Ⅷー3 探偵気取り
■橋の下の情報網
ドロップ建設の違法開発に対する損害賠償訴訟を引き受けるとすぐに、イ・ジェシンは資料室に籠もりきりになった。橋の下に住む浮浪者集団から寄せられた情報を整理するためだ。玉石混淆とは言え、他では入らないような貴重な情報が含まれることがある。それを見つけることは、ジェシンにとって宝探しのような楽しみだった。くずのような情報の山もまったく気にならない。だが、ムトウから見れば、遊んでいるに等しい。
ムトウはため息まじりに資料室のドアを眺めた。空き部屋を間に合わせに仕立てた部屋だ。
――あの人、遊びにかける集中力は無駄にすごいんだよな。重要な会議はコロッと忘れるくせに、探偵ごっこで一度見た資料やメモは忘れないんだもん。あのチグハグさがなけりゃ、タダキ弁護士どころか、あの有名なラウ伯爵の懐刀レオン弁護士にも劣らないだろうに。
――いや、待て!
ここではレオン弁護士の名は禁句だ。いったん話し出すと、あの人のレオン賛美は止まらない。いったい、あの人は、女好きなのか、レオン好きなのか、さっぱり本音がわからない……。
「妙だなあ……」
事務所での昼下がり、イ・ジェシンがブツブツつぶやいている。こんなときに「どうしたんですか?」と声をかけると、二時間は拘束されて、わけのわからないつぶやきを聞かされる羽目になる。
ムトウは聞こえなかった振りをして、そっと席をはずした。すると、ジェシンはスラに聞こえるようにつぶやいた。ヤバい! 新人のスラはジェシンの性癖を知らない。案の定、スラが尋ねた。
「何がですか?」
ジェシンは目を輝かせてスラに近寄り、例のごとく、支離滅裂な思い付きを語り始めた。スラは辛抱強く聞いている。
どうやら、春先に起こった空港連絡橋の衝突事故のことらしい。
――ええっ?
そんなこと、うちの事務所には何の関係もないじゃないか! 資料室に籠って調べていたのは、違法開発事件のことじゃないの?
ムトウがチラチラ見ていると、スラは途中で口を挟まず、やめろとも言わず、じっと聞いている。ジェシンはうれしそうに、ますます調子に乗っている。探偵ごっこの好きなジェシンは、本来の業務でないことにしょっちゅう首を突っ込み、依頼案件への対応がおろそかになりやすい。だから、顧客の信頼を失ってきたのに、今度も同じことを繰り返すつもりか?
きっかり二時間たった。ジェシンはしゃべり疲れたようで、ムトウにお茶を頼んだ。
「自分で淹れてくださいよ」
ムトウが拒否すると、スラが立ち上がった。すると、ジェシンがあわてて立ち上がった。
「スラさんはお茶汲みしたらダメだよ。ボクがする」
「なんで、ボクならよくて、スラさんはダメなんですか?」
ムトウがくってかかると、ジェシンは平然と言った。
「だって、キミはこの二時間、何もしなかったじゃないの。でも、スラさんはボクの話を聞いてくれたよ。それに女性にお茶くみをさせるなんて時代錯誤なことはできないもん」
ムトウはしぶしぶ三人分の紅茶を淹れた。この事務所はしょっちゅう休憩時間がある。ついでに、ムトウはとっておきのお菓子を取り出した。事務所資金の件で会頭ク・ヘジンに会いに行ったときに、手土産に持たせてくれた超高級菓子だ。
ジェシンの祖母である会頭はこう言った。
「いつも苦労をかけてすまないわね。今回もあの子の気まぐれに付き合わせて申し訳ないわ。でも、あの子にはあなたが必要なの。さあ、このお菓子をあげるから、あの子をお願いね」
ムトウは菓子箱をじっと見つめた。ボクはこの菓子でつられるほど軽い存在なのだろうか……?
