Ⅶー4 アカデメイアと〈蓮華〉
■受験生ルル
あの山崩れ事件で捕らえられ、留置場から出てきた翌日、〈ムーサ〉に行くとオーナーが突然ルルに言い渡した。一週間後にアカデメイアに行けと。間に合わなかったらどうしようかと思ったわよ、とかなんとか、一人でブツブツ言っていた。頼んでもないのにと、さんざん文句を言ったが、聞き入れてもらえなかった。
「いい? あんたは、あたしの姪のワン・ルルだからね。間違うんじゃないわよ」
快晴だ。
今朝、オーナーは、今日のために買いそろえたという服と靴をルルに着せ、大満足で見送ってくれた。外では、リトたちが待っていた。オーナーが心配して、ちゃんと試験会場までルルを送り届けるよう、リトに頼んだらしい。
「かわいいね!」
リトの褒め言葉に、ルルの足が弾む。たしかに、今日の服はいつもの舞台用衣装にくらべて品が良く、かわいらしい。電車に乗っても、道を歩いても、行く先々で人びとが振り返った。
リトだけでいいのに、なぜかおまけがついていた。風子たちだ。「マリおばさん指令」でリトが風子とアイリに食事をごちそうしたときに風子たちと知り合い、その後、風子が〈蓮華〉に転学させられたことを知ったオーナーは、金曜日の夜はいつも風子とアイリを無料で〈ムーサ〉に招くようになった。〈蓮華〉の寮には食事がないからだ。同い年である風子やアイリとルルが友だちになることも期待しているらしい。
いやはやこれがなかなか難しい。
アイリとルルはいつも天敵のようにいがみあうからだ。
間に立って風子がとりなすが、アイリはルルとケンカしつつも、〈ムーサ〉行きをやめるとは言わない。タダ飯大好き――しかも、〈ムーサ〉の食事はおいしい!
ルルの受験が決まると、オーナーの命令でリトが試験会場まで案内する羽目になり、風子がアカデメイア大劇場――通称「殿堂」――を見たいと言い出した。アイリはモモが行くならと腰を上げ、ぼんやりとしたままのリクに風子が一緒に行こうと声をかけたのだ。
ルルたちは殿堂を見上げた。ルルは、〈ムーサ〉の常連客たるイ・ジェシンの言葉を思い出していた。
――世界の新しい舞台はいつもこの白亜の殿堂からはじまるんだ。
これまでも名だたる演劇やミュージカルの初演がこの殿堂で披露されてきた。古代ギリシアのパルテノンを思わせる大理石の柱が何本もそそりたち、天井裏には見事な彫刻がほどこされている。ずっと見とれていたいところだが、試験会場はここではない。さきほど見た構内の地図はすべて頭のなか。ルルたちは、新築の建物に向かった。
「音楽学部特別編入試験会場」――目立つ看板が掲げてあった。早く来すぎたらしい。まだ受付開始には時間がある。
ルルはきれいな服が楽しくて、ヒラヒラ舞っている。散歩だと思っているモモがはしゃいで芝生の上を走るので、アイリはうれしそうだ。リクは静かにベンチに座っており、風子もベンチに腰掛けてリクの傍にツツツーッと近寄っていく。リトは少し離れて、博物館を眺めていた。今日もカイはあそこにいるのだろう。アルバイトの日ではないが、二時間目の授業まで時間がある。なにか口実をつけて行ってみよう。
九鬼彪吾は窓から五人の姿を見下ろしていた。〈ムーサ〉のウエイターをしていた青年もいる。他の子たちも一緒にやってきたから、ルルの友だちなのだろう。だが、芝生の上の五人はそれぞれが思うままに過ごしており、てんでバラバラだ。
ルルに至っては、受験につきものの緊張などみじんも感じさせない。あの子には、アカデメイアの受験生といった当事者意識はゼロに違いない。あれほど楽しそうにしているなんて。
この試験は、合格者にルナ大祭典のミュージカル参加という特典がつき、特待生扱いで学費等がすべて無料になる上に高額の奨学金がつくため、倍率がゆうに百倍を超えていた。すでに入学している学生も、他大学からの編入希望者、留学生も受験可能だ。書類審査で十分の一に減らされ、筆記試験でさらに半分に減らされた。それを通った二十五人が最終試験の面接に来ている。このうち合格するのは五人程度だ。
