ⅩⅧー1 女王と大神官
■二柱の神
大陸東南部の海岸沿いに広がるシャンラ王国の首都アナン。壮麗な宮殿の奥にある一室には、美しい女性が優雅な椅子に腰掛けていた。女王サユミだ。
サユミは、半年前のまだ春浅い日のことを思い出していた。
うららかな日射しが、白い花びらを揺らし、窓を通り抜けて、華麗な絨毯の上に落ちる。
「入るが良い」
女王の許しに応えて、ヨミ大神官アーリーは女王の私室に隣接する私的な謁見の間に入った。この部屋に招かれるのは、女王の親族や友人など特別な者に限られる。いつもなら、大神官は公的な広間で謁見するが、今日は親族という名目で参上した。
「陛下、お目通りいただき、恐悦至極に存じます」
大神官が恭しく礼をとると、女王はすべての侍従に退室を命じた。
二人だけになったあと、女王はかすかに微笑んだ。
「堅苦しい挨拶はそこまででよい。伯母上、本日の訪問は、あの奇妙な月蝕のことではないか?」
「ご明察通りでございます」
大神官アーリーは、シャンラ女王サユミの伯母であり、シャンラ王家を守護するヨミ神に仕える最高神官である。
古来、シャンラ王国では、独自のヨミ信仰――ヨミ教――が発展した。ヨミ教は長くシャンラ王国の国教とされたが、いまは国民のすべてに信教の自由が保障されている。しかし、伝統に則り、王家はヨミ神を奉じている。王室行事のすべてにヨミ神官が関わる。
国民の大半にとって、ヨミ教はもはや宗教というよりも伝統習俗の守り主であって、冠婚葬祭の主宰者という趣となっている。地鎮祭や豊作祈願、厄除け、年末年始の祈願などには、ヨミ神殿へのお参りを欠かさぬ人も多い。人びとの日常生活にヨミ信仰が組み込まれているため、ヨミ神官団の影響力はきわめて大きい。
ルナ教とヨミ教は姉妹宗教と言える。だが、性格はかなり異なる。
古代ルナ神族には多数の神がいた。月の神であるルナ神と太陽神であるヨミ神は天の運行に関わる神とされ、人びとの信仰を集めた最も有力な二柱であった。ルナ教は自然崇拝に由来する多神教であり、月の神を崇めるものの、絶対視はしない。対して、ヨミ教は、世界を「光」と「闇」の二つに分け、光の世界の神であるヨミ神を「大日女神」と呼んで最高神と仰ぐ。
王家が編纂させた最初の正史である『シャンラ王紀』は、建国神話を語る。
――王家の始祖が月の神ルナとその陪神を「闇」の世界に追放して、大日女神を奉る「光」の国シャンラを立国した。
ウル大帝国の後継国として強大化しつつあるカトマール帝国が月神ルナを崇めていたことへの対抗であり、王家と民族のアイデンティティをあらわすためにヨミ教の保護強化がはかられたのである。これゆえ、シャンラ王家とヨミ神官団は深い関係を築いてきた。王家は、ヨミ神官団に多くの特権を付与した。各地に幾多のヨミ神殿が建造され、それぞれの神殿経営を維持するための所領が安堵された。
大神官が司るヨミ大神殿は、ウル大帝国時代にこの地に築かれたウル神殿を改修したものである。ウル神殿は、天帝たる月神ルナと娘神たる大地の女神ウルを祀る。これを改め、大日女神のみを祀るヨミ神殿に作り替えた。
神殿改修は、「ルナ神の闇への追放」と「ウル帝国の滅亡」を象徴し、「ヨミ神の光の勝利」と「シャンラ王家の統治」を正統化する最も重要な神事とされた。今も年に一回、ウル神殿からヨミ神殿への「昇格」を寿ぐ祭祀が行われる。その意味で、月の神ルナにまつわるルナ文化の称揚は、ヨミ教の存立根拠をゆるがしかねない難事であった。
■禁忌の秘宝
大神官アーリーの表情は暗い。女王サユミは、事態が深刻なのだと悟った。
「陛下、あの月蝕は、大凶事の前触れでございます。何度占ってみても、同じ結果が出るのです」
