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Ⅺー4 滝の禁書室――時空の歪み

■禁書室の秘密

 カイはレオンにすべてを伝えたわけではない。レオンの失踪に関わる重要な情報は、まだ明かせずにいた。譜面だ。

 ミライが語ったように、レオンが残した譜面は、レオンが失踪するのとほぼ同じ時期に所在知れずになった。そのことはカイも五年前にミライから聞いていた。しかし、たかだか十歳の子がなぐさみに残した譜面にさほどの価値があるとは思わなかった。だが、レオンがもつ異能の表れであったとすれば、まったく話は異なる。


 その譜面の価値を知る者は、たとえ譜面を隠しても、譜面を廃棄はしないであろう。もしレオンの失踪に関わった者が天月者であるとすれば、レオンの異能を知りうる立場にあった者しか考えられない。

――当時の宗主だ。


 宗主は、レオンの事件から三年後、カイが天月老師に引き取られて一年後に亡くなった。原因は病としか伝わっていない。天月宗主でも病に侵されることは避けられない。できるのは病の進行を抑え、症状を緩和することだけだ。だが、その宗主は、壮年期に突然亡くなった。最後は、だれも面会できない状態であったという。宗主になってからまだ浅く、死もあまりに突然であったため、次期宗主が決まっておらず、混乱の中で先の宗主である老師が宗主に復位した。老師は五年をかけて体制を固め、筆頭弟子であった高師エルに宗主位を譲り、再び老師の暮らしに戻った。


 カイは、宗主となった老師のもとで庇護されて育ち、才能を遺憾なく発揮した。やっと宗主を次世代に譲った老師は、数年後、カイを連れて諸国漫遊の旅に出た。カイに〈銀麗月〉の力があると見込み、さまざまな知識を教えるためだった。カイが十二歳で修士になることができたのも、老師の教育上の配慮のたまものだった。その旅の後、修士になったカイは、老師に連れられて滝の禁書室に入ったのだ。


 カイは、思わず胸を押さえた。

――禁書室……⁉ 

 宗主しか入れぬあの場所であれば、譜面を隠しつつ、保存できる!


 カイは、カムイを連れて、滝裏の洞窟に急いだ。禁書室の書物はすべて一通り見たはずだが、漏れがあったのか? 

 カイは慎重に棚を探った。棚に置かれている書のなかに、やはり譜面はない。見込み違いか。……もう一度、カイは確かめた。今度は棚の奥を慎重に手で触っていく。禁書室の一番奥まった箇所の棚の奥に、何やら違和感があった。カムイが書を取り除き、改めて見てみると、小さな円図が描かれていた。どこかで見たことがある図だ。


――そうだ! 神聖石盤の石刻象形文字。聖なる文字だ。

 老師から渡された石盤を取り出すと、石盤の中央にその聖なる文字が描かれていた。よく見ると、凹凸が反転している。カイは石盤を壁の図に当てはめた。すると、壁がギイイと重い音を立てて開いた。奥にもう一つの禁書室が現れた。カイは驚いた。老師には教えてもらわなかった禁書室だった。カムイに外で待つよう命じて、カイは中に入った。


 中は細長く、両脇に棚があって、古びた書が置かれている。その中に一つだけ、新しい書箱が置かれていた。手に取ると、譜面だった。これだ、これがレオンの譜面に違いない。


 禁書室をさらに奥に進んで、カイは驚いた。

 もう一つの図が刻まれており、ふたたび石盤を当てると、扉が開いた。その向こうには海が見えた。水晶の窓が設けられ、海の中のサンゴ礁が見えるのだ。

 どう考えてもおかしい。

 この禁書室への入り口は高い山の滝の中だ。禁書室自体は平坦で、下った覚えはない。しかも数十メートルしかない距離で、この深い山が海に面しているはずがない。どうやら、二つ目の禁書室には何らかの術がかけられているようだ。カイは、すぐさま扉を閉め、譜面だけを持ち出して、もとの禁書室に戻った。


 老師すら知らぬであろう二つ目の禁書室の存在を、レオンの譜面を奪った者は知っていたことになる。

――亡くなった宗主か? 元宗主は何らかの手段で第二禁書室の存在を知り、レオンの譜面を封印したのか? 

