Ⅱー3 初めての相棒――子イヌのモモ
■奇妙な隣人
風子はリトと並んで歩いていた。
石畳の舗道を少し歩くと、色とりどりの花が咲き乱れた前庭に面して、煉瓦造りの小さな建物が見えてきた。このカレッジが建てられたのは五百年も前という。寄進したシャンラ女王の名にちなみ、レイア・カレッジと名付けられた。
門の向こうには明るい中庭が広がる。思ったより奥が広く、ロの字型に建物が配置されている。ここは、女子専用のカレッジで、いまは女子留学生用の寮になっている。もちろん男子禁制。明日も会う約束をして、リトは去っていった。
平日の昼前。寮のなかにはほとんど人がいない。
寮長と名乗った上級生ロジーナから、寮の規則について説明を受けたばかりだ。長々しい説明がやっと終わり、そのまま吹き抜けのロビーに置かれたソファに座って待っていると、ロビーの回り階段から一人の少女が降りてきた。紺色のジャージ姿。何度も洗濯を重ねているのか、かなりくたびれている。
その少女は、くっきりした目鼻立ち。インド系とモンゴロイド系の血が入り交じっているような顔立ちだ。輝くばかりの美貌を太縁の四角いメガネの奥に隠し、まったく興味なさそうに風子をちらりと見た。
そのとき、寮長が戻ってきた。
「こちらが都築風子さん」
「よろしくお願いします!」
風子はぴょこんと頭を下げた。
「こちらはアイリ・トゥルガさん。さ、お部屋に案内して。これが鍵よ」
アイリはろくに挨拶もせず、さっさと背を向けた。ついてこいというのだろう。つっけんどんな態度だが、悪意は感じられない。しかし、好意のかけらもない。
アイリの後について部屋に向かった。途中で通り抜けた自習室では、数人の少女が机にかじりついて勉強していた。そういえば、寮長が言っていた。
「このアカデメイアでは、留年はめずらしくないの。だからみんな必死で勉強するのよ。改善の余地なしとされたら、自主退学するか、併設のみじめな落ちこぼれ校に転学させられるか、だからね」
階段を先に歩くアイリの背中に流れる髪はすこし縮れていて黒く豊か。だが、これまた色あせた紐で無造作に結ばれている。
三階の一番奥の部屋の前でアイリが立ち止まった。
「ここ」
象牙色の細い指が開かれ、薄い掌に鍵がのる。風子は、鍵をつまみあげながら、お辞儀した。
左手中指にはめられた指輪は、アイリの細い指には不釣り合いなほど大きかった。
手の込んだ装飾がほどこされているわけではない。薄っぺらな細長い金属片で、鈍い金色の光を放っていた。上部に小さなガラス玉が二個ついていて、それがキラキラと輝くさまが唯一「キレイ」と言えるしろものだった。
アイリの妙な存在感に気圧されている風子の目の前で、アイリはさっさと隣室に消えた。
――うわお! ……隣の人?
部屋のベッドのうえで、風子はそっとリュックを開いた。子イヌが顔を出す。ずいぶん元気そうになっている。
なぜか、足のケガはもう治っているようだった。
両手で抱え込むように抱き上げた小さな子イヌをベッドの上に寝かせてやる。途中のコンビニで買い求めた豆乳を皿に入れて差し出すと、おいしそうに舐めた。
まだ足は立たないようだ。子イヌの耳は折れていて、シッポも短いのがちょろっと垂れている。毛は短いが、ふわふわして柔らかい。
おなかにはまだほとんど毛がなく、ポンポコリンだ。鼻面は黒い。
子イヌは、ベッドカバーの上に広げられたタオルに這いつくばった。部屋付きのサニタリールームにある洗面台でぬるま湯をつくり、手持ちのタオルをひたした。動けないままの子イヌ。さっきの女性が拭いてくれたのだろう。もとは泥まみれだったが、体にもう泥は付いていない。
――クーン。
手のひらで撫でると、子イヌは気持ちよさそうに少し伸びをした。そして、風子を見上げ、ペロリと風子の指を舐めてそのまま寝入った。
改めて見回す。部屋の中は上々。子イヌが眠るやや固めのベッドは清潔で、明るいクリーム色のベッドカバーがかけられている。机はオーク材の年代物。もう何人もがこの部屋で過ごしてきたのだろう。歴代の生徒が使った分厚い教科書が何冊か積み重ねられている。
部屋を見回しながら、なぜか涙が出てくる。
わずかによみがえった記憶のなかにいるのは大ばあちゃんとイチさん。思い出せない「お母さん」。みんなもういない。
――だれが、わたしをここに連れてきたんだろう?
