ⅩⅦー2 白い夢
■白い夢
柔らかなものが手に触れた気がした。シュウは、あたりを見回す。だれもいない。よい香りに満ちている。白い大理石の石畳。回廊に取り囲まれた庭には、赤や青の花が咲き乱れている。石畳に沿って清らかな水が流れ、花の上を青い蝶が舞っている。行きかう人々はみな美しく、白い長い衣を身にまとい、長い髪を後ろに束ね、優雅に歩みを進める。互いに挨拶をかわしあう。だが、だれもシュウには視線を向けない。
――あ、あぶない!
目の前に柱が立っていた。ぶつかったと思って身を引いたが、痛くない。右手の指先が柱のなかに入っていた。
――えっ?
シュウは、おそるおそる手をつっこんでみる。すんなり入った。体の半身も入り、足も抜け、すべてが柱を取りぬける。後ろを振り返ると、見事な彫刻を施された白く太い大理石の柱が、ゆがみもせず、堂々とたたずんでいた。
どこを通っても同じだ。シュウの身体はスウッと通り抜ける。やがて、分厚いオークの木でできたドアの前に来た。いかにも頑丈なドアだが、シュウはこれも難なく通り抜けた。
見事な部屋だった。壁中に彫刻が施され、床は精巧なモザイク。天井には明り取りの窓がある。窓らしきものにガラスはなく、薄い布がかけられている。シュウはしげしげと見入った。古代ウル帝国の王宮を再現した絵を見たことがあるが、それよりもはるかに美しい。
奥のドアが開き、一人の若者が入ってきた。白い衣、長い髪。髪はかがやくばかりの銀色で、瞳は緋色。その顔は自分とうり二つ。若者は椅子に腰かけ、ほうっとため息をついた。シュウはおそるおそる近寄るが、彼にはわからないようだ。
若者は憂い顔のまま肘をつき、軽く足を組んだ。その肩に、一羽の蝶が舞い寄る。蝶の羽は、透き通るように青い。その青は、ありとあらゆる青のグランデ―ションを織りなし、一点のくすみもない。微かな羽ばたきをしながら、若者に寄り添い、離れ、また寄り添う。若者は長いまつげを伏せ、思いにふけっているのだろう。はるか遠くで、鐘の音が響く。
後ろのドアを開けて、だれかが入ってきたらしい。衣擦れのささやかな音がする。青い蝶は、若者の手から離れて高く舞い上がり、庭へと消えた。そして、白い都も消えた。
■シュウの夢
――夢か……。
朝の柔らかな木漏れ日が部屋に差し込む。シュウはうっすらと目を開けた。事故のときを最後に、破壊の悪夢を見ることはなくなった。代わって近頃よく見るのが、緋色の瞳の少年と青い蝶の夢だ。〈森の一族〉に関する物語の一節を思い起こさせる。
櫻館ではルナ大祭典のミュージカルのことがよく話題になる。それは、ルナ神話に登場する五つの一族の物語だ――「月」「火」「水」「森」そして「土」。だから夢を見たのかもしれない。
この夢のあとは、少し気だるいとはいえ、頭はすっきりと冴えわたり、気分が高揚する。シュウはゆっくりと起き上がり、窓の外を見た。今日も天気が良い。もうすぐキュロスが迎えにくる。早朝の鍛錬がはじまる。
古城から戻ってきてから、シュウは、連日、早朝に櫻館に出向くようになった。リトやオロとともにキュロスから武芸を習うためだ。そのあと朝食をとり、キュロスが運転する車で学校に行く。途中で必ず離宮公園による。モモと散歩する風子とアイリに出会い、二人と一匹に「おはよう」と挨拶して、手を振るのが楽しみだ。このため、学校にはいつも一番乗りになる。静かな教室に入り、しばらくすると生徒たちが次々と入ってきて、それぞれがキュロスとシュウに「おはよう」と挨拶する。
