Ⅺー1 運命――〈十歳のレオン〉
■〈銀麗月〉
レオンは、自室で部下から一つの報告書を受け取っていた。天月修士カイの情報だ。そこには驚くべきことが書かれていた。
――まさか、カイ修士が〈銀麗月〉とは……。
カイが、天月史上最年少で修士になったことは知っていた。四百年ぶりに天月に〈銀麗月〉が誕生したことも耳にしていた。しかし、カイと〈銀麗月〉を結びつけるなど、考えもしなかった。先日会ったカイは、秀麗な顔をした知的な青年であったが、あまりに若かったからだ。
〈銀麗月〉がだれであるかは、秘密というほどではないが、あえて公表はされない。〈銀麗月〉は、天月にとって唯一無比の至尊者であるため、生来の個人名とは結びつけられない。天月士のだれにとっても、〈銀麗月〉は安易に接することができる存在ではない。一般に、〈銀麗月〉は、天山の奥に鎮座する伝説の仙人としてイメージされている。天月最強の異能者でもあるため、畏怖の対象でもある。
〈銀麗月〉ともなれば、天月宗主をも上回る特別な地位だ。一国の国主にも匹敵する。アカデメイア大学総長をはるかに上回る身分であり、附属博物館で過ごすならば、館長以上の待遇が与えられてしかるべきだ。何より、〈銀麗月〉は天月のルーツにあたるルナやウルに関する知識は抜きんでているはず。カイが博物館で一研究員としてルナ資料を調べる必要がどこにあるのだろうか?
カイは言っていた。
――アルバイト学生に相当助けられている。
その者は、関連分野の文献をほぼ読破しており、アカデメイア大学附属博物館がもつルナ資料やウル資料の種類、保管場所、その内容を即座に指摘できるとか。彼の助けを借りて、カイは、未解読のルナ石板を読み解こうとしているらしい。しかし、それだけなら、スパコンのデータ解析に任せれば、解読の手がかりがいくつも見つかるはず。なぜ、あえてアナログな方法を取るのだろうか?
ラウ伯爵が石板の素材にこだわるように、ルナ石板には刻まれた文様以外の重要な情報が含まれているのかもしれない。
ラウ伯爵の言葉がよみがえる。
――〈十歳のレオン〉を襲ったのは天月の者かもしれない。それも相当高位の者だろう。
とすれば、天月の関係者にうかつな依頼はできない。だが、〈銀麗月〉ならば、どうか。
天月において〈銀麗月〉は至高の存在であり、殺生や不正に無縁でなくてはならず、天月宗主を含む天月のゆがみを改める使命も帯びていると聞く。それに、そもそも彼が生まれたのは二十年前。〈十歳のレオン〉の事件が起こった後だ。
レオンは考え込んだ。一度カイとじかに話してみたい。しかし、理由もなく博物館へは行けない。もと天月修士の副館長マルゴに疑われる恐れがある。何か策はないものか……。
■博物館での打ち合わせ
レオンはラウ伯爵に、カイが〈銀麗月〉だと報告した。ラウは、これ以上ないほど驚いた。そんな傑物がルナ資料を求めて博物館に滞在するとは。……しかし、カイが自らの身分を明らかにしない以上、こちらとしても〈銀麗月〉にふさわしい待遇を申し出るわけにもいかない。ラウは、レオンにカイの動静を探るよう命じた。
数日後、レオンはアカデメイア博物館館長室を訪ねた。ルナ大祭典の展示物に関する打ち合わせを口実にした。館長は自分から出向くと伝えたが、レオンは実物を見るために自ら訪問したいと答えた。
博物館では、館長クロサキ、副館長マルゴに加えて、館長がカイを呼び出していた。カムイが付き添っている。レオンの予想通りだった。天月の知識がなければ回答できない質問を用意したのだ。館長は、ルナ大祭典の事実上の総責任者に対する説明に不備があってはならないと考えたのだろう。レオンは副館長のことははなから信用していなかったが、館長は尊敬に値する学者だと思っている。
