ⅩⅦー4 とまどい
■リトの初恋相手はだれ?
いつもの朝食だ。
ツネさんが用意する朝食はとてもおいしい。早朝の鍛錬を済ませ、汗を流したリトは、満面に笑みを浮かべて、旺盛な食欲を発揮している。ツネさんはリトの食べっぷりがお気に入りだ。いつもリトには大目によそおってくれる。
リトはふと視線に気づいた。視線の方に目をやると、カイがさっと目を外した。
――え? カイがオレを見てたの? なんか、オレ、ヘンなことをしたっけ?
オロがくしゃくしゃの頭でやってきた。キュロスの鍛錬で、オロの力は急速に伸びている。櫻館の食事で栄養がいいせいか、背も伸びているようだ。オロは、いつものようにリトの隣に座り、リトに話しかけた。
「ねえ、リト。ウル帝国ゲームでさあ、ちょっとわかんないところがあるんだけど、あとで教えてくれる?」
「ああ、いいよ」
「やったああ!」
「おい、おまえ。ちっとは髪の毛を梳かせよな。グシャグシャだぞ。スープに髪がつかるだろ?」
リトがオロの髪にさわって、長い前髪を後ろに引っ張り上げている。ばあちゃんと姉ちゃんたちに鍛えられたリトは、とっても世話好きだ。年の離れた姉たちのもとで末っ子として育ったからだろう。だれかに「お兄ちゃん」として頼られるのが大好きなのだ。
オロがうれしそうに「わかってるって」と答えた。カイの胸がズキンと痛んだ。このまえのサキの言葉が蘇る。――オロはリトが好き。でも、宗主はこう付け加えた――リトは初恋一筋だ。
リトの初恋相手とはだれだ? リトの記憶の中で、あの山で手を取り合って走っていた相手の少年か?
それは、いったい誰なんだろう。……また、カイの胸がキュッと締まった。
「ほら、オロ。出かけるんだろ? 急げ、途中まで送ってやる」
「うん! あ、リト、まってえ~」
スタスタと歩いて行くリトをオロが追いかけていく。二人が並ぶと仲のよい兄弟のようだ。
考えてみれば、リトはオロをとても大事にしている。オロの愛猫キキを救出するときにも、自分の危険を顧みず、大活躍したとか。オロはルルのはず。ルルとリトはアルバイト先も同じだ。
リトは、あのクセ強の女子衆からも絶大な信頼を得ている。だが、どう考えても、ルル以外の女子がリトに恋心を持っているとは思えない。リトも同じだ。だが、オロ=ルルに対してはどうなのだろう……。
カイはハッとして思考を止めた。
――いったいわたしは何を考えているのか。何を気にしているのか。
完全に思考を切り替え、隣のカムイにこう告げた。
(滝の禁書室に行く。ついてきなさい)
■大樹の上
カイは天月の仕事でしばらく櫻館を留守にすると言って出かけたらしい。
大学から戻ってきたリトはがっかりした。朝、ダイニングで顔を合わせたのに、一言も言ってくれなかった。あの対戦のあと親身に面倒を見てくれたにもかかわらず、最近はなんだか避けられているような気がする。
リトの気持ちはドーンと落ち込んだ。恋人までは無理だとしても、せめて友だちであってほしい。リトの切なる願いだった。
そばでウル帝国ゲームに励むオロが、リトを見上げた。
「どうしたの?」
「あ……ああ、えっと、何だっけ?」
「ここだよ。ここがわかんないんだ」
夕食時には、レオンと彪吾の幸せそうな姿が目に入る。リトは、ますます落ち込んだ。こんなときは木に登るに限る。
リトは菜園の高い木にスルスルと登った。なぜか以前よりも素早く登ることができる。
いつものように、クロがついてきた。あのキキ拉致事件以来、クロはリトの相棒だが、木登りだけは負けたくないらしい。ネコのプライドをかけて木登り術を鍛錬している。その甲斐あって、一ヶ月ほど前にはリトに並んだと思ったが、今夜のリトは違う。とても人間業とは思えないほど素早い動きだった。クロはヒイハアとついていき、上に登り切ったときには疲れ切って、リトの腹の上で四つん這いになってしまった。
今夜は満天の星だ。リトは大きな枝に身を横たえ、クロを腹に抱いて、星を見上げた。せっかく新しい時空物語を仕入れたのに、聞いてくれる人がいない。
――ヒマだあ~。
彪吾の〈五月の歌〉は、レオンに対する想いを込めて十五年近く作り続けられたとか。だから、あれほど心を打つ歌なんだろう。カイを忘れられないオレにはドンピシャの歌だった。でも、オレには音楽を作る才能などない。詩心もゼロ。できるのは、カイの調査に精一杯協力することだ。カイが求めるものを予想し、カイが満足する姿を思い浮かべるだけで胸が高鳴った。