わからない。けれども、ほかのことはもっとわからない。
ならば、ここでやっていくしかない。リュックサックとは別に送っていたらしい段ボール箱の荷物はすでに部屋に運び込まれていた。だが、送り許の住所すら、まったく見覚えがない。
窓から、銀色の満月が見える。曾祖母の姿がぼんやりと重なる。
(大ばあちゃん。……ごめんね。ぜったいに探し出すから、待っててね!)
■迷い出た子イヌ
時計を見なくてもわかる。すっきりした目覚めは、いつもと同じ六時に起きた証拠だ。
アイリは、手早く支度をして、朝のジョギングに出かけた。週末だけの楽しみだ。
洗濯や掃除をすませたときには、日は高くのぼっていた。寮には昼食はない。学食は開いているが、昼食、夕食と続けるのはつらい。財布はほとんどからっぽだ。
アイリはなけなしの小銭をもって出かけた。キャンパス近くのパン屋は人気店でおいしいらしいが、高い。店を横目で見ながら通り過ぎ、特売専門のスーパーに入った。いかにも品のないプラスチックの安物のカゴに、いちばん安いパンと、期限切れ寸前で格安になった牛乳とヨーグルトを放り込む。カゴ盛りのリンゴの前で思案すること五分。これなら一週間はもつ。
いつものように、ジャージー姿でひっつめ髪。ワンコインショップで買ったダテめがねをかけているのも変わらない。
スーパーのビニール袋をブラブラさせながら、寮にもどった。
週末はほとんどみな出かけている。この寮の女子生徒がデートに行っているとは思えない。留年しないように、きっと図書館で必死になって勉強しているのだろう。となりも留守のようだ。さっそく図書館へ行ったのか?
ガチャ。
ドアをあけると、その音に驚いたのか、隣の部屋の前でなにかがうずくまった。
小さな茶色い丸っこいもの。ぎょっとして目をこらすと、その丸っこいものが少し変形して、ふわふわした毛並みがゆれた。
腰をかがめてさらに見ると、垂れ耳の丸い顔があらわれた。鼻の頭だけが黒い。
三頭身の子イヌは、アイリが手に持つ袋に懸命に首をのばした。帰り道で口をあけた牛乳が臭っているのだろう。
「これ?」
牛乳を取り出すと、ぴょんぴょんと跳ねた。
ガタッ。
背後の階段で音がする。
――わっ、寮の管理人だ。
廊下の掃除に来たのだろう。見つかるとヤバイ。アイリは子イヌをつかんで、自室に引き入れた。
子イヌはペチャペチャとミルクを舐めている。
だが、待てよ。牛乳は消化に悪いはず――アイリは小さな冷蔵庫を開けた。この前、破格の値段で買った売れ残りの山羊乳がある。山羊乳を与え、頭をなでると、クーンと鼻をならして、子イヌがアイリの方をみた。
「おなかすいてたのか?」
やがて、アイリのベッドの上で、子イヌは昼寝をしはじめた。
アイリは首をかしげた。
「隣のヤツ、このイヌを飼ってるのか? えらく大胆な……」
アイリの手の甲で、キラキラ光る小さな虫が動いていた。
「隠しペットか。まあ、こいつもそうかも」
アイリは金色の虫の背を軽くなでた。やがて、金色の虫は、子イヌのそばにいき、その背に這い登った。くすぐったいのか、子イヌがぶるっと身震いすると、虫はひっくり返って、頭から床に落ちた。
やがて、その虫は、アイリの左手中指まで登ってくると、指輪の柄にピッタリとくっついた。ヒゲと足がおりたたまれ、羽が閉ざされ、両目はガラス玉のように動かなくなった。アイリはその左手を子イヌの背にかけ、毛並みをなではじめた。
■金色ゴキブリ――金ゴキ
自室を開けた風子は首をかしげた。モモがとびついてこない。いつもならすぐにとびついてきて、さんざん足にじゃれ回るのに。
「モモ!」
ベッドの布団をめくったがいない。
「ほら、大好きなミルクだよ」
ベッドの下をのぞきこんでも見当たらない。
「隠れてないで、出ておいで」
シャワールームにもいない。
風子の顔が蒼白になっていく。――そんな……まさか、モモがいなくなった?
