Ⅹー4 〈月神殿〉
【これまでの話から】アカデメイア大祭典に向けて、着々と準備が進んでいる。彪吾が担当するルナ・ミュージカルの曲は、レオンの協力を受けてほぼ完成した。ラウ伯爵は、彪吾からレオンを引き離し、レオンに新しい指令を与える――〈月神殿〉を探し出せ。
■彪吾とラウ伯爵
ゲストルームでレオンが使っていた椅子に座ると、窓から月光が差し込んでくる。冴え冴えとしたその光を浴びているうちに、彪吾の頭もまた恐ろしく冴えていった。
ラウ伯爵はレオンを決して手放すまい。お気に入りのレベルを超え、おそらく、レオンなくしてラウのプロジェクトは成り立たなくなっているのだろう。ならば、どうすればレオンを取り戻せるのか?
――ボクがラウ伯爵に初めて会ったのは十歳のとき。
〈十歳のレオン〉と出会ったコンクールの直後だった。彼の口から、レオンの「死」を聞いた。その後、伯爵は父の経済的協力者になり、よく父を訪ねてきた。けれども、ボクに会うことはなかった。
二度目に伯爵がボクに接触してきたのは、ボクが遭難事故から帰還して一年ほど後――。彼が〈十八歳のレオン〉を迎えた頃だ。
――その日、伯爵はボクに何を申し出たっけ?
そうだ。音楽活動のパトロンになると申し出たのだ。けれど、ボクは伯爵に会おうとしなかった。
伯爵は有名な芸術保護者。彼がパトロンになれば、演奏活動は安泰となり、作曲したものも確実に売れる。売れっ子ピアニストあるいは人気作曲家になるのは間違いなかった。だが、ボクはその申し出を断った。人気などどうでもよかった。十代の頃、ボクは世間にもてはやされ、疲れ果てていた。〈十歳のレオン〉にあれほど惹かれたのは、彼が自由だったからだ。
親が残した遺産をすべて処分し、このホテルを買った。両親との思い出もあるが、それ以上に、〈十歳のレオン〉との唯一の思い出がある場所だったからだ。遺産には多少の余裕があり、贅沢をしなければ生活には困らなかった。ボクは数年間、館に閉じこもり、ひたすら曲を書いた。やがて、〈五月の歌〉が注目されるようになった。
それからしばらくして、ラウ伯爵の別邸に招かれた。伯爵は優雅な物腰で、父が集めていた画家の絵の提供を申し出た。断るつもりだった。しかし、緑茶をもってきた者にボクの目は釘付けとなった。レオンだった。
――二十五歳のレオン。
レオンにもう一度会いたくて、ただそれだけのためにボクは映画音楽の仕事を引き受けた。そして、レオンが喜ぶ顔を見たくて、その映画音楽の創作に没頭した。
結果は、大ヒットだった。ボクの名は、もはやピアニストではなく、作曲家として広まることになった。だが、レオンと話す機会はほとんどなかった。
伯爵はその後もレオンを通じていくつかの企画を持ち込んできた。レオンの地位は次第に上がっているようで、会うたびに伯爵のそばにだんだん近づいていった。彼はいつも表情を変えず、決してボクの目を見ようとはしない。レオンはまだ伯爵に直接話しかける地位にはいなかったのか、彼の声もほとんど聞けなかった。
――三年前、ラウ伯爵は、レオンを通じてボクに大きな提案をもってきた。
アカデメイアに音楽学部を作るので、そこの特別招聘教授になってほしいというのだ。そして、四年後のルナ大祭典の音楽監督を任せたいという。ルナ大祭典は、アカデメイアが主催し、シャンラ王室やカトマール政府が後援する一大行事で、四年ごとに開催されている。ラウ伯爵がアカデメイア副理事長として担当するようになってから、ルナ大祭典は規模を拡大し、いまや国際的な商業イベントとしても成功している。そのとき、レオンがラウ伯爵の筆頭秘書になったことを知った。
