ⅩⅣー3 〈閉ざされた園〉の光景
■ばあちゃんの憂鬱
帰還してから、ばあちゃんの様子がどうもおかしい。サキ姉も気づいたようだ。ある土曜日の午後、サキ姉とオレは、風子とルルと一緒に帰還時の様子を聞くことにした。
ばあちゃんは重い口を開いた。
ばあちゃんには、リトたちの母親のほかに、実はもう一人息子がいる。「閉ざされた園」で、ばあちゃんはその息子らしき動物をみかけたらしい。それは黒狐で、「園の管理者」を務めており、異能が封じられる園であるにもかかわらず、五尾をもっていた。ただ、話しかけてもまったく無反応で、ばあちゃんのことを完全に忘れていたという。今回戻ってくるときもなんとか息子をともに連れ戻そうとしたが、黒狐は断固として拒否した。息子が十歳の時、雲龍連山で失踪してから四十年近く。探し続けた息子をようやく見つけたにもかかわらず、息子はもはや息子ではなくなっていた。
ルルが素っ頓狂な声を出した。
「もしかして、あの黒狐? ばあちゃんとスラさんの後ろにいた狐だよ。大きくて堂々としてたから、目に留まったんだ」
ばあちゃんは黙ったまま頷いた。サキ姉が黙り込んだ。叔父の「不幸」は聞いたことがある。だから、雲龍連山には迷い込むなと何度も釘を刺された。
「あの園にいた動物はみんな人間だよ。ルルの鏡からすごく低い音が流れたとき、一瞬、全員が人間の顔に変わったもん」と風子が言った。ばあちゃんが驚いた。
「全員だと?」
「そうだよ」とルルもうなづいた。ばあちゃんの顔が思案に変わった。しばらく迷っていたようであるが、ばあちゃんはリトにこう言った。
「マロさんを呼んできてくれ。……いや、わしが櫻館にいく。みんなで考えた方がよかろう」
こうして、櫻館の広間に全員が集められた。ルルの横でキキも寝そべった。ばあちゃんは〈閉ざされた園〉での経験を話し始めた。時々、スラが話を補った。
■〈園〉の光景
わしらが〈園〉に入ったのが満月、戻ってきたのも満月。こちらの暦では、およそ二カ月の間、わしらは〈園〉にいたことになる。
じゃが、その間、〈園〉の月に満ち欠けはなかった。〈園〉はずっと明るい。じゃが、太陽のようなまぶしい明るさではのうて、静かな穏やかな明るさじゃ。天には丸い月――銀色の月じゃったが、こちらの世界の月の二倍近くはあった。この月は、二度ほどわずかに暗くなったことがある。どうやら、〈園〉が開き、外の世界の者が〈園〉に入ってきたときのようじゃ。じゃが、それは夜というのではない。空が薄く暗くなるだけじゃ。じゃから、動物たちは、ずっと活動を続けておる。
〈園〉の動物たちは、ほとんどずっと歩いておるのじゃ。意味もなく、目的もない。わしらも歩き続けた。ときどき、あちこちにある泉でのどの渇きをうるおすが、腹が減るわけではない。木に実っている実はどれを食べてもよいらしかったが、〈園〉での記憶をなくす効果をもつようでの。わしらは最初の一粒以外は口にせんかった。疲れはまったく感じない。出会った動物たちはみな親切で、互いに道を譲り合い、ケンカや争いはいっさいない。〈園〉はまことに美しく、よい香りに満ち、光も風も音もすべてが心地よい。
わしらは、〈森の案内者〉と名乗る白い鹿に付き添われて、大きな木の下を目指して歩いて行った。そこにいたのが黒い狐じゃ。その者は〈森の管理者〉と呼ばれておった。わしらを歓迎すると言うて、大きな皿の上に、木の実がどっさり置かれていた。「なぜ来たか、どこから来たか、何者か」はいっさい問われなかった。ただ、河の向こうに行くことはできないこと、来たところに戻ることはできないことが伝えられた。そして、園では、老いることなく、飢えることなく、争うことなく、心穏やかに過ごすことができるゆえ、安心して過ごすようにと言われた。わしはいくつか質問した。答えてはくれたが、〈園〉で暮らすうちに、そのような疑問もすべて解消するから安心しろと言われた。
わしは、その者が五つの尾を持っていることを不思議に思った。〈園〉は異能を封じるようでの。わしの九尾も封じられた。じゃが、その黒狐は五尾をもち、他の動物とは明らかに違う力を持っているようであった。その黒狐だけが河を渡れるのじゃ。その者は〈森〉の者であり、〈森の王〉の命で、〈園〉を管理していると言うておった。どうやら、〈園〉での暮らしぶりを見て、〈森〉に送るべき者とそうでない者を選別しておるようであった。
〈園〉は広いような、狭いような、不思議な空間じゃった。見た目はさほど広くないのに、歩いても歩いても境界がないんじゃ。河の水は冷たく、清らかで、魚もいたし、カエルなどもいた。さわって、水に入ることはできるが、数歩進むと、息が苦しくなって、岸に戻ってしまう。河の向こうは一面の森じゃったが、その森にどのような者がいたのかは、わからんままじゃ。
泉の水は甘かった。真水もあれば、炭酸やアルコールが含まれる水もあった。動物たちは思い思いに好きな水を飲んでおった。今から思えば、味覚と嗅覚は損なわれておらなかったが、視覚と聴覚と触覚はずいぶん損なわれたのかもしれん。