 老師の言葉がよみがえる。

――石盤を使う者は、その呪いを受ける。

 元宗主は第二禁書室を開けるために石盤を使い、呪いによって正気を失ったというのか?


 眉をひそめて自問していると、カムイが言った。

「よかったでござんすねえ。見つかって」

(うむ)

「でも、まさかあんなところに置いているとはねえ。おどろきやしたよ。棚の下なんて、放り出しているに等しいじゃござんせんか」

(え?)

 カイはまじまじとカムイを見た。カムイは、あの第二禁書室に入らなかったとはいえ、そこからカイが譜面の入った書箱を持ち出したのを見ているはずだ。なのに、それを覚えていないのか?

 カイは書箱を見つめた。これ自体にも何かの呪術がかけられている恐れがある。とすれば、不用意にあけるとカムイが危ない。まして、霊力のないレオンや彪吾に見せることなどできない。カイは書箱を禁書室の棚に置いた。あの奥の部屋の意味を慎重に調べなければ、譜面は非常に危険なものになるだろう。


 カイは、棚の奥の壁を見やった。すでに聖なる文字をかたどったレリーフ画は消えていた。カイは呆然と佇んだ。

――呪術どころではない。時空が歪んでいる!


■『天月秘録』

 カイは、天月山の滝の禁書室で考えをめぐらせていた。ルナ神話と「時空の歪み」についてだ。


 ルナ神話は、「月の神ルナ」を筆頭とする神々とそれらの神々を奉じる人びとの物語だ。「()みびと」と呼ばれる集団が代々(うた)いつないできたという。それらの神話は、ウル大帝国時代に一つの書にまとめられた。『ルナの書』と呼ぶ。今日、ルナ神話として世に知られるのは、この『ルナの書』である。

 編纂とは、記録者側の権威と正統性を証すための神話の再構成に他ならない。矛盾に満ちた物語は整合性がとれるように書き直される。その時、権力に不都合な情報は捨てられ、あえて隠される。その意味で、『ルナの書』はルナ神話そのものとは言えない。

 初代〈銀麗月〉が著した『天月秘録』は、『ルナの書』に書かれていないことがらも独自に調べ、詳細な記述を留める。その後も歴代の〈銀麗月〉により『天月秘録』の補遺記事が書き継がれた。すべて滝の禁書室に保管されている。


 『ルナの書』は語る。

――はるか遠い神話の時代、深い山を穿つ急峻な流れが作り上げた谷は、「月の谷」と呼ばれた。その谷には、ルナの神々が住んでいた。やがて、ルナの神々は、自分たちに仕える人びとを集め、小さな村をつくった。「緋月の村」である。その村の月は朱く、満ち欠けがなかった。時が流れぬ村に住む村人は、老いることなく、飢えることもない。

 「緋月の村」は「禁断の村」。深く大きな森と五里霧によって、村への入り口は隠された。何かの拍子で村に迷い込んだ者は記憶を消され、麓に戻された。

 やがて、「月の谷」の外に人が増え、病や飢えが蔓延するようになった。谷の外に暮らす人びとの願いに応え、ルナの神々は「緋月の村」の村人を遣わせた。「緋月の村」を出た村人は、時の流れに身を置き、老いと死を迎えるようになった。村人は、「緋月の村」で得た異能の力を発揮し、苦難を乗り越えようとした。村で仕えていたそれぞれの神に応じて、村人はいくつかの一族に分かれた。最も格が高い月の神に仕えていた人びとは自らを「月の一族」と呼び、優越的地位に立った。さらに、大地とその恵みを守る「地の一族」(玄武)、海と川を司る「水の一族」(青龍)、炎と熱を担う「火の一族」(朱雀)、森とその生き物を統べる「森の一族」(白虎)がいた。「月の一族」とこれら四神を奉じる一族を「異能五族」と呼ぶ。