レオンとの仕事は楽しかった。レオンはいつも無表情であったが、ムダなことは言わず、ボクの言いたいことややりたいことを的確に文章にして、ラウ伯爵と交渉してくれた。じつに有能だった。レオンのきれいな顔をずっと見ていたくて、話をじらし続けたことも度々(たびたび)だった。そんなときもレオンは決して怒らず、ボクにずっと寄り添ってくれた。しかし、それはすべて仕事の話。レオンはそれ以上には、ボクを踏み込ませなかった。
伯爵は、ボクに対してレオンを巧妙に利用していたのかもしれない。けれど、十歳のときのできごとは〈十歳のレオン〉とボクのふたりだけの秘密だったし、ボクの気持ちを伯爵が知る機会はなかったはず……。
――いや、そうとも言えない。
伯爵は父のもとを頻繁に訪ね、ボクが「友だち」を失って落ち込んでいることを聞いていた可能性は高い。
彪吾は、デスクに向かった。レオンは、彪吾の参考になるようにと、ルナ大祭典のプログラム案、ミュージカルや他の催しの出演予定者、会場設営、招待客予定リストを含む膨大な資料をここに残していた。彪吾は、これを片っ端から読み直すことにした。
■過労
カトマール高官と交渉しているときだった。レオンの携帯に緊急連絡が入った。
――彪吾が倒れ、病院に緊急搬送された。
レオンは、仕事を中断し、部下に必要な仕事を分担させて、カトマールの首都ルキアからすぐさまアカデメイアに飛び、病院に向かった。
岬の上病院だった。聞きしに勝るオンボロぶりだ。九鬼彪吾ともあろう者がなぜこんなところに入っているのか、レオンは理解に苦しんだ。
出迎えたツネさんによると、彪吾は十歳のとき、初めてのそして唯一の友だちを失って深く悲しみ、ものを食べなくなって衰弱して、救急車でここに運ばれたという。それ以来、彪吾はこの病院以外を使わず、なにかあればここに運ぶことになったという。
特別室で彪吾は青い顔をして横たわっていた。点滴の管につながれている。ツネさん夫婦は、レオンに深く感謝し、経緯を説明した。
「レオンさまがお去りになってから、若さまは、時々フラッとどこかに出かけるほかは、ゲストルームにこもりきりになり、食事もろくに取らず、何かの資料を熱心に読んでおられました。ただ、生きるのをあきらめてしまったような十歳のときとは異なり、何かに執着しているご様子でした」
レオンはベッドのそばに座った。ツネさん夫婦はロビーで待っていると言って部屋を出た。
レオンが彪吾の手を取ると、彪吾がうっすらと目を開けた。
「……レオン?」
「どうしてこんな無茶なことをしたんです?」
「よかった。……ボクが倒れたら、レオンは飛んできてくれるんだ……」
「まったくもう、どれほど心配したか」
「……ごめん。驚かせるつもりはなかったけど、ボクがこうなることはある程度予想していなかった?」
「十歳の時とは違います。あなたはいろいろな責任を負う立場ですよ」
彪吾はうちしおれた。言い過ぎたと思ったレオンは、彪吾の肩をやさしくなでようとした。
そうすると、彪吾がレオンを引っ張り、その胸に自分の頭を乗せた。
「……ちょっとだけ」
「もう……ほんとうに甘えんぼさんですね」
レオンの胸で彪吾は安心したように目を閉じた。レオンは彪吾をかき抱く左腕を軽く動かしながら、彪吾の背をさする。
彪吾はレオンの右手を両手でしっかりと握り込み、離そうとしない。レオンの右手の指を一本一本もてあそんでいた彪吾の顔がやや変わった。
「キミの指……?」
レオンが怪訝そうに彪吾を見た。彪吾は質問を変えた。
「あとどのくらいいられるの?」
