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Ⅱー1 眠れる美少年――シュウ

■悪夢――神殿崩壊

 ここはいったいどこ?

 高く吹き上がった炎のなかから、熱せられた石が降り注ぐ。

 真っ赤などろどろとした粘液があふれでる。

 人々が逃げ惑う。

 白い優雅な石柱(せきちゅう)が傾き、美しいモザイク模様の床が割れる。

 

 ボクは声をかぎりに叫んでいる。

 だれにも声が届かない。

 だれもボクを振り返らない。

 火に飲み込まれて、身体(からだ)がゆれる。

 苦しい、苦しい……。

 だれか、助けて。

 

 倒れてきた柱に、足の骨を砕かれた。

 飛んできた石に、目をつぶされた。

 炎は髪を焼き、皮膚を焼く。

 だれか、だれか……助けて。

 

 むこうから大男が飛んできた。

 ボクに(おお)(かぶ)さり、自らの背で倒れてきた石柱を受け止め、炎にまかれた。

 うわっーつ、ダメだ!

 死なないで。


(はかな)げな美少年

 うっすらとあいた少年の目に薄汚れた天井が映った。天井のあちこちにシミがある。

 少年の額にじっとりと汗がにじんだ。


――もう忘れていたはずなのに、久しぶりの悪夢。


 ツーンとした消毒剤の臭い。簡素な部屋。白に近い淡いピンクの服を着た男性がそばにいる。だが、金縛(かなしば)りにあったように、身体が動かない。少年がわずかに挙げた手を看護師は見逃さなかった。

「キュ……キュロスは?」

 きれいな輪郭の口びるはまだ紫色がかっている。あえぐような声に、看護師は答えた。

「連れのひとかな? 隣の部屋で眠ってますよ」

――よかった。生きていた。彼は生きていたんだ。

 長いまつげに覆われた大きなうす紫色の瞳に安堵(あんど)の光が宿る。少年の青ざめた頬にほんの少し紅がさした。

 

 三十代半ばの男性看護師は思わず見とれてしまった。大人になる少し前の少年だけがもつ特有の妖しい魅力に満ちている。

  少女とも見まがうほどの(はかな)げな面差し。華奢(きゃしゃ)な手足。細い指はまるで労働と縁がない。プラチナ・ブロンドの髪はほつれたままで、ゆるやかにカーブを描きながら、半分の額にかかる。

 看護師はハッとした。

 起き上がろうとしているのか、少年が腕をモゾモゾさせている。あわててとどめた。

「まだ動いちゃダメです。すぐにドクターが来ます。それまで待ってください」


 まもなく、無精髭(ぶしょうひげ)をはやしたむさ苦しい男がやってきて、少年のそばに座った。アオミと名乗ったその医師は、少年の状態をチェックしはじめた。黒い画面上には、いくつかの波が現れては消えていく。

 彼はじっと画面を見ては、ときどき手を止める。やがて、向き直った。

「シュウくんだね。いまは何の異常もない。きみが意識を失っていた原因は不明だ。二、三日調べてみるが、いいかな?」

 シュウは頷いた。医師の胸の名札には、こうあった。Dr.Kyosuke・AOMI――碧海恭介(あおみきょうすけ)

 

「……キュロスは? 彼は大丈夫なのですか?」

 恭介は手を止めずに言った。

「手術は成功だ。安心しなさい」

 シュウはほうっと息を吐いた。ちらりとシュウを見て、恭介は言った。

「あの大事故できみをかばって全身打撲。頭に大ケガを負ったが、ほかの骨や内臓にはダメージがない。すさまじい肉体だな」

「彼のそばに行きたいんですが……」

「この検査が終わったら、動けるようにしよう」

 シュウは素直に頷いた。

 