一通り打ち合わせが終わったあと、レオンは現物を見たいと希望した。館長と副館長は別の会議があったので、カイが案内役を務めることになった。二人を不自然なく追い払うために、二人にとって重要な会議が予定されているときにあえて訪問したのだ。
一階の資料庫に向かうと、リトがいた。「アルバイト学生です」とカムイが紹介すると、「朱鷺理兎と言います。文学部一年です」と、リトがぺこりとお辞儀した。
あの七人の中では女子たちの強烈な個性に押されて埋没しそうだったが、改めて見ると、非常に端正な顔立ちの好青年だ。屈託のない笑顔は人の良さを感じさせ、じつに健康そうな身体つきは若さを謳歌しているように思える。
「先日、稽古場でお目にかかりましたね」
レオンは落ち着いた声で挨拶した。リトはひたすら恐縮した。レオンには傲慢なところはないが、相手を委縮させるだけの風格と威厳がある。それは、副理事長ラウ伯爵の筆頭秘書であり、かつアカデメイア副理事という地位とは無関係に、レオン自身が醸し出す雰囲気であった。
望まれた資料を取り出して並べると、カイがカムイを通じて、レオンに説明していく。時々レオンが発する質問はきわめて的確で、レオンがこれらの資料の価値を十分に理解していることがよくわかる。リトはレオンに好感を持った。彼は副理事長や副館長と同類の人間ではなさそうだ。カイも同じように感じていることがわかる。
一通り確認を終え、少し休憩をとることになった。リトは、言われる前にささっと紅茶と菓子を用意した。三人の姉とばあちゃんにこき使われ続けたのだ。かいがいしく下働きをすることには何ら抵抗がなく、しかも手際よくこなすことができる。
レオンにリトも同席するよう促され、一緒にお茶をした。カイという天月至宝の美貌と、レオンというアカデメイア最高の美形を前に、リトはまともに言葉が出てこない。並んで見比べると、心なしか二人はどこか似ている。
(美形は似るもんなのかなあ……)
リトは二人の美貌に圧倒されながら、ぼんやりとそう感じていた。
そのうち、なにかの拍子で、ミュージカルの稽古の話になった。しゃべるのを遠慮しているリトへの配慮だろう。レオンが尋ねた。
「見学に来ていたみなさんは仲が良さそうでしたね。よく集まっておられるのですか?」
そのとたん、カムイがぷぷーっと噴出した。
「あ、すいやせん。つい……」
カイがカムイに許可を与えたようだ。カムイがしゃべり始めた。なぜか、時代がかったベランメエ口調だ。
「レオンさまがご覧になったのは、ルルと風子とアイリとリクとシュウ、それからコイツ、いやこのリトでござんしょ? 仲がいいとはお世辞にも言えませんやな。な、リト?」
「あ、ああ。まあ、そうかも……」
「あの六人のうち、まともでかわいくて才能があるのはルルだけでやんす。アイリは性格が悪い、リクは暗い、風子は幼稚、シュウは根性がない、コイツ、いやリトは落ちこぼれ」
カイが目でカムイを制した。リトがカムイに小声で突っかかった。
(カムイ、おまえなあ。オレが黙っていると思って、図にのるなよな!)
レオンが二人を見た。威圧感はないが、逆らえない迫力がある。
「ということは、カイ修士もカムイさんも五人の生徒たちのことをよくご存知なのですね?」
「よく……とまで言えるかどうかはわかりませんが、何度かご一緒しました」と、カムイがカイを代弁した。そのときはとても丁寧で上品な口調になる。
「そうだったのですね。じつはあのみなさんのうち何人かはそれぞれに有名でして、副理事長をはじめアカデメイア幹部の間ではよく知られているのです。ルルさんはルナ大祭典のミュージカル主役に抜擢された期待の新人ですし、アイリさんはアカデメイアが誇る天才科学者です。風子さんは古文書学に秀で、年間数人しか選ばれない特待生ですからね。それに、こちらのリトさんは、あの高名な朱鷺博士のご子息でいらっしゃる」
カムイがリトに小声で聞いた。
(アイリが天才で、風子が特待生で、おまえが朱鷺博士の息子ってホント?)
