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ⅩⅧー3 青薔薇の館

■離宮公園

 早朝の公園をモモがうれしそうに走っている。それをアイリと風子が追いかけた。

 ここは、離宮公園――かつてシャンラ王太子の私邸であったという。王太子ロアンはアカデメイアに留学して学んだが、早世し、遺言にしたがって離宮は公園として開放された。

 アカデメイア近くの小高い丘にあって、眺望が良い。宮殿の中では、市民たちがさまざまな催しを企画して発表会をしている。庭園は広く、芝生も整備されていて、イヌの散歩にはもってこいだ。


 モモはこの公園がお気に入りで、いつも大はしゃぎだ。

 うっかりして、首輪がはずれてしまった。まだ小さいモモの頭はスルリと首輪を抜けた。モモは大喜びで速度を上げた。

「待ってええ!」

 風子が叫ぶと、よけいに楽しそうに奥に走っていく。

「ダメだよう。そっちは入っちゃいけないとこだよ~」

 走るのが遅くてヒーヒー言っている風子をアイリが全速力でサッと追い抜いた。

「モモおおおお。待てえええ!」

 アイリの大声が静かな公園に響いた。


 向こうでは、黒い服を着たすらりとした美しい女性が、モモを抱き上げていた。

「この子?」

 女性が尋ねた。鈴の音のような声だった。

 風子は走りながら頷いた。アイリが女性のそばに走り寄った。風子もやっと追いついた。二人ともゼイゼイと息が荒い。モモだけ、女性の腕の中で、うれしそうに顔を上げていた。

「す……すみません」

 風子がペコリと頭を下げる。


「いいのよ」

 その女性は優雅に微笑んだ。そのあまりの美しさに、風子は息を呑んだ。何事にも驚かないアイリまでが口をポカンとあけている。

「とってもかわいい子ね」

 女性は、モモの頭を軽く撫でた。慣れた手つきだ。モモは至福の顔をしている。

「はい。どうぞ」

 女性はモモを風子に渡した。

「あ……ありがとうございます」

 風子はまだ女性に見とれて、モモを落っことしそうだ。アイリがモモを風子から取り上げた。女性はそんなアイリをやさしそうに見つめた。

「ここは素敵な公園でしょ?」

 女性は一人語りのように言った。

「は、はい」と風子が答えた。


 アイリはすでにモモに夢中だ。またモモが禁止区域に入ろうとする。

「こらっ。モモ、そっちに入っちゃダメだ!」

 アイリがモモのリードを引っ張る。モモはすでに拒否シバモード。お座りをしながら、首をそらして「イヤ」と言っている。シバイヌはまことに意思がはっきりしている。

「うふふ。この子、入りたいようね。わたしもだわ」

 女性はモモを見やった。

「でも、無理なの。我慢してね。ここは亡き王太子がすべての人を立ち入り禁止にしたのよ」

「へええ、なんでですか?」

 風子が無邪気に聞いた。

「きっと、とっても大切な思い出があるからじゃないかしら」

 女性は遠い目をした。美しい横顔が少し影を帯び、いっそう美しい。


 風子とアイリはモモを抱き上げて、女性に別れを告げた。黒い髪、黒い目、黒い服の美しい女性はそのままその場に立っていた。

 もう一度振り返ったとき、女性はいなかった。風子がアイリに言った。

「びっくりしたあああ。あんなきれーな人、はじめて見た」

「そうだな」

 他人にほとんど興味を持たないアイリが頷いた。ずっと昔、どこかで見たことがあるような気がする。でも、思い出せない。


■麗人

「アユさま。さあ、まいりましょう。あまりお時間がございません」

 隣の女性にそう促され、さきほどの黒い服の女性が答えた。

「そうね」

 黒塗りの重厚な車の後部座席には、アユと呼ばれた麗人とカトマール文化大臣ライアが座っていた。アユがライアに尋ねた。

「あの子はアイリよね?」

「さようです。さきほどの子と寮の隣室で知り合ったようです」と、ライアが答えた。

「そう、よかったわ。アイリは気難しくて、友だちはできないと思っていたから、心配していたの」

「もう一人の少女は、都築凛子(つづきりんこ)の娘です」

「まあ……そうだったの。奇遇ねえ」

 二十年前、アユはルナ遺跡の発掘を支援し、その功労者の都築凛子を招いて会談したことがある。陽によく焼けた細身の健康そうな女性だった。その後もアユはずっと発掘を支援し続けたが、十年前、凛子は行方不明になった。その娘がアカデメイアに来ているとは。


