Ⅸー1 学校の怪談
■弁当の誘惑
ジェシンとムトウの会話から、マイが九時過ぎに図書館に行ったらしいことがわかった。
図書館のカギは職員室で保管されている。だが、予備カギ一式も存在する。そのカギは寮の管理人室で保管されてきた。サキはそれをひそかにユウ警部に届けた。
「これが、寮に置かれていた図書館の合いカギ一式か?」
メイン入り口のカギ、裏口のカギ、書庫のカギ、階下へのドアのカギなど四点がそろっていた。
「ファン・マイ以外にこれを使っていた者はいるか?」
「いないと思う。同じものが職員室にあるから、司書も教員も必要があればそれを使う。ただ、マイは、司書の資格も持っていたから、司書がいない週末にも図書館で仕事をしては寮に戻っていた。わたしも司書資格があるから、放課後に図書館のカウンターに詰めていたけれど、寮には縁がなかったから、このカギがあることも知らなかった。寮に住んでいた生徒たちもこのカギには触っていないはず。生徒の目に触れるところには置かれていなかったから」
ユウは指紋を調べると言って、カギをどこかに持っていった。しばらくしてユウからサキに連絡があった。
「第三者の指紋が出た。新しい指紋だ。教職員の指紋を密かに集めてくれないか?」
「シュウさまがお世話になっているお礼です」
降り続いた雨がやみ、晴れ間が広がったある日、キュロスが教職員の一人一人に挨拶しながら、手作りの弁当を配って回った。みんなが大喜びした。毎日、職員室から見えるところで、風子やルルたちが食べているキュロスの弁当とやらに興味津々だったからだ。食材は豪華で、美味だった。だれもが、風子やルルたちをうらやましがった。毎昼、このレベルのランチを食べているのか? 教職員のみんなが、自分の貧素な弁当を思い出して情けなくなった。
空き箱は大きなビニール袋に回収され、すべてキュロスが片付けた。何から何まで至れり尽くせりだ。
キュロスは、そのビニール袋を大急ぎで寮の裏側に運び込んだ。サキが、弁当の上包みを回収する。上包みの隅にはあらかじめ番号が振ってあった。上包みを全部回収し終えると、キュロスがゴミの回収場所にビニール袋を持っていった。
上包みはユウ警部に届けられた。指紋鑑定が行われた。
――あった!
一人の指紋が合致した。教頭だった。
■探偵ジェシン
また、いらぬ人物が口を出してきた。イ・ジェシンだ。
先日、橋の下の仲間から、ジェシンに耳よりの情報が寄せられた。〈蓮華〉教員に立派な弁当が配られたが、弁当ゴミが二種類あったという。数人用の弁当箱には上紙がついていた。しかし、十数人用の弁当箱には上紙がすべて取り払われていた。ジェシンの目が光った。
「ねえねえ、いったい何をたくらんでるの?」
〈ムーサ〉に現れたジェシンがしつこくリトにつきまとう。
「何もありませんってば!」
リトがかわそうとすると、ジェシンがつぶやいた。
「ふうん。そう……じゃ、いいんだね? 弁当箱のからくりを〈蓮華〉の校長か教頭にばらしても」
リトがあわててジェシンの口をふさいだ。フガフガと言いながら、ジェシンの目は獲物を見つけた喜びで輝いていた。
「……ごめん、サキ姉。……イ・ジェシンに脅された」
サキ姉がフンと鼻を鳴らした。
「おまえのせいじゃない。われわれの作戦が甘かったってことだ。イ・ジェシンは能力も覚悟もないが、じつにすぐれた情報網を持っているようだ。まあ、アイツは探偵ごっこがしたいだけで、われわれの邪魔をする気はなかろう。適当に協力させておけ」
■策略
教頭が怪しそうなことはわかった。彼の動きを探るにはどうしたらいいか?
