Ⅹー1 ルナ大祭典に向けて
【第九章までのあらすじ】四年に一度のルナ大祭典。アカデメイア、カトマール共和国、シャンラ王国、ウル舎村が協力するビッグイベントで、第三回目の大祭典は、来年、カトマール共和国のルナ大神殿そばで開催される予定だ。アカデメイアの事実上の責任者は、ラウ伯爵の筆頭秘書レオン。最大の企画は、彪吾が素監督を務めるルナ・ミュージカル。ルナ大神殿そばに建設中のルナ大劇場のこけらおとしとして披露される予定だ。一方、ルナ・ミュージカルで主役に抜擢されたルルは、天月仙門の〈銀麗月〉カイや雲龍九孤族のリト、そして〈蓮華〉の教師サキ及び古代文化同好会の仲間とともに、ルナ神殿とルナ石板の秘密を探ろうとしていた。雲龍九孤族宗主であるばあちゃんとルルの叔母スラは、シャンラの〈王の森〉で水晶の神殿とともに湖に沈み、時空の歪みに囚われてしまったらしい。
■苛立ち
新設のアカデメイア大学音楽学部。目玉は、〈五月の歌〉で著名な音楽家――「レオ」こと九鬼彪吾だ。特別招聘教授として招かれた。来年開催予定のルナ大祭典――その最大の呼び物であるルナ・ミュージカルのプロデュースと総監督を務める。
アカデメイア副理事長ラウ伯爵は、音楽学部創設の事実上の責任者だ。ルナ大祭典最大のスポンサーであるラウ財団の総帥でもある。彼は、ずっと他人との接触を拒み続けてきた九鬼彪吾を招くことができただけでも大喝采を受けた。音楽学部とルナ大祭典の成功は間違いないと言われている。
すべて順調な滑り出し……のはずだった。
だが、ラウ伯爵は少々苛立っていた。
九鬼彪吾は、教授に着任してから、毎日のようにラウ伯爵の筆頭秘書レオンを呼び出す。
確かに、レオンをルナ大祭典の担当責任者に抜擢し、彪吾との連絡担当にも指名した。だが、あの人嫌いのはずの彪吾がここまでレオンに執着するとは思いもしなかった。
レオンは顔色も変えず、淡々と仕事をこなしている。レオンの仕事のスピードは速く、段取りも良いので、ラウの命じる仕事に支障がでているわけではない。ではないが……自分のそばにレオンがいないことが腹立たしい。
今日もレオンは一時間だけ失礼しますと言って、彪吾の研究室に向かった。ルナ大祭典の打ち合わせだと言う。そう言われては止めようがない。レオンはだれかと食事をすることはない。飲みに行くこともない。そんな時間を取れないほど、レオンは忙しかった。
しかし、彪吾は、しょっちゅう夜もレオンを呼び出しているようだ。レオンは、以前は夜の残業で行っていた仕事を朝早くに来てこなしているらしい。このままではレオンが倒れてしまう。世間知らずの彪吾に悪意はないだろうが、配慮もない。レオンが配慮を求めるはずもない。レオンは決して弱音を吐かない。彼は、自分の時間を削ってでもとことん相手にあわせることができる人物だ。だからこそ、かえって危ない。
戻ってきたレオンは、今日も小さな紙袋を下げていた。彪吾にもらった弁当だろう。このまえたまたまレオンの部屋に入ったとき、テーブルの上に弁当が広げられているのをラウ伯爵は目にした。色とりどりの野菜があしらわれ、いかにも体によさそうな食材が使われていた。
ラウ伯爵がじっと弁当を見ているのに気づき、レオンが釈明した。
「幼少期から九鬼教授の身の周りを世話している女性が作ったものです」
伯爵は思わず近づいて、さらにじっと見てしまった。中に黄色い物体があった。
「これは何だね? この黄色いもの」とその物体を指さすと、レオンは顔色を変えずにこう答えた。
「卵焼きというそうです。卵を鰹出しとまぜて焼いたものです」
「オムレツとは違うようだな」
めずらしがるラウ伯爵に、レオンは尋ねた。
「お一つ召し上がってみますか?」
ラウ伯爵は好奇心が強く、自分が知らないものを見ると試してみたくて仕方がない性分だった。それを熟知しているレオンだ。レオンは、小皿に卵焼きを取り分け、箸を添えた。ラウ伯爵は器用に箸を使い、黄色い物体を口に運ぶ。
ラウ伯爵は世界各地に邸宅を構えるが、アカデメイアには常時滞在する本宅の他に三つの別邸を所有している。
