Ⅸー3 〈王の森〉
【これまでの話から】シャンラ王国の〈王の森〉。かつて、キュロスの部下の親衛隊員が森で行方不明になり、数日後、戻ってきたときに「湖に浮かぶ水晶の宮殿」を見たと語ったという。「水晶の神殿」の物語は、ルナ神話異本に伝わる。サキたちは確認のため〈王の森〉へ。子どもたちはついていくと聞かず、探偵ごっこの好きな変人弁護士イ・ジェシンもやってきた。
■〈王の森〉
〈王の森〉の南部、ルナ第二神殿にほど近い町の宿に一行が到着したのは、満月前日の午後。
宿の予約をサキに任せるのを不安がったキュロスが宿の予約を申し出た。だが、選びようがなかった。ひなびた温泉があるものの、一帯は寂れていて、古ぼけた旅館が一軒あるだけだったからだ。キュロスは拍子抜けした。
――セキュリティなどそもそも要らんようだ。だが、こんなボロ宿にシュウさまを泊めるなど……。
キュロスの悩みをよそに、シュウは風子やリトたちと再度の合宿気分で大喜びだ。
建物と設備の古さを我慢すれば、他に客がいなくて快適だ。
庭の手入れはイマイチだ。木が生い茂った庭に面した部屋は、ボロくてふすまが破れていたりするが、人がいない分、静かでゆったりしている。鳥の声も聞こえるし、渓流からカジカの歌声も流れてくる。露天風呂には、ばあちゃんとサキが喜んだ。
やや遅れて、ジェシン一行も到着した。ジェシンは、宿の古さとボロさにポカンと口を開けた。サキの指示で、キュロスは、ジェシンたちの部屋を自分たちの部屋から遠ざけた。
スラ一家も参加した。オロはルルであることがバレないよう、風子たちには近寄らないようにした。
先日、スラから、「湖に浮かぶ水晶の神殿」の話を聞いたマロは絶句した。探し求める水神殿には、二つの陪神殿があると伝わる。ミグル神謡で語られる陪神殿の一つが、「湖に浮かぶ水晶の神殿」だった。
天が与えた機会だ。この機会を逃すと、〈王の森〉に入ることはできまい。スラが家族とともに参加したいと告げると、ジェシンは大喜びで了承した。ジェシンは何事もにぎやかなのが好きで、お祭り騒ぎが大好きなのだ。
ジェシンを近寄らせないために、部屋ごとに分かれて食事をとり、夜に備えた。ジェシンは何かを期待してウズウズしていたが、お呼びはかからない。しびれを切らして、何度もサキたちの部屋に入り込もうとしたが、その都度、キュロスにつまみ出された。ムトウは所詮行っても無駄とばかり、部屋に籠って食事と風呂に夢中だ。
サキは、スラ一家だけを呼び出した。ばあちゃんがオロを見た。
「おう、隣のオロじゃな。ひさしぶりじゃの。今日は家族連れか?」
「うん、おばあちゃん。こんばんは」
コクンと挨拶するオロの肩に手をかけて、ばあちゃんが相好を崩した。演歌のうまいオロは、ばあちゃんのお気に入りだ。
マロが、ばあちゃんに挨拶した。
「宗主。息子がいつもお世話になっています」
「ほう、オロはマロさんの子じゃったか」
マロとばあちゃんは、虚空の病院で何度も顔を合わせているらしい。マロは小さな琴を持参していた。古楽器奏者で、修理も手掛けるという。
風子は、隅っこに隠れるようにいるオロが気になってしかたがない。どこかで見たような気がする。オロを気にする風子をシュウが嫉妬混じりでじっとりと見つめていた。キュロスはそんなやきもちシュウが微笑ましく、かわいくて仕方がない。
■変身
――問題は、だれが、どうやって、森に入るかだ。
〈王の森〉の警備は厳重だ。キュロスによれば、森は、広く深い河川と深く急な支流、そして断層が生み出した急峻な崖に囲まれるように孤立している広大な原生林だ。橋がかかるいくつかの区域には長大堅固な塀が築かれ、要所要所に衛兵が立っている。監視カメラはあちこちで作動している。
ルナ第二神殿は、森の最南端にあり、ちょうど二つの支流にはさまれ、島のように孤立した場所に築かれていた。発掘を機に、神殿遺跡は〈王の森〉から完全に切り離されたが、いまは島全体が塀と木々に覆われている。そもそもこの支流を超えることは難しく、たとえ河を越え、監視を突破して森の中に入ったとしても、神隠しにあうかもしれない。いや、それがなくても深い森だ。獣道しかなかろう。道に迷って出てこられなくなる恐れは大きい。
ばあちゃんが言った。
「森に入るには人では無理じゃ。動物が良かろう」
アイリがパッとモモを抱き上げ、ばあちゃんに背を向けた。オロも大急ぎでキキを抱き上げ、ギュッと抱きしめる。
ばあちゃんが苦笑いした。
「森には、そんな甘えんぼの子イヌもおらねば、ヨボヨボのデブネコもおらんわい」
――ならば、だれ?