夜の〈蓮華〉寮で、サキとキュロスが頭をひねった。いい知恵がうかばない。特にキュロスは根っからの善人なので、まったく悪知恵が働かない。
「定番はスマホのデータだろうな」
アイリの意見に、サキが言った。
「わかっている。でも、どうやるんだ? スマホを盗むのか? そんなことをしたら、こっちの動きを悟られるだけだ」
ルルがニヤッとしながら、提案した。
「すり取ればいい。アイリなら、データをすぐにコピーできるだろ? わからないように戻せばいいじゃないか」
みんながルルを見て口をそろえた。
「だれがすり取るんだ!?」
「あたしさ!」
――はああ? ルルはスリまでできるのか?
「〈ムーサ〉に呼び出して、アイツをおだてているうちに、あたしがすり取ってリトに渡すから、リトがアイリに渡せばいい。その後、リトからあたしが受け取って、何事もなかったように戻しておくよ」
みんながまた絶句した。
――そんな簡単にいくものか?
サキが頭を抱えながら、尋ねた。
「念のため聞く。どうやって教頭を〈ムーサ〉に呼び出すつもりだ? アイツは堅物で有名だぞ。自分から〈ムーサ〉に行くはずがない」
ルルがまたニヤリとした。
「その堅物ぶりを利用すればいいだろ? 例えば、近頃いかがわしいカフェで生徒がアルバイトしている、けしからん、とかいう投書でも届いてみろ。ヤツはどうする?」
「視察に行くだろうな。そうか! 投書でアイツを釣るのか!」
サキは、半ば感嘆し、半ば呆れて、ルルを見た。
――コイツは悪知恵の天才だな。
翌日、〈蓮華〉に匿名の投書が届いた。予想通り、校長と相談の上、生徒指導主事を兼ねる教頭が、件のカフェに出向き、生徒を補導することになった。
金曜夜の音楽茶房〈ムーサ〉。
いつものように、満席の客が歌姫の出番を待っている。教頭は目立たない席に座り、生徒の出番を待った。しかし、頭をひねっている。
――どうも投書とは違うような……。
初めて来たが、〈ムーサ〉はいかがわしい場所とは言えない。だが、生徒の衣装と歌が問題かも……。
目を凝らして見ていると、ステージが始まった。ルルだ。たしかにステージ衣装で、派手目の化粧はしているが、肌の露出はほとんどなく、年相応のかわいらしい美少女ぶりだ。
――では、歌か?
これも、青少年らしい健全な歌と、有名なオペラのアリアだった。
――芸術じゃないか!
例の「魔笛」以降、イ・ジェシンはせっせとオペラのDVDをルルにプレゼントし、ルルのレパートリーは着実に増えていた。
気負って来た教頭は、投書内容と実態があまりに違うことに当惑した。だが、未成年労働の時間超過かもしれない。あるいは、客と不適切な関係があるのかもしれない。念には念を入れないと。――教頭は一時も気を抜くまいと身構えた。
ルルの第一ステージが終わった。何事もなかった。教頭が拍子抜けしてジュースを飲んでいると、なんと、ルルがやってきた。
「うわああ、教頭先生。お越しになっていたんですかあ?」
近くで見るルルは、想像以上の美少女だった。
「や、やあ。ルルくん。キミが歌っているとは知らなかったが、すばらしい歌だったね」
「ほんとですかあ! うれしいですう。教頭先生にそう言っていただけると」
そばで給仕をしていたリトの背筋がゾクゾクと逆立った。ルルが、信じられないような「丁寧語」をしゃべっている! そのリトに、ルルがあるものを渡した。スマホだ。リトはすっと離れ、アイリの許に急いだ。
「教頭先生!」
聞いたことのある大きな声がした。イ・ジェシンだ。
「わお! 久しぶりですねえ。覚えておられます? イ・ジェシンですよ。ほら、〈蓮華〉共学の第一期生ですう!」