風子は部屋の外に飛び出した。廊下を、階段を、共用ルームをくまなく見て回る。
「どうしたの? さがしもの?」
そう聞かれても答えられるはずがない。ペット飼育は厳禁だ。
建物の外にも出かけてみた。さんざん探し回り、気がつくと夜中。十時の門限に遅れる。やむなく戻ってきた風子は、部屋に入るなり、ベッドに突っ伏した。
「わーん、わーん。モモおおおお!」
さんざん泣いて涙も涸れたころ、ドアがノックされた。
「ダレ?」
「となりの者」
涙でグチャグチャの顔を拭く気もせず、風子はドアをあけた。そのとたん、毛の固まりが風子の胸に飛び込んだ。
「うわっ、モモ!」
「キャワーン」
「シッ! 見つかってもいいのか?」
アイリの声に、風子はあわてて、アイリごと部屋に引き込んだ。
床にぺったんと座ったまま、風子が涙目で子イヌを抱きしめている。その様子をアイリが所在なげに見ている。
「ソイツ、モモっていう名?」
「ウン」
風子はやっと我にかえって、アイリを見た。そうだ。まず礼を言うべきはアイリに対してだ。
「ありがとう! この子をあずかってくれてたの?」
「べつに……あずかったわけじゃない。次から気をつけるべきだな。ソイツ、ドアの外に出ていた」
「そうだったんだ。……ドアの閉め方が悪かったのかな。でも、ホントにありがとう」
「じゃな」
ドアに向かうアイリを風子は引き留めた。
「ちょっと待って。日本から送ってきたお菓子があるんだけど、いっしょに食べない?」
「お菓子たって……もう、夜中だけど」
「うん。夜食」
アイリのとまどいなどおかまいなしに、風子は菓子類を広げはじめた。
横を向いたアイリの耳に、ふと気がついた。
ピアスはない。ピアスをつける穴もあいていない。
「あれ……耳?」
「耳?」
アイリが眉をひそめて自分の耳に触った。風子が覗き込むように、驚いた声を出す。
「通訳ピアスがない!」
「あたりまえだろ。そんなもの必要ない」
アイリは横目で風子を見た。
「あんただってつけてないじゃん」
「わたしのはモモがめちゃくちゃに壊しちゃって。……ピアス型じゃない安物だし。でも、だとしたら、わたしたち日本語で話してるってこと?」
「あんた、日本語以外できる?」
「ううん。じゃ、じゃ、あなたは日本語ができるんだ!」
「まあね」
「すごい! すごい! よかったあああ。言葉が通じる!」
「そんなにはしゃぐこと?」
アイリはぶっきらぼうにそう言ってそっぽを向いた。でも、風子はうれしくてしかたがない。あの耳障りな機械音じゃなく、自分の声で会話できるなんて。
「でも、あの機械はすごいよねえ。だれとでも会話できるなんて、感激しちゃった。明日、ピアス型のを買いにいくつもり」
アイリは答えない。
「えっと……」
会話の糸口をつくろうと風子なりに考えた。
「イヌ……好き?」
唐突な問いにも答えはない。だが、アイリはモモが指にじゃれつくのを楽しんでいる。たずねる必要などなかった。決まりが悪くなった風子は立ち上がった。
「紅茶、もう一杯淹れてくるね」
風子は、部屋の片隅にあるミニキッチンの前に立った。
――カシャ、グシャ、キャワン。
後ろで音がした。
「なに?」
風子が思わず振り返ると、アイリがモモの上に覆い被さっていた。
「どうしたの?」
「来るな!」
アイリの剣幕に、風子は縮み上がった。しばらくして、風子は足元に妙な気配を感じた。
「うわああああ!」
――ゴキブリだ。ゴキブリがいる!