リトが頷いた。
「ウソだろっ!」
カムイが驚いて思わず声を上げた。リトは軽く舌打ちした。
(ルナ遺跡見学のときに言ったじゃないか! コイツはルルにばっかり気を取られて、なーんも聞いてなかったな)
「どうやら、あまりご存知なかったのですね。教えるべきではなかったのかもしれません。リトさん、すみませんでした」
リトが答えた。
「いえいえ、かまいません。カイ修士はとっくにご存知ですし、いまお話になったことはオレも風子も別に隠していません。コイツの情報収集力が低いだけですから」
リトがカムイを指さすと、カムイがリトにかみつこうとして、リトに軽くいなされた。
表情を変えないまま、レオンが続けた。
「シュウさんは、とある名家の御曹司です。ただ、あのリクさんについては、ほとんどだれにも知りません。かくいうわたしもです。あの集団の中で多少の違和感があるように感じるのですが、どうして彼女がみなさんのお仲間になったのでしょうか?」
「簡単なことでござんすよ。風子が無理やりリクを引きずりこんだだけでやんす。風子の趣味はかなり変わっておりやしてね。あのリクを崇拝してるんでござんす」
カムイが口を出し、またカイにたしなめられた。
レオンにとって、カイやカムイ、リトとの会話は楽しかった。カイには〈銀麗月〉にふさわしい威厳はなかったが、その話しぶりからは、彼がいかに博識で誠実で謙虚であるかがよく伝わってきた。レオンの直感が教えた。
――カイならば信頼できる。
■レオンの頼み
「では、わたしはこれで失礼します。その前にほんの少しカイ修士と二人だけでお話したいのですが、よろしいでしょうか?」
カイは頷き、レオンを誘って自分の研究室に入った。無視されたカムイの機嫌が悪い。
「個人的なお願いがあるのです。しかも、内密にお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
カイは再び頷き、ゆっくりとレオンの手を取った。レオンが驚いていると、カイの言葉が、身の内に流れてきた。
(互いの思念を伝えあうという天月修士の能力の一つです。ただ、だれに対しても可能というわけではありません。相手に一定の潜在能力がなければ、この種の意思伝達はできません。ですが、レオンさんならばもしかしたらと思い、試してみました。失礼をお許しください)
レオンが得心したように頷き、思念で伝えた。
(まことに勝手ながら、あなたを調べさせていただきました。あなたが〈銀麗月〉であると存じ上げている上でのお願いです)
カイは頷いた。ラウ財団が競合する組織の構成を知ろうとするのは当然であり、財団の最高幹部であれば、〈銀麗月〉を調べるのは難しくあるまい。
(わたしは十八歳までの記憶をもっていません。二十二年前、天月からはじめてピアノコンクールに出た子どもがいたそうです。どうやらそれがわたしらしいのですが、自分ではわかりません。二十二年前のことをひそかに教えていただける方をどなたかご紹介いただけないでしょうか?)
いつも感情を表に出さないカイの顔色が変わった。しばらく沈黙した後、カイはこう伝えた。
(二十二年前に、天月の子どもがピアノコンクールに出たことは確かです。ですが、その子は十歳で事故死したと記録されています)
(わたしもそう聞いています。しかし、何かの事情でわたしは生き延び、記憶と音楽を失った代わりに、命を永らえたらしいのです。もう一度天月に戻りたいのでも、事故の真相を暴きたいのでもありません。自分がいったい何者なのかを知りたいのです。しかし、くれぐれもお願いしたいのですが、この頼みはカイ修士以外の天月のどなたにも知られたくありません)
カイは、レオンの真剣な目を見て頷いた。
(天月の関係者が十歳の子の事件に関わっているかもしれないとお考えなのですね?)