 これは、通俗的な神話物語として、そして、有力な国や一族の起源譚として、人びとにもよく知られる。ただし、異能などの超自然的な力はあまたの小説や映像で描かれたとはいえ、その実在が信じられたわけではない。やがて、「異能五族」は歴史に埋もれ、断片的に語られるエピソードに変わった。


 カイは、改めて歴代の『天月秘録』を読み返し、朱鷺要(ときかなめ)の新しい説もふまえて、記述を整理してみた。

 『天月秘録』は、『ルナの書』には書かれていないことがらについても記していた。「月の城」、「月の雫」について(しる)し、ルナ神殿についても書き留めている。


――絶壁と滝に囲まれた〈緋月の村〉」の村人として選ばれたのは、「月の神の恩寵を受けし者」――「恩寵者」――である。常人にはない特別な力――「異能」――を持つ人びとは、自由に村から出ることは叶わず、「月の神」に仕え、神々が住まう禁足地たる「月の城」と禁断の至宝たる「月の雫」の()り人となった。しかし、「月の雫」の真の名を口にすることも、それが何かを詮索することも固く禁じられた。恩寵者は、「神に選ばれし者」と自負し、その力と質の維持を目指した。

 〈緋月の村〉では、恩寵者の再生産が図られた。しかし、代を繰り返すほどに、恩寵は縮減した。このため、恩寵者となりうる者を探し出し、村に連れてくることが、神への奉仕の一つとなった。連れてこられた者は、それまでの記憶を失い、儀式を経て、恩寵者として再生したのである。

 神話から人の時代に変わると、〈緋月の村〉も変わった。〈緋月の村〉ではもはや恩寵者の再生産が叶わなくなった。多くの者が〈緋月の村〉を出た。外の新たな世界と交わることによって、恩寵者の力を維持するためであった。〈緋月の村〉を出た者は、村の記憶をすべて失った。〈緋月の村〉には、ごく一握りの異能者が残った。彼らは、〈(さく)の民〉と呼ばれ、いまも「月の城」と「月の雫」を守り続けているという。

 人の世界で、「異能五族」のうち、月、水、日、土の四族は、それぞれの神を奉納する神殿をつくった。月の神ルナを祀る月神殿、水の神ミクを祀る水神殿、大地の神ウルを祀る土神殿、そして、日の神ヨミを祀る日神殿だ。森の一族は、神殿の代わりに〈禁忌の森〉を生み出した。四神殿にはそれぞれ二つの陪神殿、〈禁忌の森〉には〈閉ざされた園〉がある。四神殿は「時空の歪み」を生み出し、陪神殿はそこへの入り口を兼ね、歪んだ時空をもつ〈閉ざされた園〉は人の世界に対して不規則に開く。


 カイはますます考え込んだ。

――四つのルナ古神殿とそれぞれの陪神殿、そして、〈禁忌の森〉……。これらは「時空の歪み」に関わる。


 『秘録』によれば、「詠みびと」とは、かつてルナ神殿に仕えた特殊技能集団たる〈笛の舞人〉――のちのミグル族だ。編纂者の名を隠し、『ルナの書』をまとめさせたのは、ウル大帝国の帝位保持者たる「ウル第一柱」である。今日のウル舎村長エファの祖先だ。

 編纂者の名を隠し、あたかも自然かつ中立の書としての装いをまとわせようとしたのは、ウル大帝国の正統性を神話に根拠づけようとしたからであろう。その意味では、『ルナの書』の編纂は、ミグル族とウル第一柱との熾烈な攻防であったはずだ。ミグル族は伝える情報を選び、真実を隠したであろうし、ウル第一柱はミグル族から得た情報を都合良く改変したに違いない。