「わしが行く!」
みなが振り返った。ばあちゃんが顔を上げていた。
「そ……そんな、ばあちゃん。いくら、ばあちゃんが凄くても、もう年だし、危なすぎるよ」
リトがばあちゃんの袖を引っ張った。
「わしに考えがある。しばらく時間をくれんか。その間、だれも〈王の森〉に手出しはするな。さもないとわしも危なくなる」
「……ばあちゃん」
うろたえるリトの横で、カイが丁寧にばあちゃんに礼をとった。カムイが代弁する。
「雲龍九孤族宗主たる「九孤の賢女」殿がおっしゃることに間違いはありますまい。お任せいたします。ただし、このカムイを連れていってくださいませんか。伝書カラスとしてお役に立つでしょう」
ばあちゃんはニヤリと笑った。
「それは助かるのう。天月の三足カラスじゃ。強力な助っ人にもなれば、連絡役にもなるでの」
――三足カラス?
キュロスとマロが驚いてカイとカムイを見た。ばあちゃんが言った。
「この御仁は、天月が誇る銀麗月殿じゃ」
「えええっ‼」
リトが大声を出して硬直した。だが、一番大きな声を出したのは、入り口そばで聞き耳を立てていたイ・ジェシンだった。
――うそお。〈銀麗月〉って言えば、天月至高の存在じゃないか!
呼ばれてもいないのに、ジェシンはいつのまにかムトウをひっぱってきて部屋に入り込んでいる。ムトウは、サキに睨まれ、怖気づいていた。
風子もアイリもオロもわけがわからんという顔をしている。
キュロスが納得顔で言った。
「九孤と天月が組んだということですね。最強コンビです」
ばあちゃんがアイリを見て言った。
「すまんが、あんたに頼みがある」
「アカデメイア博物館のネットワークを調べろと言うんだろう?」
ばあちゃんは破顔した。
「さすがは天才ハッカーじゃな」
「ええええ?」(ハッキングを勧めていいの?)
また、リトが激しく反応した。
「リトよ。おまえはいちいちうるさいぞ。これしきで驚いてどうする」
――え? まだ、何かあるの?
「マロさんよ。できればあんたに音楽を奏でてもらいたいんじゃが、どうじゃろうか?」
マロが静かに目を上げ、ばあちゃんに礼をとった。
「宗主殿、承知いたしました。そのつもりで来ております。この鏡をお持ちください。〈閉ざされた園〉に行っても、鏡を通じてわたしが奏でる曲がなにがしかのお役に立つはずです」
表面に神獣が描かれた小さな丸い銅鏡だった。
「わたしもお供します」
スラが決然とした表情でばあちゃんに告げた。マロは予想していたのか、眉すら動かさない。ばあちゃんがやや顔を翳らせた。
「ありがたいが、森を抜けるのは至難じゃぞ」
「わかっております。ですが、水晶の神殿はわれわれにとっても重要な意味をもつもの。わたしにも関わらせてくださいませんか?」
マロが言葉を継いだ。
「どうぞ、スラを連れて行ってください。スラは最強の護衛として宗主をお守りするでしょう。それに、この鏡はスラがそばにいる方が効果を発揮いたします」
「そうか。では、カムイ、わしらを背に乗せて森に運べ!」
ばあちゃんがくるりと回転すると白い狐に姿を変えた。ちょっとよぼよぼしているが、尻尾が妙にふくらんでいる。
マロとスラが目を瞠った。驚きのあまり、キュロスが膝をついた。横でリトも茫然自失だ。
――ば、ばあちゃんが、姿を変えるなんて知らなかった!
「宗主……宗主は、九尾の狐だったのですか? ……それが九孤族の謂れだったのですね」
カイが驚き、カムイもこれにはたまげた。
アイリが風子にこそっと聞いた。
(九尾の狐って、いったい何だ?)
