閑話IV「灯」
また夢を見た。
あの日の夢。
狭くて寒い、実験室。不気味な静けさと、機械の音。──そして、Sの笑顔。
「大丈夫。怖くないよ」
あの人はそう言って、自分の手を握ってくれた。
自分の方が震えていたのに、Sは笑っていた。
泣きそうな顔で、必死に笑っていた。
自分を安心させるために。
──でも、本当は、怖かっただろ。
引きずられるようにして、Sは連れていかれた。
止められなかった。叫べなかった。動けなかった。ただ、目を見ていた。Sが振り返って、笑って──扉が閉じた。
どんなに手を伸ばしても、もう届かない。
どんなに悔やんでも、もう助けられない。
夢の終わり、聞こえた気がした。
「……ジェイ」
誰かが、優しく名前を呼んだ。
懐かしい、けれど──どこかあたたかくて、柔らかい声。
まぶたが、重たく震える。光が差していた。白くて、静かな天井──ここは、現実だ。
かすかに体が痛い。けれど、確かに生きていた。
視線を横に向けると、そこにヴィーがいた。椅子の背にもたれて、静かに眠っている。長い銀の髪が、少し乱れていた。目の下には疲れが滲んでいるのに、眠る顔はどこか安心しているようだった。
小さな呼吸。小さなぬくもり──呼んだのは、お前だったのか。あの暗い夢の中に差し込んできた、あたたかな灯。
もう少しだけ、眠ってもいいかもしれない。
今度は、ひとりじゃないから。
天井の白は夜明けに溶け始めていて、部屋の空気が少しだけ暖かくなっていた。
隣に座っていたヴィーが、小さく息をつくように体を動かす。眠っていたはずの彼が、静かに目を開けた。
「……おはよう、ジェイ」
その声に、思わず微笑んでしまいそうになる。まるで、何もなかったかのような、日常の音。
「……寝てろ。起きるなよ」
掠れた声が喉を震わせた。
自分の声が、ずいぶん遠くに感じる。
「んー……起きてるよ。もう」
ヴィーは小さく伸びをしながら、ジェイの隣に顔を寄せた。銀の髪がさらりと頬に触れる。
「大丈夫?痛む?」
「……痛い。でも、生きてる」
そう言うと、ヴィーは安心したように目を細めた。
「……よかった」
その一言が、胸に沁みた。いつかの夢で、何度も繰り返し願った言葉だった。
少しの沈黙。
けれど、それは苦ではなかった。
「……Sの夢を見たんだ」
ジェイが静かに呟くと、ヴィーは驚かなかった。
ただ、すぐに表情をやわらげて──そっと、問いかけた。
「悲しかった?」
「悲しかった。……でも、少しだけ、救われた気がした」
あの夢の終わりに聞こえた声。目覚めの瞬間に感じた、あたたかさ。
「お前が……呼んでくれたんだろ」
「うん。何回も呼んだよ。戻ってこいって、ずっと」
ヴィーは笑った。
いつもの、からかうような笑いじゃない。子どもがようやく泣き止んだ時みたいな、静かで、心からの笑顔。
「ちゃんと聞こえてたみたいで、よかった」
ジェイは、ふっと息を漏らす。涙ではなかった。けれど、なにかが解けていく音がした。
「ありがとな、ヴィー」
「ううん。……俺、ジェイに助けてもらってばっかりだから。たまには返さないとさ」
ヴィーの手がそっと、ジェイの手の上に重なる。その指先はいつも通りあたたかくて、ふざけたことも言わないまま、静かにそこにあった。
「俺、ちゃんと生きてる?」
「……うん。生きてる。俺の隣で、ちゃんと生きてる」
答えは確かで、やさしかった。
ジェイはもう一度だけ、目を閉じる。
眠るためではない。
このぬくもりを確かめるために。
――長い夜が、明けようとしていた。




