Ⅱー2 火の谷の娘――アイリ
■ラウ伯爵
――あいつは嫌いだ。
十五歳の少女アイリは、たったいま出てきた立派な建物を背に足を速めた。建物の入り口の横には「志誠館」。アカデメイア学園法人本部が入る管理棟だ。その上層階には、法人幹部の部屋がある。アイリは、ついさっきまで、そこの副理事長室にいた。
「さすがはカトマールの誇る英才ですね。きみの研究はすばらしいに尽きます。後見人として非常に誇らしく思いますよ」
にこやかにそう切り出したアカデメイア副理事長のラウ伯爵は、あたしに座るよう促した。四十代半ばくらいか。つややかな黒髪で、端正な顔立ちにスキはない。豪華なランチの後、テーブルにセットされた紅茶を口にするときも優雅この上ない。
「今度の研究は、超小型の通信ロボットと聞いていますが、どんなものを考えているのですか?」
言葉の丁寧さと物腰の優雅さに騙されてはいけない。「まだ検討中です」とそっけなく答えて、あたしはズズッと紅茶をすすった。
この管理棟の最上階には、ラウ伯爵傘下のホテルグループが経営する超高級ホテルの会員制レストランが入っている。そこからデリバリーされた食事だ。
副理事長の顔は見たくもなかったが、高級ランチの誘惑には勝てない。やっぱりデザートまで優雅で上品で美味だった。もちろん遠慮する気はない。パクリとそれを食べた。
アカデメイア副理事長をつとめるラウ・ソジンは、ミン王国の王家につながる名門伯爵家の総帥。ラウ財団を率いる辣腕のビジネスマンとしても知られる。世界有数の資産家で、博識。経済学の博士号をもつと聞く。このアカデメイアの卒業生であり、各界に人的ネットワークを持つアカデメイア同窓会の会長も務める。
ミン王国は大陸から突き出た半島にある国だ。東方圏で最も経済発展がめざましい国の一つで、国民は豊かだ。ミン国の近代化と経済発展を推進した中心勢力が、ラウ伯爵家とラウ財団である。
ラウ伯爵家は、現当主の祖父母にあたる世代からミン王国で王家をもしのぐ大財閥にのし上がった。現当主の祖母は商才に優れ、ラウ財団を結成した。祖父は宰相を務め、政界に強い影響力を持った。
ミン国を襲った通貨危機の影響をほとんど受けなかったのは、ひとえに現当主であるラウ伯爵の炯眼による。祖父母の遺産を受け継いだラウ伯爵は、早々と、ラウ財団を多様な分野の企業を傘下に収める世界的な財閥企業へと成長させる戦略へと切り替えた。財団の拠点をアカデメイアに移し、グローバル企業に成長していたラウ財団は、あまたのミン国財閥の中で、ほぼ唯一、あの通貨危機を無傷で生き残った。
ラウ伯爵は、他の財閥や企業を吸収合併して事業を拡大した。しかし、そのとき、彼は驚くべき指示を出した。
――ミン国の人びとの雇用と仕事を可能な限り維持せよ。どれほど巨大な赤字をかかえてもかまわぬ。
この決断が、ミン国経済の再建を早めた。今でも、ラウ伯爵はミン国の人びとから敬愛されている。
ラウ伯爵は、今は財団の会長を務めるものの、財団傘下のすべての企業経営を部下に任せ、自分はアカデメイア副理事長として文化振興に意を注いでいる。数年後には、理事長としてアカデメイアに君臨すると目されている。それは事実上、アカデメイア自治国の政財界のトップになることを意味した。
凡庸な経営者とは異なり、ラウ伯爵は環境と文化の保護者を自認し、学術や芸術のパトロンとしても名を馳せる。