 恭介が尋ねた。

「これまでも何度か発作があったらしいね」

 驚くシュウに、恭介は付け加えた。

「昨日、きみのおばあさんの秘書と名乗る人物がここに来たよ」

「おばあさまの秘書? ……ああ、ザロモン」

「彼は、きみたちのためにこの特別フロアを借り切り、あの二人を置いていった。目障りでかなわんがね」

 向こうのSPを目でさした。場違いな屈強な男が二人、ドアの外に立っている。

「すみません……」


 シュウが(こうべ)をたれた。大金持ちの御曹司なのだろうが、ふるまいに傲慢(ごうまん)さがなく、やけに素直だ。恭介は、しばし手をとめた。

「ほら、もう動けるよ。彼のところに行くがいい」

 シュウはうれしそうに奥の部屋へと急いだ。恭介もついていく。


 シュウは、包帯からわずかにのぞく手をとり、心配そうにキュロスの顔をのぞき込んだ。

 恭介は言った。

「秘書氏は、わたしに彼のことは一言も頼まなかったが、きみにとっては単なるSPではなさそうだな」

 大男をじっと見つめるシュウに、さらに恭介はたずねる。

「意識を失ったあとは、いつも猛烈な頭痛がするはずだと秘書氏が言っていたが、今回はそれがないのかい?」

 シュウは怪訝(けげん)そうな顔をした。


 そういえば、今日はいつもと違う。

 悪夢から目覚めたにもかかわらず、気分がいい。丸三日は続く頭痛がまったくない。


 妙にリアルな夢もかぶさっている。

 意識を失っていたはずなのに、あの医師がしていることがはっきり見えた。彼は小さな瓶から液体を注射針で吸いだし、シュウの腕に静脈注射した。腕を見ると、たしかに注射のあとがある。うっすらと血がにじむ絆創膏(ばんそうこう)

 そして、どこかのドアの外で中をうかがっていた黒い髪のやせっぽちの少女。ボクの手をとってくれた。そのとたん、スッと気分がよくなった。


――あれは、いったいだれだったのだろう。


■集中治療室

 風子(ふうこ)は、早くに目が覚めた。

 今日の検査で異常がなければ、ここを出られる。


 立ち上がると、ベッドからコロリとリュックが落ちた。リュックを手にした風子の脳裏に、ある光景が鮮明によみがえる。どこか小さな部屋で、この小さな黒いリュックサックに、なにか大事なものを入れたはず。

 リュックをひっくりかえし、ベッドのうえに中身を全部広げた。ぺらぺらの安っぽい風呂敷包みと数枚の紙切れ。風呂敷を開いた。一枚の着物が折りたたまれていた。古着らしいが、あざやかな柄は美しい。そして、かんざしが一つ。


――どうして、こんなものが? 

 首をかしげながら、紙切れを手にとる。奇妙な絵が描かれている。どこかなつかしい気もするが、よみがえった光景のなかには、これはなかった。


――ああ、なんてこと!


 これは、記憶のなかのリュックとは違う。

 風子が青ざめるほど、さらに記憶がよみがえる。あの光景のなかで、胸にあてたあと大切にしまい込んだスケッチブック。それがない。なによりも大切な宝物だった。幼い頃に大ばあちゃんを描いた絵が入っていて、絵のなかの大ばあちゃんにその日あったことを語りかけていたはず。

――どうしよう……。

 

 ためらう間もなく、風子はリュックサックをもって部屋を飛び出した。いまだれかがいるとすれば、リトが言っていた救急救命室だ! 事故にあったとき、荷物を間違えられたのかもしれない。

 院内表示を頼りにエレベーターを降りる。二階の救急救命室のとなりが集中治療室。ドアの外には二人の屈強な男が立っている。

――ひええ、おっかない。

 風子はゴクリと(つば)を呑み込んだ。ドアが開き、看護師が出てきた。今だ。風子はするりと室内に入る。


 五台ほどのベッドはどれも機械や点滴に囲まれている。一番近くに、一人の少年が眠っていた。

 風子とほぼ同い年。

――いっしょに事故にあった子かな? 早くよくなってね。


 そう願いながら、手にふれた。生気はあるが、やけに冷たい。

「×××?」

 後ろで看護師が声をかけた。

「×××?」

――しまった! イアホンを部屋に忘れてきた……。

 わからないなりに、風子はモジモジしながら頷いた。だが、そのあとの会話が続かない。看護師は同情したような顔をしながらも、風子を部屋から追い出した。


 ピクリ。……少年の指がかすかに動いた。


 複数の看護師が、少年の横たわるベッドをICUから運び出し、エレベーターで最上階に向かった。呆然としたまま廊下の長椅子に座り込んだ風子は、それに気づくことすらなかった。


 長椅子は固く、ところどころ合皮(ごうひ)が破けている。風子は顔を下げたまま、椅子から動かなかった。

 

 ポトリ……。

 

 風子が硬く結んだ手の上に、涙が落ちる。


 廊下では多くの人が行き()っていた。その中の一人が風子に声をかけた。

「×××?」

 風子は首をふるばかり。涙目になっている。

 黒髪のおかっぱ頭の女の子。祖母がもっていた日本人形みたい。日系移民三世のヒューガ・ユウは言葉を変えた。

「どうしたの?」

――日本語だ!