案内された部屋をグルッと見回したあと、ルルは、ドカッと椅子に座りそうになって、あわてて座り直した。受験生はほとんどが二十歳前後のようだ。服装も自己表現なので、かなり個性的ないでたちが多い。ただ、若者たちは、男女を問わず、緊張した面持ちだ。それでも、みながルルに目を留めた。
ルルより少し年上のような少女がひとり、部屋の隅っこで震えていた。着古したセーラー服姿だ。学校の制服なのだろう。彼女はルルの姿をちらっと見たが、すぐに目をそらした。だが、何度もチラチラとこちらを盗み見ている。
ややあって、呼ばれた者から順に、ひとり、またひとりと部屋を出て行った。
最後に、さっきの少女とルルだけが残った。
「ふああーあ」
ルルの欠伸に、彼女はビクッとはじけたように身をよじらせ、今度はルルを正面から見た。
「……なに、あんた?」
彼女の視線がうっとうしくて、ルルは眉をひそめた。
「あ……すみません」
少女はかすかにほほを染めてうつむいた。
「なんか用?」
ルルの口調はぞんざいだった。見ず知らずの他人との関わりは苦手だ。つい、とげとげしい口調になる。
「……ごめんなさい。……あなたがすごくきれいだから」
彼女は真っ赤になり、桃色のくちびるから、小さな声を漏らした。華奢な指先がふるふると震えている。背格好の割には長いきれいな指だ。
「ヘンな子。あんた、さっきから謝ってばかり」
「す……すみません。あたし、田舎から出てきたばかりで、よくわからなくて……」
「あたしだってわかんないわよ。自分がここにいる理由だってわかんないんだから」
少女が少し顔をあげた。大きな瞳には驚きが宿っている。
「でも……面接に来たんでしょ?」
「そうらしいね」
「緊張しませんか?」
「どうして?」
「だって、アカデメイアの音楽専攻の特別奨学生の面接なんだもの。面接に残るのも奇跡って言われるほどの超難関で……みんな天才ばっかりって……」
「じゃ、あんたも天才?」
「いえ。……あたしはどうしてここに呼ばれたのか、自分でもわからないんです。学校の先生が、たまたま、あたしが作った曲を送ったら、なぜか通っちゃって。……でも、あたし、きちんと音楽の勉強なんてしたことがないし、家にはピアノがないから、まともに弾けないし……いったいどうしたらいいのか……」
「じゃ、あたしと同じだ」
少女の目に安堵の色が浮かんだ。
「ほんとですか?」
呼び出しがかかった。
「アリエル・コムさん」
「はい」
少女が立ち上がった。ふたたび緊張のあまり、顔面が蒼白になっている。アリエルはルルをちらりとみた。
「いつもどおりでいい」
ルルのことばにアリエルは頷いた。
ルルは髪の毛をかきむしった。
――なんで、オレが人助けなんてしてるわけ?
スカートの裾をまくりあげ、長い足を放り出して、ルルは頭の後ろに手を組んだ。目をつぶる。
■試験
カムイは焦っていた。
ルルはたしかにこの建物に入ったのに、どの部屋にいるか見当もつかない。窓という窓は全部しまっていて、中をうかがうのも困難だ。小一時間ほど建物を旋回し続けて、ようやく見つけた。ひときわ大きな窓のある立派な部屋の中央にルルが立っていた。音が漏れる通気口のそばの窓枠にカムイはしがみついた。
面接会場には、五人の教員がいた。中央の美青年を見て、ルルは内心驚いた。一ヶ月ほど前、〈ムーサ〉に来た客だ。
あのとき、彼は、ルルに奇妙なリクエストをした。モーツアルトのオペラ「魔笛」の「夜の女王のアリア」。たまたま前日のラジオ番組で聞いていたため、唱うことができた。客に大受けしたので、つい調子にのってアレンジしまくった。
端正な表情をくずさず、美青年は、静かな声でルルに指示を出した。
「ワン・ルルさん。希望は声楽ですね」
――いや……そんなの、知らないし。
ルルが黙っているのにもかまわず、彼は続けた。
「最初は課題曲を歌ってもらいます。五つの課題曲の中から好きな一曲を選んでください。その次は自由に好きな曲を歌ってください。どちらにも伴奏はつきません」
そばに立っていた若い男性が大きな書類をもって、ルルのほうに歩み寄った。そして金属製の小さな台に書類を置き、中を開いた。
(なに、これ?)