風子はいつも最後で始業時間ギリギリだ。あたふたと駆けてくる風子を見るのも楽しい。「おはよっ!」風子の挨拶はいつも元気だ。「おはよう」と挨拶を返すと、風子はうふふと笑う。それだけでシュウはうれしくて仕方がない。
廊下にはキュロス専用の椅子が置かれるようになった。校長の配慮らしい。だが、キュロスはほとんど椅子には座らない。その代わり、椅子はキキとモモ専用になった。シュウの願いを聞き入れて、校長は、ネコとイヌが校舎の中に入ることを認めた。大口寄付者であるシュウは強気だ。休憩時間になると、生徒たちは思い思いにモモやキキを見にきている。モモとキキはいまや〈蓮華〉全体の愛されペットになった。
■図書館の「怪」
――夢の意味を知りたい。
シュウは、〈蓮華〉の図書館で〈森の一族〉のことを調べ始めた。学校の自由研究のレポート課題にしよう。櫻館での議論にも役立つだろう。
〈蓮華〉図書館には、思いのほか、多くの本があった。予算難で最近の本はあまりないが、古い本は非常に充実しており、手続きをすれば、貴重書を見ることもできる。風子も図書館が好きで、放課後の図書館で二人そろって(キュロスもおまけでついてきたが)勉強することもしばしばだった。これはもうシュウにとっては至福の時間だった。
いつもこれを破るのはアイリだった。
「おい、風子、散歩に行くぞ」と言って、夕方五時頃、モモを連れたアイリが図書館の窓に向けて大声を出すのだ。
「うん!」と風子はうれしそうな顔をして、シュウに「バイバイ、また明日ね!」と言いながら去っていく。窓から二人の後姿を見送ったあと、シュウは六時の閉館まで図書館で調べ物を続けるのが日課だった。
調べるのは楽しかった。すでに図書館の開架にある関連本はほとんど読破し、いまは研究書や論文、貴重古書のレベルに移っている。秋学期からは新しい司書が雇われたが、夕方五時で退勤する。司書に代わって、サキが閉館までカウンターで自分の仕事をしている。教材作りらしい。先生もラクじゃないようだ。
サキは、シュウが借り出す本のほとんどをすでに読んでいるらしかった。サキのほうから「これがおもしろい」と紹介してくれる本もあった。
キュロスも図書館で過ごし、シュウのそばで本を読んで過ごした。キュロスは武芸に秀でるだけではない。相当の読書家で、心身機能に関する理論書を好んだ。
タン国傭兵は、武術訓練だけでなく、体育学と医学の基礎理論も学ぶ。また、戦いで不可欠な心理学も習得するし、PTSDなどを含む精神医学も学ぶことになっている。世界各地に傭兵として派遣されるので、言語や文化・歴史の教育もきわめてハイレベルだ。性犯罪は厳しく禁じられており、何が性暴力にあたるのかについての研修は形ばかりではない。性暴力に関する無意識の思い込みを排するためだ。こうした学知と教養の保障が、タン国傭兵への国際的信頼を支えている。
ある日、シュウがサキに訊ねた。
「先生、あのドアの向こうには何があるんですか?」
リトとカイに調べさせた「図書館の怪談」の地下室に通じるドアだ。
「単なる物置。――でも、何があるか、わたしも見たことはないな」
「そうなんですか……」
「どうしたんだ? なにか気になるのか?」
「いえ、気になるというほどではないんです。たまたまこの図書館の古い図面を見たのですが、あのようなドアはなかったので、いつごろ、どんな目的でできたのかと思って……」
「古い図面?」
「はい。あ、持ってきますね」
サキの目の前に古い図面が広げられた。この図書館は、〈蓮華〉では最古の建物という。たしかに、図面には地下室は書かれていない。ドアも階段もない。おそらく、その後改修されたのだろう。では、何のために?