原発立地には反対して再生可能エネルギー開発に取り組み、戦争にはすぐに反対声明を出して和平のための資金援助を惜しまず、難民保護にも熱心だ。自然を守るためにも積極的に投資し、自然の一部を観光にあてて採算をとり、持続可能なサイクルを回している。「ビジネスと人権」の推進を実践し、ジェンダー平等や格差是正、LGBT権利保障、障害者雇用には非常に熱心で、スローガンだけでなく、傘下企業にこの方針を徹底させている。
一方、学術と芸術には金を出すが、口は出さない。大学教授会の自治を尊重し、学者の見識を見下さない。芸術的感性にも優れ、若手音楽家を抜擢するために毎年開催されるルナ音楽祭は、ラウ伯爵の寄付によって成り立っている。
来年は、四年に一度のルナ大祭典も開かれる。それもラウ伯爵の資金援助と人脈がなければ成立しないらしい。
アイリもそうしたラウ伯爵の評判は聞き及んでいる。
だが、ラウは慈善家ではない。利益を追求する部分と営利を度外視する部分とを使い分けている。アイリに対しては利益になると踏んでいるようだ。ラウはそれを隠しはしない。そして、アイリにも必ず相応の見返りを約束する。その意味で、ラウは小賢しい吝嗇家ではない。
政治的センスも抜群だ。アカデメイア自治国は教育・研究機関であるアカデメイア学園を核とする都市国家のような共和政的自治国家である。
古来、アカデメイアは、同じ蓬莱群島にある天月仙門とウル舎村の自治国から強い影響を受けてきた。ラウ伯爵は、それら二つの自治国との連携を強化しつつ、アカデメイアのいわば自立をはかっており、カトマール共和国やシャンラ王国、ミン国、日本などの周辺有力国ともさまざまな協力関係を取り結んでいる。
だが、アイリにとって、ラウの経済力と政治力は恨みの的以外の何物でもない。
■天才科学者アイリ
アイリ・トゥルガ――それがアイリの公式の氏名だ。だが、本名ではない。
アイリが生まれたカトマール南部の山岳地帯にある貧しい村の一族は、だれも個別の姓を持たない。アイリも姓を持たない。古語で〈火の谷〉を表す村の名――トゥルガ――を姓の代わりにする。
アイリの村が特別なのではない。もともと、ほとんどの社会に姓などはなかった。歴史的に見れば、権力の格差が生じ、有力者が血統を誇って姓を名乗るようになり、近代以降、国民統合の文脈ですべての国民に姓が定められたにすぎない。
姓を持たないことは、国家の管理を拒んだ歴史の産物であった。「トゥルガ」という語に込められた〈火の谷〉の苛酷な生活や人々の抵抗の意識など、合理的なラウが理解できるものではなかろう。おそらく、ラウ伯爵はアイリの村のことなど覚えているまい。彼にとっては数ある事業の一つにすぎない。恨むべきはカトマール政府なのだが、アイリはラウ伯爵のことも許していなかった。
――あたしが育ったカトマール共和国は、国際社会での信用が低い。
その昔、カトマール帝国は、広大な版図を擁し、古代ウル大帝国の後継国として高い文化と栄華を誇ったとか。カトマール帝国大学は、いまのアカデメイア大学のモデルだという。
けれど、三十年ほど前に帝国が滅び、帝国大学もつぶれた。軍部独裁政権は、皇帝一家と親皇帝派勢力を一斉処刑した。二十年間の人権抑圧と軍事偏重のために、国土は荒れ、人心はすさみ、経済力は地に落ちた。
あたしが子どものころ、軍事政権の政府軍と反政府軍があちこちで戦っていた。