「アユさま、到着いたしました」

 アユは、黒縁のめがねをかけ、その美貌を隠した。降り立った玄関には、こう書かれていた――学校法人蓮華学院中等学校。

 年配の理事長が一人で出迎えた。

「お待ちしておりました。ライア大臣」

 私的な訪問だからと、ライアの方から、出迎えも説明者も理事長一人にしてほしいとあらかじめ要望していたのだ。理事長は、この学校の歴史と現状に最も詳しい人物だった。

「わたしの秘書です」

 ライアはアユをそう紹介し、アユは目立たないように視察に参加した。日曜日の学校に人はいない。一行はゆっくりと視察した。特にライアたちが時間をかけたのは、図書館の視察であった。女学院であったときの名残が最もよく残っている〈蓮華〉最古の建物で、所蔵される図書にも価値があるものが多い。


 超高級ホテルの広い一室の窓から、カトマール第二副大統領シャオ・レンはアカデメイアの街を見下ろしていた。

 若い頃に学んだ大学都市。緑豊かな風景はほとんど変わっていない。丘の上には離宮が見える。かつてシャンラ王太子ロアンが暮らした離宮だ。レンも何度も招かれた。そこから少し離れたところに、小さいが瀟洒な館がある。〈青薔薇の館〉――美しい女主人を囲んで、仲間と議論を交わしたなつかしい場所だ。主人を失った建物をラウが買い取った。今夜の食事会もそこで開かれる予定だ。


「レン」

 気品のある声が聞こえた。レンが振り返ると、黒い髪、黒い目の美しい女人が立っていた。レンは彼女の手を取り、抱きしめてからこう言った。

「アユ、お帰り。どうだった? ずいぶんひさしぶりのアカデメイアだろう?」

「ええ。十年ぶりかしら」

「収穫はあった?」

「もちろん。ライアがきちんと準備してくれていたもの」

「ライアは、昔からキミのためならなんでもするね。キミの崇拝者の一人だ」

 アユはレンの腕をとって、窓の外を見た。

「離宮にも寄ってみたわ」

「うん。そうだろうと思った」

「そこで、あのアイリとばったり出会ったの」

「へえ。アイリと? あの子は扱いが難しい子だ。ラウも相当手を焼いているらしいよ」

「そうでしょうねえ。でも、友だちと一緒にイヌを散歩させてはしゃいでいたわ。まるで普通の子みたいに」

「そうか、それならよかった。キミが見いだして、支援している子だ。このまま伸びてほしいものだ」

 アユがにっこり微笑むと、レンはたまらずアユをまた抱きしめた。

「アカデメイアで見るキミは一段ときれいだ。でも、もう外に出ないで。ラウに気づかれる。ラウは、わたしの美しい妻に興味津々だ」

 うふふと笑いながら、アユがシンに口づけた。

「レン、ありがとう。わたしの願いを聞いてくれて」

 レンがアユに口づけを返して、こう言った。

「キミの願いをわたしが断るはずないだろう?」


■〈青薔薇の館〉

 その日の夕刻、シャオ・レンを乗せた車が〈青薔薇の館〉に着いた。ラウの筆頭秘書レオンがレンを出迎えた。招いた主人はラウ伯爵、招かれた客はレンただ一人だ。


 奥のサロンにラウがいた。サロンの内装も家具調度も当時のままだ。変わっていない。ラウが大切に保存してきたからだ。

 まずはテーブルに食事が運ばれた。ラウの専属料理人が作った料理で、レンの好物ばかりだ。秘書レオンはそばに控えているが、食事は一緒にしない。

 その後、ソファに移って、高価な酒がふるまわれた。これにもレオンは参加せず、横で静かに聞いている。レンは夜十時には帰りたいとあらかじめラウに伝えてある。妻のアユを一人にしたくないからだ。酔ったぶざまな姿も妻には見せたくない。