「あ、ああ。もちろん、覚えているよ」
ジェシンは教頭の横に座り、リトに最高級ワインを注文した。イ・ジェシンになにも協力は頼んでいない。勝手に首を突っ込んできた。
「ボク、ここの常連なんですよ。いい店でしょ?」
「ま、まあな」
「今夜は、ボクにおごらせてください。ね、先生。いいでしょ? いま、ここで一番いいワインを注文しましたので」
この前のレオンに次いで、二人目の最高級ワインの注文だ。
教頭は、めまぐるしく頭を動かした。――イ・ジェシンの祖母は、〈蓮華〉の前身であるシャンラ王立女学院の卒業生で、〈蓮華〉の大口寄付者だ。邪険にはできない。
リトはあんぐり開けそうになった口を閉じた。教頭は、ジェシンに振り回されて、本来の役目を忘れそうだ。むろん、自分の荷物のことなど、まったく眼中にない。
ジェシンが楽しそうにルルに頼んだ。
「ルルちゃん。あとで、ボクのリクエストもお願い! はい、リクエスト料、千ルピ(≒円)」
教頭の前でルルがにっこりした。
「はーい。ジェシン先生。了解でーす。でも、わたしは九時からあとはお仕事できないので、それまででいいですかあ?」
「もちろんだよう。法律違反なんて、ボクがさせるはずないでしょ!」
このやり取りの間に、ルルは教頭のスマホを元の位置に戻した。すべて計画通りだ。
教頭は、さんざんジェシンに絡まれ、ワインを飲まされ、ほうほうの体で〈ムーサ〉を後にした。校長への報告は次の通り。
――投書内容は確認できなかった。生徒のアルバイトは法令及び学則に反するものではない。
アイリはさっそく教頭のスマホ・データを解析した。削除データも復元した。わかったのは三点。
その一――送信側の番号を特定できない一方的な連絡が頻繁に行われている。
その二――月に一度程度、かなり長い通話がある。相手側の電話番号はわからない。
その三――妻との連絡にはスマホが使われていない。
サキが結論付けた。
――教頭は何らかの指示を受けて、何かを調査して定期的に報告しており、教頭夫婦は仮面夫婦である可能性が高い。つまり、夫婦とも何らかの組織から密命を帯びた者――密偵――と思われる。
教頭は〈蓮華〉に勤めてすでに二十五年。何のトラブルもなく、平穏に過ごしてきた。まったく疑われることなく、うだつのあがらない教師を演じてきたとすれば、非常に優秀な密偵と言える。そのような密偵を一人〈蓮華〉に貼り付けるとは、〈蓮華〉あるいはその周辺に何かの特別な意味があるのだろうか? 妻は、ラウ財団秘書室に勤める事務員で、これも信頼を受けている人物だ。夫婦の背後には、いったいどんな組織があるのか?
■教頭
突然の呼び出しに、教頭は狼狽していた。人が好さそうな初老の男は、いかにも小心者だった。
不審がられないよう、ユウは、校長、教頭、校務員、サキの四人に話を聞くと言うことで呼び出したのだ。
あの月蝕の夜、「学校の怪談」の真相を突き止めようと、図書館に行ったこと、カギをマイに借りたこと、二人で図書館に行ったこと、「開かずの階段」で妙なものを見て腰を抜かしたこと、すべてを教頭は認めた。
だが、雷鳴とどろく中、マイの姿がフイに見えなくなり、いくら呼んでも答えがなかったことから、怖くなって自宅に戻ったと告白した。カギはマイに返したと言う。だから、図書館を出るとき、カギをかけなかった。それが気になって、翌日は朝一番に学校に来て、校務員に職員室を開けてもらい、図書館を見に行ったという。図書館のカギはかかっていて、ホッとしたとか。
