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Ⅰー3  命を削った記録

■疑惑

「夕食時にお酒は飲んでいません」

 警官の質問にサキは淡々と答えた。しかし、胸の中では、疑惑が渦巻いていた。

(ありえない! 下戸のマイが、自分と別れた後のたかだか二時間ほどのうちに、いったいどこで酒を飲んだというんだ?)

 司法解剖では、相当量のアルコールが検出されたという。サキは憤慨した。だれかに無理矢理飲まされたのか。だとしたら、誰に、なぜ?


 サキはこの疑惑を校長には告げなかった。警察にも言っていない。

  いやしくも、雲龍九孤忍術うんりゅうくこにんじゅつ末裔(まつえい)。疑惑が大きいほど安易に口にしてはいけない。真の敵は身近にいることが多い。このことは幼い頃からたたき込まれている。


 数日前、マイがサキにめずらしく頼み事をした。情報察知力にも武闘術にも(ひい)でるサキの力を知っての頼みだった。

「わたしがいなくなったら、古代文化同好会の女子生徒を守ってくれないかな?」

 今から思えば、あれは遺言だったのかもしれない。マイは自分に起こることを覚悟していたのか?

 ならば、いったい誰から、そもそも何から、その女子生徒を守ればいいのか?

 しかも、なぜ?


 銀色の雨がサキの肩をぬらす。

 サキの涙が銀糸(ぎんし)(しずく)に溶けてゆく。


 雨の中、たどり着いたアパートのドアを開け、サキは首にかけていたペンダントを外した。ペンダントトップの裏面を慎重にはずす。中には一つのマイクロカードがあった。

「わたしに何かあったらこれを見て」

 そう言ったマイの静かな表情を思い出しながら、サキは、マイクロカードをマイから譲ってもらったパソコンに挿入した。マイから言われていた通り、インターネット接続はすべて切った。電源もつないでいない。


 画面に、マイの穏やかな顔が映っている。やや低めの含み声も一昨日(おととい)別れたときと変わらない。

「あなたがこれを見ているということは、わたしはもうこの世にいないということ。でも、悲しまないで。ずっと覚悟していたことだし、そのための準備もしてきたから」

 サキは絶句した。


 マイの表情は変わらない。サキの目に涙があふれたが、次の瞬間、凍り付いた。

「いまからながす映像も記録も一度だけしか見られない」

 あわててサキは画像を停止し、元に戻ろうとした。


――戻れない!


 停止したままだと映像そのものが全部消えるような気がして、サキは涙を拭い、動画をオンにした。わずか十分ほどの短いメッセージだった。

「人生の最期にあなたに出会えて幸せだった」


 マイのはにかむような笑顔が次第に薄れていった。メッセージの深刻さとはあまりにかけ離れた透明な笑みだった。

 サキは堅く手を握りしめた。マイのメッセージはあまりに唐突で、にわかには信じがたい。


 ただ一つ明らかなのは、マイが殺されたこと。

 だれの手によるものかもわからない。背後には巨大な秘密組織があるようだ。マイは何かの理由でその秘密の一端を知ってしまったらしい。だが、マイは復讐を望んでいるわけではない。復讐が叶う相手でもなさそうだ。なぜか、女子生徒のことだけをサキに託した。


 サキの血が騒いだ。雲龍九孤族のことをマイが知っていたかどうかはわからない。だが、マイは、サキの特別な力には感づいていたようだ。

 サキは泣いて泣いて、そのまま泥のように眠ってしまった。目覚めたとき、サキの決意は固まっていた。サキは、マイのメッセージを頭の中で反芻した。


 ルナ遺跡の学術的調査結果はすべてあるところに保管している。あなたに渡した鍵で開く。その調査資料自体には危険なものはない。捨て置いてもかまわないし、だれかに渡してもらってもかまわない。

 だけど、わたしが偶然に見つけたものは、だれも知ってはならないものだったらしい。だから、あなたに伝えるかどうか、すごく迷った。知ると、あなたの命が危なくなるから。

 けれど、あなた以外に頼める人はいない。あなたとあの子が遺跡のそばに並び立った時、わたしはそう確信した。

 このままだとあの子も遺跡も危ない。それだけじゃない。国も地球すらも危ないかもしれない。あの子の力が善か悪かはわからない。あの子の力を封じ込めている謎を解くのがよいかどうかもわからない。……それはあなたが決めてほしい。