別邸の一つは若い頃によく通ったサロンが開かれた思い出の邸宅で、〈青薔薇の館〉と呼ばれる。人生でただ一人愛した女性の私邸だったが、もはやその女主人はいない。ここに招く客は、かつてのサロン仲間など、数人に限られている。ラウは一人になりたい週末にはよくこの別邸で過ごした。「秘密の場所」とするため、〈青薔薇の館〉の持ち主がラウであることは伏せられている。知っているのは、この館をラウ伯爵に提供したアカデメイア不動産女王のク・ヘジンと筆頭秘書のレオンなど数人に限られた。
他の二つは、主に賓客を招くためのゲストハウス――一つは瀟洒な洋風住宅、もう一つは閑静な和風住宅であった。和風住宅では日本人の専属料理人を雇っている。ここに招くゲストには日本食をふるまうので、ラウは箸の使い方がうまい。ただ、そのときの日本食は、懐石料理か、揚げたての天ぷらか、新鮮な握り寿司なので、ラウはこのように庶民的な弁当を見たことがなかった。
「うむ。美味だな」
ラウは満足そうに言い、「キミはこういうものが好みなのかね?」と尋ねた。レオンは頷きながら、「はい」と答えた。ラウは、改めて弁当を一瞥し、部屋を去った。
レオンはいつも時間通りに現れる。今日も、彪吾はツネさん特製の弁当を持参した。
レオンは食事に誘っても断るが、ツネさんの弁当は断らない。ルナ大祭典の打ち合わせは行うが、気がつくと、彪吾はいつもレオンを見つめていた。レオンは彪吾のまなざしを無視して、事務的に確認作業を進めていく。そして、予定時間までに予定通りの打ち合わせを全部すませ、いつものように冷たい表情のまま、弁当をもって研究室を辞するのであった。
同じ弁当を彪吾は自宅で食した。なんだか二人で一緒に食べている気分になる。日中のレオンの姿や言葉に一度たりとも笑顔があったことはない。必要以上に彪吾と目を合わせることもない。それでも、彪吾は幸せを感じていた。
曲作りに悩んだときや、曲が完成したときには、夜でも、レオンを櫻館に呼び出した。「ルナ・ミュージカルの件なんだけど」と言うと、他の仕事がない限り、レオンは呼び出しに応じた。そんなときには、必ず、ツネさん特製のデザートや夜食をふるまった。レオンはツネさんが作ったものは絶対に断らない。
■卵焼き――ラウ伯爵の挑戦
レオンが広げた弁当箱のなかの黄色い物体が「卵焼き」と聞き、わたしは厨房に出向いた。シェフのだれも「卵焼き」など知らなかった。別邸に出向いた時も聞いてみた。ここには和風料理を作れる日本人の料理人を雇っている。その料理人が教えてくれた。典型的な家庭総菜で弁当料理であり、子どもから大人まで好んで食べるという。わたしは彼に作り方を教えてほしいといった。彼はびっくり仰天したが、すぐさま、わたし専用のフライパンを用意し、専用のコンロをしつらえて、教えてくれた。
何度やってもうまく焼けない。焦げてしまったり、うまくまけなかったり。――何度かチャレンジするうちに、なんとか形になった。試食してみると美味だった。わたしは、その卵焼きを高価な器に入れてもらい、執務室に持参した。黒漆に黄色い卵が良く映える。南天の緑の葉もあしらわれていた。
いつも通り、定刻にレオンが報告に来た。報告が終わったあとも、わたしが退室の許可を出さないので、レオンは立ったままじっと待っていた。わたしは迷いに迷っていた。卵焼きを渡すべきか、否か。ついに出してレオンに渡した。しかし、そのときに出た言葉はわたしの信条に反するものだった。わたしは事実をごまかしたのだ。
「きみの弁当の卵焼きがおいしかったので、わたしの料理人に作ってもらった。もっていきなさい」
レオンはお辞儀をして、ていねいに器を受け取り、わたしの部屋を辞した。なぜ卵焼きだけなのかを聞きはしなかった。
レオンは、今日も残業をしていた。
このところ頻繁に彪吾に呼び出されるので、仕事の時間が足りなくなっている。彪吾が渡してくれる弁当は重宝した。野菜中心で薄味だし、冷えていてもおいしい。いつものように、弁当をひらいた。そういえば、伯爵からもらったものがある。レオンは、ツネさんの弁当と伯爵がくれた卵焼きを並べた。弁当の卵焼きは簀巻きで巻いて形が整えられており、かつおだしがよくきいている。伯爵の卵焼きはやや甘く、お世辞にもきれいな形とは言えない。
(これを伯爵の料理人が?)
