閑話V「絶対安静の中でー8ー」
夜が深まる頃、静かに病室の扉が開く音がした。
「……入るぞ」
その声は静かで澄んでいた。だが、ジェイにはわかる。その声の奥には、まだ燻る熱がある。
「エフか。来ると思ってた。待ってたよ」
「……そうか。なら、もっと早く来るべきだったな」
エフは端正なスーツ姿のまま、足音をほとんど立てずに近づく。濃い紫の髪と瞳はいつも通りだが、今日はどこか違った。髪は少し乱れ、疲労が滲んでいる。
「体調は?」
「まあ、見ての通り。生きてるよ」
「それは確認済みだ。外傷の回復状況、内臓機能の経過、それに今後の運動制限の見通し。全部、報告書にまとめてある」
そう言って、エフは小さなファイルを差し出した。
……相変わらずだな、とジェイは思う。だが、その“変わらなさ”の中に、確かに変化がある。
資料を渡してからも、エフは少し距離を取って立ち尽くしていた。椅子に座るでもなく、ベッドに近づくでもなく、どこか測りかねるような距離感を保っている。
「……怒ってるのか?」
ジェイの問いに、エフはほんのわずかに目を伏せた。
「怒ってはいない」
「はは、嘘だな」
「……ああ。嘘だ」
その声は静かだった。だがジェイには痛いほど伝わる。それは、誰かを責める怒りではない。自分自身への怒りだ。
「俺は……きちんと計算して、計画して、完璧だと思ってた。でも……」
言葉が止まる。口元が、かすかに引き結ばれていた。
「それでも、お前を失いそうになった。助けにすら、行けなかった」
「……」
「お前を、失うかもしれないと思って……怖かった」
その声は独白のようだった。報告でも謝罪でもない。ただ、吐き出さなければならない想い。
ジェイは黙ってそれを受け止めていた。そして、ふっと笑った。
「エフ、お前は相変わらず完璧主義だな」
「当然だ。そうでなければ、ゼロは維持できない」
「でもな、誰も完璧じゃない。俺も、お前も」
その言葉に、エフの眉がわずかに動いた。
「俺は、お前のそういうところ、好きだぞ。冷たく見えて、誰よりも仲間を信じてる」
「……仲間なんて、信じていない……」
言いかけて、言葉を止める。ふ、と息を吐いた。
「……違うな。信じていた。だからこそ、悔しい。お前を危険な目に遭わせたことが」
右手で軽くベッドの縁を指さす。
「少し、座れよ」
「……」
エフは一瞬ためらったが、無言で椅子を引き、ジェイの傍に腰を下ろした。
彼の手は、膝の上で固く握られていた。
それを見たジェイが、冗談めかして言う。
「おいおい、そんなに堅くなるなって」
「冗談が言えるくらいには、回復しているようだな」
「お前の顔が見られたからな。安心したよ」
「……」
ほんの少しだけ、エフの肩から力が抜けた。
「……これからも、ゼロを任せるぞ」
ジェイの言葉に、エフは静かに目を伏せる。
「任せろ。……俺のやり方で守る。完璧じゃなくても、お前たちを失わないために」
「頼もしいな」
ジェイはそれだけ言って、目を閉じた。もう、言葉は必要なかった。
エフもそれ以上何も言わず、ただ静かに、その隣に座り続けていた。
家族にしか共有できない時間。
言葉のない信頼が、確かにそこにあった。