 サキ、あなたを愛してる。とても、とても愛している。

 泣かないで、サキ。来世でもきっと巡りあおうね。わたしはまたあなたを愛するから。


■マイの資料

 大陸国家のカトマール共和国には二つのルナ遺跡がある。百年前に発見された大神殿遺跡は閉鎖中だが、シャンラとの国境に近い小さな遺跡は見学可能だった。

 二人だけでそのルナ遺跡を訪ねた夜、マイとサキは、古い小さなホテルの一室で一緒に月を見上げた。二年間を同僚としていっしょに過ごす中で一度きりの夜だった。

 それからひと月。マイはもういない。

 

 サキは、紙袋からすべての荷物を取り出し、床に広げた。たったこれだけのもので彼女は暮らしていたのか。

 思えば、服はほとんど同じだったし、平日は朝早くから夜遅くまで職員室か図書館で仕事をしていた。週末はいつも調査で出かけていたはずだ。寮母室には寝に帰るくらいだったのだろう。預金通帳にも残額はさしてなかった。給料はすべて遺跡調査に費やしていたのか。


 マイは自分のことをほとんど語らなかった。「一教員一サークル」の割り当てで、やむなく引き受けた古代文化同好会の指導にも熱心だったわけではない。

ただ、半年前に一人の女子生徒が入部してきてから、マイは少し変わった。その子が望む場合には、週末に調査に連れていくようになった。一対一はまずいと考えたのだろう。生徒の担任であるサキを誘うようになった。


 サキから見て、女子生徒はじつに影の薄い子であった。

 ごく平凡な顔立ちで、ほぼいつも無表情。成績は良くもなく悪くもなくごく普通。何らかの秀でた能力を持っているわけでもない。

 古代文化同好会を選んだのも、なにか一つはサークル活動に参加すべしという学校方針に従って消極的に選んだだけらしい。他の部員がいない――それが、彼女が古代文化同好会を選んだ理由だったのではないかとサキは思っていた。


 

 たまたまマイが見せた図版に興味をもったのか、ルナ遺跡の実物を見てみたいかとマイが尋ねると、生徒が頷いた。その初回の日帰り調査以来、いつもサキも同行するようになった。車の中でも、遺跡でも、女子生徒は空気のように存在感がなかった。


 ただ一度、ほんの一瞬だけ、その生徒が輝いて見えたことがある。

 黄昏時(たそがれどき)の光のなせるわざだったのかもしれない。


 女子生徒は璃空(りく)という名だった。十年ほど前に岬の上病院にやってきた救急医碧海恭介(あおみきょうすけ)の一人娘と聞いたのは、それからしばらく後のことだった。


 学校に勤務するかたわら、マイは研究を続けたが、論文を発表していたわけではない。「盗作」と糾弾された悪夢の再現を恐れたのだろう。だが、一度ポロッと漏らしたことがある。


――いつかまとめて本にしたい。


 今年は、新たにミン王国で古代ルナ遺跡とルナ石板がいくつか発見されたばかり。アカデメイア大学附属博物館で本格的な解読調査が始まるという。だが、マイはそれにはまったく無関心だった。

 これまでルナ石板の解読を主導してきたのは、ルナ学研究者として著名な附属博物館副館長マルゴだ。彼は、もと天月修士と聞く。天月は、古代ウル帝国時代から続く仙門集団で、古文書収集とその研究にかけてはアカデメイアと双璧をなす。副館長は、博物館と天月の橋渡しとしても活躍しているらしい。