――ゆえに、『ルナの書』に書かれなかった物語にこそ、ルナ神話の本質が隠されている。

 初代〈銀麗月〉はそう看破した。

 「書かれなかった物語」の多くはミグル族とともに消えた。だが、ミグル秘伝の琴を奏でることができるマロは、おそらくミグル族の最高教導師――彼の協力を得れば、謎を解く手掛かりが得られるだろう。


 九孤族宗主とミグルの黒豹が飲み込まれた「湖に浮かぶ水晶の神殿」は、水神殿の陪神殿――。マロの鏡に映る光景から察するに、二人が行った先は園だ。〈閉ざされた園〉だろう。

 マロによると、そこでは時が止まるという。だが、戻る道がないとか……。二人の影は次第に薄くなっている。一刻も早い救出が必要だ。

 〈閉ざされた園〉の解明は、香華族の力を引くレオンに委ねた。レオンならば、確実に手がかりを見つけてくるに違いない。だが、レオンが異能者として覚醒するならば、新たに別の問題が発生する。あまりに強力な異能だからだ。亡き天月宗主はそれを危惧したのかもしれない。


■天月宗主

 カイは亡き天月宗主のことを調べはじめた。すると、一人の天月宗主の問題ではなく、天月全体に関わる構図が見えてきた。

 天月には二派がある。精神の鍛錬に重きを置く派と、身体の鍛錬に重きを置く派だ。いずれも学識を重んじる点では共通するが、前者は多数派で異能を高く評価して尊重し、後者は少数派で異能を否定しないまでも警戒する傾向が強い。このため、〈銀麗月〉はほぼ前者から生まれていた。カイを引き取った老師は、前者の総帥とも言うべき立場にある。


 一方、亡くなった宗主は英才の誉れ高く、若くして宗主に抜擢されたが、天月としてはめずらしく、異能抑制派の出身だった。そのため、異能に偏りがちな天月の傾向を改める改革を断行し、ある意味で天月の合理化に成功した。しかし、異能を否定することまではせず、異能のコントロールを重視したと言えよう。マルゴ修士も異能抑制派に属した。

 両派は、一千年ほど前に熾烈な主導権争いを展開したと伝わる。この対立を詳細に記録した書は禁書扱いだ。結局、卓越した異能をもつ修士がことを収めた。彼女は、その並外れた美貌と才能の故に〈銀麗月〉に任ぜられた。第三代〈銀麗月〉である。


 至高の異能者である〈銀麗月〉は天月の行政には関わらないと自ら定め、それ以降、〈銀麗月〉は、両派のどちらにも与せず、天月の内紛やゆがみを是正する最高裁判官であり、調停者として位置付けられてきた。異能抑制派が異能者による天月の独裁を警戒したことへの対応であり、それ自体は賢明な策であった。異能と努力という天月の絶妙なバランスは、天月への信頼を高め、人々の敬意を引き出し、天月を存続させるのに役立ったからである。


 ただ、亡き元宗主の合理化改革は、性急で、反発も強かったらしい。老師は悠然と構えていたが、異能尊重派の有力修士の中には、一刻も早く〈銀麗月〉を担ぎ出し、改革を頓挫させようという動きもあったようだ。しかし、〈銀麗月〉の候補になるほどの異能者は、博士・修士の中にはいなかった。

 その頃、幼いレオンが異才を発揮し始めた。非常に賢い美麗な子で、将来の〈銀麗月〉候補だとささやく者もあったようだ。もっとも、異才は音楽にとどまっていた。天月は音律にも優れるが、音律は天月の能力の一つでしかない。しかも、格付けは低い。ほとんどの者が、幼子の遊びだと思っていたのだろう。

 ミライに慈しまれ、レオンは明るい子に育っていたという。レオンが〈銀麗月〉にふさわしい異能をもつか否かについては、まだ様子見であったと思われる。異能の発現は不規則であるが、まずは昆虫や魚、草花などの小さい生き物に対して用いられて発現することが多く、いきなり人間に効果をもつような強い異能が示されることはないからだ。