 とたんに風子の顔が輝いた。


 長いすのうえでリュックサックを開いたユウは、紙切れをじっと見た。

「風子ちゃんと言ったよね。あなたのリュックサックを探してみるね。かわりに、このリュックを警察でしばらくあずからせてもらえない?」

 風子はうれしそうに頷いた。

 リュックはなんとかなりそうだ。あのかっこいい女の刑事さん、とっても親切だった。うれしくなった風子は、病院を探検することにした。


■捨てられた子イヌ

 一階のロビーには、何人かの人がいる。風子はそのそばを通り抜け、庭に出た。

 建物の廊下もあちこちがガタガタしているが、庭もあまり手入れされているとは言い難い。雑草の間に小さな花がさいている。ところどころにベンチがあるが、これもペンキが剥げている。


 改めて外から見てみると、この病院は限りなくオンボロだ。


――クーン、クーン。


 足下でかすかな声。草むらをかき分けると、子イヌが丸くなっていた。足からは血が流れている。目を閉じ、息も絶え絶え。抱きかかえようとすると、声がした。

「TSUZUKI! ×××」

 小太りの男性看護師が、向こうで叫んでいる。自分の名を呼んでいるのだろうか? でも、さっぱりわからない。

 後ろで声がした。

「お医者さんが待ってるんだって。はやく診察室に来なさいって」

 振り返った風子の眼が思わず釘付けになった。


 切れ長のきれいな黒い瞳が風子を見ていた。


 形の良い桃色のつやつやしたくちびるから、かすかに笑みがもれる。背が高く、すんなり長い手足は白いシャツとスキニージーンに覆われている。一陣の風が、その人の長い黒髪をさらりとなびかせた。


「TSUZUKI! ×××」

 声がますます大きくなる。

 その人が目で急ぐように促した。風子は、未練がましく地面にへばりついたままの足を何とかあげた。思わずペコリとお辞儀をして、草むらにささやいた。

「待っててね。すぐにもどってくるから」


 風子は一目散に駆けていく。むこうで、せっかちな看護師はもうドアをあけて待っている。走り去る風子の背をみやったその少女がゆっくりと足をすすめ、風子が話しかけていた草むらに目をおとした。


――クーン。


 かすかな声。彼女は、薄茶色の毛玉をそっとなで、そのまま別のドアに消えた。


「いったい、どこへ行ってたんだ? オレは、ヒマじゃないんだぞ」

 昨日、診察してくれた医師は、風子をにらんだ。無精髭(ぶしょうひげ)が伸びて、髪もボサボサで、クマみたいだ。

「すみません……」

 あれ、このお医者さん。日本語でしゃべってくれている。風子は叱られたことより、そちらがうれしくて、思いきりの笑顔になった。

 まったく……碧海恭介(あおみきょうすけ)はブツブツいいながら、風子の脳をスキャンした画面に見入っている。

「ま、異常なしだ」

「ホントですか?」

「ウソをついてどうする」

「えへへ」

 また、風子はうれしそうに笑った。


「なにか思い出したか?」

 恭介の問いに、風子は首を横にふった。

「まあ、焦らんことだ」

「あの……先生は、夢と現実が一緒になったことってありますか?」

「夢と現実? いや、オレはいたって現実的な人間だからな。どうかしたのか?」

「いえ……なんとなく」

 恭介はにっこりしてこういった。

「もうかえっていいぞ。ただし、一週間後にもう一度ここに来い。今度は時間どおりにな。あ、それから、看護師がキミにちょっと質問があるそうだ。このひとについていけ」

「はいっ!」と、風子は元気いっぱい返事した。


 小太りの看護師の案内で着いたのは、小さな個室だった。

 面談室らしい。看護師は言った。

「これから、あなたの治療のための基礎データとして、いくつか確認したり、質問したりするけど、答えられることだけ答えてくれる? 答えられないことや、わからなかったことには答えなくていいから。それと、この個人情報は病院で治療のためだけに使って、ほかには見せません」