 だが、マイの研究成果をまったく評価せず、マイの研究者生命を閉ざしたのはほかならぬマルゴだった。今回もルナ石板は、そのマルゴのもとに送られる予定だ。


■毒親

 部屋に差し込む月明かりの中で、サキはマイと語り明かした一夜を思い浮かべていた。

 マイが語る過去はサキの想像を絶していた。マイはサキに、ある重要なメッセージを伝えようとしていたのだろう。どこか諦念(ていねん)にも似た静かな表情だった。


「父は、ミン国でそれなりに大きな会社を経営していたの。わたしは、遅くに授かった念願の子で、とても大切にされた。十歳になるまでは本当に幸せだった」

 マイの目が遠くを懐かしむように少し潤んだ。サキはマイの手を握りしめた。


「二十年前の通貨危機のことは知ってる?」と、マイがサキに尋ねた。

「ああ。ミン国の大企業がいくつも倒産して、財閥が解体された事件のことだよな」

 あの通貨危機の影響はすさまじく、順調だったミン国の経済発展が一度完全に止まったほどだ。

「そう。国家が破産した……。父の会社も経営破綻し、家と土地が差し押さえられた。父は自ら命を絶ち、母も体調を崩した。その頃から母は怪しげな宗教にのめり込むようになった。母は、自身が相続した遺産のすべてをその宗教団体につぎ込んだ。親戚が止めようとしたけれど、母は聞き入れなかった。「娘のため」と言い張った」

 サキの手の中で、マイの手は小刻みに震えていた。


「わたしはもともとあまり丈夫じゃなくて、母はわたしのために自分のキャリアをあきらめた。過保護って、子をがんじがらめに縛る重い鎖ね。母は、自分の人生の代わりにわたしの人生を支配しようとした。他の家族を知らなかったから、そんなものだと思っていた。父の死後、母が宗教に助けを求めて、わたしにも入信を強要したとき、逆らえなかった。わたしには母しかいなかったから、母に見捨てられるのが何より怖かったの」

「子どもならあたりまえだ。親を選べないからな。マイのせいじゃない」と、サキは強く言い放ち、包み込むような眼でサキを見た。


「母はわたしに暴力をふるったわけじゃない。ご飯も食べさせてくれたし、学校にも通わせてくれた。服もちゃんと買ってくれた。だれも気づかなかった。わたしすら気づかなかった。母が「毒親(どくおや)」であることに……」

「毒親?」と、サキは首をかしげた。

「うん。母はわたしを精神的に支配した。わたしは「NO」と言えなかった。高校を選ぶ時も、大学を選ぶ時も、友だちさえ、すべて母が決めた。わたしは母の期待通りにふるまい、母が望む答えを用意した。一生懸命勉強したのも、いい成績をとると母が喜ぶから。母が喜ぶとわたしはうれしかった」

 当時を思い出したのだろう。マイの白い指がピクリと痙攣(けいれん)した。


「つらかったろうな……。マイはやさしいから」

 涙が滲んだ目で、マイは、一瞬サキを見上げ、すぐに目を逸らして、静かな語りを続けた。

「ある日、大学の講演会で聞いた内容が気になり、感想ペーパーでそっと質問した。そうしたら、先生は研究室に来なさいと言って、ある本を貸してくれた。「毒親」の本だった。読み進むうち、わたしはブルブル震えた。そこに書かれていたのは、母とわたしの関係そのものだった……。もちろん、わたしは否定した。母との関係ではなく、その本に書かれていることを。でも、いったん芽生えた疑念はなかなか消えない。母も何か気づいたみたい。母は、わたしの束縛をいっそう強めた」


 サキの手の甲に雫が落ちた。うつむいたままで、マイは泣いていたのだろう。

「……母は、わたしに「神」の意思にしたがって信徒の男性と結婚しろと命じた。見ず知らずの男と結婚する。……無理だった」

 サキの細い肩がブルブル震え始めた。

「だって、わたしが好きなのはいつも女性……わたしはレズビアンだもの」

「うん……わかってる」

 サキはマイの手を握りしめた。


「母には絶対に言えない。母が信じる宗教では、同性愛は否定されている。その頃から、わたしは母からの自立を目指すようになった。母はわたしへの監視を強めた。それはほとんど狂気に近いものだった」

「わたしは、母に内緒でウルやルナの古代宗教を勉強しはじめた。母と母が信仰する宗教を理論的に否定するためだった。でも、母が気づいて、わたしが大事にしているものを壁に投げつけて壊した。母は、「神」が許さないと言い、図書館から借りている多くの本や資料を勝手に持ち去り、焼いてしまった。お金もない、ツテもない。母から離れることは、わたしの生きる術がなくなることを意味するのだとはじめて気づいた。そして、そのような状況に子を追い込むのが「毒親」なのだと」