〈園〉に入った当初は、スラにかけた鏡からマロさんの音楽が聞こえておった。わしらからこっちのことは見えなかったし、声も聞こえなかったが、マロさんの音楽はわずかに聞こえておった。じゃが、それもいつのまにか聞こえなくなった。聞こえなかったというべきか、わしらがその音を聞けなくなったのか、どっちかはわからん。目も見えにくくなった。視界が狭まったようじゃの。それに、何に触れても、その感覚は乏しくなった。
ある時、突然、強烈な音が響いた。音が大きいという意味ではない。音が振動となって、わしらの身体を貫くんじゃ。〈園〉に入って以来、感じたことのない苦痛が体中を駆け巡った。寒い、ひもじい、疲れた。……〈園〉で感じなかったあらゆる負の感覚が一挙に押し寄せてきたような感じじゃ。ほんの一瞬じゃった。じゃが、その一瞬のうちに、わしは、黒狐の顔が変わったのを見た。わしの息子そっくりであった。わしは、必死で問うた。
――シンか?
黒狐は何も答えなかった。
やがて、向こうからイヌとネズミがやってくるのが見えた。動物たちが道を譲った。わしはほとんど記憶を失いかけておったが、スラが言ったんじゃ。
――あの子たちです!
視覚はぼんやりしておったが、再びモモの鏡から音が響くと、くっきりと見えた。風子とルルとモモじゃった。わしとスラは駆けていこうとした。そのとき、わしは、黒狐にも一緒に行こうと声をかけた。じゃが、黒狐は首を縦に振らなかった。
ここに戻ってきてからずっと考えておった。あの黒狐は、わしの息子のシンに違いないと。十歳の時に雲龍連山で行方不明になり、わしが四十年間探し続けたシンに違いない……。
■はざまの世界
みんなは、ばあちゃんの話を静かに聴いていた。カムイがグズッと鼻をすする。彪吾も目を赤くして、レオンの手を強く握った。愛する者の消息が分からず、死など到底受け入れられず、何十年も待ち続ける気持ちは痛いほどわかる。
レオンが口を開いた。
「お二人とも、この園の模型をご覧ください。鏡を通して見えた光景をもとに作ったものです。どこか修正すべきところはありますか?」
ばあちゃんとスラは、園の模型に目を落とした。河、木、泉、道、草原などすべてが非常に詳細に再現されていた。ばあちゃんが言った。
「ようできておる。ほぼこの通りじゃ。じゃが、黒狐がいた大木が見当たらん」
スラも付け加えた。
「黒狐に会った大木は、おそらく、園の中央部、このあたりです」
オロが驚いた。いまや、オロはルルであることを隠さず、オロ=ルルとしてふるまっている。
「ホント? でも、鏡を通してオレたちが見た園の光景には、そんな大木はなかったよ」
風子も言った。
「わたしたちが歩いていた時も大木はなくて、ほぼ一面に草原で、河の向こうと、園のずっと奥に森が広がってるって感じでした」
カイとレオンが顔を見合わせた。レオンが尋ねた。
「こちらの世界に戻ってくるとき、トラネコの招きに応じると景色が一変したと言っていましたね?」
「はい! 突然、森が現れて、その中でも一番大きな木によじ登ったんです」と風子が答えた。
レオンが慎重にゆっくりと話し始めた。
「あの〈園〉では時空がゆがむようです。記憶も失われます。中にいる動物たちはすべて人間としての記憶を失っていると思われます」
ばあちゃんが頷いた。
「時空がゆがむため、〈園〉への入り口は、あちこちで不規則に開くのでしょう。雲龍連山でもその入り口の一つが開いたのだろうと思われます。〈園〉の中でも時空がゆがむと思われるのですが、草原が突然森になったということを見ると、だれかが時空を操作したのかもしれません」
「……操作?」と、カイがつぶやいた。
「カトマールに古くから残るルナ神話の一つにこう伝わります。〈園〉と他の世界を自由に行き来できるのは〈森の王〉ただ一人と。そして、〈森の王〉は森も園も自在に操れるそうです。〈森の王〉が不在のとき、〈園〉は安定を失い、入り口が不規則に開きやすくなり、〈園〉の月が翳りやすくなると」
風子が怪訝そうな顔をした。
「でも、わたしたちを案内してくれたのは、いつもお城の部屋に遊びに来ていたトラネコくん……」
オロが言った。
「まさか、あのチビのトラネコが〈森の王〉かもしれないと言うのか?」
「可能性はありますね」とのカイの言葉に、風子がますます首をひねった。
「トラネコくんは、お城のノラネコで、お城のネズミ二匹を家来みたいに連れていて、わたしたちがお城にいる間、毎晩、お菓子を食べに来てたし、とってもかわいい子ネコだった……」
レオンがピクリと反応した。
「子ネコ……ですか?」
風子はハッとした。
「そうだ! あの通路を教えてくれたのもトラネコくんだ!」
レオンが尋ねた。
「通路とは?」
「古い方のお城から神殿につながる秘密の通路があるんです。トラネコくんがカギを持ってきてくれた」
キキは身体を起こして、一部始終を聞いていた。
(リョウが〈森の王〉なのか?)