「はい」

「お名前は、都築風子(つづきふうこ)さん、十五歳。生年月日はいつでもいいから学校で調べてわかったら教えてね。住まいは……アカデメイア学寮の予定。保護者はいないから、ひとまず緊急連絡先はチューターの朱鷺理兎(ときりと)さんにしています。これまでの病気も思い出したら教えてね。最後に、性別なんだけど、どれにする?」

「は? 性別?」

「ええ。こちらの欄は、この病院で扱ってもらいたい性別。あなたが望む性別を選べることになってるんです。いわゆる性自認のこと。もうひとつの欄は、こちらで判断した生物学的な性別。身体にはホルモンやらなにやら性差があるからね。男性に効く薬が女性に効くとは限らないんですよ」

「へええ」と言いながら、風子は、「きっと女性だと思います」と答えた。看護師は、二つの欄にいずれも「女性」と書きこんだ。


――さて、こうしちゃいられない。リトが迎えに来るまえに、片付けなくちゃ。

 リトは「イヌ」と聞いただけで、露骨にイヤな顔をするだろう。風子は、一目散にさっきの子イヌのもとに駆けつけた。


――いない! そ……そんな!

 風子は病院の庭を走り回った。どこにもいない。


 がっくりと肩を落とす風子のそばに人影が落ちた。

「もしかして、この子を捜している?」

 背の高いきれいな女の人が子イヌを抱いたまましゃがみ込んだ。白い清潔なタオルにくるまれている。

 

 風子は涙目で頷いた。

「よかった。ほら、キミのお母さんだよ」

 女の人は、子イヌの頭を撫でながら、タオルにつつんだ子イヌを風子に渡した。

(かっこいい……!)

 風子はその人の後ろ姿に見とれた。警備員の制服を着ている。

――「男装の麗人」って、こんな人のこと?


 子イヌの頭を撫でると、少し目が開いた。

 風子はさらにあたりを見回した。

――いない……。あの人はもういない。

 風子は面影を探すように、その人が立っていた場所を見つめた。


 髪の長さも違うし、色も違う。背も幾分低く、はるかに華奢だ。なにより瞳の色が違う。

 だが、忘れ得ぬ人を思い起こさせる。

 あの森で出会ったひと。……風子の記憶にはっきりと残るただ一人のひと。


 ハッと我に返った。向こうでリトが風子を呼んでいる。探しにきてくれたのだろう。


 風子が手にする袋をリトは持とうとした。

「これは自分で持つ!」

 風子は紙袋を胸に大事そうに抱えた。中には、タオルにくるまれた子イヌが入っている。

(どうか、鳴き声を出さないで!)


「リトさん……」

「リトでいいよ」

「リトは、イヌが苦手だったよね?」

「えっ、思い出したの!?」

 リトはうれしそうに尋ねた。風子は首を振る。

「ううん。……なんとなくそう思っただけ……」

 リトは明らかに気落ちしたように、苦笑いした。

「きみの家で白い子イヌに追い立てられたことがあるものなあ。でも、まあ、ちょっとでも思い出したんだから、よかったよ。この調子でいけばいいよね」


 リトに関する記憶は、ほぼ間違いない。顔ははっきりしないけれど、大ばあちゃんのことも忘れていない。なのに、それ以外はぼんやりと霧の中にいるみたいだ。「お母さん」のことはまるで思い出せない。

 リトと会った五歳以降のことはまるで消しゴムで完全に消されたみたいだ。


■警部の疑念

 戻ってきた警察署の机に向かい、警部ヒューガ・ユウはしばしの休憩をとっていた。相棒のジャン刑事がインスタントコーヒーを運んでくる。

「ありがとう。で、遺失物届けは?」

「あてはまるような届けもブツもなかったですね。まあ、あの子の言うとおりなら、金目のものは入ってませんからねえ。こっちはこっちで妙なモンしか入ってないし。おまけにリュックもどこにでもある安もんだ」