――まあ、いい。
会頭は事務所資金をどっさり振り込んでくれた。ボクの未払い給料もやっとゲットできるぞ。
「やあ、これはアンリの菓子だな。バアサンの好物だ。バアサンからもらってきたの?」
ジェシンが言うと、ムトウが憤激した。
「その「バアサン」っていうの、やめてくださいっ! 今回もどれだけ資金提供を受けたと思ってるんですかっ?」
わかっているとばかり、ジェシンは肩をそびやかした。
突然、スラが口を開いた。
「さきほどのお話ですが、空港連絡橋の衝突事故は、殺人事件の可能性はないんですか?」
「は?」
「へ?」
ジェシンとムトウがどちらも間抜けな顔をして、スラを見た。
■スラの推理
面食らったイ・ジェシンがスラに尋ねた。
「ど、どうして、そんな結論になるわけ?」
思い付きで拾い上げた橋の下の情報からは、殺人など読み取れない。
「事故を起こした先生は、夜九時頃に〈蓮華〉に戻ったんでしょ? その先生が夜中に出かけたことはそれまで一度もなかったし、どこかでお酒を飲んだりすることもなかったって……」
そうだ。あの橋の下からは〈蓮華〉がよく見える。事故を起こした教員ファン・マイは、かつて殺人容疑をかけられた橋の下の仲間の娘の担任教員だった。橋の下の仲間とは顔見知りだ。事故でマイが死んだと聞き、橋の下の仲間たちは騒然となったのだ。
とくに、元警官の青年ケイは、マイに一目ぼれしたらしく、しばしば橋の下から〈蓮華〉の寮を見ていたという(ほとんどストーカーだな)。彼は、事故にたいへんなショックを受け、飲酒運転との報道に憤り、あちこちを勝手に調べたらしい。昔のよしみで担当刑事にも接触したとか。いまその情報がジェシンの手元にある。
「その通りだけど、でも、その日は何かの用事で出かけたかもしれないじゃない?」
ジェシンが言うと、スラは首をかしげた。
「その夜は突然の雷雨で、その先生が出かけた時間はわからなかったようですが、事故は夜十一時ごろでしたよね。あの日は日曜日。月曜日は朝の職員会議があって早くから仕事があるのに、ふだん酒を飲まないまじめな教師が酒を飲んで深夜に出かけますか? たとえ出かけたとしても、酒を飲む必要もその時間もなかったのでは? 同僚の先生と一緒の夕食のときには酒は飲んでいなかったということですし」
「そりゃ、そうだけど……」
スラが続ける。
「あの夜は、かなりめずらしい皆既月蝕でした。先生はルナ学の専門家ですよね。月蝕の影響を見ようと、例えばルナ遺跡に向かうのはありうるのではないでしょうか?」
ジェシンの表情が変わった。
「そういえば、ルナ神話では月蝕はすごく重視される。では、その動きを知っていただれかに、酒……いや、酒の代わりになるようなものを飲まされたってこと?」
ムトウがわからないと口を出した。
「でも、リスクが大きすぎますよ。あの事故は彼女がハンドルを切って正面衝突を避けたから、バスの乗客には死者が出なかったらしいけど、下手すれば、バスは海に転落していたかも……」
スラが冷静に言う。
「車に乗ったのが想定外だったとしたら、どうですか?」
「ふむ。彼女に何か飲ませて、殺すか、あるいは、何かをしゃべらせる予定だったが、何かの拍子で彼女は車で出かけてしまった。……そして事故、か」
「ほら、〈蓮華〉の図書館らしきところで九時過ぎに電気がついたって、橋の下のどなたかがおっしゃっていたんでしょ?」
「ああ、そうだね」
「でも、雷雨ですぐに停電になったって」
「……図書館で何かあったってこと?」
「その先生は、図書館の担当でもあったんではないですか?」
ジェシンとムトウは顔を見合わせた。なんだか、スルスルと読み解かれている。
ムトウがハッとした。
「いえ、いえ。ここでやめましょう。この事件は事故死として片付いています。うちにもちこまれた事件でもない。これ以上首を突っ込んでもロクなことになりませんてば!」
ジェシンが恨めし気にムトウを見た。事務所の金庫番はムトウだ。ムトウが財布の紐を締めたら、ジェシンにも手が出ない。
スラがボソッと言った。