ようやく十年前、軍事政権が倒され、現在の共和国政府が成立した。でも、それで終わりじゃなかった。ラウ伯爵が経済協力の名のもとに進めていた開発計画のあおりで、十年前にあたしの村は焼け落ちた。新政府は、村が古くから守ってきた神域たる〈火の山〉にレアメタル鉱脈があると考えたらしい。軍隊まで投入した。抵抗した何人もの村人が捕らえられ、可愛がっていたイヌが亡くなった。あたしも大けがを負った。
たしかにラウ伯爵が直接命令を下したわけじゃない。後で事情を知ったラウは激怒し、いったんカトマールから開発計画を完全に引き上げたほどだ。レアメタル鉱脈の話も根拠がないとされ、村人には手厚い補償がラウ財団から提供された。けれど、村は元通りにはならない。
かつての神域は、政府の影響が及ばないよう、ラウ財団が私有地とした。カトマール政府が手出しできなくなったのはいいけれど、本来は村のものだ。ラウ伯爵に恵んでもらう土地でもなければ、ラウ財団が管理すべき土地でもない。ラウ伯爵は、村長であるあたしのばあちゃんに、代わりの新しい村を提供すると言ったみたいだけれど、村のだれもが焼け野原の村を捨てなかった。代々の先祖が暮らし、なじんだ山と谷から離れるなど、あたしたちの歴史を消すようなものだ。
ラウ伯爵はにこやかな顔を崩さない。だが目は笑っていない。
「今度の研究も成功すると信じていますよ。いつも通り、きみには特許料の半分を保証します」
――半分もらっても、そのほとんどはカトマール政府にとられる。それを知らぬラウではない。あたしの手元に残るのは、わずか一割。それでもカトマールの物価水準からすれば、相当な財産になる。
十年前に「民主化」を掲げ、軍事政権を打倒した現大統領は「文化立国」を宣言した。
広い国土だ。資源はあるが、それを採掘し、利用するノウハウが乏しい。かつての栄光を求めて、政府は国威発揚に余念がない。
新政権は、有為の人物をアカデメイアに留学させて研究成果をあげさせ、特許料を国家収入に入れて外貨獲得の一手段としてきた。ゆくゆくはそれらの研究者をカトマール大学に復帰させ、かつての文化的栄光を取り戻そうとしている。
政権は多少安定してきたが、すでに十年もトップに居座る大統領は独裁傾向を強めつつある。いまさら貴族支配を肯定する者はいないが、改革路線をとっていた皇帝家を懐かしむ人たちは少なくない。
カトマール国費留学生は、家族への支援も受ける。支援と言えば聞こえはよいが、留学生が亡命したり、反政府的な動きをしたりしないよう、家族を人質として監視しているに等しい。
――あたしも同じだ。
ばあちゃんをはじめ、村のみんなは〈火の谷〉の村を捨てられない。だから、あたしもカトマールを捨てることはできない。
カトマール留学生のそうした事情をだれよりもよく知っているのが、副理事長ラウ伯爵のはず。留学生に便宜をはかり、特許収入の分配をカトマール政府と決めたのは、ほかならぬこの人物だ。彼がまだ一理事のころ。五年前のこととか。カトマール留学生の複雑な思いを承知で愛想を述べるラウの気がしれない。
副理事長室には、何人かの理事と博物館副館長マルゴもいた。だれもが副理事長にこびへつらっている。その姿があさましい。
ただひとり副理事長のかたわらにずっとよりそう美青年は、いっさい笑わない。あたしが初めてアカデメイアに来たおととしも見かけた。副理事長の右腕として働く筆頭秘書とのこと。彼専属の弁護士でもあるとか。
(ラウの狙いは、ロボットか?)
ポケットから取り出したやや大ぶりの指輪を左手の中指に入れ、あたしはその背をそっとなでた。
(あいつに知られちゃまずい。どう使われるかわかったものじゃない!)