見たこともない五本の線のうえに、小さなおたまじゃくしのような記号がびっしりと並んでいる。その下に文字が書かれている。文字は読めない。さっぱりわからない。
だまったまま突っ立っているルルに、青年の隣の面接員が言った。年配の女性だ。
「課題曲に与えられた時間は五分です。五分後には、歌唱をはじめてください。伴奏はつきませんので、自由にどうぞ」
――どうしろって? さっぱりわからない歌をどうやって歌えというのか?
五分がたった。相変わらず、ルルの口は開かない。面接員が顔を見合わせ始めた。紳士はおだやかな表情でルルを見ている。
右端の年配男性が少し怒ったように言った。
「このまま歌わなければ失格となりますが、それでいいですか?」
ルルにはどうしようもない。だって、わからないのだから。
左端の中年女性が取りなすように言った。
「譜面が読めないわけではないでしょう?」
「譜面?」
ルルの口が開いた。
「譜面って……これ?」
ザワッ。
審査員たちが顔を見合わせた。
「はじめて見たし……」
ルルのつぶやきに、驚きが走った。
ザワッ、ザワワ。
審査員たちの顔が嘲りでゆがんでいく。矢継ぎ早に、審査員たちの口から言葉が発せられた。
「き、きみねえ。譜面も読めずに、ここの試験を受けようとしたの?」
「でも、いったいなぜこんな子が最終面接に来てるんですか?」
「書類選考と筆記試験には通ったんですよね?」
「どれどれ……?」
審査員たちがあわてふためきながら、書類を見直している。
「あれ……」
「あら……」
「まあ……」
「ほう……」
四人の審査員がいっせいに同じ所に視線を集めた。
中央の美青年がおもむろに口を開いた。
「ええ、ボクが特別推薦枠を使いました。この生徒は、きょうがはじめての試験です」
「く……九鬼教授。いや、特別推薦枠はたしかに制度上認められておりますがな。それは、正規手続きでははかりきれない特別な能力の持ち主に限っておるわけでありまして……」
年配男性教授が、禿げた額の汗をぬぐっている。
「いくら九鬼教授のご推薦でも……この面接を通らなければ、合格にはできません。ご存じですよね?」
と、若い女性教員が断固たる口調で彪吾とルルを見た。
四人の教授たちは、明らかに中央の青年を敵視している。だが、美青年はまったく意に介していない。
「ええ、もちろん。ですが、この生徒は特別な能力の持ち主なのです」
ルルはおもわず美青年をにらんだ。パブで出会ったときは、すてきな紳士だと好感をもった。だが、いまは違う。厳粛な雰囲気の室内で、中央に座り、妙な威厳を醸し出している。ルルのいちばん嫌いな「権威」を振りかざしている。
美青年は言った。
「ワン・ルルさん。あなたのいちばん好きな曲を歌ってください」
「好きな曲?」
「あなたがいちばん楽しくなる曲です」
――「楽しく」と聞いて、少し紳士を見直した。楽しい曲ならいくらでもある。
「なんでもいい?」
「ええ。どうぞ」
目の前にいる五人の「権威」に、ルルは後ろ足で砂をひっかけたい気分だった。青年はゆとりをもってルルを見守っている。両脇の四人の目は明らかにルルを疑っている。ルルにうさんくさそうなまなざしを向け、隙あらばひっくり返そうとしている。
ルルはあのオペラとやらを歌った。しかも思いっきりロック風にアシンジしたヤツを。四人の目が点になった。青年の口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
ルルの声は自在。奔放。カムイは夢中になって窓の桟にしがみつく。
曲が終わると、ほうっつ。うっとりしてしまって、脱力した。声をもたない主人に長く仕えてきたので、これほど多彩な声をもつ人間がいるなど想像したこともなかった。
審査員たちは絶句していた。ようやく一人が口を開く。
「……いや……たしかに課題曲ですが……これは、なんと言いますか。オペラではありませんな」
「そうです。アレンジが激しすぎて、まったく別物。もはやモーツァルトではない」
「これをいったいどう評価しろとおっしゃるのですか?」
「芸術的アリアが下世話な大衆歌謡になったような……」
青年は審査員たちを見回した。
「それのどこが不都合でしょうか? モーツァルトの『魔笛』はもともとが大衆出し物。「夜の女王のアリア」も奇をてらったものです。ひとの声の極限を試そうとでもするような曲芸ものではないですか?」