レオンは驚いた。カイはすでに何かを知っているのだろう。
レオンは伝えた。
(真実を知ることは、わたしだけでなく他の者を巻き込む恐れがあります。ですが、知らないことはいっそうの危険を招きます。ですから、真実がどうであれ、それを完全に秘密にしていただきたいのです)
(わかりました。信頼できる人を内密にご紹介します。しばらくお時間をください)
■〈十歳のレオン〉
カイが紹介してくれたのは、カイが最も信頼する天月士の一人であった。その女性天月士ミライとレオンは、週末に櫻館で会うことになった。彪吾に知らせるかどうかは最後まで悩んだが、カイはこう言った。
(九鬼教授も知った方が良いと思います。その方がわれわれも彼を守りやすい)
カイは、レオンの依頼を引き受けた時点から、天月の信頼できる部下をひそかに彪吾に張り付けていた。天月が関わる秘密だ。レオンと彪吾をともに保護しなければならない。そうである以上、彪吾もまた真実を知っておいた方が良い。
ミライは櫻館の前でいったん身体をこわばらせ、ロビーでレオンを見るなり、ハラハラと涙を落した。ミライは「失礼いたします」と断って、レオンの左手を取り、手のひらを見た。
「間違いございません。あなたさまは、たしかにレオンさまです。十歳のときの面影が残っておられます。八年間お育てしたわたしが見間違えるはずはございません。何より、この左手の手のひらの中央に二本長く太い線が走っております。これこそレオンさまの証。――十歳のレオンさまにも同じ線がございました」
ミライはレオンの両手を取った。
「どれほどあなたさまをお探したことか。あなたさまが死んだなどと、わたしは一度も信じたことはございませんでした」
ミライは、レオンが天月に拾われた経緯から話し始めた。
「レオンさまが天月に拾われたのは三十年ほど前、レオンさまが二歳の頃でした。レオンさまには十歳ほど上の姉上がおられ、姉が幼い弟を天月に託したのです。雪がちらつく夕暮れ、天月の門前に現れた姉弟は薄汚れて、やせ衰えていました。特に弟の方は高熱を発し、息も絶え絶えでした。その子をおぶって姉は天月までの山道を必死で歩いてきたのでしょう。足は傷だらけでした。着ている服は粗末で、とても冬を越せるものではなく、このままもう一夜外にいれば、凍え死ぬかもしれないと思われました。
子どもたちの世話役を命じられたわたしは、すぐに弟のほうを医師に見せ、姉を風呂に入れて汚れを落とし、温かい食べ物と清潔な衣服を与えて、ゆっくり眠らせようと考えました。弟の方は肺炎を起こしかけていたようですが、天月の丹薬の効き目で、すぐに呼吸も安定しました。顔やからだを手拭いでぬぐってやると、男の子は非常に美しく、姉は礼儀作法も心得ていて、もとはそれなりの良家の子女だろうと推察されました。翌朝、起こしにいくと、弟はぐっすりと寝入っておりました。しかし、すでに姉の姿はなく、このメモが残されておりました」
ミライは小さな紙切れをレオンに差し出した。
《助けていただき、感謝いたします。この子をお願いします。どうかわたしを探さないでください》
非常に秀麗な字で、書き手は、相当の教育を受けた子だと思われた。
ミライが続けた。
「レオンと名乗ったその男の子は、名前以外は言えない状態でした。どうやら、最初は「お兄さん」がいて、ともにどこか怖いところから逃げたらしいのですが、あるとき、その「お兄さん」がいなくなってしまい、その後一カ月ほど姉とともに放浪していた様子でした。その子がどこから来たのかも、親のこともまったくわかりませんでした。ですが、わたしは姉上の希望を汲み、姉上の捜索はしませんでした。
姉上は、何かに怯えているようでした。この天月は安心できる場所といくら諭しても、怯え切った目を変えることはできませんでした。姉上は、ご自身のお命をかけてレオンさまをお守りになろうとしたのだと思います。レオンさまとはあまり似ておりませんでしたが、黒い髪、深い紫の瞳をもつ非常にきれいな女の子でございました。お名前を聞いても絶対に言おうとはしませんでした。冬用の温かい服と日持ちのする食べ物などが持ち去られていました。姉上は死ぬつもりでレオンさまから離れたのではなく、レオンさまを守るために、レオンさまから離れてお一人で生きるために天月を出られたのでしょう。
