第八話「声なき者の問」
どこか遠くで、誰かが呼んでいた。
懐かしい声だった。けれど、手を伸ばしても触れられない。ぼやけて、霞んで、現実と夢の境が溶けていく。
意識が浮かび上がったとき、最初に感じたのは、温かさだった。
ジェイはゆっくりと目を開ける。薄暗い天井。静けさの中に混じる、誰かの寝息。
視線を横に移すと、ヴィーが椅子にもたれて静かに眠っていた。手はしっかりとジェイのシーツの上に置かれていて、その指先がかすかに揺れている。
「……お前が寝てどうするんだよ」
掠れた声で、誰にも聞こえない独り言を零す。けれど、口元は自然と緩んでいた。
扉がそっと開く音がして、数人の気配が部屋に入ってくる。
「ジェイ……?」
エフの低く、慎重な声。続いて、クロとアイ、そしてハクも顔を覗かせた。
「本当に……目、覚ましたんだ」
クロが声を震わせて言った。
ジェイはゆっくりと上半身を起こすと、苦笑まじりに言った。
「悪いな、心配かけた」
「……バカ。どんだけ心配したと思ってんだ」
エフが短く言いながら、いつものように頭を軽く叩く。ジェイはその手を受け止めたまま、ほんの少しだけ目を伏せた。
「お前らがいたから、戻ってこられた。ありがとう」
「バカ野郎。こっちのセリフだ……戻ってきてくれて、ありがとう」
エフは静かに言って、ジェイを強く抱きしめる。二度と、ここからいなくならないでくれ――そんな願いが、その腕に込められていた。
それから数日が過ぎた。
ジェイの傷は深かったが、幸い命に関わるものではなかった。数日の安静を言い渡されていた。
ゼロの中の空気も、どこか変わっていた。皆がそれぞれのやり方で、自分を責めていた。
守れなかったこと。助けに行けなかったこと。ヴィーを、止められなかったこと。
それを埋めるように、皆が前を向こうとしていた。
けれど、クロだけは違った。
彼は、一人で走り続けた。
朝も、夜も、関係なかった。
道場での訓練、屋外での走り込み、誰も見ていない時間にも、限界を超えるように自分を追い込み、削り続けた。
エフが止めても、ヴィーが軽口を叩いても、止まらなかった。
「クロ、今のお前は、自分を壊すだけだ」
クロを止めようと、痛む体を無理に動かして訓練所へ来たジェイが、静かに言った。
「……壊れないから、大丈夫です」
「助けられなかったことを悔いているのは、お前だけじゃない」
強く拳を握りしめたエフが言う。
「でも、俺は……俺は、ずっと、ジェイさんの力になりたくて、ずっと傍にいたのに……!何もできなかった。ヴィーさんに託すしか……できなかった!」
誰も何も言えなかった。
皆が言葉に詰まる中、その声は、不意に響いた。
「……なんで」
小さく、震える声だった。
けれど、誰よりも深く、澄んで響いた。
そこには、ハクがいた。
何も喋ったことのなかった彼女が、ただ、クロを見つめていた。
「なんで、そこまで……頑張れるの……?」
その問いには、糾弾も、責めもなかった。
ただ、真っすぐに、不思議そうに、クロを見ていた。
「……わかんねぇよ。でも、やんなきゃって……思っただけなんだ」
その声は、もう、いつもの強がりではなかった。
崩れ落ちそうなクロの背を、誰よりも軽いハクの声が支えていた。
ヴィーがぽつりと呟いた。
「ね、ジェイ。声って……すごいね」
ジェイは黙って頷いた。
言葉には、時として、心を救う力がある。
誰の声も届かなかったその心に、小さな声が届いた。
そしてヴィーは、静かに目を細めた。
「……ハクに、色がついてきたんだ」
その呟きは、誰にも届いていないように思えた。
けれど、ジェイだけは違った。彼の目が、静かにヴィーを見つめていた。
「……色?」
ぽつりとアイが不思議そうに呟く。けれどヴィーは答えなかった。
ただ、どこか満足げに目を細めていた。
「さぁ、何の話だろうね?」
いつもの調子で軽く誤魔化すように笑う。
誰もそれ以上は追及しなかったが、空気には微かな違和感が残った。ほんのひとしずく、濁りのない水に色が落ちたような――そんな、さざ波。
ハクはと言えば、もう視線を逸らしていた。
自分が何を口にしたのか、理解しているのかいないのか。けれど、ほんの少しだけ、その肩が震えているように見えた。
クロはしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「……俺、お前に、何か教えられるほど偉くねぇよ。だけどさ」
そう言って、ハクの方に視線を向ける。
「何かのためとか、誰かのためとかって、頭で考えてやることじゃねぇんだなって……今、やっとわかった気がする」
声はまだかすれていた。けれど、その言葉には、以前にはなかった“余白”があった。
「ありがとな、ハク」
ハクは小さく首を傾ける。それが“ありがとう”という言葉の意味を理解していないからなのか、それともただ恥ずかしかったのかは分からない。
けれど彼女の目には、さっきとは違う、かすかな“揺れ”が宿っていた。
「やっと人間らしくなってきたじゃん、クロくん」
ヴィーが笑いながら肩をすくめた。軽口のように見えて、その目はどこか深く、優しかった。
クロがむっとして睨み返すと、ジェイが小さく笑った。
「……あんまりいじめてやるなよ。アイツも、やっと立ち止まったばかりなんだ」
その言葉に、ヴィーは少しだけ目を細める。
「……気づいてんだ?」
それは、誰にも聞こえないような声だった。ジェイは何も答えなかった。ただ目を閉じ、深く息を吐いた。
その空間には、確かな変化があった。
誰かが変わったことで、誰かの心が揺れ動く。それはほんの小さな波紋。でも、確かに広がっていた。
ヴィーは目を閉じたまま、言葉を零した。
「……真っ白ってさ、本当は一番こわいんだよ」
その言葉の意味を知る者は、ここにはいない。
けれどジェイだけは、ヴィーの横顔を見ながら、静かに心の中で頷いていた。
“何もない”は、“何でもあり得る”ってことだ。真っ白なキャンバスは、どんな色にも染まる。それが希望であると同時に、脅威でもある。
「でもさ。あいつ、今は……綺麗な色をしてた。誰かを想う色だった」
ヴィーの呟きは風のように流れ、部屋の静けさの中に溶けていった。
何かが変わりはじめていた。
ゼロの中で、ゆっくりと、確かに。