風子の足の上を這い上がろうとしている。風子は足を払い、ゴキブリを払い落とした。仰向けになったゴキブリが足をバタバタさせている。
風子は傍らにあった箒の柄を振り上げた。かつてイチがしていたように。
「やめろ!」
アイリが飛び込んできた。風子が振り下ろした箒の柄は、アイリの右肩にあたった。
「あ……え……そんな?」
アイリが肩をおさえて顔をゆがめている。風子は箒を放り投げて、アイリを抱き起こそうとした。モモが近づいてきて、アイリの手元に鼻をよせる。アイリの手には、仰向けのゴキブリが握られていた。
「ごめん……」
風子は泣きそうな顔でアイリにあやまった。アイリは何も言わずに立ち上がった。
「肩、大丈夫?」
答えはない。アイリはゴキブリをつかんだまま、風子の部屋のドアノブを握った。
カシャーン。
なにかが落ちた。モモが走っていく。風子も続いた。
アイリが顔をしかめて、右肩を押さえている。足元には例のゴキブリ。モモがじゃれつくとアイリが言った。
「イヌをどけて!」
「あ……?」
「モモをどけろ!」
アイリの怒声に風子はあわててモモをかかえ込み、じっとゴキブリを見た。ゴキブリはしばらく仰向けになって足をバタバタさせていたが、ひょいと起き直り、部屋の奥の方へスタスタと歩いて行った。その背は金色に輝いている。
――きれい……。
見とれていると、ゴキブリがベッドの下に入った。
――うわっ!
田舎育ちだから、ゴキブリごときには慣れている。だが、ゴキブリの生態も害も身にしみて知っている。一匹を見逃せば、すぐに何十匹と増える。
「モモを放すな!」
そう言って、アイリはベッドの下をのぞき込んだ。知らない言葉をしゃべっている。
ゴキブリがゴソゴソと姿を現した。そのまま、ゴキブリはアイリの左手に這い上り、指輪に収まった。赤い小さなガラス珠がついた大きめの飾り指輪。鈍い金色が美しい。
――うそお。あれはゴキブリだったの?
マジマジと指輪をのぞき込もうとする風子。アイリは指を隠した。
「あ……ごめん。きれいだから思わず見とれちゃって……」
「きれい?」
今度はアイリがマジマジと風子を見た。穴のあくほど見つめて、風子が決まり悪くなったころ、アイリが言った。
「このゴキブリのことをだれかにしゃべったら、あたしもイヌのことをばらすからね」
「う……うん」
風子は大きく頷いた。
アイリはゴキブリが収まった左手で右肩を押さえつつ、お詫びにと風子が差し出した菓子の袋をむぞうさに右手で受け取ってふたたびドアノブに手をかけた。そして、突然振り向いた。
「通訳ピアスなんか買わないほうがいい。コード付きの安物で間に合わせて、言葉を覚えたら棄てちゃいな」
アイリは風子の耳元に口を寄せて、さらにこう付け加えた。
「あれはコンピューターにつながってるってことを忘れちゃいけない」
■モモ
きょうも天気がいい。
ゆっくり寝ていようと思ったが、モモが顔を舐めて、起こそうとする。ミルクをねだっているのだ。
ドアのそばで何かがキラリと光った。
首をかしげながら近寄ると、小さな細い金属片。奇妙にゆがんでいる。上にしたり、下にしたりしてながめていたが、わからない。ゴミ箱に棄てようとして、ハタと思いついた。もう一度拾い上げてよく見ると、昆虫の足に似ている。
――あのゴキブリの足だ!
アイリはあのゴキブリをモモからも守ろうとした。何か大切なものなのだろう。
モモが夢中でミルクを舐めている隙に、風子はそっとドアを開け、隣の部屋をノックした。返事はない。
――いないのかな……?
念のため、もう一度ノックした。
「となりの風子だけど、いないの?」
やはり返事はない。引き返そうとすると、室内から苦しそうな声が聞こえた。
「あんただけ……?」
「うん」
ガチャ。
ドアが開いた。とたんにアイリが風子の胸にくずおれる。
「わっ! どうしたの?」
アイリは意識を失いかけていた。まともに声が出ない。
火事場の馬鹿力とはこれを言うのだろう。風子は、自分より大柄なアイリをひきずってベッドに運び込んだ。
「ふうっつ……」
額に手をあてると熱がある。
「ワオッ、たいへんだ!」
風子はバタバタとタオルを探し、冷たい氷水に浸してきつく絞り上げ、アイリの額に乗せた。
アイリがうっすらと目を開けた。
「大丈夫?」
風子がのぞき込むと、アイリが咳き込みながら言った。
「そっちこそ大丈夫……? イヌ……放っておいて」
「アッ!」
風子は飛び上がった。
「どうしよう! どうしよう! モモを放っておけないし、アイリも放っておけないし。うわっ! どうしよう!」
「……連れてきたら……いい」
あえぎながらアイリが言う。
「ホント? ホントにいいの?」
アイリはかすかに頷いた。そして、額を抑えた。
「あんたのリアクション、いちいち大げさすぎる……」
「ごめん!」と、いいざま、風子は隣の部屋に戻り、タオルにくるんでモモを連れてきた。
寝ているアイリの顔先で、タオルから鼻先を出したモモがキャンと啼く。腕を出したアイリに抱かせてやると、モモはうれしそうに尾をふり、アイリの頬にも血色が戻ってきた。
やがて、アイリはモモをベッドにいれて、一緒にスースーと寝入ってしまった。アイリの顔色は次第によくなってきたようだ。モモはアイリの腕枕のなかで、さも気持ちよさそうに寝返りをうっている。
風子は、寝室を出てリビングのほうに移った。
アイリの部屋は、風子の部屋とは違って、寝室とリビングが分かれた間取りになっている。部屋も広く、キッチンもやや大きい。
風子は、改めて部屋を見回す。おそろしく殺風景な部屋だった。だが、きちんと整理整頓され、塵一つ落ちていない。ただ妙に違和感があったのは、ゴミ箱だ。ゴミ箱には、昨夜アイリにわたした菓子の袋が積み上げられていた。
(まさか……? あれ全部食べちゃったの?)