 そんな時に、意識せずにあの術を使ってしまったことで、レオンの人生は一変したのだろう。

 あの術は最高度の異能で、禁術だ。禁術は教えられないため、幼いレオンが禁術の意味を十分に理解できたとは思えない。しかし、レオンは、とっさに最高難度の禁術を複数の人間に対して用い、すぐにそれを解く術まで発動してしまった。そんな異能は、〈銀麗月〉といえども、一定の訓練をなした上でなければ、獲得できない。

 カイが〈銀麗月〉に任じられたのは、カイもまた最高難度の異能を用いることができるからであるが、それは老師によって、異能をコントロールしうる心身両面の力を鍛えられたからであり、天月幹部の前でその規制力を証明できたからである。そんなカイでも、十歳になるやならずで、最高度の異能とそれを解く術を発動するには至らなかった。つまり、レオンは、天月史上、初代〈銀麗月〉に匹敵する最高レベルの異能者だったと考えられる。


■レオンの異能

 そのような異能が突然発現してしまった子を宗主が放置するはずはない。

 カイには宗主でもある老師という強力な保護者がいた。だが、レオンにはミライ以外の保護者はいなかったはずだ。ミライはレオンに惜しみない愛情を注いだが、当時の宗主に対抗してレオンを守る力は持っていなかった。


 元宗主は、早熟な異能の抑制、あわよくば、異能の封じ込めをはかろうとしたのではないか。それは、〈銀麗月〉の出現を阻むなどいう一部の自派の修士たちの願望に合わせようとしたからではなく、レオンの異能の大きさが天月全体の危機を招き、ひいては世界全体のバランスを崩すと恐れたからかもしれない。元宗主は、異能に関する禁書を調べ上げ、そのような決断をしたと思われる。とすれば、滝の禁書室で異能に関する禁書を徹底的に調べる必要がありそうだ。


 ミライによれば、レオンは二度とあの禁術は使わなかったという。だが、その代わりに神謡を作り始めた。人も動物もみなが聞きほれる曲だ。考えようによっては、むしろその方が危ない。そのことをわかっていたのは、レオンの潜在的な異能の大きさを知る元宗主だけだったろう。元宗主はレオンの異能はコントロール可能なものではないと気づき、その存在自体を怖れるようになったのではないか。

 かといって、元宗主自身がレオンを亡き者にしたとは考えにくい。そもそも天月は殺生を嫌う。このため、天月は死刑制度をもたないし、入門時に報復や攻撃に人命を損なわぬことを誓約している。


 だが、複数のできごとが重なり合って、思わぬ結果が引き起こされた可能性は捨てきれない。

 レオンの事件の日、元宗主は天月の山にいたはずだ。だが、天月宗主は誰も知らない秘密の通路を使うことができる。もっと言えば、天月宗主であれば、天月にいたままでも、ひと一人の運命など自在に操作できる。天月本山と櫻館の距離ならば、空間移動も可能な範囲だ。だが、レオンほどの異能があれば、宗主の意思など簡単に察知して、跳ねのけることもできたはずだ。

 レオンの右手の指はすべて折られた。レオンが自分で折ったとすれば、レオンは自分の右手の意味を悟ったからに違いない。

 禁術を使い、曲を奏でる右手だけを傷つけ、レオンの命には手をつけないとすれば、格好の場所はどこか? 天月はむしろ危険だ。あらぬ犯人探しが始まってしまう。むしろ天月の外で事件を装うのが一番良い。傷ついたレオンを天月に運び、治療を施して生かすならば、レオンにはさまざまな使い道がある。レオンの身体能力や知能は非常に高く、異能抑制派にとっても垂涎の的だったはず――。何より、レオンならば、天月を代表する修士そして博士に成長するはずだ。異能をコントロールすれば、〈銀麗月〉の地位すらありえただろう。


 だが、もし、レオンの異能に気づいている者が元宗主のほかにいたとしたら……? 

――まさか、〈天明会〉……?

