閑話V「絶対安静の中でー5ー」
エヌが静かに部屋を出てから、ジェイはしばらく天井を見上げていた。
じっと見つめていると、そこには数え切れないほどの記憶が浮かんでくるようだった。
──もう誰も来ないかもしれないな。
そんなことを思い始めた頃、ノックの音が響いた。
整ったリズム。緊張を乱さない、計算された動作。
ジェイは目を細めて笑う。
「……入っていいぞ、エル」
扉が開き、長身の男が一歩、静かに足を踏み入れる。
深紅の瞳に、燃えるような赤い髪。仕立ての良いスーツに身を包み、背筋は伸びている。ジェイを見ても、表情は一切崩れない。
「さすが、よく分かるな」
「その“無駄に上品なノック”、他に誰がするってんだ」
「……礼儀は大事だろ。たとえ相手が、ベッドで寝ている負傷者でもな」
皮肉めいた冗談を交えながらも、エルの視線は真っ直ぐだった。数秒だけジェイの身体を見て、言葉を止める。
「……想像していたよりも、痛々しいな」
「まあ、自分でもそう思うよ。……ほら、座ったらどうだ?」
「……お言葉に甘える」
エルは姿勢を崩さぬまま、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「随分と余裕そうだな、エル」
「余裕があるように見えるなら、俺の演技も大したもんだな。……正直、胃が痛い。君が倒れてから、会社の処理も山積みで、その上ゼロの後始末まで加わってる」
「そりゃ悪かったな」
「本当にそう思ってるか?」
「はは、本当に思ってたら、こんな顔はしてないさ」
ジェイが笑うと、エルはわずかに口元を歪める。笑っているのか、呆れているのか。その境界線は曖昧だ。
「君らしいよ、まったく」
短い沈黙が流れる。
やがて、エルは口を開いた。
「……ハクについて、話をしに来た」
ジェイは視線をわずかに動かす。先ほどまでの柔らかな空気が、少しだけ引き締まる。
「警戒してるのか?」
「していないと言えば嘘になる。正確に言えば……あれは、ゼロにとって“未知”だ。あまりにも、分からなさすぎる」
ジェイはその言葉を否定も肯定もせず、黙って耳を傾ける。
「だが同時に、希望でもある。ヴィーが拾ってきたあの子が、クロを止めた。……他の奴らはどうか知らないが、ヴィーは変わった。少なくとも、俺の目にはそう映る」
「……だったら?」
「だからこそ、俺はハクを疑う。好き嫌いじゃない。理性で、ゼロの未来を考えているだけだ」
エルの赤い瞳がジェイを捉える。その目は、まるで問いかけるようだった──それでもいいか、と。
ジェイはその鋭いまなざしを真正面から受け止め、肩をすくめる。
「俺は、お前が冷たい男じゃないって知ってるよ」
「……どうだろうな」
エルは視線を落とした。
「感情なんて曖昧なものに振り回されてる場合じゃない。俺は、ゼロを守りたい。それだけだ」
「エヌもエルも、同じようなこと言うんだな。それでいい。でも、抱えすぎる前に言えよ」
ジェイが笑う。そこには、微かに「信頼」が滲んでいた。
「……ああ」
エルは頷き、少し気まずそうに目をそらす。そして懐から、小さな紙袋を取り出した。
「……ここのプリン、前に好きだって言ってたよな」
「珍しいな、お前がそんなもん持ってくるなんて」
「ヴィーに言われた。“お見舞いなんだから、なんか持ってけ”ってな」
ジェイは思わず吹き出した。
「あははっ、それエルじゃなくて、ヴィーの優しさだろ」
「いや、そんなことはない。俺が君の好きな物を選んで、俺が持ってきた。だから、これは俺の優しさだ」
そう言って、エルは立ち上がる。そして、ジェイをじっと見つめたあと、少しだけ声を落とした。
「……君が戻ってこなかったら、俺はゼロを続けていく自信がなかった。だから……ありがとう。戻ってきてくれて」
それは、エルが滅多に見せない「本音」だった。
ジェイは、彼の背中に静かに声をかける。
「こちらこそ、いつも守ってくれてありがとう、エル」
エルは何も言わず、扉を開けて静かに部屋を後にする。
去っていく赤い背中が、どこか寂しげに見えた。