「まあ……そう言われればそうですが」
「たしかに彼女の声域の広さと声量の豊かさには驚きました。けれども、譜面も読めない状態でいきなりここで学ぶのはムリなのではないでしょうか?」
「たしかにそのご懸念はごもっともです。彼女は譜面を読めません。ですが、一回聞けばすべての曲を覚えます」
ザワッ。
審査員席がざわついた。
「どなたか未発表曲のデモテープをお持ちではないですか?」
若い女性が手をあげた。
「わたしが持っています。週末が初演のミュージカルです。その一曲を使っていただいても結構です。ここで彼女に聞かせましょう」
音楽が流れた。主演歌手が録音したデータだ。
「ワン・ルルさん。いま聞いた曲をそのまま歌えますか?」
ルルは口ごもった。
「歌えないのですか?」と、女性作曲家が勝ち誇ったように言った。
「いえ……少し変えてもいいのなら」
青年が周囲に確認をとった。
「アレンジしたいということでしょう。認めていただけますか? そして、これを自由曲とみなすことにもご賛同いただけますか?」
ルルの口からしずかに言葉が流れ出た。伴奏はない。しかし、音程にはいささかの狂いもない。やがて転調した。声は高音域をころがるようにあふれでる。跳ねるように、挑むように、踊るように、闘うように。自在な声が情景を生み出していく。
さらに転調。こんどは悲しげな声音がか細く響く。女性作曲家の眉がピクリと動いた。それまで一音の違いもなく再現されていた音が少し変わったのだ。声が二重になり、ビブラートしはじめた。音が半音ずつずれはじめる。思わず立ち上がろうとした女性作曲家は、すんでのところで腰を下ろした。さきほどの主演歌手が歌ったよりもいっそう哀切な響き、いっそう胸を打つ声音が部屋を包み込んだ。それらの音が重なり合いながら、天上の声のようなさやけき音となって高い天井に舞い上がってゆく。
女性作曲家は目を閉じていた。まぶたから一筋の涙がこぼれ落ちている。
最後に、ふたたび最初のフレーズが繰り返された。しかし、同じフレーズなのに似ても似つかない。アップテンポの激しい音の応酬が続いたあと、一瞬の静寂。光だけを感じさせるような静寂をやぶり、ルルのくちびるからこぼれた音は、低く、深く、胸に沈んでいく。そして、弾むような明るい音を取り込みながら、重く、厳かに、祈りのようなつぶやきに変わった。
……言葉はなかった。みなが目を閉じていた。あふれでる思いはこうして音になる。
窓の外では、カムイが金縛りになっていた。
どれほどたっただろう。女性作曲家が立ち上がった。彼女はルルに握手を求めた。
「わたしは、今日、己の未熟さを思い知りました。あなたの音楽をぜひ使わせていただきたいと思います。もちろんあなたのクレジットをつけて」
ルルは青年を見た。青年は頷いた。
審査員もルルも去ったあと、彪吾はピアノの前に座った。鍵盤から音があふれる。ルルが歌った曲がそのまま再現された。部屋の隅で書類を整えていた若い男性秘書は、思わず聞きほれた。彪吾に声をかけようとした秘書は、窓になにか黒いものが張り付いているのを見つけた。
カムイの目が点になった。それを見る秘書の目も点になった。あわてたカムイが飛び立とうとして、下に落ちた。秘書は窓の下をのぞく。植え込みの上で、一羽のカラスがジタバタしていた。
「どうした?」
彪吾が振り返った。
「いえ……窓にカラスがいて、下に落っこちて……」
「カラスくらい、どこにでもいるだろう?」
「まあ、それはそうですけど」
それにしてはヘンなカラスだ。梢ではなく、なぜ、停まりにくい窓の桟に必死でしがみついていたのだろう。ガラスに押しつけていた顔は、何の変哲もないカラスの顔だったが、地面に落ちたカラスなんてはじめて見た。……まあ、いいか。たかが、カラスだ
「先生」
秘書は彪吾の後ろ姿に声をかける。
「あの子、音楽を正式に習ったことはないと言っていましたよね」
「そうだね」
「一度聞いて覚えるって、そんな神業、人間にできるものなんでしょうか?」
「そのような能力をもつ者がいても不思議じゃないよ」
「あっと、いますよね。ここにも。だって、先生もそうですから」
怪訝そうな彪吾に、秘書が言った。
「あの子の曲を一回で全部暗譜したでしょ?」
彪吾は苦笑した。彪吾も暗譜は得意だ。とくにレオンの曲は、覚えようとせずとも、一度ですべて体に染みこんだ。あの子の音楽もそれと同じだ。頭で覚えたのではない。心に染みこみ、指が彼女の声の跡を自然に追うのだ。