「カギを?」と、カイが聞く。
「はい。だから、二人を助け出せたんです!」
カイもレオンも思案顔になった。レオンが言った。
「〈森の王〉は、少なくともお二人の閉じ込めには関わっていなさそうですね。それに、あなたたちに非常に好意的です」
レオンが続けた。
「〈森の王〉自身が、自分のことを自覚していない可能性もあります。神話によれば、〈森〉は〈聖なる森〉とされ、半人半獣の世界で、〈森の王〉は、緋色の目をもつ堂々たる大人の白虎であり、森の中では非常に美しい青年の姿をしていると伝わります」
「半人半獣……」
「トラネコは仮の姿でしょう。いったい何者なのか。……城のことを知っていて、カギを扱える立場にいる者。……そして、子ネコだったとすれば、〈森の王〉もまだ大人になっていないのかもしれません」
「まさか、シュウ?」とリトが言うと、オロはこれを否定した。
「違うと思う。儀式の時、シュウはずっと神殿の中にいた。それに、オレたちの計画のことにはまったく気づいていないはず」
――いったい誰?
「〈森の王〉が誰かも気になりますが、〈森の王〉は、今のところ、風子さんたちを害することはないと思われます。もっと重要なことは、あの〈園〉です。九孤家の者が囚われているのであれば、救い出す方法を考えるべきではないですか?」
レオンの言葉にみなが頷く中、ばあちゃんはじっと考え込んでいたが、やがてこう言った。
「わしにはわからんのじゃ。あの〈園〉は、動物たちにとっては楽園のようなものじゃ。現世で苦しんだ者たちが〈園〉では苦しみも飢えも老いもなく生きることができる。いったい、「生きる」とは何なのかのう。動物の姿でいること、何も考えないこと、ただ歩くだけの生活は、生きる意味がないのか?」
全員が沈黙した。
「シンは五尾をもったままじゃった。自分の意思であの〈園〉にとどまっているのではないかとわしは思う。とすれば、シンをこちらに呼び戻す必要はあるまいて」
「ばあちゃん……」とリトが呻いた。だから、ばあちゃんは悩んでいたのか。シンおじさんを向こうに行かせてしまった理由を考えあぐねていたのかもしれない。
「〈森の王〉はまだ己の力を自覚しておらんようじゃ。シンが異能を残しておるとすれば、それはいつか〈森の王〉に仕えるため。〈園〉への入り口が開き、外の世界の者が招き入れられ、シンが〈園の管理者〉を務めるのは、〈森の王〉を探す役目も負っておるからかもしれんのう」
「……」
「風子や。ちと聞くが、そのトラネコとやらは、〈園〉の端っこに姿を現してすぐに消えたのじゃな?」
「うん、そうだよ」
「〈森の王〉が一瞬でも姿を現したとなると、〈園〉には激震が走ったに相違あるまい。〈森〉の関係者が〈森の王〉を探してこちらの世界にやってくるかもしれん」
それは、シンおじさんかもしれない。……リトはそう直感した。ばあちゃんも同じことを考えているはず。
「〈森の王〉が探し出されて森に帰還することが、こちらの世界にとって吉か凶かわからぬということでしょうか?」とカイが尋ねた。
「そうじゃ。わしの見立てがまちがっておるかもしれんがの。じゃが、〈園〉は二つの世界のはざまで、二つの世界の直接的な衝突を避けるために設けられた緩衝帯と見ることもできよう。〈森〉に送るべき者を選別するための時空と言ってよいかもしれん。おそらくその目的は〈森の王〉を探すため」
――選別時空……。カイが胸の中でつぶやいた。禁書に書かれた内容と符合する。
■〈園〉の泉
ばあちゃんはため息をついた。
「もう一つ〈園〉で気づいたことがある。山葡萄じゃ」
「山葡萄?」
「うむ。雲龍の山でのみ採れた山葡萄と同じ形、同じ味をしておった」
リトが青くなりはじめた。
「わが雲龍九孤族では、古来、山葡萄を精製してある秘薬を作っておっての。酒精擬薬という。いまでは、その作り方も薬も残ってはおらん。じゃが、サキとリトには話したことがあるが、その最後の一本が雲龍の蔵から消えての。四十年前じゃ。その頃から雲龍の山葡萄も採れなくなった」
「まさか……?」と、サキがばあちゃんを見た。
「うむ……。シンではないかと思う」
「シンおじさんが最後の酒精擬薬を持ち出したの? でも、そのとき十歳だったんでしょ?」とリトは必死の形相だ。
――まさか、雲龍九孤族の者が、しかも、自分の叔父が、ファン・マイの事故死に関わっているというのか?