マイの事故死は、青天の霹靂だったという。あの大雨の深夜に遠くに出かけるなどありえない。翌日は、週初めの職員会が朝早くから開かれる。授業も一時間目からある。日曜日の夜はほとんどの教員が翌日に備えてじっと家に籠る。
「学校の怪談」は、数か月前からネットなどで広まり始めた噂で、「肝試し」と銘打って夜に学校に忍び込む生徒や近所の者も何人かいたらしい。治安上困ると言うので、対策を考えることになり、教頭に一任することも職員会議で決まった。自分が出かけたのは、たまたま月蝕が日曜日と重なったからであり、妙な噂が学校の評判を落としては困ると考えてあらかじめ校長に相談し、何もないことを確認するためだったという。
確かに校長も事情を知っており、教頭の行動にはなんら不審な点はなかった。校務員によると、あの日の突然の停電で、学校のタイマーが狂い、翌早朝にすべて調整し直したという。いつもは朝一番に学校に来るマイが遅れていたので不思議だったという。
サキはこの怪談話をはなから信じていなかったが、マイは違ったらしい。リトによると、怪談話の流布は、マイの研究で「時空の歪み」に関する資料が急に増えた時期と重なる。マイは、神話学研究として独自の調査を始めていたのだろう。そして、その調査で何か重大な秘密に気づいたに違いない。
教頭は、ユウに「ご協力ありがとう」と言われて解放され、ホッとした表情で退出した。だが、ユウもサキも教頭への疑いをむしろ強めた。
ユウは教頭についてすでに極秘に調査していた。
教頭は、妻と二人暮らし。妻は、ラウ財団の秘書課に事務員として長く務めているという。二人とも質素な暮らし向きで、妙な噂もなく、近所付き合いも職場の評判も悪くないごく普通の市民だった。天志教団の信徒でもない。つまり、疑わしい点は何もない。
サキは、だから怪しいと思った。マイ事件が起こったとき、教頭は図書館のことを校長にだけ告げたようだ。校長からストップがかかったのかもしれない。サキにはいっさい話さなかった。
最初は、校長を怪しんだ。たしかに、校長はアカデメイア本部とつながっており、教師の飲酒事故が学校運営に及ぼす悪影響への対応について、本部からの指示を仰いだようだ。だが、それ以上のことはなかろう。彼女は、教員管理という点で異様に厳しく、嫌われ者だが、飲酒事故でも自分の責任が問われるのではないかとビビっており、殺人などできる人間ではない。
教頭は、ポーカーフェイスを崩さない。マイに寮の管理人職を紹介したのは教頭だ。〈蓮華〉教員の中で一番マイに近かったのは教頭だ。マイは教頭を信頼していたが、ある時期から教頭を疑うようになったのではないか? 「狡猾な人物」とは、教頭のことかもしれない。
あの夜、マイに会ったのは教頭のみ。しかも、マイが自室のように使う図書館だ。寮からカギを取り出し、一緒に図書館に出向いたとすれば、いつものリュックも持っていた可能性が高い。マイはリュック以外のバッグを持っていないからだ。リュックには寮のカギも入っている。ならば、そこにはボトルも入っていたはず。いつものように、マイは司書席にリュックを置いたことだろう。マイが席を外したスキに、薬を入れることは可能だ。擬薬は無味無臭――気づくはずがない。
あの擬薬は、意識を外からコントロールできる。教頭はマイから何かを聞き出そうとしたのではないか? それには月蝕の夜がふさわしかったのだろう。そして、マイが最も警戒を解く場所――それは、いつも過ごす図書館。そして、教頭の行動に不審を感じたからか? 何らかの事情で、マイは、図書館を飛び出たに違いない。
数日後、職員会で校長が告げた。