 マイの声は淡々としていた。

「ただ一人信頼できたのは、わたしに「毒親」の本を貸してくれた先生だった。先生に相談し、極秘にアカデメイアへの留学手続きを進めた。奨学金を得て、学費と生活費の心配はなかった。母から逃げ出してひとりやってきたこのアカデメイアで、わたしは解放された気持ちだった。古代学研究のゼミに属し、研究も楽しかった。奨学金を得られたから、大学院にも進学できた。必死で研究した。博士論文は評価され、その一部を論文として公表することもできた」

「頑張ったんだな」

 マイは一瞬笑みを浮かべて、すぐに目を伏せた。

「……でも、母が気づいた」

「気づく?」


「母とは絶縁したつもりだった。母が気づかないように、名まえも変えていたから。なのに、母がアカデメイアにやってきた。宗教団体の幹部にのし上がっていた母の信仰はいっそう強くなっていた。わたしを「正しい道」に教導しようとした。だれかに(そそのか)されたのかもしれない。母はわたしの書きかけの論文データを内緒で別の者に渡した。わたしが論文を発表する数日前に、研究室の先輩が論文を発表した。明らかに、わたしの分析を盗んでいたけれど、証拠はない。むしろ、わたしのほうが「盗作」と攻撃された。研究者としてやっていく道は閉ざされた」

 サキは、ほうっと息を吐いた。マイは殻にこもることで、必死に自身を守ってきたのだろう。

「それが盗作事件の真相か……」


 どれほど辛かったことか。母にも仲間にも裏切られたとは……。人を信じなくなるはずだ。

だが、マイにはただ一人、味方がいたらしい。

「一刻も早く自立したかった。幸い、アカデメイア中等部が採用してくれた。「毒親」のことを教えてくれた先生のおかげ――。先生はアカデメイア大学文学部に教授としてやってきて、わたしが研究を継続できるよう取り計らってくれた。博物館の非常勤研究員の肩書きを与え、博物館への出入りを許してくれただけでなく、紀要に論文を発表する機会も与えてくれた。遺跡の調査も続けられるよう手配してくれた」

「いい先生だな」と、サキが言うと、マイははじめて微笑んだ。

「うん……」


「あなたも聞いたことがあるはず――わたしの母親殺し……」

 マイの声がふたたび乾いたように固くなり、サキは無言で頷いた。


「母は、落ち込むわたしにさらに追い打ちをかけるように、また結婚を勧めた。アカデメイアにやってきた母は、わたしにつきまとい、わたしは、疲れ切って母の手を振りほどいた。わたしと母はバランスを崩し、歩道と車道の段差に(つまづ)いた。母はわたしを突き放し、母の身体は車道のほうに投げ出され、トラックの下敷きになった。母はわたしをかばってくれた。血まみれの母はわたしに手を差し伸べてこう聞いた。「……ケガしてない?」 ……母は母なりに最期までわたしを愛してくれたんだと思う」


 母を語るマイの顔は、どこか悲しげで、どこか慕わしげだった。

「「毒親」でも、わたしの母。母に愛された記憶は消えていない。わたしは、すべてを失い、自分をも失いかけた。どうなってもいいと思った。そのときも先生が支えてくれた。先生は、わたしの裁判のために知り合いの弁護士に頼み、無罪を勝ち取ってくれた。そして、新たな職を用意してくれた。それが〈蓮華〉教員」

 サキは何も知らなかった。マイにこれほど重い過去があるなど……。


「母を失ったわたしは、何も望まなくなった。研究資料と向き合う時だけが、母と語り合える時間になった。わたしにとって、愛も毒も含めて、母はただ一人だもの。いまだに母の呪縛から逃れられないのかもしれない」

 マイの瞳が突然強くなった。

「あるとき、気づいた。母もまた縛られていたと。母を縛っていたものは何か。それを知ろうとしていろいろ調べた。それがいかに危険なことであっても、母を失ったわたしには怖くなかった。わたしは母の思い出と生きるために、真実を知りたかったのだから」