 ジャンはコーヒーをすすった。

「そうだよね」

「ヒューガ警部、さっきからその絵ばっかし見てますけど、なんかあるんスか?」

ユウの手には、リュックサックに入っていた絵のコピーがある。

「ううん、別に……。でも、この絵、ちょっと謎めいて、いいじゃない? 何をあらわしてるんだろう?」

 ジャンは絵をのぞき込んだ。

「そうスかねえ。オレには、下手な絵文字にしか見えないっスけど」

 絵文字! ユウは飛び上がった。

「ヒューガ警部のカンは格別ッスからねえ。なんか臭うんスか?」

ジャンがコーヒーから目を上げたとき、すでにユウの姿はなかった。


■サキとユウ

 シャンラ王室秘宝展の隣の常設展――。

 十年前に発見され、アカデメイア博物館に保管されていた五枚のルナ石板とミン国で新しく発掘された五枚のルナ石板が展示されている。その特別展示室も人だかりだ。新聞報道された大ぶりの石板の前に人びとが群がっている。

 しかし、ユウはあまりひとのいない地味めの小さな石板を睨んでいた。コピーした絵と見比べてみる。


――似ている。だが、少し違う。


「ユウ先輩!」

 振り返るとサキがいた。サキは大きなカタログを手にしていた。

「おお、サキか。久しぶりだね」

 ユウは大学時代の合気道サークルの先輩だった。卒業後もユウはしばしば大学を訪れ、後輩を指導していた。格闘技では、先輩後輩の上下関係が厳しい。だが、ユウはそれを嫌った。少なくとも道場以外では、サキにため口で接するよう求めたのだ。


 駅の裏通りにある小さな居酒屋。二人そろって暖簾(のれん)をくぐると、初老の女性がにこやかに出迎えた。

「こんばんは、サキ先生。いつものお席、取っておきましたよ」

 ありがとうと返事して、サキはユウを(いざな)いながらスタスタと奥に進んでいった。

 平日の夜はさほど混んでいない。裏庭が見える奥まったテーブルに二人で座ると、いかつい顔の大男が、酒と数点の小鉢を運んできた。


「あれ、カゴロじゃないか! 元気か?」

 ユウが驚いて声を上げると、大男カゴロは頭をかきながら頷いた。

「へい、もう悪さはしておりやせん。いま、調理師免許を取りに専門学校に通ってますんで」

「そりゃ、よかった。ここで働いているのか?」

「へえ。ここは母の店なんです。()きっ(ぱら)にいきなり酒はよくないです。まずは少し召し上がれと母からの伝言です。今日採れたばかりのなすびを焼いて、母特製の田楽(でんがく)味噌(みそ)をのせました」


 うまそうな臭いにユウは鼻先をうごめかした。サキもはじめて空腹を覚えた。そういえば、マイの事件以来、まともなものを食べていない。「うまい」「おいしい」を連発しつつ、ひとしきり味わったあとで、ユウは、例の紙を取り出した。


「なに? その落書きみたいの」

 そう言うサキに、ユウはカタログを開かせ、小さな石板の写真と紙に描かれたものと比べさせた。

「あれ? まるで違うようだけど、線だけ見たらすごく似てるような……」

「そうだろ?」

 ユウは、どうもわからないというふうに首をかしげた。目には強い光が浮かんでいる。

「新しい石板の展示は今回が初めてなんだよね? しかも、始まったのは昨日から。新聞に出たのは派手な模様の石板一枚で、この石板は出ていない」


 ユウは頭のなかでパズルを解くように目を閉じた。学生時代にサキが何度も見た光景――。こんなときのユウの集中力はすさまじい。

「関係者以外だれも見たことがない石板の模様にここまで似てるものを描けるものかな?」と言いつつ、ユウは目を開いた。

「どういうこと?」と、サキが(たず)ねた。

「この前の空港バスの事故までにこの絵を描いた人物がいるってこと」

 サキは息を吞んだ。

「空港バスの事故……ルナ神殿の石板……」


 青ざめたサキにユウがたたみ込むように聞く。

「そういや、事故を起こしたのは、サキの高校の同僚だったね。親しかったわけ?」

 サキの目が潤んだ。事情を察したユウは、それ以上聞かず、サキの手を握った。ひとしきり、サキは声を押し殺して、泣いた。ガラス窓の向こうの草花が濡れ始めた。やがて、急に暗くなり、雨が激しくなった。