「教頭先生が一身上の都合でご退職なさいました」
先を越された。疑われていることを察知し、行方をくらましたのだ。ラウ財団に務める妻もまた自己都合退職をしたという。
擬薬を探す道は断たれた。だが、マイの事故に教頭が関わっていたことはほぼ確実になった。
■橋の下の仲間たち
ルルが〈蓮華〉に編入してから、橋の下の仲間たちは、ルルがオロであることに気づいた。だが、それを口外することは、ケマルに固く禁じられた。イ・ジェシンに対しても知らせてはならないと。
仲間たちは、ルル=オロが得体の知れないヤツらに狙われていると聞いて、奮い立った。尊敬するシャナ老が大事にしていたオロをオレたちで守ろう! 仲間たちは改めて結束を誓った。そして、オロのためにせっせと情報をかき集めたのである。
彼らは、〈蓮華〉教員すべての家庭ゴミをあさった。ほとんどが食品の食べ残しで、これはこれで役に立った。だが、教頭の家からはほとんど家庭ゴミが出ない。確かに、夫婦とも、夕方に家に戻り、電気がついて、夜中には電気が消え、朝、出勤するのに、食べ物のゴミがほとんど出ないのだ。エコ生活の反映かもしれないが、あまりに不可解だった。
アカデメイア博物館のゴミも、マルゴ副館長の自宅のゴミも調べてみた。自宅ゴミは惣菜パックばかりで、一人暮らしの中年男らしい家庭ゴミだった。時々、郵便物やシュレッダーゴミが混じっていた。すべて丁寧に取り分けた。特にシュレッダーゴミにはお宝情報が潜んでいる。ルナ石板に関する書類がいくつか見つかった。
アカデメイア博物館ゴミは、ほとんどがシュレッダーゴミだった。電子化が進んだ分、紙の書類は減っている。それでもあえて紙にする場合には、非常に重要な書類か、どうでもいいチラシか、どちらかだ。ともかくジェシンに送っておこう。あのヒマ人は、ゴミから宝を見つけるのが大好きだ。
こうして、ジェシンのもとには、違法開発事件の情報よりも、〈蓮華〉の情報とルナ遺跡の情報が集まり続けた。
情報の山に囲まれて、ジェシンは幸福感に浸っていた。本物の探偵になった気分だ。そのうえ、教頭のスマホ奪取に一番役だったのは、自分の演技だ! ジェシンは少なくともそう信じていた。
――なんだか、変装探偵の気分! ルナ遺跡の秘密にも近づけそうだ。
ジェシンはもう一つ大満足した。
――教頭は墓穴を掘った。逃げるのは想定内。
ジェシンは、橋の下の仲間に馬力のある車を貸して、入れ替わりながら追跡させた。
教頭夫婦の車は蓬莱本島からシャンラに渡り、カトマールへと抜けていった。最終的に彼らがたどり着いたのは、カトマール東部の鄙びた町。目立たない家の前で止まった。追いかけた仲間は、もっとよく見ようと欲をかいた。彼は捕まった。
――仲間が戻らない。
青ざめたケマルがジェシンのもとに駆けこんだ。
ジェシンの探偵顔が崩れた。
――ヤバイ。非常にヤバイ!
橋の下の仲間には、大事なことは伝えていない。ゆえにこちらの情報が筒抜けになることはなかろう。だが、橋の下の仲間が狙われ、ジェシンの事務所が狙われる恐れは多分にある。頼りになるスラはいない。ムトウなどは捕まったらあっさり小さな島の遺跡のことを白状してしまうだろう。彼らが大事にしているオロの身も危ない。なにより、〈蓮華〉の生徒たちに何かあったら、サキにぶっ殺される! とらわれた仲間も救わねば……。
追跡したケイは、元警官だ。やすやすと口を割るとは考えられない。だが、どんな拷問にあうかわからない。
イ・ジェシンの背に冷や汗が流れた。
――探偵ごっこは好きだが、スパイごっこは苦手だ。リアルな戦闘はぜったいごめんだ!