レオンさまは非常に賢い子でした。何を教えてもすぐに覚えてしまうのです。天月では、〈銀麗月〉カイさまの神童ぶりがよく知られますが、カイさまが引き取られる前には、レオンさまこそ次の〈銀麗月〉とささやかれていたほどです。その意味で、レオンさまとカイさまはいずれ劣らず天月が誇る秀才だったのです。
レオンさまには、ある特別な才能がございました。音律です。八歳にして天月に伝わるすべての楽譜を覚え、あらゆる楽器を奏でることができました。その中でもレオンさまが特に興味をもったのがピアノです。天月には洋楽器は少ないのですが、新しいものも必要だとして、真新しいピアノが運び込まれたのです。レオンさまはそれに夢中になりました。わたしも多少ピアノをたしなみましたので最初は指導いたしましたが、レオンさまはあっというまに上達し、どんなに良い師を与えても、すぐに凌駕してしまうのです。
そんなとき、たまたまある修士が、アカデメイアで開催されるコンクールの話をもってきました。天月の子がそんなコンクールにでるなどもってのほかとの反対が強く、いったん立ち消えになったのですが、レオンさまは自分以外の弾き手の演奏が聴きたかったようです。結局、わたしが付き添う形でエントリーし、レオンさまは決勝戦まで勝ち上がってしまいました。そのときに泊まったホテルが、ここです。あのときとほとんど変わっておりません。
ところが、翌日が決勝という前夜、レオンさまがいなくなったのです。総出で探しました。でも、見つかりません。決勝で戦うはずだった相手の男の子が、心配してずっとそばで様子を見つめていました。その子はとてもかわいらしく、レオンさまが会いたがっておられた子です。その子が、いまレオンさまの隣におられる彪吾さまです」
彪吾がレオンに身体を寄せた。レオンが彪吾に微笑みを返す。
「その日から二十二年です。わたしは自分を責め続けました。どこに落ち度があったのか? レオンさまはなにかがイヤで天月を去ったのか? まさか、事故にあったのか? それとも、かどわかし?
数日後、天月に向かう道とは逆の崖道でレオンさまの衣服が発見されたのです。下は急な渓谷。レオンさまは何かの理由で、川に落ちたのだろうと判断されました。
わたしは納得しませんでした。あれほど賢く、慎重なレオンさまです。武術にも軽功にも長けておりました。川に落ちるなどありえないのです。でも、だれもわたしの訴えには耳を貸してくれませんでした。
五年前、こちらのカイさまが修士になられたときに思い切ってご相談しました。カイさまだけが、話を聞いてくださったのです。
これは、お二人が天月にやってきたときに、姉上がわたしに託したものです。カイさまにはお見せしました。レオンさまが成人なさったらお渡しするつもりでした。どうぞこれをお納めください。レオンさまのお生まれの秘密を解きほぐす手がかりになるかもしれません」
レオンは渡されたものを見た。古びているが、かなり手の込んだ刺しゅう入りの袋であった。中には、水晶の丸い珠が入っていた。袋を裏返してみると、そちらにも見事な刺繍が施してあった。
おもむろにカイが口を開いた。
「天月の資料で調べてみたのですが、この文様は、古代ルナの神殿模様の一つのようです」
「古代ルナの神殿模様?」とレオンが首をかしげた。そのようなものを身近に手にすることができる者は限られているはずだ。
カイが続けた。
「この模様は、百年ほど前、カトマールで発掘されたルナ大神殿遺跡で見つかったものと似ています。しかも、この神殿模様は公開されていません。天月に残された資料も、そのときたまたま調査でカトマールを訪れた者が書き写したものです」
思わず、一同が沈黙した。
カトマール。……そこでは、三十年ほど前に内戦がおこり、帝政から共和政に移行した。共和政と言っても、成立したのは軍事独裁政権。皇室は軟禁状態に置かれていたが、国民の信望が高い皇帝と夫君の復位を願う声も高まっていた。そして革命から一年後、軍政に反対する大規模な反対運動が起こり、軍事政権に反対した文化人が多く逮捕された。非暴力の抗議運動であったにもかかわらず、「クーデター」とみなされた。皇帝一家は責任を問われて全員が処刑され、「クーデター」に関わった者も親族縁者まで虐殺された。子どもにも容赦がなかったという。残党狩りも厳しく、その後数年間は各地で残党狩りが行われた。それから二十年間、カトマールでは「暗黒の独裁」と呼ばれる恐怖政治が敷かれ、国民の自由は大きく制限され続けたのである。
