Ⅹー6 エピローグ――銀狼
――自分は事故に遭ってここにいるらしい。ラウ伯爵の遠縁だとか。
だが、信じられなかった。何かが起こって、何かから逃げていた。ただ、それが何かがわからない。
事故の真相も含めて、懸命に調べた。結局、何もわからなかった。ラウ伯爵の遠縁の青年が母親とともにアカデメイアに来る途中で事故に遭った。――その事実以外は。
事故が起こった森のそばには何度も出向いた。周りからは、亡くなった「母」を悼んでいるのだろうと思われた。だが、本当は違う。森に行くと、必ず姿を現す銀色の毛並みが気になったのだ。その毛並みはなかなか近寄ってこなかった。最初はやや大型のイヌだろうと思った。でも、違った。美しい狼だった。
半年ほどたち、記憶のない生活に慣れてきたころ、ラウ伯爵が言った。
「そろそろキミの住まいを用意しよう」
提案されたのは、都心にある超高級マンションの一室だった。わたしは、それを断った。そして、空き家になっていた小さな家に住みたいと申し出た。森のすぐそばにあり、銀色の狼が出入りしやすい場所だった。伯爵は、安全性に懸念を示したものの、むしろその家の選択を歓迎した。事故現場に近く、「亡母への供養に励む青年」という印象を世間に与えることができるからだった。
伯爵は、その家を買い求め、わたしに与えてくれた。予定されていた超高級マンションの十分の一程度の価格だった。伯爵は、空き家をリフォームし、安全性も向上させてくれた。「遠縁のレオン」に対して、ラウ伯爵は投資と援助を惜しまなかった。
はじめてその家に入った日の夜、やはり、銀色の狼がわたしを訪ねてきた。最初に出会ったときから思っていた。この銀狼はわたしの味方で、わたしが失った過去を知っているのだろうと。
室内に入れると、銀狼はわたしのそばに寝そべった。まるで、旧知の友がわたしを護るかのように。だれにもわたしの住所は教えなかった。ラウ伯爵は一度見に来て確認したあとは、二度と来なかった。わたしと銀狼の私生活は完璧に守られた。
わたしは、相棒の銀狼をジルバと名付けた。毎夜、ジルバとともに「レオ」の曲を聴いた。「レオ」の曲はどれもわたしの心に深く染み入った。
ある日、ラウ伯爵が思いもよらぬ提案を持ってきた。「レオ」と思われる人物をルナ大祭典の企画に引き込みたいので協力しろという。伯爵の和風別邸で迎えた青年は、細身の繊細な美青年だった。わたしの胸は震えていた。毎夜聴き親しんでいる曲の作り手がここにいる。青年がわたしを見上げた。目が会ったとたん、わたしはその青年に恋をした。――九鬼彪吾だった。
過去がない空っぽのわたしは、だれにも近寄れず、だれをも近寄らせなかった。彪吾すらも。苦しかった。胸は焦がれて熱いのに、彪吾のまなざしがもつ意味を知るのが怖かった。狂おしいほど会いたいのに、会うのが怖い。……その苦しみを、わたしはジルバにだけ打ち明けた。
彪吾と会った日はいつもジルバに語り聞かせた。
――彼がどんなことを言い、どんな表情をしてわたしを見たか。彼が奏でる音楽がいかにすばらしかったか。
銀狼と一緒に彪吾の音楽をしばしば聴いた。疲れた一日は、彪吾への想いを銀狼と分け合うことでいつも癒された。
――わたしは、ラウ伯爵の遠縁のレオンではない。
これはとうに気づいていた。だが、彪吾と競い合った〈天月の子〉がわたしだとは夢にも思わなかった。ピアノを弾きたいと思ったことなどなかったからだ。
わたしが〈天月の子〉であり、彪吾を危険に巻き込む恐れがあるのならば、彪吾から去るしかない。だが、そのまま別れるのは辛すぎた。わたしの欲だった。
彪吾の誕生日を祝うのは、もともと櫻館での予定だった。だが、急遽、わたしはこの家に変更した。わたしが彪吾と別れたのち、彼をきちんと守れるよう、銀狼に託したかったからだ。いや、せめて銀狼に彪吾を見守ってもらい、その銀狼を抱きかかえることで彪吾への想いを満たそうとしたのだ。
――想いを告げるつもりはなかった。
なのに、わたしは自分を抑えることができなかった。彪吾が〈十歳のレオン〉とわたしは同じだと言ったとき、何年にもわたって思いを抑えてきた楔が吹き飛んでしまった。
遅くに家にもどってきたわたしに銀狼ジルバは静かによりそってくれた。わたしは銀狼を抱きしめて泣いた。愛する人の手を離したことを泣いた。
そのとき、ジルバの声が聞こえたような気がする。
――あきらめることはない。もう一度きちんと手を取り、二度と離してはいけない。