レオンは首をかしげたが、ありがたくいただいた。伯爵の卵焼きも美味だった。
翌日、顔をあわせるとすぐに、レオンは伯爵に卵焼きの礼を述べ、きれいに洗った漆器を返した。
「美味でした」というと、ラウはなぜか耳先をほんのり染めて、うれしそうに頷いた。そして、レオンの好物がなにかを尋ねた。
「わたしにはとくに偏食はありませんので、なんでもおいしくいただきますが、強いて言えば、和風の家庭料理が好みです」
(和風の家庭料理だと? そこまで九鬼彪吾に毒されてしまったか。彪吾の料理人に負けてはいられない。よし、今夜からは、和風家庭料理を練習するぞ)
ラウは、連日、和風別邸に滞在するようになり、しかも専用キッチンをつくらせ、そこでなにやら料理をするようになった。そばには日本人料理人がつきっきりで手順を教えている。そして、自分でつくった料理をラウ自身が試食し、採点する。目指すはレオンの誕生日だ。本当はここに呼んで一緒に食事したいが、レオンは断るだろう。だが、弁当なら受け取るに違いない。ラウは、雑誌で見た豪華な盛り合わせを作ろうと夢見ていた。それが正月を祝うおせち料理だとはラウ伯爵はまだ知らない。
■彪吾の提案
ある日、いつものように、彪吾がレオンを呼び出すと、レオンがしばらく行けないと答えた。ラウ伯爵に付き添ってカトマールに出張するという。
――しかたない……。
レオンはラウ伯爵の筆頭秘書だもの。ラウの予定を最優先するのは当然だ。
それでも、彪吾はなぜか苛立った。レオンを傍に置き、上機嫌のラウ伯爵を思い浮かべて、腹が立った。仕事は手につかない。食欲も落ちる。レオンをモデルにしたイラストを見るにつけ、生身のレオンに会いたくなる。ツネさんが心配して、何度も様子を見に来た。
そんなことが何度か続いた。とうとう、彪吾は副理事長室まで出向いた。そして、掛け合った。
「ルナ大祭典のミュージカルの曲は、いまが山場です。レオンと打ち合わせをする時間を確保してほしい」
彪吾の必死の訴えをラウは軽くかわした。
「よくわかります。けれども、レオンはわたしにとっても必要な人物。そうそう九鬼教授ばかりにお預けするわけにはいかないのですよ」
「曲作りが遅れても知りませんよ」
彪吾がすごんだ。じつにめずらしい。ラウは一瞬驚いたようだったが、しばらく考えた後、こう提案した。
「では、こうしませんか? 金曜日一日だけレオンを教授にお預けします。しかし、月曜から木曜まではわたし専属にしたい。夜も含めていっさい呼び出さないでいただきたいのです。むろん、レオンが同意すれば、の話ですが……」
金曜日だけと聞いて、彪吾の顔が歪んだ。今は毎日レオンに会うことができる。だが、金曜日に限定されて、耐えられるだろうか。
だが、ふと閃いた。
「土曜日と日曜日は、彼は休んでいますよね?」
「ええ。緊急時以外は、週末にしっかり休養をとる。プライバシーには干渉しない。これがわたしのポリシーです。ただ、レオンは超多忙なので、週末にも何らかの仕事をしていることが多いようですがね」
(まさか、週末にレオンを呼び出すつもりか?)