■子ネコ
植え込みからやっとの思いで木の高みに飛び移ったカムイは、ひいふうはあと息を継いでいた。なんだか右の首スジが痛い。落ちたはずみでひねったか。ふたたび部屋の様子をうかがったが、秘書と青年紳士がいるだけだ。ルルのすがたはもうどこにもない。
それにしても、あの若造に見つかるまで、しっかり閉じられた窓にしがみついてしまうとは、なんというドジをふんだのだろう。こんな報告をしたら、カイの信頼を失ってしまいかねない。原因は、ルルの歌だ。身体がまるで金縛りにあったように、動かなくなった。落ちたことは伏せるにしても、これは報告しておかなくては。カムイは、さらなる偵察のために、空へと飛び立った。
しかし、よろよろ。片方の翼がうまく羽ばたかない。
あちこちで止まりながら、羽を休める。そのうち、腹がすいてきた。しめしめ、ネズミが一匹寝入っている。カムイは、そいつめがけて急降下した。足でネズミをかかえようとした瞬間、脳天に一撃をくらってしまう。
気絶したカムイを前に、ガガが言った。
「ロロ、気をつけろとあれほど言っただろう! カラスは天敵の一つだぞ」
ロロは小さくなって、恐縮している。
「それで、ガガさま。どうするんです? コイツ」
「放っておけ。軽い脳しんとうだ。そのうち目をさますさ。イヌかネコでも通らなきゃ、命拾いするだろうさ」
もうろうとした意識のなかで、太った灰色ネズミと若い白ネズミが話している。その内容はほとんど聞き取れない。だが、二つの言葉が頭に残った。「緋月の気」、「天満月」……それ以外はわからなかった。
どれほどたっただろう。生温かく、やわらかいものが嘴にふれた。ぎょっとして目覚めると、小さな白いネコが自分をのぞき込んでいる。
――ネコ!
身体が反応して、飛びずさった。白ネコは不思議そうに首をかしげて、カムイを見ている。カムイのほうが数段大きい。
――なんだ、ちびネコか。
今度はカムイのほうがネコを見返した。大きな目、小さな口、ツンとたった耳、ひげは細く、白い毛は輝くようにツヤツヤしている。よほど大事にされているのだろう。
子ネコは愛くるしい顔立ちにさらに愛嬌を加えて、ニャーと鳴いた。挨拶のつもりなのだろう。カムイも応じてみた。ニャー。異種動物の言葉でも、数語程度なら発話できる。
子ネコはうれしそうにすり寄ってきた。カムイはとまどった。いままで長く生きてきたが、ネコにすり寄られたのははじめてだ。さっき仕留め損ねたネズミのかわりにするか。大きなクチバシを開いたとたん、そのクチバシに、子ネコが魚を放り込んだ。エサの一部を分けてくれたらしい。
ゴックン。飢えた腹の虫が治まってくる。子ネコがじゃれはじめた。適当に翼の先であしらってやると大喜び。
フギャアアアアア!
突然、大声が響いて、黒いネコが突進してきた。まともに頭突きをくらって、カムイは仰向けに倒れた。いつもなら軽く飛び上がるのに、首と片羽を痛めたせいか、動きが鈍い。黒ネコは毛を逆立てて子ネコを守りながら、フウフウとカムイを威嚇する。
「カ……カッ、カアアアアア……」(いや……そんなつもりじゃ)
ネコにカラス言葉は通じない。突然、白い子ネコが割って入った。黒ネコが動転している。子ネコは、カムイを守るように立ちはだかった。そこへ、デブの年老いた白ネコがやってきた。子ネコのそばに行き、事情を察したのだろう。デブネコは、黒ネコをさとしはじめた。やがて、黒ネコは子ネコとともに去っていった。
デブネコは、カムイを振り返り、しきりと向こうのほうを見るよううながす。
――ついてこいという意味か?
しかたがない。痛みがどんどんひどくなり、このままではとうてい飛べない。どうやら、ノラネコの巣窟に落ちたらしい。奴らのエサにはなりたくない。カムイはヒョコヒョコとデブネコのあとについていった。
■カムイとキキ
夜も遅い。いつも空から眺める毒々しいネオンはすっかり消え、町はひっそりと静まりかえっている。
デブネコは、とある小屋にカムイを案内した。ツンと立ちこめる酒の臭い。さまざまな袋。居酒屋の物置なのだろう。よれよれの座布団があった。デブネコはカムイにそこに寝るよう促した。
「オレが寝入ったらとって食おうってか?」
カムイはつぶやいた。
「アホ抜かせ。わしゃ、グルメじゃ。カラスのようにまずいものは食わん」
カムイは目を剥いた。このデブネコは、人語がわかるのか?