ようやく十年前、「民主化」をめざす反政府運動が成功し、軍部独裁を終わらせた。新政権は、「文化国家」を掲げてルナ大祭典の成功を国民に期待させている。ルナ大祭典に合わせて、カトマール各地で文化省主導の「文化行事」が企画されており、ラウ伯爵のグループ企業の多くがこの行事に参加している。
カイが言った。
「カトマールには天月の関係者もいます。わたしのほうで調べてみましょう」
レオンは深く礼をして、静かにこう告げた。
「十歳の時のことは、いくつかの可能性が考えられます。カトマールの残党狩り、しかし、残党狩りはすでにその五年前に終了宣言が出されていました。国家予算を割けなくなったからです。もう一つはわたしの優勝を阻むため。これもありえません。ひとの命を狙うほどの理由にはならないからです。三つ目が、ピアノコンクールを利用してわたしを天月の外に連れ出して拉致すること。これは可能性として非常に高い。けれども、目的がわかりません。十歳の子どもにどんな利用価値があるのか? ただ、もし、十歳のわたしに何らかの利用価値があったとすれば、その価値あるいは拉致の目的を悟ったわたしは、川に落ちたように偽装して、姿をくらましたのだと思います。敵からも味方からも――。戻ってこられなくなったのは、たぶん何らかのハプニングにあったためでしょう」
「どうしてそう思われるのですか?」とカイが尋ねた。
「わたしなら、きっとそうするからです」とレオンは答えた。いつもと変わらぬ冷静な表情だった。
カイは頷いた。天月が誇る神童であったならば、自分を傷つけ、自分の未来を犠牲にしても、だれかの悪意に加担はすまい。そのような教育を徹底されているからだ。だが、その記憶を失ってもなお、レオンは同じことをすると言う。アカデメイアにきてからの十四年間、かれはひたすら己を律し、欲と無縁な生活を送ってきたのだろう。それは、天月修士の生活と何ら変わらない。
「ただ、わたしにどのような利用価値があったのかは、わからないままです」
「ピアノコンクールの話をもってきたのは誰ですか?」とカイが尋ねると、「マルゴ修士です。いまのアカデメイア副館長です」とミライが答えた。
レオンとカイが同時に顔を見合わせた。
「ということは、副館長はレオンさんが〈十歳のレオン〉だと気づいていたということになりますか?」と、カイがレオンの方を見た。レオンは一瞬思案した。そして、首を横に振った。
「その可能性は低いでしょう。わたしは、ラウ伯爵の遠縁とされてきました。伯爵はわたしを助けたときに、わたしを守るために実在する遠縁の青年の名をわたしに与えてくれたのです」
「その方は?」
「わたしが拾われたのと同じ日に同じ病院の隣の部屋で亡くなったそうです。彼の死は伏せられ、わたしは、伯爵の「遠縁のレオン」としての人生を生きることになりました。マルゴ修士とはじめて会ったとき、たしかに彼は驚いた顔をしていました。おそらくわたしのことを調べたでしょう。ですが、どんなに調べても、わたしがラウ伯爵の遠縁の青年レオンであることを否定する証拠は出てこなかったはずです。マルゴ副館長の疑念は、かえってわたしが〈天月の子〉ではないことを裏付ける結果になったと思います」
カイもカムイも驚嘆した。ラウ伯爵の準備は周到で、スキがない。
「ただ、副館長の動きは気になります」とレオンは言った。
ミライが小さく頷く。
「マルゴ修士が天月を出たのは、二十年前。――レオンさまの事故の直後です。その後、アカデメイアに迎えられました。まさか、ラウ伯爵とつながりがあるのでしょうか?」
ミライはマルゴ修士には良い印象を持っていないようだ。
しかし、レオンははっきりと否定した。
「ラウ伯爵と副館長の協力関係を想定する必要はないでしょう。ラウ伯爵はマルゴ副館長のことは研究者としてあまり評価していません。なにより、ラウ伯爵はビジネスマンとして非情な方ではありますが、不正や非道は認めません。それらは結局ビジネスを損なうだけであり、多様な社会に活路を見いだすのがビジネスの本質であって、人と地球を守るのがビジネスの究極目標だというのが、ラウ伯爵の立場です」
カイは納得した。レオンほどの人物が、なぜラウ伯爵に仕えてきたのか。それは恩義だけではあるまい。かれは伯爵の理念に共鳴したのだろう。