いまカイが取り組んでいる「時空の歪み」に関するルナ神話も、これまではカイに伝えるべく、資料集めに必死で、内容を検討したことなどなかった。今日はたっぷり時間がある。リトはこれまでの物語を整理してみることにした。きっとカイの役に立つだろう。
「おい、クロ。ちょっと話を聞けよ」
クロの頭を撫でると、クロは「ふにゃ」と鳴くものの、目を開けない。眠くて仕方がないようだ。
「ちぇっ、おまえまでオレを無視かよ」
時空に関する物語はいくつかのパターンに分けられる。歪める、止める、超える――大きくはこの三つだ。時空を歪めるタイプ。これは〈森の一族〉の一部に残るらしい。時空を止めるのは〈水の一族〉、時空を超えるのは〈月の一族〉だ。
〈閉ざされた園〉は、「時空の歪み」の産物だ。だが、そこに自由に出入りできる者がいるらしい。それは〈森の王〉――〈森の一族〉を統べる者だ。半人半獣だが、人の姿の時はたいへんな美貌の中性、獣の姿としては白虎という。「森の王」は、「時空を歪める」力をもつという。
「時空を止める」力が登場するのは、龍族の物語だ。太古の神話時代に、海に沈められた一族。だが、龍族と他の一族が交わって子をなす物語が存在する。今回見つけた新しい物語がそうだ。
龍族は文化によっては皇帝の印とされたり、縁起物とされる。だが、ルナ神話では、「凶」のイメージをまとう。津波を起こし、船を沈め、大地や島を舐めるように海の底に沈める破壊神とされるからだ。
だが、深い海の底には、龍族の華麗な宮殿があるという。亀や鮫の背に乗って龍族の宮殿を訪れた者の物語もいくつか知られている。この宮殿では時がほとんど止まるらしい。宮殿から地上に戻った者は若いままだが、戻った世界は何百年も後の世界だ。誰も知らない世界に行っても、幸せとは言えない。でも逆に、龍宮でどれほど長く滞在しようとも、現世ではほんの一瞬ということもあるようだ。なにが二つの道を分けるのかはわからない。
リトはハタと気づいた。あのとき、図書館の地下で見た海。海の向こうにチラリと美しい宮殿が見えた。遠くまで見通せるリトの目が捉えたのだ。あれは、もしや龍族の宮殿――珊瑚宮か?
――カイが戻ってきたら真っ先に伝えよう。
カイに伝える新しいネタを得て、リトの気分はずいぶん良くなった。
向こうに天月が見える。目を凝らしてみてリトは驚いた。天月にいる人までもが見える。その者は天月の台地から星に向かって両手を上げ、何かを解き放った。烏だ――天月烏。でも、あれはカイでも、カムイでもない。
リトは自分の力に驚いた。欲が出た。
――どこかにカイはいないか?
目を凝らして天月の山をあちこち見てみたが、木々が邪魔をして、人の姿はほとんど見えない。がっかりしていると、天月山の近くで見慣れた烏の姿を認めた。カムイだ。
カムイは天月山には行かず、中腹の谷に姿を消した。あそこにきっとカイがいるのだろう。耳を澄ませた。カムイが消えた場所からは水の音がする。轟音だ。滝だろうか。声をもたないカイの言葉は聞こえない。
リトはグッタリした。ほんの数分、神経を集中しただけだ。自分でも信じられないほど遠くまで見て、聞いたが、疲労感が半端ではない。リトは枝に身体を横たえ、すでに熟睡状態のクロを抱えたまま目をつぶった。そのまま寝入ってしまったのだろう。
「おーい、リト!」
サキ姉の声にビックリして飛び起きた。クロが身を翻して、あたふたと先に木を降りていった。リトが続く。あまりの高さにサキ姉が大声を出した。
「あっ! 危ない。ゆっくり降りてこい!」
すでに朝日が見えている。夜をこの梢で過ごしてしまったのだろう。トントンと枝を蹴るように降りていくと、サキ姉が、めずらしく心配そうな顔でリトを見た。少し離れたところで、クロもリトを見守っている。
「いったい、どうしたんだ? 木の上で寝たのか? 夜は寒いぞ」
「うん。……ちょっと木に登りたくなってさ」
「おまえは、ストレスがあると木に登るな。昔から変わらんクセだ」
サキ姉がホッとしたような表情でリトの頭を撫でようとした。
――うっ、デカい。手が届かない……。
「どうした? カイがいなくて寂しかったのか?」
「そ……そんなこと……」
リトは真っ赤になってうつむいた。ホントにコイツはわかりやすい。
「すぐに戻ってくるさ。気にするな」
「うん……」
「いつもの元気がないな? 風邪でもひいたか?」
「ううん。ねえ、サキ姉、オレさあ、ものすごく目と耳が良くなったみたいでさ」
「は?」
「天月にいる人の姿が見えたんだ。その近くの滝の上をカムイが飛んでるのも見えた」
サキが絶句した。
――コイツはカイ恋しさに、夜の天月に目を凝らしたのか?