■匂い
ラウ伯爵は、傍らに立つ美青年以外の者に退室を命じ、ゆっくりと窓際に向かった。
「いつもながら、あの子はなかなか手強いねえ」
ラウの眼下に広がる広い石畳では、少女が歩いて去って行くのが見える。
「監視カメラも盗聴器もすべて見破りますので、行動を把握しようがありません。与えた研究室でも、要となる情報はいっさい出しません」
青年は、低めの静かな声で答え、ラウにパソコン画面を示した。画像には、KI(気に入らない)と書かれた黄色いメッセージ。
「はっはっは。やるねえ。あの子が抵抗すればするほど、わたしの見立てが正しかったことが証明されるのだけどねえ」
ラウ伯爵はソファに座り直し、青年にも座るよう勧めた。
「一昨日、事故があったらしいね」
「はい。車と空港バスの衝突事故です。バスの乗客はすべて命には別条がないようですが、車を運転していた女性は亡くなりました。即死だったとのことです」
ラウは軽くため息をついた。
「ファン・マイか。……ルナ学の優秀な研究者だった。いつかアカデメイアに呼び戻し、あの恥知らずの副館長と交代させようと思っていたのだが……残念だな」
青年は無表情に付け加えた。
「都築凛子の娘は、岬の上病院に入院したようです」
ラウ伯爵がピクリと眉を挙げた。青年が続けた。
「事故に巻き込まれたもう一台の車には、少年が乗っていました」
「少年?」
「ウル舎村長の孫です。その子も岬の上病院に入院しました。マスコミにはいっさい公表されていません」
ラウ伯爵が思案顔になった。
「ふーむ。岬の上病院か。……やっかいだねえ。あの理事長がからむとあまりいい結果にならない」
ラウはやがて思いついたように青年の方を向いた。
「そう言えば、レオン。九鬼彪吾の件は進んでいるか?」
「はい。来週には、音楽学部の特別招聘教授として着任予定です。九鬼教授のたってのご希望で、臨時で編入試験を実施する予定です」
「それはとても楽しみだ。来年のルナ大祭典に向けた準備だね」
レオンと呼ばれた青年は静かに頷いた。
アイリは志誠館からどんどん遠ざかった。ふっと風が花の匂いを運んできた。さきほどの匂いがよみがえる。
いつだったか、志誠館一階の事務室付近でレオンを見かけたとき、女性の事務職員たちが首を伸ばして青年の後姿を見送っていた。
端正で繊細な表情をもつ美青年。三十歳過ぎの高学歴独身男性は彼女たちの憧れらしい。
アイリは、彼の美貌にはまったく興味がない。しかし、匂いは別だ。彼には何か特別な匂いがする。ほかのだれにもない、ほんのかすかな静謐匂い。それに気づいたのは、アイリの他にいるだろうか。
■女子寮レイア・カレッジ
アカデメイア女子寮の一つ――レイア・カレッジ。門をくぐると、瀟洒な建物が現れる。アイリは、玄関で寮長ロジーナとバッタリ出会った。
「あら、めずらしい。あなたがこんな時間に寮にいるなんて」
「悪いか?」
「おお、こわ。そうそう、あなたに知らせたいことがあった。新入りの寮生なんだけど、一週間ほど到着が遅れるんだって」
無視して遠ざかるアイリの背にロジーナの声が響く。
「今度は追い出さないでよ!」
少女の背で、漆黒の髪を無造作に束ねた赤い紐がふわりと揺れた。ロジーナが睨み続ける。
(いつもながらコミュ力ゼロよね。いくら天才でもいつか泣きを見るわよ!)
アイリは階段を上がって建物の奥にある自分の部屋に戻った。そういえば、数ヶ月ごとに隣の寮生が入れ替わっている。
――それがあたしのせいだって?
新入寮生の世話は一ヶ月間、隣室の寮生が担当する仕組みになっている。親身に世話する者もいれば、最低限のことしか教えない者もいる。アイリは後者だ。こんな狭い世界、放っておいてもすぐ慣れる。
副理事長からもらった紙袋をベッドの上に投げ出し、アイリは時計を見た。もう午後二時を過ぎている。今日は博物館の無料開館日。月曜日は定休日だが、特別展の時期だけ、無料で開館される。長蛇の列のはず。二時間入れ替え制だ。今から行っても、開場時間内に入るのは無理だろう。
――まったくもう、こんな時に呼び出すなよな。
アイリはラウ伯爵を恨めしく思った。だが、ランチを用意してくれたのはありがたかった。仕方ない。来週まで待つか。
紙袋にはいろいろな菓子が入っていた。いずれも高級だ。しばらくはこれで食費が浮く。
ひとしきりパソコンに向かって、ふと顔を上げると、丸い銀月が窓に映る。
「そういえば、昨日は月蝕だったな」
アイリは天を見上げながら、幼い時を思い出していた。カトマール新政府軍がやってきて、村が焼けた夜だ。あの夜も月蝕だった。そして、思い出したくないものを振り切るように頭を左右に振った。
――新人がこれから隣室に居座るのか。めんどくさい……。