 〈天明会〉であれば、何としてもレオンを欲しがるであろう。

――とすれば、〈天明会〉が天月にも入り込んでいることになる。しかも、宗主だけの秘密を知るほどの地位に……。

 レオン事件の後、宗主はしばらく人との面会を絶ったと記録が伝える。その後、宗主は得意であった剣舞を披露することはなくなった。宗主の右腕に何らかの異変があったのかもしれない。宗主だけを診る最高位の天月典医に事情を聴く必要がありそうだ。


 カイは、ここまで考えて、ほうっとため息をついた。

 導き出した二つの推論は、真逆だ。

 一つは、レオンを拉致したのは、あるいは、拉致しようとしたのは、亡き天月宗主という可能性だ。傷は、レオンから反撃を受けたせいかもしれない。ただし、その場合でも、宗主にレオンを殺す意図はなかったはずだ。

 もう一つは、レオンが天月を降りたのに乗じて、〈天明会〉あるいは別の組織がレオンを拉致しようとした可能性だ。天月宗主はむしろその計画を察知して、〈天明会〉等の密偵をあぶりだし、レオンを守ろうとして傷ついたとも考えられる。


 しかし、いずれの場合でも、レオンがなぜ姿を消したのかまでは説明できない。しかも、彼が戻ってきたのは八年後だ。すべての記憶を失っており、その記憶は今も戻っていない。

 さらに謎がある。元宗主がそれほど怖れたレオンの異能は、完全に失われたのか? もし失われていなかったとすれば、レオンの異能は脅威になることはないのか?


 何よりも譜面が残されている。元宗主が封印したように、譜面はふたたび封印すべきか。あの第二禁書室の存在は、あまりに奇妙だ。ルナ神聖石盤との符合も気にかかる。

 亡き宗主が単独でレオン事件を画策したのだとすれば、天月自体がレオンの脅威とは言えまい。しかし、宗主にレオンの音楽の異才を伝えたのはマルゴ修士という。マルゴ修士は誰とつながっているのか? 異能抑制派の幹部が関与している可能性は否定できない。あるいは、異能賛美の〈天明会〉が、密偵を通じてレオンの異能を知っていた可能性もある。


 さらに、新たな可能性として浮上したのが、カトマール皇室及び香華族とレオンとの関係だ。存続を否定された香華族にとって、元皇子レオンの生存は、復活のための何よりの旗印になろう。

 自ら異能を捨てようとしたレオンにとって、異能者レオンを抹殺しようとする者も、異能者レオンの復活を望む者もすべて敵となる。そしてその者たちは、レオンが異能を捨ててでも守ろうとする者――彪吾――を利用する恐れが高い。おまけに、彪吾は、譜面の力を引き出すたぐいまれな弾き手だ。事態は、予想していたよりもはるかに深刻かもしれない。


 カイがレオンのことを調べれば調べるほど、わずか十歳であったレオンの卓越した能力が次々と明らかになる。いまの〈銀麗月〉カイを超えるほどの異能を持っていたとすれば、レオンの失踪はレオン自身の意思だと考えざるを得ない。しかし、レオンはその記憶をすべて失い、異能もすべて失っている。

 いや、「失った」という表現は、きっと正しくないだろう。何らかの事情で、レオンは記憶と異能を自ら封印したに違いない。封印は、記憶が失われた最後の時点、十八歳――レオンがラウ伯爵に拾われた時点だ。その時、レオンは生命の危機に陥っていたにもかかわらず、何かに引かれるように彪吾の館に逃げてきた。


 十歳のレオンの下山も失踪も十八歳での帰還も、すべてに彪吾が関わる。

 とすれば、封印が解けるときにも必ず彪吾が関わるだろう。彪吾の危機はレオンの危機であり、レオンの異能の封印が解けたとき、カイの力では及ばないかもしれない。まずはふたりを守り、ふたりのそばで変化の兆しにいち早く気づく必要がある。

 『天月秘録』に記された〈天満月(あまみつき)〉がレオンであるかどうかまではわからない。ただ、本人も気づいていないレオンの潜在的異能は、〈銀麗月〉として放置すべきではない。

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