棚は一つのみ。本で埋まっていた。
棚の上には木彫りの兎。赤い眼をしている。およそ女の子らしいものが何もないアイリの部屋で唯一「かわいい」といえるものだった。
風子は兎を手に取った。手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさで、木の温かさが肌に伝わる。姿は素朴だが、味わいに満ちている。つくられてからずいぶん時がたっているのか、かなり黒ずんでいた。几帳面そうなアイリにしてはめずらしく手入れをしていないようだ。
さらに本棚をのぞいてみて、風子は驚いた。風子にはまったく理解できない数式ばかりの本や天文学、機械の図面とかコンピューター関係ばかり。完全に理系だ。
なかに数冊例外的に風子でもわかる本があった。シン・キサラギの絵本。風子は絵本を取り出してそれに見入った。
本を何度か読み返した頃、モモが近寄ってきた。風子がベッドのそばに戻ると、アイリがうっすら目を開けた。
「大丈夫? 管理人さんのところで薬をもらってこようか?」
「いらない!」
かなり強い声に、今度は風子がびっくりした。びっくりした拍子に妙な音がした。
――キュルルルルル……。
腹の虫だ。風子の虫か、アイリの虫か。
「おなかすいたね……」
風子が時計を見ると、もう正午を回っていた。
「おかゆにしようか? きのう買ってきたライスパックがあるから」
「おかゆ?」
「きのう食べ過ぎたんでしょ? おなかにやさしいもののほうがいい。おなべ借りるね」
アイリの承諾も得ず、風子はそそくさと準備にかかった。やがて、あつあつのお椀がお盆に並んだ。アイリのベッドそばの棚に置く。
白いメシがふやけている。アイリは半信半疑で口に運んだ。
――熱っ!
「よくさまさなきゃ。ほら、ふうふう」
風子のマネをしてくちもとで少し冷ましてから口にいれた「粥」はほんのり塩味で、米の甘い味がひきたつ。上には黒い紙のようなものがちらしてあり、その下には赤いもの。
「海苔だよ。海藻を干したもの。こっちは……まあ、食べてみて」
ぱりぱりとした食感の海苔は、味がないようで、ある。粥にはよく合う。濃い紅色の実のようなものを半分に割って粥とともに口に入れたとたん、アイリの顔がゆがんだ。
酸っぱい。思いっきり酸っぱい。
だが、口のなかがすっきりする。ゴクンと飲み込んでから、アイリはたずねた。
「いったい何だ、これ?」
「梅干し。日本の伝統食だよ」
アイリは半分のかけらをじっと見た。種が見える。
「種のまわりがいちばんおいしい」
風子の解説に、アイリは、今度は梅干しだけを口に入れた。ふたたび顔がゆがむ。
カシャン。
音がしたほうを見ると、少しあいたドアの隙間から茶色のシッポが揺れている。
「ウワッ! やめろお!」
アイリが布団をはねのけ、シッポをつかもうと駆け寄った。その拍子にドアが完全に開いた。モモはアイリの手をすり抜けて、部屋の奥へと走っていく。
風子は目を丸くした。もう一部屋あったとは。しかも、パソコンが五台ほどずらり。すべて動いているのか、なにやら記号や数字が現れては消えていく。
「つかまえろ!」
アイリの大声に風子は飛び上がった。二人は必死でモモを追い回した。モモは遊んでくれていると思ったのか、大喜びで走り回る。なかなか賢い。ふたりの間を巧みに駆け抜ける。
ゼイゼイ。
やっとの思いでモモをつかんだアイリは、モモを風子に投げてよこし、部屋のドアを閉めた。
……ポカーン。
風子にはわけがわからない。
「いま見たことはぜんぶ忘れろ」
アイリの目はこわいほど真剣だった。風子は思わず頷いた。