 ラウ伯爵は、ワイングラスを手にレンに聞いた。

「なあ、レン。覚えてるか? ロアンと会った最後の日を」

 シャンラ王太子ロアンが、一年間の留学を終えて、最後にこのサロンに参加した日だ。

「もちろん」

「あれから二十年になる。……ロアンは二十歳になってすぐに逝った。さぞ無念だったろうなあ」

「うむ。そうだな」

 二人は、かつての友の姿を偲んだ。


「わたしは、これでもロアンの夢をかなえているつもりなんだ」

 ラウが言うと、レンも頷いて応じた。

「わかっている。わたしもロアンの文化国家造りを実現したいと頑張ってきた」

「キミはすごいよ。あのカトマールの軍政を倒した英雄なんだもの」

「キミの助けがあったからさ。そうでなきゃ無理だった」

「でもまあ、ここの女主人アメリアの力は大きかったよな」

「うむ……」

「ロアンもキミもわたしも彼女の崇拝者だった」

「そうだ」

「でも、彼女の行方はわからないままだ」

「……うむ」

「今度のルナ大祭典を、彼女は喜んでくれるだろうか?」

「きっと喜ぶと思うよ。今回の企画は、彼女が願っていたものズバリだ」

「あはは……そうかなあ。そうだとうれしいな。でも、正直言うと、すべてこのレオンの企画なんだ。わたしは資金をだしているだけ」

「レオン秘書の能力はカトマールでも有名だからね」


 〈青薔薇の館〉のかつての女主人アメリアの行方はいまもわからない。

 レオンもラウから聞いたことがある。アメリアは、金髪碧眼のたいへんな美貌で、教養も抜きん出ていた。立ち居振る舞いには品があって、言動には思いやりがあふれ、男女を問わず、会った相手をことごとく魅了したという。

 そんなアメリアが一番愛した色は深い紫――今夜のレンが着用しているネクタイの色だ。アメリアからのメッセージであればどれほどうれしいだろう。ラウは、ふとそう思った。どこにいてもかまわない。アメリアが生きてさえいれば。


 ラウは、淡い願いをみずから断ち切るように、レンに尋ねた。

「カトマールの情勢は大丈夫か? 反対勢力がルナ大祭典をつぶそうと動き出したとも聞くが」

「そうだな。かつての軍政から利権を得ていた集団がなにやら動いている。自分たちでつぶした皇帝家をかつぎだそうとしているという噂もある」

「まさか、皇帝家の関係者はみんな処刑されたはずだぞ」

「そうなんだが、皇帝家の末裔を名乗る者もいるようだ」

「そりゃ、嘘っぱちだな。本物の皇帝家ならあの軍事政権に絶対加担するまい。そもそも、皇帝も夫君も平和的に象徴君主政への移行を考えてたんだからな。クーデターの首謀者ですらありえない」

「その通りだ。だから、反対勢力に対して国民の支持はほとんどないよ」


「そうだろうな。ただ、怖いのは、世論でもなんでもない声がネットでは妙に力を持つことだ。過激な発言やニュースを喜ぶ者は多い。西隣のバルジャ連邦共和国がカトマールに介入しようと虎視眈々だしな」

「わかっている。課題は多い。だからまず、国民の生活水準を上げなくてはならない。男女平等も実現する必要がある。キミの支援はほんとうに助かる」

「任せておけ。われらラウ財団は、黒い金や不正とは無縁だ。わたしとレオンがいる限り、カトマールを文化国家にするための支援は惜しまん。取引先を育てるのも安定させるのも、われわれの利益に叶っているからな。軍事政権と戦争は一時的な利益しか生み出さない。わたしはそんなものには(くみ)しない。企業を侮るなよ。投資にふさわしい利益は自分で見つけ出す。なければ育てる。キミたちの政府を見張っているのは、国民だけじゃないぞ。われわれも見ていることを忘れるな」

 レンが優雅な笑顔を見せた。

「ハハハ、キミらしいな。ロアンが上品に言っていたことのあけすけな言い換えだぞ」

「そうだな。アメリアはいつもあの椅子に座り、そんなロアンをやさしげに見守っていた……」

 ラウのなつかしそうな瞳が向く先を、レンも見つめた。

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