プロローグ
静かな夜だった。
満月も雲に隠れ、ただ冷たい風だけが実験棟の廊下を吹き抜ける。
機械の駆動音も、足音も、看守の罵声もない。
──まるで、誰もこの世に存在していないような、そんな夜だった。
「……今だ」
誰かの声がした。
少年だった。その声は、恐怖を押し殺すように震えていた。
彼の首元には、金属のプレート。そこにはただ一文字──“J”と刻まれている。
彼の手には、ひとつの鍵。それを差し込む先は、仲間たちの檻。
錆びた金属の扉が音を立てて開き、やせ細った少女が顔を上げる。
目の下には青い痣、腕には無数の注射痕。
首のプレートには、“I”の文字。
「……本当に、行けるの?」
「ああ。研究所は……もう持たない。今が、唯一のチャンスだ」
──破壊された研究所から彼らは脱した。
彼らは名前はなかった。
代わりに与えられたのは、AからZまでの記号のような“識別記号”。
まるで人ではなく、実験器具の一つとして並べられたような呼び名だった。
でも、彼らはそれを「自分の名」に変えた。
他に何もなかったからこそ、その一文字に、生きた証を込めるしかなかった。
彼らは、決めた。
もう誰にも使い捨てられない。
もう誰にも奪わせない。
生きる理由も、意味も、これから自分たちで創るのだと。
そうして、10人の“文字”たちは夜の中に消えた。
まるで存在しなかったかのように、闇に溶け込んで。
──そして数年後。
かつて「実験体」と呼ばれた彼らは、裏社会で恐れられる存在となっていた。
名もなきマフィア。
いや、彼らはもう名を持っている。
実験体としてのかつての呼び名を「名前」として、今を生きている。
その組織に、ある日ひとりの少女が連れてこられる。
白い髪。無表情。
そして、どこかで見たことのある、全てを諦めたあの目。
すべてが再び動き出す。
彼女を拾ったその瞬間から─