「そうじゃ。じゃが、子どもだからといって、異能が乏しいわけではない。むしろ、子どもゆえに、何かのきっかけで異能を暴走させてしまうことがある」
――異能の暴走……。それは、マロが恐れていることでもあった。
「でも、ばあちゃん。シンおじさんが〈園〉に酒精擬薬をもっていったとしても、どうやってこちらの世界でファン・マイに使うことができたんだ?」とサキが聞いた。
「〈園〉の泉のひとつから湧き出る水が酒精擬薬に似ておった。水じゃが、酒に酔ったように気分が良くなる。のう、スラ、どうであった?」
「はい。覚えております。とてもおいしい水でした。ほかの生き物たちもその水を好み、しばしば泉に集まっておりました」
「シンがもたらした酒精擬薬が〈園〉で一つの泉を生み出したのではなかろうかのう」
「では、その泉の水をだれかが外の世界に持ち出したということなのでしょうか?」とカイが尋ねた。
「そうではないかとわしは考えておる。シンが酒精擬薬を持ち出したのは、おそらくはそれをだれかに飲ませて一緒に〈園〉へ連れて行くため……どうやらそれは叶わなかったようじゃが」
「え……? シンおじさんは〈園〉への出入りができたってこと?」とリトが驚く。
「うむ。シンは何度か神隠しにあっておっての。そのうちに、〈園〉に自分で出入りできることに気づいたんではなかろうかの」
「じゃ、シンおじさんか、シンおじさんと同じような力を持った者が、泉の水を外に持ち出したかもしれないと?」と今度はサキが驚いた。
「そうじゃ」
「ですが、〈園〉のものを外の世界に持ち出すなど、とても許されることではないように思いますが……」と、めずらしくレオンがわずかに首をひねった。
「おそらくそうだろうの。じゃが、ラクダやある種のトカゲは、体内に水を貯めることができる。そのような力を異能として持つ者であれば、自分の身体を容器代わりにできるじゃろうて」
みなが絶句した。
「じゃが、たとえ〈園〉の泉の水を外部に持ち出したとしても、その量はしれておるだろうし、長期保存はかなうまい」
「では、だれかが複製をつくったと?」
「おそらくはな。じゃが、あの擬薬はきわめて作るのがむずかしい。たとえ複製がつくられたとしても、その性能は弱いであろうし、副作用が出るかもしれんのう」
「じゃ、ファン・マイに盛られたのは、そうした粗悪な複製品ということか!」とサキが激した。
「複製品があるとすれば、ほかにも利用される恐れがありますね。しかも、相当の技術を持っておらねば、雲龍九孤族の秘薬の複製をつくることなどできないでしょう」とカイが言った。
「何やら正体不明の組織があるかもしれんということだな」とサキが唸った。
みなが重く沈黙する中で、空気を読まない風子が言った。
「トラネコくんなら、何か知ってるかも!」
「そうか! 風子、そのトラネコを探しだせ。カイならソイツの記憶を読み取れるはずだ!」とリトが叫んだ。
「みなに聞いてもろうて、わしもすっきりしたわい。シンが望んで〈園〉に行き、〈園の管理者〉になったのであれば、わしにそれ以上言うことはないでの」
その日を境に、ばあちゃんは元気を取り戻した。ばあちゃんの毒舌とサキ姉の毒舌のダブルパンチにリトは青息吐息だが、元気のないばあちゃんより数倍いい。リトは嬉々として二人の毒舌と酷使に耐えるのであった。