食卓に戻っても、アイリは口を結んだままだ。なにかをじっと考えている。
「あ、そうだ!」
沈黙をやぶったのは風子だった。風子はゴキブリの足を差し出した。アイリはそれをじっと見て、それから風子を見た。風子がニッと笑うと、アイリはプイッとそれを受け取り、机の引き出しにしまった。
ふたたび沈黙……。
「あの部屋のこともあのゴキブリのこともだれにも言わないから安心して」
風子がおずおずと切り出した。
「イヌのことバラされたくないんなら、当然だろ?」
「ううん。あなたはぜったいにモモのことバラしたりしない。だから、わたしもあなたが隠したいことをだれにも言ったりしない」
アイリの目がかすかに泳いだ。
「もう帰るね。……ごめん、邪魔しちゃって」
アイリは何も言わない。風子が立ち上がると、モモがシッポをふってついてきた。
「……そのイヌ、もうちょっとここに置いていて。……ついでにあんたもいていい」
風子の顔がうれしそうにふくらんだ。
「ホント? じゃ、もうちょっといるね! はい、モモ」
モモを差し出すと、アイリはいとしそうにモモを抱き上げ、膝の上においた。モモはなされるがまま。安心した風子は、とたんにタメ口になった。
「ねえ。あれって、金ゴキの足?」
「金ゴキ?」
「金色ゴキブリ。その指輪のなかにいるヤツ」
「ああ……金ゴキねえ」
「もう一回見たいな。金ゴキ」
「なぜ?」
「かわいかったもん」
「かわいい?」
「うん。目が赤くて、羽は金色で……ひっくりかえったら足をバタバタさせて、けなげにもとにもどろうと一生懸命。すごくかわいいじゃん!」
アイリはしばらく考えていたが、指輪に右手をかざした。とたんに金ゴキブリが飛んであらわれた。モモがニュッと顔を上げ、うれしそうに金ゴキを追いかける。
「あっ、ダメだよ。モモ!」
風子が止めようとするのをアイリが制した。
「大丈夫。モモは金ゴキの友だち気分。金ゴキを舐めても、壊したりはしない」
よくよく見ると、モモと金ゴキは楽しそうにじゃれあっている。金ゴキの足が一本かけているので、歩き方がヒョコヒョコしているのが、なんとも言えずかわいい。
「ところで、おまえ、その本が好きなのか?」
アイリもすでにタメ口だ。
「ああ、これ? 大好き。でもホントは他の本がさっぱりわからないだけ」
「わかる本があってもその本を手に取ったか?」
「もちろん! 子どものときからのわたしのバイブル。シン・キサラギの絵本はぜんぶ読んだけど、この絵本三冊はとくべつな絵本だよね。たしか世界でわずかしかないシン・キサラギの限定印刷本じゃない?」
アイリは目を瞠った。
「なんでそれを知ってる?」
「大ばあちゃんから聞いたことがある。でも、見たのははじめて。すごくきれいな色だね。普通の印刷とは比べものにならない」
アイリは遠くを思い浮かべるように言った。
「あたしにこれをくれた人はいまどこにいるのかわからない……」
「どっか行ったの?」
「さあ。本人が望んだのか、それとも、本人の意思に反して連れて行かれたのか。……本当のところはわからない」
風子は口をつぐんだ。アイリには重い秘密があるのかもしれない。
「わからないことはわたしにもいっぱい。……だって、記憶がほとんどないんだもん」
アイリが驚いて風子を見た。
「母親は死んだらしいし、父親がだれかも知らない。……わたしがどうしてここにいるのかすらわからない……」
風子の目が涙で曇っていく。やがて、大声で泣き始めた。アイリは何も言わずに、それを見守っていた。風子の心が解放されていく。
(そうか。わたし、泣きたかったんだ。だれにも遠慮せずに、ただただ泣きたかったんだ……)