「ほんの数分なんだけど、ものすごく疲れちゃって、木の上で寝てしまったみたい」
サキは目を見開いたまま、しばらく言葉を探した。
後ろから声がした。ばあちゃんだ。
「九孤忍術の極意に達したようじゃな。じゃが、その術は今後みだりに使うな。体力を極度に消耗するからの。その術に溺れて命を縮めた者もおる。術を制御する力がなければ、術は使ってはならん。おまえ、カイをこの世に残して死にたくはなかろう?」
リトはまた真っ赤になって頷いた。
リトをコントロールする最強ワードは、「カイ」だ。サキは天月山に向かって心の中で叫んだ。
(カイよ、リトが暴走しそうだ。早くリトのそばに戻ってきてくれ!)
■『天月秘録』
滝の禁書室で、カイは数十冊の分厚い手書きの書物を読んでいた。初代〈銀麗月〉の手記『天月秘録』だ。
公式記録である『天月記』には載せられない詳細な記録が記されている。『天月記』にも、初代〈銀麗月〉に関する記録は多い。いまの天月を築いた人物だからだ。
しかし、『天月秘録』の記述はその何十倍にも及ぶ。初代〈銀麗月〉が自ら詳細な記録をのこし、後世に伝えようとしたのだろう。彼が見聞したこと、自ら経験したこと、当時の多様な情報、他一族の情報、禁術、彼自身の分析など、内容は多岐にわたる。
これが天月や世界で共有されていないのは、まことに惜しい。だが、初代自身が公表を禁じたのだ。なぜだろう。その答えもこの禁書の中にあるにちがいない。
カイは、初代〈銀麗月〉の手記を読み続けていた。カムイが運んでくる水や果実をときどき口にし、たまに休憩をとって身体をほぐす以外は、寝る間も惜しんで集中していた。リトの命に関わるからだ。カムイが心配して何かと差し入れを持ってくる。ここに籠って、もう一週間になろうか。まだ答えは得られない。だが、すこしずつわかってきたことがある。
〈弦月〉の記録は、膨大な記録のなかに散見された。しかし、あえてまとめられていないようだった。初代〈銀麗月〉の力をもってすれば、〈弦月〉の記事を論理的にまとめあげることなど造作もないはず。
なのに、それがない。他の一族に関する詳細な記録の書きぶりとはじつに対照的だ。
カイは、そこに初代の何らかの意図を感じた。初代は〈弦月〉を軽視したのではない。〈弦月〉を残すためにあえて記録を分散させ、〈弦月〉を歴史から見えにくくすることによって、〈弦月〉を守ったのかもしれない。
ふと、うとうととした。夢の中で、二人の少年が手をつないでいた。十歳くらいの少年だった。
――ああ、リトが言っていた雲龍の山か。
ふたりは、地割れが迫ってくる山道を軽々と飛び越えながら、山頂の方に向かっていた。絶壁がそそり立つところに出た。もう地割れは追ってこない。ただ、ふたりの前には深い渓谷がある。向こうの絶壁まではかなりの距離があった。
ふたりは手を取り合ったまま、互いを見つめていた。烏が舞い降りた。一方の少年が近くの木から木の葉をもぎ取り、宙に放った。そして、その木の葉の上を飛びながら、向こうの崖に飛び移った。向こう側の崖に立つ少年に向けて、こちら側の少年が懸命に手を振っている。リトだ。
そして、崖の向こうにいる少年が振り返った――自分だった。
カイはそこで目覚めた。
――ああ。……夢か。
リトの初恋が気になっていたのか。あの図書館でリトの意識から飛び込んできたリトの記憶を、どうやら自分に置き換えたようだ。なぜか、胸がうずく。このところいつもリトがそばにいた。だが、いまはいない。カイはとてつもないわびしさを感じた。
禁書に目をやった。すべてに目を通した。まだ情報は整理できていない。
――だが、帰ろう。櫻館に。リトのそばに。