ⅩⅨー2 〈気〉を映す瞳
■蛇の道は蛇
〈風〉がアカデメイア付近で強い〈気〉を感じたのは、まれに見る月蝕の異変のとき、空港バスの事故があった時だ。
亡くなったファン・マイのことは、かねてから調べていた。結論から言えば、マイは単なる事故死ではない。むろん飲酒運転のはずがない。何らかの薬を盛られたのだろう。
――蛇の道は蛇。
互いの密偵情報を調べ合うのも、密偵の役目だ。〈蓮華〉にも、ラウ財団にも、アカデメイアにも、舎村にも、天月にすら、さまざまな密偵が入り込んでいる。密偵の動きを知れば、何の関連もなさそうな情報が一本の糸のようにつながっていく。その意味で、すぐれた密偵に気づき、その動向を密かにさぐるのはきわめて有効だった。相手がすぐれているほど、情報はそう簡単に見つからない。だが、ひとたび見つけたなら、その価値は相当に高い。〈風〉は自分が見つけた密偵の存在をだれにも明かさず、むしろ陰から守った。
十年前の留学時に、〈風〉は何人かの密偵に気づいた。〈蓮華〉教頭と「ラウ財団」秘書の「夫婦」は、そのときから密偵だと踏んでいた。「妻」から、薄い〈気〉が立ち上っていたからだ。聖気でも邪気でもなく、妙に飼い慣らされた弱い〈気〉だった。だが、同居する「夫」には〈気〉が見られない。
〈気〉を読み取れない密偵は、無能か、優秀か、両極に分かれる。〈風〉は、教頭を優れた密偵だと判断した。〈気〉を放つ「妻」密偵を部下のように使っていたからだ。
「妻」の〈気〉に似たような〈気〉は、他でも見たことがある。天志教団の幹部たちだ。
〈風〉は、中年女性をよそおって、しばらく天志教団に入った。夫の不倫や、子の教育、自身の健康や親の介護、失業やパワハラ被害など、動機はさまざまであったが、生活や社会に疲れた人たちが救いを求めて集まっていた。教団では、同じような傷をもつ者同士が語り合う場が提供される。そこで、辛い思いや苦い経験を語ることで自分を解放できる。それに快感を見出した者は、熱心な信者になる。
天志教団の内部組織はかなり複雑だ。一般信徒と教団幹部との間には厳然とした線が引かれる。教団関係者の何人かからはどす黒い邪気が見えた。特に邪気が強い者を点で結ぶと、その広がりの大きさと影響力の強さに驚かざるを得ない。中には、もと天月修士やもとヨミ神官、旧カトマール帝国の貴族もいる。だが、教団内でのそれらの者の役割や職位は不明だ。旧カトマール帝国の高位貴族で、クーデターの直前に逃げ出した者を張り込んでいるとき、ふと聞こえたのが〈天明会〉という言葉だった。〈天明会〉については、〈風〉ですら、ほとんど実態を把握できない。
だが、天志教団ほどの大きな組織が、たかが一個人の殺害・排除に動く理由は見当たらない。教頭がマイを殺害する意図をもっていたとすれば、他にいくらでも機会はあったろうし、交通事故などという稚拙な方法はとるまい。では、生命でないとすれば、マイの何が狙われたのか? そして、なぜあの夜だったのか?
マイは、すぐれたルナ学研究者だった。学界からは放逐されたが、彼女を評価している専門家もいた。〈蓮華〉に移った後も、マイは熱心に現場に足を運び、神話や古瑶とすりあわせをしていたようだ。〈蓮華〉には優秀な密偵が一人送り込まれているほどだ。きっと〈蓮華〉には何かある。天志教団が推測していた「何か」について、マイが確証を得た可能性がある。
あの夜は、特別な月蝕の夜だった。アカデメイアで多くの〈気〉が立ち上ったほどだ。その日の日中、マイは同僚教員と女子生徒とともにシャンラの遺跡めぐりに出向いた。その夜、〈蓮華〉図書館で教頭に何かを飲まされたあと、そのまま車でどこかに出かけたようだ。そして事故――。
あの時間帯に、空港から〈蓮華〉にかけて、突然、猛烈な雷雨に見舞われた。〈蓮華〉は停電した。マイから何かを聞き出そうとした教頭のもくろみが崩れたのだろう。図書館をよく知るマイであれば、迷うことなく暗闇の図書館から出ることができたはずだ。
局地的な雨を避けて、マイは特別な月蝕を見るために出かけたのか? では、どこへ? そして、あれほど都合良く雷雨を呼んだのは誰だ? マイのすぐそばに強力な異能をもつ香華族が潜んでいたのか? マイは教頭から解放されたが、命を失った。マイが見つけたかもしれない「秘密」は、マイの死とともに喪われた。天志教団が欲しがり、香華族が隠そうとする「秘密」……それはいったい何だ?
