閑話V「絶対安静の中でー4ー」
キューが部屋を去ってから、わずかに時が流れた。
──やがて、再びノックの音。
控えめながらも、確かに「いる」と伝えるような、静かな音だった。
「入っていいぞ」
そう声をかけると、扉が音もなく開く。
姿を現したのは、無彩色の人影だった。
グレーのコートに身を包み、無造作に流れた前髪の奥から切れ長の瞳が覗く。冷たいほど整った顔立ちには、感情の色がほとんど浮かんでいない。
「来たのか、エヌ」
「来るなって、言われてないから」
エヌの言葉に、ジェイは一瞬驚いたように目を見開く。だがすぐに、くすくすと笑みがこぼれた。
「……ああ、確かに言ってないな」
いつもの調子だった。感情は読みにくいが、少なくとも心配している気配はある。それだけは、ジェイにも分かった。
エヌは部屋をゆっくりと見回し、ベッドのそばの椅子に腰を下ろす。何も言わず、ただジェイの顔をじっと見つめる。
「俺の顔、そんなに面白いか?」
「面白くはない。でも……確認してる」
「確認?」
「……まだ、生きてるかって」
あまりにも率直なその言葉に、ジェイは思わず笑ってしまった。
「……ああ。なんとか、な」
エヌの眉が、わずかに動く。ほんの一瞬の、安堵にも似た感情の揺れだった。
「みんな、来た?」
「まあ、順番に」
「それなら、僕も……来るべきかなって」
「別に、来なきゃいけないわけじゃない。無理することはないよ」
「……無理はしてない」
エヌは膝の上で指を組み、しばし沈黙した。
「僕は……感情を動かすのが苦手だ。みんなが動揺してても、僕は冷静だった。ヴィーが出て行った時も。クロが壊れそうになってるのを見ても、止めなかった……冷たいと思う?」
「それが、お前のやり方なんだろ?」
「そう。そうなんだ。そう思ってた。でも……もし、ジェイが死んでたら、多分、僕も……何か、壊れてた……気がする」
ジェイは、その言葉に一瞬、言葉を失った。
エヌの口から、そんな率直な気持ちが語られること自体が、奇跡のようだった。
「……悪い、そんなふうに思わせて」
「違う。……生きてるって、こういうことなんだなって思っただけ」
「……そうかもな」
再び、静かな沈黙が流れる。
けれど、今そこには、確かな感情があった。空気が、少しずつ温かくなっていく。
やがてエヌは、ポケットから一枚の紙を取り出して差し出した。
「これは?」
「報告書。今回の件で、外部との接触があった記録……関係ないかもしれないけど、一応」
ジェイは目を細め、それを受け取る。
「……お前、ほんと変わらないな」
「変わってないように見えるのは、変わってる証拠だって。……誰かが言ってた」
エヌは、淡々とした声でそう言った。
「多分……僕も、少しは変わった、と思う。今回のことで」
それは、彼にとって最大級の告白だった。
ジェイは、心の底から笑った。
「また変わったお前に会えるのを、楽しみにしてるよ」
「そのためには……お前が生きてなきゃ」
エヌは椅子から立ち上がる。
ドアの前でふと立ち止まり、振り返ることなく、ひとこと。
「ジェイ……人って、変わるんだな」
「……変われるよ、きっとな」
静かなまなざしを交わし、エヌは部屋を出て行った。
残されたジェイは、手にした報告書を胸の上にそっと置き、目を閉じる。
──自分は、まだ生きている。
そう実感させられる、静かな時間だった。