一瞬、ラウは懸念したが、多忙なレオンが応じるはずはなかろう。レオンが仕事を含めてだれかと談笑している姿など見たこともないし、想像もできない。念のため彪吾にしっかり釘を刺したものの、彪吾はそんなことなど聴いていない。彪吾は、含み笑顔で、ラウにこう答えた。
「わかりました。では金曜日だけでいい。それ以外は連絡を控えましょう」
■櫻館の週末
こうして、金曜日はルナ大祭典準備のため、レオンは、櫻館で一日、彪吾と過ごすようになった。やってみると、細切れの時間よりも、まとまった時間の方が効率は良い。
彪吾が上機嫌でピアノを弾くと、曲が一挙に仕上がっていく。昼にはツネさんがおいしいランチを用意してくれた。レオンもさすがに断れない。食後に彪吾の誘いで庭を散策すると、花の良い香りが風に舞う。日中ほとんどオフィスで生活しているレオンには、生き返るような、ゆったりとした時間だった。そして、午後のお茶をいただいて、今度は彪吾が新しい曲の詞を考える。レオンは助言を求められ、ルナ神話と付き合わせる。
そのうちに夕食を迎え、ツネさんの丹精を込めた料理を味わう。これもまた断れない。夜になっても彪吾が引き留め、ふたたびピアノを聴かせる。翌日が休みだということで、ついつい遅くまで打ち合わせが行われた。ツネさんがゲストルームへとレオンを案内した。いつのまにかゲストルームにはレオン専用の衣類が用意されていて、パソコンもセットされている。翌朝はツネさんが心づくしの朝食をふるまってくれる。
休日の朝食に現れたレオンの姿は新鮮だった。生成の薄手の麻セーターに紺色の綿パン。すっきりとした首元が涼しげだ。容姿に優れるレオンは何を着てもよく似合う。上質な服をさらりと着こなし、窓際のテーブルでコーヒーを飲む姿は、まるで映画のワンシーンのようだ。いつも彪吾の服をみつくろう店で、ツネさんが厳選してきた衣服は、素材がよく、シンプルで動きやすく、品が良い。彪吾もツネさんも思わず見惚れた。
こうして、週末を櫻館で過ごすのが常となり、やがて、月曜日の朝までレオンが櫻館に逗留することが普通になった。ゲストルームは、ツネさん夫婦によって居心地良く設定されており、レオンの私物が次第に増えていった。そばにレオンを得て以来、彪吾の創作意欲は高まる一方で、レオンに曲を聴かせては感想をもらい、それをまた曲に反映させた。半年かかると見込まれた曲作りは二ヶ月ほどで夏前にほぼ完成した。レオンは櫻館でも合間にラウの仕事をこなしているようだったが、彪吾にその姿を見せたことはない。
――曲作りはきわめて順調。
そう報告を受けて、ラウ伯爵は複雑だった。
ルナ大祭典のオリジナルミュージカルは最大の見せ場であり、準備にも相当の時間がかかると見込んでいた。それが、曲がもうほとんどできたという。喜ばしい限りであるが、彪吾はますますレオンを取り込んでしまったようだ。
確かに、金曜日のレオン提供はラウから申し出たことだった。それが、なんと週末すべてを二人が一緒に過ごしているという。まさか、あのレオンがそれに応じるなど、まったくもって予想外であった。心なしか、レオンの表情の冷たさがほんの少し和らいだ気がする。本来は仕事だ。ラウが命じた仕事のはずだ。しかし、レオンに「プライベートな時間です」と言われてしまっては、手も足も出ない。
ラウは、レオンに別の大きな仕事を任せることにした。今回のルナ大祭典でラウが最も望んでいることをレオンに任せようと考えたのだ。秋からを予定していたが、ミュージカルのめどが立ったのなら、あの有能な筆頭秘書をいつまでも彪吾の遊びにつきあわせてなどいられない。
【参考】彪吾とレオンの関係については、第四章をご参照下さい。