■天志教団

 月光は二人を照らし続けた。告白の内容に似ず、マイの声は淡々としていた。サキはマイの手を握りしめ、尋ねた。

「聞いてもいいか? お母さんはなんていう宗教組織に属したんだ?」

「天志教団」

「天志教団? 最近、このアカデメイアにも進出してきたというカルト系の新興宗教か?」

「うん。でも、ホントは新興宗教じゃなくて、古代宗教の流れを汲む。最近、急速に大きくなって、教理も整理されたらしい」

「ふうん」


「宗教組織は課税されず、蓄財には好都合。離脱者や背反者には天罰が下るといって脅すから、いったん入り込むと抜け出せない。いいことがあれば天の恵みと説明される。母も自己暗示にかかっていたのだと思う。母の心の弱さだろうけれど、きっかけはわたしの身体の弱さと父の死――。母だけを責めるわけにはいかない」

「いったい、どんな宗教なんだ?」

「もとは、古くからカトマール西部の山岳地帯に存在した少数部族の土着宗教らしい。でも、一千年年ほど前にカトマールの火の山が噴火して大きな天変地異が起こったときに、教祖を名乗る人物が教義を定め、その弟子たちが教団を組織して、教会を作り始めたとか。その後いったん衰えたけれど、五十年前に教祖の再来と呼ばれる人物が教義を整理し、いまの天志教団を作ったという。カトマールやミン国で急速に信者を増やしていて、いまや世界中に信者がいる」

「へええ」


「自然を尊重し、家族こそすべての秩序の源泉と唱えて、同性愛者やトランスジェンダーは自然にも家族秩序にも反するといって排除する。政治的にはかなり保守的。でも、自然保護や環境保護にも熱心でね。そこは今風かな。自然災害を予見したり、被害者救済に尽力したりするわけ。けれど、自然災害に見舞われるのは、不信心な人のせいだと脅すので、地域で「犯人探し」が始まってしまう。LGBTのひとたちは不信心の筆頭とされる。熱心な信者とそうでない人に、地域が分断されてしまう」

「巧妙だな。群集心理を逆手にとってるわけか……」

「うん」


「教祖とやらは独裁者なのか?」

「これも微妙。教祖は、たしかに絶対視されるけれど、その地位は世襲ではない。〈月の神〉が選ぶとされていて、何らかの選抜基準と選抜儀式があるらしい。教団内部には厳格なヒエラルキーがあって、それを否定することも、批判することも許されない。平信徒なら抜けることもできるけれど、幹部は無理みたい。信仰が篤い者はどんどん地位が高くなっていくけれど、そうなると教団を抜けるのはむずかしい。実際に抜けようとした人はいずれも行方知れずになっているとか」

「怖い組織だな……」

「そう。天志教団の教理が保守的なので、極右の政治集団と結びついているといううわさもある。教団のバックには何らかの強力な秘密組織があるみたい。その組織の名も、組織の姿もわからない。けれども、最近ふっと思い出したことがある。あれはまだミン国にいたころ。わたしに結婚を勧めた相手について、母はこう言った。教団幹部だから、きっと〈天明会〉の一員だろうって」


「〈天明会〉?」と、サキは首をひねった。

 雲龍九孤族は、情報収集に()け、たいがいの闇組織に関する情報を持っているが、〈天明会〉とは初めて聞く名だ。

「うん。それがきっと秘密組織の呼び名じゃないかな。正式名称はわからないけれど。その組織の力が宗教を超えているのは確か。わたしの論文データを盗み、他の研究者に渡して、その研究者を守るだけの力を学術界でもつほどにね。わたしの論文も専門誌に載ったものだし、名前も変えていたから、ふつうなら母が気づくはずはない。なのに母はすぐに気づいた。これも誰かが母に伝えたのだろうと思う」

「じゃ、ずっと監視されてきたわけか?」

「そうだと思う。迷惑がかかると思って、あなたにも近づかなかった。研究はインターネットから切断したパソコンを使って行うし、スマホにも学校とあなたの連絡先以外は残していない。メールもSMSも電話も使わない。すべて一人でやるつもりだった。でも、あなたが古代文化同好会の副顧問になってくれて、とてもうれしかった。あなたは信頼できる」


「そんなこと言われたの、はじめてだな。どうしてそう思う?」

「わたしには見える。異能の〈気〉が……。あなたは普段は隠しているけれど、ごくたまにとても強い〈気〉が一瞬スッと立ち上る。あなたが本気で怒ったときかな。あなたの〈気〉はまっすぐで、きれいな色をしていて、陰りがない。だから、強く、ウソをつかないはずだと思った。あなたを巻き込みたくはなかった。でも、あなたしかいない。わたしには無理だけれど、あなたならできる。わたしに何かあったら、あなたに託したい。あの女子生徒を守ってほしい」