「大凶事とは?」
「おそらくは、かつてないほどの天変地変。わがシャンラの国も滅ぶやもしれませぬ」
「……避ける手立てはあるのか?」
「ルナ神聖石盤の力を借りれば可能かと存じます」
「ルナ神聖石盤とは、大神官家に伝わる禁忌の秘宝のことか?」
禁忌の秘宝は、ヨミ大神殿地下に眠っている。それを開けるカギを持つのは、ヨミ大神官のみ。女王サユミは、禁忌の秘宝については教えられたが、実物は見たことがない。
「あの石盤は、扱いがきわめて難しく、その文字も読み解けておらぬと聞いておるが?」
「仰せの通りでございます。神聖石盤の意味を明らかにするには、五枚の石盤を組み合わせる必要があります。しかしながら、石盤自体が封じられておりますので、動かすことすら叶いませぬ」
大神官は、柳眉をかすかに歪めた。
「ただ……先日、神聖石盤にかすかな〈気〉を感じました。月蝕の意味を悟った天月も動き出したと見えます。何らかの方法で石盤を持ち出したのではありますまいか?」
女王は白い指を右頬の横にかすかに当てた。難事について思案するときのクセだ。
大神官は続けた。
「〈影〉の報告によれば、蓬莱本島にいくつかの異能の〈気〉が集まっておる様子――すでに最強の〈影〉を送りましたゆえ、いずれ報告があると存じます」
〈影〉はヨミ族密偵。ヨミ族とシャンラ王国のために必要な情報を運んでくる。だが、もしヨミ族とシャンラ王家が対立したら、ヨミ族を選ぶだろう。そのように教え込まれている。
「よもや、アカデメイアや天月、ウル舎村が関わっているのか?」
「わかりませぬ。ただ、ルナ大祭典を準備しているこの時期に神聖石盤に動きがあるとは、何か裏があるやもしれませぬ」
「そうだな」
「いずれにいたしましても、すべてはあくまでこの大神官の判断でなしたること。今後とも随時報告はさせていただきますが、陛下にはいっさいあずかり知らぬこととなされませ」
「承知した」
「今ひとつ、ルナ大祭典のことでございます」
女王は予想していたというように、「うむ」とかすかに頷いた。
「まことに参加なさるおつもりですか?」
「そうだ。過去二回とも参加してきた。第二回はこのシャンラで開催したはではないか。次に参加せぬ理由はなかろう」
「そうではございますが、何度も申し上げてきた通り、今回は事情が異なります。カトマール側の目玉企画は、百年前の発掘以来、いっさい公開されてこなかったルナ大神殿の公開でございます。おまけに、こたびの稀な月蝕。ルナ教を奉じる者にとってはこれ以上ないお膳立てとなるでしょう」
いつものように、女王の決意は揺らがないようだ。
「それのどこが問題か? わが国でももはやヨミ教は国教ではない。ルナ教自体はすでに残っておらぬ。香華族も滅ぼされた。ウル教は、たしかにルナの系譜を引くが、わが国ではほとんど影響力をもっておらぬ」
「さようでございますが、ルナ教の教義は、わがヨミ教の拠って立つ基盤を揺るがしまするぞ」
「そなたのいうことも理解はできる。だが、ルナ文化は歴史ぞ。今に生きる人びとを拘束はせぬはず。違うか?」
大神官は、無念気に口を閉ざした。これ以上説き伏せようとしても、女王は聞く耳をもたぬ。頼みのはずの前女王キハもサユミに協力的だ。国王に至っては、サユミの言うことなすことにすべて賛成する。いま、シャンラ王室にヨミ神官団の味方はいない。
女王の私室のドアを背にして、アーリーは重いため息をついた。
(ああ……そういえば、国王の生母ランがいたな。だが、あの者はわが子かわいいだけで、政治的感性はゼロだ。使い物にならん。国王の父ダムは隠居同然で、表に出て来ぬしな……。はてさてどうしたものか……?)