ジェシンは、サキのところにすっ飛んで行った。どれだけ叱られるか、覚悟していたが、サキは冷静だった。サキは、すぐにカイに連絡をとった。橋の下の仲間たちが車レースで通ったルートはすべて記録されている。カイの命令を受け、カムイはカラスの姿で遠くカトマールに向けて飛び立った。そして、サキはジェシンがもつ高級車を貸すよう詰め寄り、カイとリトを乗せてカムイの後を追った。サキのオンボロ車では途中でエンストを起こす恐れがある。
出かける前、サキはジェシンに冷たく言い放った。
「この件には、これ以上手を出すな!」
母よりも、祖母よりも、怖かった。ジェシンは震えながら何度も頷いた。
■カトマールのあばら家
サキたちは、カトマールの辺鄙な田舎にある小さなあばら家の前に立っていた。例の橋の下の仲間の消息はここで途切れている。車は少し離れた場所に乗り捨てられていた。だれも乗っていなかった。
気配を消したリトが、裏口からそっと中に忍び込んだ。人気はない。ずいぶん前に放棄された空き家のようだ。建具は壊れ、家財道具はなく、あちこちに蜘蛛の巣が張っていた。
カムイが家の周辺を探すと、車とは反対側の沼地に生えた木に男が括り付けられていた。探していた男だ。目隠しをされ、猿轡をかまされている。
サキは即座に理解した。
――教頭は、男を殺すつもりはなかったみたいだな。ここに男を留め、救出に手間をとらせて、逃亡時間を稼ごうとしたのだろう。これから追っても追いつけまい。まずはこの男を救助せねばならん。
リトが駆け寄り、男を縛る縄をほどいた。一昼夜縛られていたのだろう。水を与えるとガブガブと飲み干した。
がっしりとした体格の男はやっと人心地着いたようで、心底ホッとした表情を見せた。ただ、異様に臭い。排泄物と沼の臭いが染み付いている。リトはあばら家で男に着替えを渡した。庭先の井戸で水を汲み、身体を洗い、パンを食べた後、男はケイと名乗り、顛末を語った。
さすが、元警官だ。ケイが話す内容は、観察力と分析力にすぐれ、ポイントをついていた。イ・ジェシンの勘違い丸出しの探偵ごっこなどより、はるかに信頼できる情報だ。
教頭の車は異常でした。どこにも止まることなく、二日間を走り続けたんです。高級車仕様の自動運転機能をつけて対応していたのかもしれません。わたしたちは、ジェシン弁護士が用意してくれた三台の車で後を追い続けました。
教頭の車は、一見ごく普通のセダンです。ですが、密かにエンジンを改良していたように思われます。馬力があり、小回りが利き、発進も非常に素早いのです。教頭の運転には驚きました。プロレーサー並みで、次々に他車を追い越していき、わたしたちはついていくのがやっとでした。結局、最後まで彼を追いかけることができたのは、わたしだけでした。
アカデメイアから連絡橋を伝い、ミン国に渡って、カトマールへと抜ける幹線高速道路です。長距離トラック運転手ならばともかく、一般人が頻繁に通り抜ける道ではありません。ですが、教頭はこの道をよく知っているようでした。速度感知装置がついている箇所をちゃんと把握しており、スピード違反でつかまることもないのです。
一般道に入り、ようやくあばら家についたとき、教頭が車を降りるのを見て、わたしもそっと車を隠し、車から降りました。そのとたん、何かを嗅がされ、不覚にも気を失いました。教頭夫婦以外の誰かが潜んでいたのでしょう。わたしをつかんだ手は大きく、夫妻のものではありませんでした。あらかじめ示し合わせたとしか考えられません。
気がつくと、木に縛られており、声も出せませんでした。身体はいっさい傷つけられていませんでした。わたしから何か聞き出そうとしたのではなく、わたしをここにとどめ、わたしを追ってきた者を足止めするつもりだったのでしょう。ただ、周囲を通る人も車もなく、このままダメかもと思いました。あたりは沼です。だれにも発見されなければ、沼に沈むだけでしょう。
みなさんが来てくださって、ホントにうれしかったです。
サキは確信した。この男への対応を見る限り、教頭はマイに対しても薬を飲ませたものの、殺害の意図はなかったと見て良かろう。おそらく、マイから何か重大なことを聞き出そうとしたに違いない。
サキはケイに感心するとともにいぶかしく思った。ユウ警部には劣るとはいえ、ケイはなかなか好感度の高い男だ。話し方もしっかりしている。根性も体力もある。警官として将来を嘱望されていたに違いない。なのに、なぜ、これほど有能な人物が、警官をやめて、橋の下暮らしになったのか?