「空港に向かう島の一つに小さなウル遺跡があります。わたしも一度見に行ったことがあるのですが、海や山、河との関係で見ると、他のルナ神殿がある場所に条件が似ているような気がします。例えば、ルナ古王国がこの島を含んだものだったとすれば、すぐそばの対岸にルナ古王国の拠点の一つがあっても不思議じゃありません」
ジェシンがつぶやいている。
……島……ルナ古王国……拠点……。
「ムトウ! 地図だ、地図を開け!」
ジェシンの声に、ムトウがあわてて地図を開いた。
「今度の違法開発地域は、島の対岸だな。もしルナ神殿とか石板が出れば、開発は中止されるが、アカデメイアと舎村が放置しない。おそらく言い値で買い求めるはずだ。開発する以上に利益が出るぞ」
ムトウがガバッと体を起こした。急いで地図を見る。
「ホントだ!」
だが、ジェシンが改めて首をひねっている。
「でも、ルナ古王国って、農耕中心の大陸国家じゃないの? 蓬莱群島にまで広がっているなんて、聞いたことないんだけど……」
ジェシンがブツブツと自問自答を始めた。
――ルナ古王国が、大陸国家じゃなくて、海洋国家だったとすれば、話は変わる。……王国の拠点も、ルナ大神殿があるカトマールじゃない可能性も出てくるな。……いや、まて。複数の拠点をもつ国家同盟だったとすればどうだ? ……古代ギリシアのデロス同盟のような都市国家の軍事同盟の例もある。……だが、古王国はデロス同盟の時代より三千年は古いぞ……。
「スラさん。ルナ古王国は、都市国家連合の海洋国家だったってこと?」
スラは一瞬答えに窮した。まさかミグル古謡にそう歌われているとは言えない。
「そうかもしれないって思っただけです。ルナ遺跡のいくつかは場所がバラついています。遺跡ごとに小さな国があって、それらが一つの連合王国になっているのかも……」
ジェシンとムトウが、驚嘆しながらスラを見た。
スラからすれば、ルナ古王国はミグルのルーツ。ルナ古王国の物語は、子どもの頃から何度も聞かされてきた。大事なルナ古王国の遺跡が、違法開発の餌食になるなどまっぴらだ。ただ、まさか、イ・ジェシンの支離滅裂なおしゃべりがよもやルナ遺跡につながるとは、スラ自身思いもかけなかった。ジェシンは動物的本能でなにかを嗅ぎ分けるのかもしれない。
ムトウが、なぜか目をキラキラさせている。惚れっぽいムトウは、賢い女性が好きなのだ。体育会系と思っていたスラが頭脳明晰と知って驚き、惚れてしまったようだ。ジェシンは自席からムトウを見ながら思った。
(かわいそうに、ムトウはまた片思いだな。スラさんのように自制心の強い女性は、ムトウやボクみたいに軽い人間を相手にしない。ま、ボクは気楽でいいけどさ)
■探偵ごっこ
「さあ、行くよ!」
イ・ジェシンにそう言われて、ムトウはギョッとした。なんだ、その格好は? まるでホームズ気取りじゃないか。ボクはワトソンか? 医者じゃないぞ。
出勤したばかりのスラが目を丸くしている。ムトウは悲鳴を上げるように言った。
「やめてくださいっ。その格好!」
「どうして?」
「目立ちすぎます。あの無能な弁護士がまたバカなことしてると噂になりますよ」
「いいじゃないか。ボクが引き受けたから、ドロップ建設はいまごろ高笑いだろう。もう勝ちは決まったってタカを括ってるさ。どうせ何をしたってバカにするだけだろうから、堂々としてりゃいいんだよ」
「いえ、ボクが恥ずかしいんですっ!」
ムトウは、ジェシンからハットとステッキを取り上げた。レトロ趣味の三つ揃いは……まあ、許せるか。おそらく今日のために誂えたのだろう。ジェシンは大いに不服そうだったが、ムトウが頑として聞き入れなかったので、諦めたようだ。せっかく、探偵ごっこができると思ったのにとかなんとか、ブツブツ言っている。
「で、どこへ行くんですか?」
「島だ。ウル遺跡のある島!」
ムトウは絶句した。違法開発地域ならまだしも、なぜ、島だ?
「スラさんも一緒にどう? いい天気だし、ハイキングみたいじゃない?」
ジェシンに誘われて、スラはまたもや目を丸くした。ここに来てからほとんど仕事らしい仕事がない。なのに、ハイキング?
「いえ、わたしはここに残って掃除でもしておきます」
「あ、そ。じゃ、留守はよろしく!」
ジェシンは、何事にもこだわらない。
――いや、レオンのことと探偵ごっこだけはしつこいか。