■クレアの瞳
クレアは、ルナ石板の確認に出向いた。シャンラ国立大学から来た古代文化専攻の大学院留学生という触れ込みだ。博物館に出向くと、すぐに入館証を発行してくれた。案内表示に従って階段を下りていくと、資料室があり、そこに三人の者がいた。カイ、カムイ、そしてリトだ。
シャンラ王国から留学してきた大学院生を彼らは歓迎してくれた。しかし、他にも多くの留学生がおり、クレアが特別なわけではない。
天月修士カイのことはあらかじめ情報として知っていた。これまでに接触したどの修士よりも〈気〉が強い。しかも、聖気のみだ。これには圧倒された。ルナ石板の秘密を握っているのは、この修士にまちがいあるまい。〈風〉の力と目的を悟られてはならない。カムイにもまた〈気〉があったが、こちらは聖気とも邪気とも言えないものであった。一方、リトには〈気〉はまったく感じられない。
クレアのためにいそいそと配慮してくれたのはリトだった。リトはだれに対しても分け隔てなく、親切にふるまう。そのリトが、一瞬、眉をひそめた。クレアが去って行き、十分に遠くなった時点でちらりとこちらを振り返った。普通なら誰も気づかないだろう。並外れた視力をもつリトが捉えたクレアの瞳は、ごくわずか赤みを帯びていた。
アパートの自室で、クレアは考えていた。天月修士カイの〈気〉の大きさは、驚くにあたらない。修士ならば当たり前の力だからだ。だが、カイには並みの修士以上の〈気〉があるようだ。カイが、噂に聞く〈銀麗月〉なのかもしれない。天月仙門の至高者〈銀麗月〉が、ルナ石板を調べているとなれば、俄然興味がわく。
■匂い
風子のこともクレアは調べていた。風子にはいっさいの〈気〉はない。とりたてて見張る必要はなかったが、風子は凛子の忘れ形見だ。凛子が大切にしていた子を、凛子に代わって守りたいと思う。そして、それは、凛子を敬慕するサユミの指令にも叶っていた。
クレアは〈蓮華〉に向かった。
〈蓮華〉の門から子イヌが駆けてきた。子イヌはクレアを見ると、足元にじゃれついた。かわいい子イヌだ。思わずクレアの表情が緩み、座って子イヌを撫でた。二人の少女が血相を変えて飛び出てきた。
「モモおおお!」
「どこおお?」
大声で叫んでいる。二人は、クレアの手元の子イヌを見つけ、走り寄ってきた。
「モモっ!」
「よかったああ」
少女たちは、子イヌを抱きしめた。ふと、クレアに気づいた一方の少女がクレアにお辞儀した。
「ありがとうございます!」
「あなたたちの子イヌ?」
「はいっ!」
「すごくかわいい……」と、クレアは目を細めた。モモを褒められると、アイリが饒舌になる。
「そうだろ? ものすごくかわいいんだ」
「でも、どうしたの? この子、走ってきたけど」
「えっと……散歩用に新しいハーネスを買ってつけようとしたら、逃げ出したんです。逃げ出したことなんて今まで一度もなかったのに……」
小柄な少女がしゅんとして言った。この子が風子のはず。もう一人はだれだ?
「体を縛るのがイヤだったのね。わたしもイヌを飼っていたことがあるからよくわかる。同じように逃げ出してたいへんだったわ」
「そうなんですか?」
風子はホッとしたようだった。自分たちを嫌って逃げ出したんじゃない!
二人の少女は、モモという子イヌにいつもの首輪をつけた。モモはシッポを振って喜んでいる。お散歩にいける合図だからだ。遠ざかる二人を見送りながら、クレアは立ちすくんだ。
(これはいったい何だ?)
背の高い少女からは微妙な匂いを感じる。だが、〈気〉とまでは言えない。いままで感じたことのない匂いだった。
調べは簡単についた。背の高い少女は、かの有名な天才少女アイリだった。だが、匂いの理由まではわからない。アイリは人嫌いで有名で、風子以外とはほとんど話さないと言う。しつこく付きまとったら、ぜったいに二度と会おうとしないだろう。異常に勘も鋭いようだ。二人への接触は控えた方が良かろう。
〈蓮華〉には、夏前に相次いで転校生があり、妙に活気づいているという。風子、ルル、そしてシュウだ。彼らは、ルルが主役のルナ・ミュージカルの稽古の見学にしょっちゅう出かけているとか。ルナ・ミュージカルは、九鬼彪吾の作品。スポンサーはラウ伯爵、実質的責任者はレオンだ。
ラウにもレオンにも会ったことがある。そのときはクレアとしてではなく、シャンラ王室の侍従の一人としてだった。向こうは何も気づいているまい。ラウにもレオンにも〈気〉は感じなかった。
ただ、アカデメイアでレオンを見かけた時、一瞬ごくわずかだが香りが立ち上った。レオンが彪吾を出迎えた時だ。思わず心が惹かれる非常に良い香りだった。アイリの匂いとは違う。アイリには苦痛と孤独の苦い匂いが混じっていた。しかし、レオンの香りにはそれがいっさいない。ひたすら清涼な香りだった。