(ものすごい霊力をもつ最高の狐だよ)
――この手のことには、風子は強い。
アイリは感心したように風子を眺めた。
するとスラも姿を変えた。しなやかな身体つきの美しい黒豹だった。
「わが部族には変化の術を使える一族がいます。スラはその一族の直系です。わたしにはその力はありません。ここでみなさんをお待ちすることにします」と、マロが説明した。
カムイはカラスに姿を変えた。九尾のばあちゃんが何事か唱えると、狐と彪の姿が縮んだ。カムイは二匹を背に乗せた。
カイが促した。
「満月の瞬間までにたどり着くのだ」
今夜、月が完全に満ちるのは、深夜二時三十八分――「満月の瞬間」だ。
カイは、最も警備が手薄な場所の結界を破り、その痕跡を完全に消してから、カムイに飛び立つよう指示した。二匹を乗せたカムイの姿が闇の中に消えていく。
あまりのことに腰を抜かして呆けたようなジェシンとムトウに、サキが鬼のような形相で告げた。
「絶対に口外するな。だれかに漏らそうもんなら、九孤族の祟りがあるぞ!」
ムトウが涙目でコクコクと頷いた。ビビりあがっている。
「あんたもだ!」
サキの剣幕に、ジェシンはうれしそうな顔を取り戻して答えた。
「わかってますって!」(こんなワクワクをだれかに漏らすなんてもったいないことできるか! 謎解きの宝庫じゃないか!)
■湖上の神殿
〈王の森〉の奥深く、湖は静まり返っていた。
高く登った丸い大きな月が煌々と湖に光を反射させている。風は凪ぎ、暗闇に埋もれる木々のざわめきもない。
「神殿のかけらもないのう」
あたりをぐるりと見まわして、ばあちゃん狐は肩を落とした。ここに湖上の神殿があると読んでいたのだ。
カムイ烏が湖の上や対岸を飛んで戻ってくる。首を振っている。
「やはり見当たらんか……」
ここまでの道は道なき道であった。空からでは森の様子はわからない。ばあちゃんはカムイに自分たちを下ろすよう命じた。おそらく数千年以上、人が通った気配はない。九尾の狐でなければ、ここにはたどり着けなかっただろう。ばあちゃん狐はごくわずかな水の匂いをたどって走り続けた。湖には結界が張られていたらしい。カムイ烏が何度、森の上を飛んでも湖を見つけることはできなかった。
「もうすぐ月が満ちます」
スラ豹がばあちゃん狐に告げた。
見上げると、月が高く昇っている。
「……間に合わんかったか」
ばあちゃん狐が気落ちした声を吐く。
「まあ、しかたあるまい。満月でも見終えてから明け方までに戻るとするか」
スラ豹が頷いた。
月の光が徐々に強まっているような気がする。
「わわわ!」
カムイ烏が突然素っ頓狂な声を上げた。
「なんじゃ?」
「あ……あれ!」
カムイ烏が翼で指す方を見ると、湖の中央部から水が引き、逆円錐形の底がどんどん深くなっていく。
ばあちゃん狐が息を飲んだ。やがて、中央からガラス細工のような荘厳な建物が姿を現した。さほど大きくはないが、細かな装飾を施された天蓋と柱が見えてくる。
「あ……あれって、し……神殿じゃないの?」
カムイ烏が首を突き出した。
ばあちゃん狐は、じっと水の動きと建物の動きに目を凝らす。
月が完全に満ちると、猛烈な風が吹いた。風は湖面を波立たせ、神殿と思しき建物の周囲に白い泡が立つ。やがて、神殿が全容を現した。その中央には四角い窓のような穴があり、繊細な模様のなかに妙な違和感を与えている。
スラ豹が首にかけた鏡をかざした。鏡から、美しい調べが流れ出る。その調べに合わせるように、神殿の戸が開いた。奥には、キラキラ光る透明な柱が何本も見える。湖の水は水晶の神殿を囲むように高々と盛り上がり、神殿への入り口に向けて水が割れた。
「カムイは戻って、これをカイに知らせるんじゃ」
ばあちゃん狐は歩みを進める。
「わたしもお供します」
スラ豹も叫んだ。二人が門を通り抜けたとき、満月の瞬間は終わり、二人を飲み込んだまま、再び神殿は湖の中に沈んだ。
カムイ烏はあわてて上空を旋回したが、神殿の姿はもはやまったく見えなかった。
カムイの報告を受けたサキもリトもオロも呆然とした。ひたすらひたすら音楽を奏で続けたマロが口を開いた。
「湖上の神殿は時を止めると伝わります。別の世界になりますが、おそらく二人は生きているでしょう」
「じゃ、いつ戻ってくるの? ねえ、いつ?」
オロがマロに縋るように尋ねる。マロは厳しい顔のまま、目を伏せた。