「ルナ学の専門家だった。膨大な資料を残してる。手書きのものもある」

 ユウが押し殺したような声でつぶやいた。

「じゃ、その人が描いた?」

 サキは首を振った。

「違うと思う。彼女が描くとしたら、もっと緻密できれいな写真みたいな絵。こんな線だけの落書きみたいな絵じゃないはず。でも、これをいったいだれが持ってたわけ?」

「事故にあった女の子。でも、その子のものじゃない。バスでリュックを取り違えたらしい」

「荷物の取り違え? そんなことで、天下のユウ警部が動くなんて」

「仕事というよりも……そうだなあ、その女の子にちょっと同情しちゃってさ。最初に日本に行ったときのわたしみたいに心細げで、何となくほっとけない」

 ユウはフッとほほえんだ。


 ユウは、高校から大学を祖母の故郷である日本で過ごした。

 優秀な警官で格闘家の父に幼いときから手ほどきを受け、合気道では何度も大学チャンピオンになったユウ。鍛え上げた身体とすっきりした美貌に、多くの女子学生が憧れていた。サキもその一人だった。サキがアカデメイアに来る気になった理由の一つがユウだった。そんな強い彼女にも心細い時期があったのか。

「だからさ。リュックの持ち主を捜してあげるって、つい約束しちゃったんだ。その子、事故で記憶をなくしたらしくて、リュックを取り戻せば何か思い出すかもしれないから」


 いつもながら、お節介性分のユウだ。ユウは手元の紙を見つめている。

「ところが、この絵がどうも気になってね。確かめに来たわけ。ルナ神殿の石板なのかどうかって。石板の実物は凹凸もあるし、太い箇所や狭い箇所があって、ものすごく装飾的なんだけど……」

「けど?」

「もし、その石板を文字として使うならシンプルに線書きするんじゃないかなって思ってさ」


 サキは思わず身を乗り出したが、すぐに大きく首を振った。

「だけど、ルナ石板は文字じゃなくて、儀式の段取りを描いた絵だろうとこのガイドブックにも書いてるけど……」

「うん。展示室のパネルにもそう書いてあった。だけどね。ルナ石板の絵は文字だって言った研究者もいたって聞いたけど」


 そうだった。ルナ古王国には文字など存在しない、資料の解釈は間違っていると指弾されて、マイが尊敬する先輩――都築凛子(つづきりんこ)――は大学を追われたと、マイが言ってたっけ。しかし、それすら二十年近く前の話だ。相当にマニアックな話なのに、なぜ、ユウが知っている?


「十年前にその研究者が行方不明になってね。だけど、見つけられなかった。わたしの父の最後の仕事だったんだ。捜査本部が解散になったときに、ものすごく悔しがってた。もうそのときにはガンがあるのがわかってたみたい。なんとか解決したかったんだろうなってさ」

 めずらしくユウが涙ぐんだ。その手を握り返すと、指先は冷たく震えていた。

「それから、ウルやルナのことをわたしなりに調べた。笑うだろ? 歴史なんて大の苦手だったのに。だけど違った。歴史の話じゃなかった」


 ユウの瞳がきつくなった。

「詳しくはいまここでは言えない。でも、五年前に日本から来た学者が遺跡で事故死して、二年前には発掘に関わった人が自死している」

「え?」

 サキの顔が蒼白になった。その学者とは、朱鷺要(ときかなめ)のはず――。義父も変死というのか?

「正確には、事故死や自死として処理されたってことだ。事故には目撃者もいるし、自死については動機もはっきりしているし、遺書もある」


 ユウの目が暗く翳っている。押しつぶされたような小声でユウはつぶやいた。

「おかしい。そろいすぎてるんだ。普通なら起こるはずのない事故だし、自死だってそうだ。命を絶とうとするひとは、やっぱり揺れ動くから、つじつまがあわないことをしちゃう。そろいすぎているのはかえっておかしい。だから、この紙の線書きを発掘に関係しただれかが描いたとしたら、謎をときほぐす手がかりになるかもしれない」


 サキはユウをじっと見た。彼女は信義に厚いひとだ。打算や欲得ではけっして動かない。

「ユウ先輩、頼みたいことがあるんだけど……」

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