何も置かれていなかったとリトは言っていた。何も置かない地下室をつくるために、わざわざ改修したとは思えない。
「ちょっと見てみるか?」
「はい」
サキがドアのカギを開けた。電灯はない。懐中電灯で照らすと、階下につながる階段があった。その先にはまたドアが見えた。サキを先頭に、三人はおそるおそる階段を降りた。かなり急な階段だ。
ところが、なかなか階下にたどり着かない。おかしいと思っていると、懐中電灯の光が微妙に揺れた。サキがハッとした。
――「時空の歪み」!
「おい! 早く上にもどれ。さあ早く!」
サキが大声を上げた。キュロスはシュウの手を引いて一目散に階段を駆け上がった。サキが続く。ドアを開けるときに振り返ると、階段が微妙に歪んでいた。サキは真っ青になった。先にドアから出たキュロスは、シュウを抱えて驚いた顔をしている。
「いったい何が起こったのですか?」
「いや……」
サキは息をついた。
「以前にリトに見てもらったときに、別の懐中電灯が突然切れてね。あわてたことがあるんだ。さっきも電池が切れかけたみたいで、一瞬、光が点滅した」
「そうでしたか。急な階段でこの暗さですからね。足を踏み外す恐れがあります」
キュロスはシュウに何もなくてよかったとホッとした顔をしている。
「うん、そう。まあ、よかった。今日はどうもなくてさ」
ひとまずリトにあの日のことを確認する必要がある。これがきっかけで、リトの異能が目覚めたのかもしれない。
■時空の歪み
次の日の早朝、サキは、カイとリトを図書館に呼び出した。
「単刀直入に聞く。夏にあの地下室の階段で何があった?」
「う……」
リトが返答に詰まっている。サキには秘密にしてほしいとのカイとの約束を守ろうとしているのだ。餅がつかえたようなリトを見て、カイが言った。
「お察しの通りです」
「やっぱり、時空が歪んだのか?」
「はい」と、カイは静かに頷いた。
サキは、厳しい表情をくずさない。
「わたしのときは、階段が妙に長く、懐中電灯の光が揺らいで、ヘンだと気づいた。あわてて駆け上がったが、振り返ると階段がゆがんで下のほうは消えそうになっていた」
「わたしとリトが行ったときも似たようなものです。ただ、わたしたちは階段の下まで行き、下のドアを開けて、廊下を歩きました。すると、明るい部屋に出たのですが、天井の上は海でした。妙だと思い、引き返そうとすると、どんどん空間が欠けていきました。なんとか元の図書館に戻り、下を見ると、普通の階段に戻っていました」
(う、海だと!?)
サキは絶句した。歪みがハンパじゃない。
「そのとき、どなたかとご一緒でしたか?」とカイが尋ねた。
「ああ。シュウとキュロスと一緒だった。昨日の夕方だ」
「シュウくんとキュロスさんですか……」
「何か心当たりでも?」
「そういうわけではないのですが、シュウくんは例の〈閉ざされた園〉に関係する古城の主の若君です」
「そうだったな……」
リトは、バツが悪そうにサキをチラチラ見ている。
「リト、なぜ、わたしにすぐに言わなかった?」と、サキがリトに詰問すると、「ごめん……」とリトがボソボソと謝った。隣のカイがリトを庇うようにこう言った。
「わたしが止めたのです。リトに責任はありません」
サキはカイに向き直った。
「なぜ止めた?」
カイは静かに答えた。
「天月の禁書に書かれている禁術と関わるのではないかと思ったからです」
サキが驚いて「禁書? 禁術?」といぶかしむと、カイは、「天月の秘密に関わりますので詳しくは申せませんが、「時空の歪み」には何らかの異能が関わると思われます」と応じた。
異能と聞けば、リトに関わる可能性がある。サキは努めて冷静にカイに尋ねた。
「……異能が「時空の歪み」をもたらすのか?」