大神官が辞したあと、女王は低い声をあげた。
「〈風〉よ」
その声に反応して、女王の座席裏の帳にかすかな気配が漂った。そして、そこから、男とも女ともつかぬ声がした。
「はい」
「話は聞いていたな」
「はい」
「すぐにアカデメイアに行け。ヨミ最強の〈影〉より、そなたの方が優れておる。〈気〉を発する者を調べ、神聖石盤の秘密を探るのだ。くれぐれも大神官には知られぬようにせよ」
「かしこまりました」
スッと〈風〉の気配が消えた。
■政治の駆け引き
居室の扉が開き、女官が恭しく進みでて、奏上した。
「陛下、カトマール大統領のご一行がご到着とのことでございます。首相がお出迎えになり、いくつかのご相談をなさっているとのことです」
サユミのそばに控える女官長が、女王の言葉をその女官に取り次ぐ。女王の言葉を受け、女官長が女官に命じた。
「女王陛下は、予定通り一時間後に謁見の間に参られると首相に伝えよ。それまでは、首相のほうにて懇ろにもてなすように」
サユミは壇上を降り、別室に入った。公式の謁見を受ける衣装が並べられている。衣装長官が用意した衣装に着替え、髪も化粧も任せる。その間にサユミは考えていた。
(ルナ大祭典をどう使うかだな。カトマールの本音とラウ伯爵のもくろみを調べねばなるまい)
明日には、シャンラ王城に、シャンラ王国女王、カトマール共和国大統領、ウル舎村自治国国主、アカデメイア共和国首相が集まって、今後の文化・学術交流に関する協定文書調印とルナ大祭典に向けた記者会見が行われる。
協定文書には、四カ国の大学・研究機関の障壁をなくして、研究者や学生の移動・交流を自由にし、多額の共同研究資金を設定することが盛り込まれる予定だ。第一回ルナ大祭典をきっかけにもちあがった計画であり、十年近い歳月をかけてようやく実現した。この協定は、他の文化圏にもモデルとして影響を与えるだけでなく、四カ国間の政治的・経済的・軍事的連合に向けた第一段階として注目されている。
カトマール大統領のそばには、外交と文化を担当する第二副大統領シャオ・レンが付き従い、文化大臣ライアも同席するだろう。ウル舎村国主エファは腹心のザイケルを伴うはずだ。アカデメイア共和国首相のそばには、大祭典の事実上の責任者であるアカデメイア副理事長のラウ伯爵が付き添い、そのそばには、かつてアカデメイア大学で有名だったあの青年――レオン――がいることだろう。もちろん、ラウ伯爵もシャオ・レンも侮れない。しかし、それ以上にレオンはもっと侮れない。〈風〉を使っても、レオンに関してはほとんど秘密情報が得られないほどだ。
自分にはシャンラ首相ジュリアが同席する。ジュリアは信頼できる女傑だが、一筋縄ではいかない。政治家として修羅場をくぐり抜けてきた彼女は、決断力があり、有言実行で国民的人気を誇るが、責任ある立場ゆえ、安易な決断はしない。
これら四つの国の結束を示すのは、ルナ大祭典や文化・学術協定という文化事業のためだけではない。それは口実で、本当の目的は西方の大国バルジャの介入を牽制するためだ。
バルジャ連邦共和国は、大陸西部の大国だ。現大統領は、法の隙間をかいくぐるように、大統領と首相を交互に務め、二十年近くも国のトップに居座っている。選挙への介入を強め、反対勢力を排除し、マスコミを統制下に置いているため、世論調査での人気は高い。
大統領は、「平和」名目で拡張路線を明確にし、周辺国と交わした安全保障条約にしたがって設置した駐屯地の拡大を進め、軍事演習の名のもとにさかんに挑発的な行動をとっている。うかうかとそれに乗ると、国境地帯の紛争が誘発され、国内全体が不穏になる。四カ国の首脳はピリピリしていた。ただ、そうした不穏な雰囲気を記者会見で出すわけにはいかない。あくまで文化行事のための会合であって、これを機に交わされる軍事協力の会談は極秘にされねばならない。
文化行事としての「顔」になるのは、やはり女王サユミだった。若く美貌で、文化支援者として知名度が高く、憲政上、政治に関わることはできない。だからこそ、あえてシャンラが場所として選ばれた。記者会見とその後の晩餐会にはメディアが入る。女官長の指揮のもと、一年以上前から入念な準備がなされてきた。ドレスも新調された。何よりも、ルナ大祭典に先んじて、シャンラ王室秘宝が初披露されることとなっている。記者会見で披露された後、アカデメイア博物館で「秘宝展」として展示され、一般公開されることもすでに公表されている。ルナ大祭典のさきがけにふさわしい取り組みとして、メディアも大注目していた。「秘宝展」の発案者であるサユミにとって、負けられない戦が始まる。
■王家の呪い
シャンラ王国の統治システムはかなり異色だ。