「守る?」


「うん。あの子は、自分でも気づいていないけど、きっと何らかの異能を持っている。ふだんは〈気〉のかけらもない。でも、ルナ遺跡で一度強烈な〈気〉を感じた。あなたも一緒にいたときのこと。あの子の表情が一瞬変わった」

「あの時か。……覚えている。わたしも一瞬驚いた。だが、それが強烈な〈気〉の現れというのか?」

「そう。ほんの一瞬だけど、あの子の目が朱い色を帯びて、神々しいほどに美しい表情をした。そのときは、夕陽が瞳に映ったのだろうと思った。でも、気になって調べ直したら、ルナ神話にこういう一節があった」


――月の神は、白銀の髪、緋色の瞳を持ち、地上に舞い降りる――

 

 サキは驚いた。〈月の神〉は、古代ルナ神族の最高神だ。異世界たる〈緋月の村〉の奥深くに住むと言われ、この世に姿を現すなどありえない。

「まさか、あのリクが〈月の神〉だと?」

「まだわからない。でも、〈月の神〉に何らかの関わりをもつのかもしれない」

「伝説の〈月の一族〉かもしれないということだな?」


 〈月の一族〉は古代に現存した異能者一族と神話は伝える。だが、今は滅んだはず――。その〈月の一族〉が生き残っていて、その争奪戦が起こっているというのか?


「天志教団のヒエラルキーで試される力は、どうやら〈月の一族〉がもつ異能みたい。天志教団は、宗教組織の名を借りて、〈月の一族〉を探し出し、集めようとしているんじゃないかな」 

「碧海リクが狙われるかもしれないってことか……?」


 サキは、あの無表情で無口で、存在感がまったくない、影のような女子生徒のことを思い浮かべた。あのリクが〈月の一族〉だと……? そんなこと、誰も思いつくまい。


「そう。……でも、リクは普段はまったく〈気〉を発していないから、いまはだれも気付いていないはず。でも、もし神殿遺跡でわたしが感じた〈気〉がわたしの錯覚じゃなく、本物の〈気〉だとすれば、天志教団は何としてもリクを欲しがるはず。あの組織にとらわれたら、リクは何もかも失う。わたしの母のように。……それどころか、リクの力が利用されて、恐ろしいことが起こるかもしれない」


「恐ろしいこと?」

「〈月の一族〉は、天の気を操る力を持つ。天変地異を引き起こし、世界を破滅させることすらできる。ルナ神話に、破壊と再生の物語がある。一種の終末神話。天志教団が何を目指しているのかはわからないけれど、終末に向けた「救済」を語って、「人の選別」を行っているのは確かだと思う」


■命を賭けた研究

 週末の早朝、サキは貸倉庫に向かった。

 手には、あの夜にマイから預かった倉庫のカギがある。サキは、カギを開けるなり、絶句した。


 畳三枚ほどの貸倉庫には、ぎっしりと段ボール箱が詰め込まれていた。段ボール箱には日付が書き添えてあった。サキは、いちばん新しい日付の箱を開いた。きちんと整理された何冊ものファイルが現れた。マイらしい。いつか出したいと言っていた研究書の資料なのだろう。


「わたしに何かあったら、このカギで倉庫を開けて。中味はあなたの自由にしていいから」

 月明かりに浮かぶすっきりとしたマイの横顔に、サキの胸は高鳴った。低めの静かな声は、臓腑の奥にしっとりと染みこんでくる。

「中味って何だ?」

「ただの紙くず」

 マイは、めずらしく自嘲気味に笑ったあと、真顔になってしばし沈黙した。


 やがて意を決したように、マイは、白いTシャツの内側から小さなペンダントを取り出した。サキは、ぼうっとマイの白い指先を見つめていた。指輪もなく、マニキュアも塗られていない細い指。