カイは相変わらず姿勢をくずさず、まっすぐにサキを見て答えた。
「その場合もありますが、「時空の歪み」が異能をもたらすこともあるでしょう。あるいは、「時空の歪み」は異能を喰うとも言えます」
「異能を喰う?」とサキが戸惑うと、「はい。異能者から異能の〈気〉を吸い取る恐れがあります。リトが調べたところによれば、ルナ神話には時空を歪める物語がいくつか含まれ、それらにいま申し上げたような事例があるとのことです」とリトを見た。隣でリトが頷いている。
サキは考え込んだ。リトのケースは、「時空の歪み」が異能を呼び覚ましたケースだろう。だが、その歪みは異能もろともリトを喰う恐れもあったということか。
「わかった。あの地下室は立ち入り禁止にしておこう」
カイがサキに言った。
「さらにお伝えすべきことがあります」
「なんだ?」
「わたしたちが図書館の地下で異変にあったとき、時間が戻りました」
「どういうことだ?」
「図書館から外に出ると明け方でした。一晩、図書館にいたのかと思ったのですが、違ったのです。リトと二人でグルグルとこの学内をめぐりましたが、何ら異状はなく、ただ時間だけが半日逆戻りしていました。図書館に来たときのことが繰り返されたのです」
「時間の逆戻り。……そんなことがあるのか?」
「わたしの予想ですが、おそらく、ひとよりも、この場所、この図書館自体がなんらかの意味をもつのではないでしょうか?」
「図書館が?」
「はい。この図書館の地下室もまた〈閉ざされた園〉への入り口の一つなのかもしれません」
「なるほど……」
「リトはいま、マイさんの資料を使ってルナ神話に関する時空物語を調べており、思念交換を使ってわたしにいろいろと教えてくれています」
リトはカイの横で頷いていた。カイに頼りにされてうれしそうだ。おいおい、おまえの命に関わるんだぞ。そんなにノーテンキでいいのか? ……だが、しかたあるまい。リトは何も知らないのだから。
「ありがとう。わたしのほうでも調べてみる。ばあちゃんが言ったように、雲龍の山にも〈閉ざされた園〉への入り口があるようだからな」とのサキの言葉に、カイは「お願いいたします」と頷いた。
横からおそるおそるリトが口を出した。
「サキ姉、オレの見立てを言ってもいい?」
「なんだ?」とリトを見ると、リトは思案の表情でサキとカイを見回した。
「〈閉ざされた園〉への入り口って不規則に開くんだろ?」
「そうらしいな」
「でも、それはこっちの世界から見た言い方であって、向こうから見たら、こっちの世界への窓がいろいろ開いているだけであってさ。たまたまその窓が重なったら山で海が見えちゃったりして、オレたちビックリってことなんじゃないかな?」
サキもカイも驚いた。だが、リトの発想には一理ある。
「とすれば、「時空の歪み」は、こちらの世界の者が意図せずして異世界に迷い込むか、異世界を見てしまったときに生じた現象だと?」と、カイがリトに訊ねた。
「うん。……そうかなって」
「とすると、やはり、人と場所の両面で考える必要があるだろうな……」
「わたしもそう思います」
「人と場所か……」
サキは眉根を寄せてしばらく考えていたが、こう言った。
「おい、リト。カウンターの手前に図書館の古い図面がある。ここにもってきてくれ」
「うん、わかった」
リトが離れるのを見てから、すばやくサキはカイの手を握った。
(すまんな。思念交換させてくれ。リトに聴かれたくないもんでな)
(はい)
(リトのことで至急の相談がある。今夜九時に小屋にきてくれないか?)
(わかりました)
(頼む。くれぐれも誰にも気づかれるな。カムイにもだ。小屋にはばあちゃんが結界を張っている)
リトが戻ってきた。手に何枚かの図面を持っている。
「サキ姉、これのこと?」




