから?」
「だから、生きててくれて、よかった。知ってる? 俺、お前が目を覚ますまで、悪夢ばっかり見てたんだぞ?」
ヴィーは笑った。本当に、心の底から。
そして、いつもの調子でベッドに身を預け、ジェイの隣に転がる。
「ねぇ、手。なんか手ぇ繋ぎたい気分」
「……珍しいな?」
「いいの、今日は甘えたい気分。だめ?」
「ダメなわけないだろ」
ジェイが優しく手を差し出すと、ヴィーはそれを握る。その手は冷たくて、誰よりも温かかった。
「ジェイ。俺、ちゃんと育てるから。あの子」
「……ハクのことか?」
「うん。……多分、ちゃんとする。まあ、ジェイはなんとなく気付いてたと思うけど──俺がハク拾ったのって、面白そうだったからなんだ」
「……うん」
「この世の穢れを知らないって顔して、真っ白で。誰もが何かしら色を持ってるのに、ハクは何も持ってなかった。健康な体に、感情のない瞳。すべてがミスマッチで、気になっただけだった」
「……今は、それだけか?」
「いや。ハクがさ、最近“色”を持ち始めたんだ。それが、なんか……楽しくてさ。もっと育ててやりたいって思ったんだよね」
「その言葉だけで、充分だよ」
ヴィーは、肩を震わせて笑った。
「それも、嘘かも」
「……嘘でもいいさ」
しばし、沈黙が降りた。
「ねぇ、ここで寝ていい?」
「……はは、ダメって言ったらやめるのか?」
「やめなーい」
「だろうな。……まあいい、寝ても」
「ありがとー。ジェイ大好きー」
「はいはい、ありがとな」
ヴィーはそっと目を閉じる。
「…………ジェイ」
「んー?」
「……生きててくれて、ありがとう」
「こっちこそ、来てくれてありがとな」
「……どういたしまして」
「俺もヴィーのこと、大好きだよ」
「…………知ってる。もう黙って寝て。おやすみ」
「ん、おやすみ」
そのまま、部屋は静寂に包まれていった。