「十分ほどです」
ガバッと彪吾は起き上がった。こんなことをしている場合じゃない。
「レオン。ボクはあれから、キミが残していった資料を隈なく読み返してみた」
「あなたが倒れるために残したのではありません」
「わかってるって。で、奇妙なことに気がついた。一番の疑問は、新しい野外劇場の建設場所だ」
彪吾はまくしたてた。
■〈月神殿〉
彪吾のミュージカルを含む主な舞台を上演するのは大劇場だ。その建造費はラウ財団が負担し、カトマール政府に寄贈することになっている。それ自体は不思議ではない。
ルナ大祭典は、アカデメイア・シャンラ・カトマールを順番で回って開催されており、前回のシャンラ王国のときは、王立博物館が協賛し、王室の宝物を披露した。このまえアカデメイア博物館で開催されたシャンラ秘宝展はその延長だ。そして、シャンラ王国は、王領でのルナ遺跡の発掘を許可し、その遺物と遺跡の公開を目玉とした。それは大人気で、国際的に大きな評判となった。
今回、カトマール政府はこれに対抗心を燃やしている。それゆえ、これまで許可していなかった地区の発掘を許可し、遺跡の公開も進めることにした。加えて、大劇場と博物館を設置し、イベントを盛り上げようとしている。ここまではラウの筋書き通りだ。
わからないのはここからだ。大劇場に加えて、ウル大帝国時代の遺跡に似せた野外劇場の設置も計画されていた。設置場所の当初案について、レオンは、伯爵への報告書でこう結論づけていた。
――当該地区は遺跡が出る可能性を排除できない。遺跡が出た場合にはその調査費用や別の代替地の確保など、費用が莫大になる恐れがあるため、当該地区の選定は避けるべきである――
レオンが根拠に挙げていたのは、ファン・マイという女性研究者の論文だ。彼女は、〈月神殿〉が実在したと推測していた。
〈月神殿〉は、ルナ神話に登場する古代神殿の一つだ。神話上の古代神殿は、月、日、水、火、土の五つがあると伝わるが、実在したかどうかはどれも確認されていない。
百年前に発掘されたカトマールのルナ大神殿は、その規模の大きさと壮麗さから、ルナ信仰の拠点と考えられた。レリーフ文様に月の意匠が多いことから、ルナの神々の中でも筆頭の「月の神ルナ」を祀る本神殿と推測されている。アカデメイア副館長マルゴは、この大神殿の中に特別な祭祀空間があり、これが〈月神殿〉と呼ばれたと論じた。現在の通説である。
しかし、ファン・マイはこれに反論した。マイは、『ルナの書』および幾多の断片的な神話や伝承を突き合わせた結果、ルナ大神殿の近くに小規模な神殿が存在し、その小神殿こそが〈月神殿〉であって、ルナ本神殿の中核であると論じた。マイによると、〈月神殿〉は「さまよう神殿」であり、場所は一定せず、ほぼ一千年ごとに変わったという。ルナ古王国が誕生してウル大帝国が成立するまでの数千年間に少なくとも三度稀な月蝕が生じたと思われ、そのたびに〈月神殿〉は移転したとマイは考えたのである。ルナ大神殿のそばにある小神殿は、〈第一月神殿〉と思われる――マイはそう主張した。
マイの説は学会で嘲笑され、彼女自身は別の論文の盗作騒ぎで学界から追放された。しかし、レオンはマイの研究をすべてフォローし、その研究を軽視できないと結論づけていた。
レオンに絶対的な信頼を置くラウ伯爵が、レオンの意見を無視したはずがない。ところが、いつの間にか、レオンが否定した場所に屋外劇場を設置する案が計画に浮上していた。
なぜ、ラウは、遺跡が出るかもしれない場所を屋外劇場の舞台に選定し、多額の金を投じようとしているのか?