「戻ってくる道を見つけることができるかどうか……」
生きたまま、時のはざまに取り残されたということか。……カイは天月に伝わる禁書の一節を思い出した。
サキとリトが目を真っ赤にしている。風子もアイリも絶句したままだ。
■白銀比の方形窓
「神殿の上部にあった四角い窓とやらが気になります」
カムイの口から、カイの言葉が伝えられた。
「四角……。そうだ! 四角窓だ!」
アイリが叫んだ。
「副館長室に隠されていたルナ石板はどれもきれいな四角をしていた。だが、ルナ第一神殿の石板とは大きさが違っていた。その窓穴とやらに合うのはどっちだ? おい、カラス、その穴の大きさは?」
カムイがキッとアイリを睨んだ。
「おい、カラスと呼ぶな! オレには、カイさまが名付けてくれたカムイというれっきとした名があるんだぞ」
カムイなんぞ怖くもない。アイリはさらにカムイに詰め寄った。
「ええい、お前の名前なんぞどうでもいい。ほら、大きさを言いな。できるだけ正確にだ!」
アイリにすごまれたカムイは名前のことでもっと反論したいのをグッと堪え、思い出そうとする。しかし、情けないことにカムイにはよくわからない。三足カラスは夜目も利くとはいえ、鮮明に見えるわけではない。
「おまえっ、それでも天月カラスかっ?」
アイリに罵倒されながら、カムイは涙目になって、主人のカイを見上げた。
カイがうっすらと微笑した。ただでさえ美しいこの人が、めったに見せない微笑みを浮かべ、端然と立つさまに、思わずリトがほうっと見とれる。隣のサキが脇腹に突っ込みを入れた。
(アホ! ばあちゃんが死にそうなんだぞ。何をデレッと見とれとんだ)
カイはカムイの額に白い手を優雅に乗せて、目を閉じた。
「窓は、「白銀比」と呼ばれる比率の長方形ですね。短辺が1、長辺がルート2(1.414…)です。ルナ第一神殿の方形石板は「黄金比」で、もっと長辺が長いですが、いずれもルナ神話で重視される「美の比率」です」
カムイが答えた。みんながしーんとなってカムイを見る。カムイがあわてて手を振った。
「いやいや、オレじゃない。カイさまだ。カイさまはオレが見たものや聞いたものを正確に再現できる」
「エ……エスパーってこと?」
リトはそう言って、あわてて口を押えた。
カイは静かにリトを見た。ふたたびカムイが代弁する。
「超能力というべきかどうかはわかりません。天月修士のうち、高位の者は似たような力を持っています」
カムイは、自分のことのように胸を張った。
「その中でもカイさまの力は抜きんでている。なにしろ〈銀麗月〉さまだ。カイさまは、動物の声や木々の声も聞き分けることができるんだぞ」
(さっきからやたらと出てくるけど、〈銀麗月〉ってなに?)
(わからん)
風子とアイリがコソコソと話す。
「天月の特別位だ。この称号をもらえるのは、数百年に一人だ」と言いながら、カムイがさらに胸を張る。
よたよたとキキがカイに近寄っていった。
――よし! このさい、正体がばれてもかまわん。あのばあさんとスラを助けねば、風子まで危ない。
カイにもう少しで手が届こうとしたときに、キキはひょいと抱き上げられた。オロだ。オロは涙目でキキを抱きしめる。スラの身を案じているのだろう。だが、涙目を風子たちに見せたくないのか、キキの腹に顔をうずめて肩をふるわせた。
「じゃ、この子に聞いて。いちばん好きなのは誰かって」
アイリがモモをカイに突き出した。
「やい、アイリ。カイさまを軽々しく使うな!」
カムイを目でたしなめ、カイはモモの額に手をそっと当てた。
「風子は母親、アイリは父親だってさ。あはは、風子の勝ちだな」と、カムイが代弁した。
「おまえ、勝手な意見を付け加えるな!」と、カムイをリトがはたく。アイリが恨めしそうに風子を見て、風子はバツが悪そうに横を向いた。
「風子がいちばんなのは当然だろうが! モモを拾ったのは風子だぞ」
リトが、なぐさめだか、とどめだか、わからない言葉を吐く。空気を察してか、モモがアイリの足元に歩み寄り、つぶらな目でクーンと見上げた。
「か、かわいい!」
アイリはギュッとモモを抱きしめた。
リトはおずおずとカイに近寄り、こっそりと尋ねた。
(それって、人間にもできるの?)
(できるが、生命の危険時などを除いて禁じられている)
リトはホッとした。気持ちはきちんと自分の言葉で伝えたい。そんな時が来るかどうか、わからないけれど……。