 ツッとサキの目先に差し出されたペンダントをサキは自分の手のひらに載せて眺めた。一円玉程度の黒ずんだ銀のペンダント。表面の意匠は凝っている。

「よかったら、もらってくれる?」

 サキの笑顔がはじけた。マイのぬくもりが抜けてないペンダントをサキは自分の首にかけた。

 ファイルをめくり、マイの手書きの書き込みを見たとたん、サキは思わず胸元のペンダントを握りしめた。マイの形見のペンダント。


――マイの生きた証の膨大なファイル。

 これをこのまま埋もれさせるわけにはいかない。さりとて、マイの研究など、サキにはさっぱりわからない。頭をかかえながら、サキは一人の人物を思い出していた。


 中学生のときに古代ウル帝国をモデルにしたゲームに夢中になり、ウルに関する文献を読みあさり、ゲームの間違いを正して、真正ウルゲームを作ると息巻いていたアイツ。研究者としてのマイの実績を教えてくれたのもアイツだ。アイツは、マイの研究に心酔していた。中学生のころ起こった例の研究不正事件の記事を手にして、()(ぎぬ)だとさかんに憤っていたっけ。

 一年前、アイツがアカデメイアに入学し、日本からやってきた。しかし、サキは彼をマイに紹介しなかった。マイが拒んだのだ。誰にも会いたくないと。

 確かに、騒々しいほど明るいアイツは、マイの静かな生活を荒らすに違いない。そう自分に言い聞かせていたが、本音は違う。マイを独り占めしたかった。マイを理解し、マイを支えることができるのは自分だけ。そう信じてきた。なのに、むざむざマイを死なせてしまった。後悔と追慕の念が夜ごとにサキを(さいな)む。


 握りしめたペンダントを通じて、マイの言葉が頭のなかに響いた。

「とても狡猾な人物がこれを欲しがっている。危なかったら捨てていいから」


――狡猾な人物……?

 きっと、マイはだれかに殺された。その相手はすぐそばにいるかもしれない。背筋がブルッと震えた。怖さからではない。サキの闘争本能に火がついたのだ。

(わたしは雲龍九孤族。簡単にやられたりしない!)


 貸倉庫からいったん出て戸を閉め、サキはスマホを取り出した。

「ああ、わたし。ちょっと頼みたいことがある。いますぐ来い!」

 受話器の向こうでグズグズとした言い訳が聞こえる。

「はやく来い!」

 しばらくして、一人の青年がオンボロ自転車で駆け付けた。

「十三分もかかった。五分で来られるはずだ」

 仁王立(におうだ)ちしたサキは、時計を見ながら言い放った。

「サキ(ねえ)。オレにも予定というものがあるんだからな」

 青年の抗議を聞くつもりは(はな)からないのだろう。サキはフンと肩を怒らせて貸倉庫のドアを開けた。


「なに? これ……?」

 サキは、一冊のファイルを彼の目の前に突き出した。みるみる青年の表情が変わった。

「こ……これって」

「そうだよ。おまえの大好きなもの」

 青年は興奮した面持(おもも)ちで、ファイルの資料を読み進めていく。

「わかる?」

「あたりまえだ! 以前にファン・マイがやってた〈月神殿〉の研究じゃないか。だけど、そのときよりずっと進んでる。資料が半端じゃない。いったいどうして……?」


 〈月神殿〉はまだ見つかっていない。〈月神殿〉の評価は二分されていて、通説を代表するマルゴは〈月神殿〉をルナ大神殿の中に位置する祭祀空間とみなし、マイは〈月神殿〉こそが古代ルナ神殿の中核であると論じていた。しかし、そもそも、この議論自体が相当にマニアックだ。


 サキは得心したように頷いた。

「おまえ……理科も数学もてんでダメなくせに、ウル学とルナ学だけは別なんだな。どうしておまえみたいなのがアカデメイアに受かったのか、まるで不思議だったけど、よくわかった。一芸入試の合格だったんだ」

「わるいかよ? 合格は合格だ」

「大きな口をたたくな。留年中のくせに!」

 青年の顔がひきつった。


「た……頼む、サキ(ねえ)。ばあちゃんには言わないでくれ。ぶっとばされる」

 サキは、しゃがみこんでいる弟の頭を軽くはたいた。

「わかった、取引だ。これをおまえに任せる。全部整理すれば、ばあちゃんには黙っておいてやる。学資もわたしが多少は支援してやろう。だが、この成果は、おまえの名前では出さない」

 青年がわずかに首をかしげた。

「ファン・マイの名で出す。いいな、リト」

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