遺跡が出た場合、工事は中断し、別の場所を探さざるを得なくなる。投じた資金はまったく回収できず、すべてラウの自腹となる。あの辣腕経営者であるラウが、あえてそのようなリスクを負うとは考えられない。
カトマール文化省は、あまり予算をもたない。国家予算がかかる発掘調査にはあまり乗り気ではない。しかし、他国の合同調査団に調査を委ねることもこれまでしてこなかった。遺跡はほしいが、調査にかかる経費は自分でもちたくない。さりとて、他国に調査を委ねるなどは国民向けにメンツがたたないということだろう。
今回の大劇場建設地も野外劇場予定地も、カトマール政府がラウ財団に期間限定で貸与した国有地だ。もとはカトマール皇室の直轄領であった神域だ。
考えられる筋書きはこうだ。
――ラウ財団が野外劇場建設を計画したが、その計画がずさんであったために、思わぬ遺跡が発見された。遺跡発掘を優先すべきであり、調査はカトマールとアカデメイアの合同で行う。遺跡調査の経費は、当該地域を毀損したことの代償としてラウ財団が全額を負担する。野外劇場は別の場所に建設し、遺跡と野外劇場をともに整備して、カトマール政府に返還する。
これならだれも違和感を持たない。
ラウ伯爵とその親友カトマール第二副大統領シャオ・レンとの間の出来レースだったのかもしれない。しかし、実際に多額の金が動いている以上、ラウは、何としてもルナ〈月神殿〉遺跡をよみがえらせたいに違いない。もし、〈月神殿〉がファン・マイの説の通りなら、ルナ大神殿の発見以上の大発見になる。どれほど多くの観客を呼び込めることか。損失など数年で回収できるはずだ。
レオン以外に、この難題を解決できる者はいない。レオンと彪吾の親密な関係など、ラウにとって邪魔以外の何物でもなかろう。
彪吾がここまで一気にしゃべると、レオンは彪吾を強く抱きしめた。
「もうそこまでにして、ゆっくり休んで」
「レオン! キミがボクから離れたのは、ラウの野心と関係があるんじゃないの?」
レオンはさらに言いつのろうとする彪吾のくちびるを人差し指で塞ぎ、そのまま、まつげや耳たぶにも軽い口づけを残して立ち上がった。
「さあ、もう一度眠ってください」
「ずるいよ。……ボクを眠れなくさせておいて」
「ツネさんの言うことを聞いて、きちんとご飯を食べるんですよ」
「イヤだ。……また倒れたらキミが来てくれる」
「そんなにわたしの心臓をえぐり出したいですか?」
彪吾はレオンを見上げた。この上なく愛しげなまなざしで、愛する美しい人が自分を案じてくれている。
「……わかった。……ちゃんとご飯を食べる」
「それから、もっと大切な約束をしてください」
レオンは彪吾の頭を撫でながら、言った。
「ルナ大祭典のこともルナ遺跡のこともわたしに任せて、あなたにはミュージカルだけに専念してほしいのです。あのミュージカルには、ルナという共通の祖をもつ三つの部族が長年の争いを克服して、平和を目指すというメッセージが込められています。その音楽は、紛争に悩む世界の多くのひとに響くはずです。わたしはルナ遺跡よりも、あなたのミュージカルこそが今回のルナ大祭典に最高の喜びをもたらすと信じています」
レオンは彪吾の手の甲に口づけを落とし、去って行った。
病院のロビーでレオンはツネ夫婦に挨拶し、入り口を出ようとした。そのとき、一人の少女が入ってきた。痩せぎすで化粧っ気もなく、存在感のない少女だった。だれもその少女に注意を払わない中、レオンはふと立ち止まり、その少女が去って行くさまを目で追い続けた。自分がどうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。ただ、……あの少女には何か特別なものを感じた。
彪吾はレオンの右手の指の感触を思い出していた。
あの指のすべては骨折して、節が大きくなっているようだった。事故かわざとかはわからないが、あの指では繊細なピアノ演奏は難しい。……しかし、レオン自身はその意味をわかっていないようだった。ラウに引き取られてから本当に一度もピアノを弾いたことがないのだろう。
――レオンは否定しているが、レオンはきっと〈天月のレオン〉だ。
そうであるとすれば、レオンはピアノと音楽を捨てたのではない。ピアノが弾けなくなったのだろう。ただ、音楽への思いはいまも潜在意識として残っているようだ。彪吾の曲にも驚くほど的確な意見を寄せてくれる。
このミュージカルは、レオンの失われた年月を蘇らせるカギになるかもしれない。十歳の出会いをレオンに思い出してもらうためにも、ミュージカルの完成に力を尽くそう!