十年ほど前のことです。わたしは若く血気にあふれていました。愚かにも自信過剰だったのです。凶悪犯を逮捕しようとやっきになった結果、わたしの相棒がわたしをかばって亡くなりました。彼には妻子がいました。遺体を前に泣き崩れる彼女たちに、わたしは為すすべもありませんでした。罵ってくれればよかったのに、だれもわたしを責めないんです。翌日から出勤できなくなりました。岬の上病院で診断を受けました。鬱とのこと。わたしは独り身で、親もいません。警察を辞職しました。
症状はなかなか良くなりませんでした。岬の上病院の精神科医は根気強く治療につきあってくれました。三年ほどたってようやく外に出られるまでになったのですが、人が怖く、アルバイトは長続きしませんでした。蓄えはほとんどなくなり、住んでいたアパートも追い出されました。
八方ふさがりのわたしを見かねて声をかけてくれたのが、昔なじみの男でした。ケマルという者で、スリの常習犯です。わたしがまだ駆け出しのときに、先輩刑事とともに何度かしょっぴいたことがあります。
ケマルは、橋の下に住む一人の老人にわたしを紹介してくれました。シャナ老と言います。すでに亡くなりましたが、警察でも伝説上の人物でした。生まれも半生も謎に包まれているのですが、スリの達人で、教養が高く、人格者でした。シャナ老は、わたしに握り飯を与え、わたしが繰り出すとりとめのない話をひたすら静かに聞いてくれました。その日から、わたしは橋の下の仲間になったのです。互いに支え、支えられるのですが、私事に介入せず、適度な距離感をもつ関係は、わたしにはとても居心地が良いものでした。
わたしは、シャナ老やケマルに恩返しをしようと、日雇いでせっせと働きました。身体の丈夫さと腕力には自信があったからです。もちろん、日雇い労働者に対する世間の目は温かくはありません。日雇い仲間の多くは、東南部の島国からの出稼ぎでした。みんなに自動通訳機が配布され、最低限の会話には不自由しませんでしたが、だれもがまともな賃金をもらえませんでした。
港湾労働は、かつては鷹丸組が一手に手配し、それなりの秩序があったと聞きます。けれども、鷹丸組に代わって、いま勢力を伸ばしている黒獅子組は、出稼ぎ労働者を酷使しているようです。彼らも詳しくは言ってくれないのですが、当局に訴えようものなら、仲間や家族に報復があり、怖がってだれも抵抗できないと嘆いていました。
やがて、そんな出稼ぎ労働者の一人で、娘持ちの男が、橋の下の仲間に加わりました。彼が黒獅子組の幹部に騙され、脅されて、殺人事件の犯人にされそうになったとき、助けてくれたのが、イ・ジェシン弁護士です。あの人は、無能呼ばわりされていますが、なかなか有能です。ただ、気まぐれなだけです。その後も、わたしたちが情報を提供すると大喜びできちんと報酬をくれます。
(ジェシンもいいところあるじゃん、とリトは思った。ジェシンの情報ネットワークはこれか、とサキは納得した)
仲間の娘は〈蓮華〉に通い、その担任がファン・マイ先生だったのです。わたしは、マイ先生に一目ぼれしてしまいました。しょっちゅう、橋の下から〈蓮華〉を覗いていたのです。マイ先生が亡くなった日も〈蓮華〉を覗いていて、図書館の件に気づきました。
(ストーカーだな、と舌打ちしつつも、サキは、この男の執念がマイの死の真相に迫るきっかけとなったことを認めざるを得なかった)
教頭があやしいと聞き、わたしは大いに納得しました。わたしたちは、〈蓮華〉の先生たちの家庭ゴミを集め、調べていたのですが、教頭夫婦の家のゴミは非常に奇妙だったからです。ゴミがほとんどなく、出されたゴミにも生活臭がありませんでした。
サキがピクリと反応した。
「ゴミだと? 教頭の家のゴミを集めていたのか?」
ケイは頷いた。ゴミは全部、ジェシンのもとに運び込んだとか。ムトウは臭いを嫌がったが、ジェシンは大喜びでゴミ漁りをしたという。
サキは呆れた。
――イ・ジェシンは、いったい利口なのか、バカなのか……。
リトは、ゴミを前に驚喜するジェシンを想像して固まってしまった。
――アイツはやっぱり変人だ。