建国以来、祭政一致を避け、男王を父系直系、女王を神官一族に限り、男女二人の王の双頭制にして独裁を避け、在位期間を制限してきた。王室の内紛と長期独裁王権を避けるために歴史が生み出した知恵だ。しかし、理由はそれだけではない。それは「王家の呪い」と呼ばれる遺伝病への対策でもあった。
シャンラ王家には、男性のみが発症する血液性のガンともいうべき特有の遺伝病が伝わる。保因者であっても発病しなければ通常の生活を送ることができる。重症型は十代半ばに発病し、ほとんどが数年のうちに亡くなる。この遺伝病は、シャンラがまだ小さな部族国家であった頃、王家内で近親婚を繰り返した結果であった。近親婚を避けつつ、王家の血統と権威を守るために案出されたのが、ヨミ大神官一族との配偶である。
大神官一族は女系で継承される。このため、大神官と女王はしばしば近い親族となる。これは、ヨミ神官団が王家を支援する強力な絆となった。大神官一族は、一族の娘たちに学術・礼儀・六芸のすべてについて厳しい教育を施し、女王候補を育ててきた。
男王と女王はすでに婚姻関係にあっても、即位とともに改めて「聖なる婚礼」を挙げる。婚姻は大日女神の特別な祝福を受け、離婚も再婚も禁じられる。在位中は男王と女王が並び立ち、双頭として国事を司る。死亡や病気で一方が欠けると、他方がその一方の仕事も引き受け、事実上、単独の男王あるいは女王となる。このため、歴代の女王には、単独で公務を取り仕切ることができる才知と能力を持つことが必須とされた 。
今日では、王家が存在しなくても政治は運営されるため、王室廃止論もある。しかし、国民の大多数は王家を敬慕している。王家はこの敬慕を維持するために努力を重ねており、王家の不祥事には厳しく対応して、自浄作用を国民に示してきた。文化支援のための寄付は出し惜しみせず、広大な領地経営は工業化が進むなかでむしろ環境保全に寄与する結果となった。
何より、男王と女王が双頭で国王として対等に国を代表する伝統は、国の女性たちを鼓舞し、政治や社会の男女平等を早くから支えてきた。王家のそうした伝統と努力は、国民の選挙行動や政治への関心にも強く影響し、王家に対する国民の信望を高めてきたのである。
現王家では、男王も女王も健在だ。男王は、前国王の甥にあたる。前国王には王太子がいた。ロアンという。非常に英邁な王太子として国民の期待を集めていたが、遺伝病を発症して二十歳で亡くなった。そして、前国王の弟殿下の嫡子が王太子となり、いま、王位についている。国王は従兄弟であった元王太子に強く憧れていたが、自分の力が従兄弟に遠く及ばないことも自覚していた。これゆえ、あまり自己主張せず、妻たる女王サユミの決定にほとんど異を唱えない。事実上の決定権はサユミにある。
夫妻の間には王女がいる。五歳だ。母サユミ女王に似て、ことのほか利発で非常に愛らしい。自分に自信がない父王は、誰からも称賛される娘を自慢し、溺愛していた。シャンラ王国では、王女は王位継承者になれない。他国にあわせて、第一子主義に変更したいが、ヨミ族から女王を迎えるという伝統に反するため、ヨミ大神官がぜったいに認めようとしない。これもまた、王家とヨミ神官団との対立を生む大きな要因になっていた。
女王サユミは、ルナ研究を推進している。シャンラ国立大学には、女王が資金援助をして、王国初のルナ文化研究所が作られた。大神官アーリーにとってみれば、これは脅威であった。ルナ神話やルナ文化の発掘は、ヨミ神話の読み直しにつながるからだ。それは、ヨミ教の根幹にも関わる問題を秘めていた。
しかし、サユミは、学術研究には宗教も政治も関与すべきではないという立場を貫き、資金援助はするが、研究には口を出さないという方針を変えることはなかった。現在、ルナ文化研究所はアカデメイア博物館とも緊密な交流を図るようになっている。
さらに、女王は、シャンラ王家に伝わるルナ秘宝を公にし、宗教ではなく、文化としてルナ文化を尊重する姿勢を内外に示そうと考えた。これが「秘宝展」として結実した。しかし、ルナ学にとって最も重要な意味を持つであろう神聖石盤の存在は、さすがに隠さざるをえなかった。
神聖石盤は禁忌の秘宝――どうやら、天月にも動きがあるようだ。天月では、四百年ぶりに〈銀麗月〉が登場したと聞く。その後の〈風〉からの情報によれば、〈銀麗月〉はレオンとともに櫻館に住み込むようになったとか。ルナ大祭典の準備のためという。
それは名目だろう。二人の真の目的は何なのか? その目的は、わがシャンラにいかなる影響を及ぼすのか?
大神官の強い危惧も考慮すれば、ルナ大祭典開催に向けて、シャンラを、そして世界を大きく揺るがす事態が起こるやも知れぬ。だが、見方を変えれば、大祭典を機に、危険な組織をあぶり出すこともできよう。ただし、国民を危機にさらすわけにはゆかぬ。いち早く危機を察知し、最善の策を講じねばなるまい。