「ど……どうして、おまえは人語がわかる?」
「まあ、いろいろあっての。わしはキキという名じゃ。おまえは?」
「あ……オレはカムイ」
「うーむ。肩のスジを痛めておるの。治るまで二、三日はかかるじゃろう」
キキは、丹念にカムイの傷を確かめていく。
「擦り傷も多少あるが、これはたいしたことはあるまい。まあ、これでも飲め。酒じゃ。痛みを感じなくなるぞい」
カムイは出された酒をなめた。ときどき御神酒を失敬している。それにくらべたらまずいが、まあ許せる味だ。キキも酒を飲み始めた。ふうわり。よい気分になっていく。
「カムイとやら。おまえさんはどこから来たんじゃ?」
いくら酔ってもそれは言えない。
「まあ、よかろう。だれにでも秘密はあるもんじゃ」
「ちとたずねるが、ここはどこだ?」
「アカデメイアのカフェさ。〈ムーサ〉という。わしは、ここの女将にいろいろ世話になっとるんじゃ」
――〈ムーサ〉だと?
ルルのいる茶房じゃないか。まさか、ルルがいるかも? いや、いるはずなかろう。今日はルルのステージはない。おまけに、ここは酒蔵だ。
カムイは一つ咳ばらいをして、尋ねた。
「ほう。で、あの黒ネコは?」
「この下町のノラネコ集団のボスさ。クロってんだ。覚えときな」
「じゃあ、あのちびの白ネコは?」
「クロの子さ。ミミって名だ」
「なんと、美女と野獣。まるで似てないじゃないか」
「そりゃそうさ。クロが拾ってきて、育ててるんだから」
「へええ。子育てする雄ネコか」
このキキばあさんとは妙に気が合う。まるで長年の知り合いのようだ。そもそも、人語を解する動物などふつうはいない。出会ったのは奇跡に近い。
「ばあさん」
「キキとよびな」
「うい、キキさんよう」
「なんじゃい」
「おまえさんは人語をわかるが、おまえさんの言葉をわかる人間はいるのかい?」
キキはさびしそうに首をふって、訊ね返した。
「おまえさんにはおるのかえ?」
カムイは頷いた。
「ひとりだけな。オレのいまの主人だよ」
「ええのう。わしは、大事なひとに伝えたいことを伝えることができん。情けないかぎりよ」
カムイにはその気持ちが痛いほどわかる。自分だってカイに出会うまで、何百年も孤独だった。こちらがわかっても、相手に言葉が通じない。その口惜しさは計り知れない。
やがて、酔っぱらったカムイとキキはぬくもりを分け合いながら眠りにおちた。
■祝い
数日後、オーナーが狂喜してルルとリトに言った。
「合格よ、ゴ・ウ・カ・ク! お祝いに、今夜は何でもごちそうしてあげる! みんなを呼んでおいで!」
〈ムーサ〉の個室にみんなが集まった。ルルを囲んで、リト、風子、アイリ、リク、キキ、モモが並ぶ。オーナーがどっさりと食べ物を届けてくれていた。
みんなの前で、ルルの合格通知が披露された。文字が読めないルルの代わりに、風子が代読する。
「アカデメイア音楽学部声楽科への入学を許可する。ただし、十八歳までは併設校の蓮華学院中等学校にて学び、基礎学力をつけること」
――〈蓮華〉……?
風子とリクが顔を見合わせた。
――えええっ? ルルが同級生になるって?
結局、あらいざらい話すしかなかった。秘書に見つかって落ちたことまで……。このところ、失態続きで主人に顔向けできない。
カイは、そんなカムイの羽をいたわるようになでた。
(いちばん気になるのはネズミたちの言葉だな。「天満月」「緋月の気」――ご老師の言葉にあったものだ。いったい何を意味するのだろう。わたしもおまえも知らないことがあるというのか?)
カムイもそう思った。たいがいの言い伝えはカムイ一族に代々語り継がれており、カムイが知らぬことはない。カイもまた天月本院が蔵する古文書に通じている。カイが知らないことは、天月そのものが知らないに等しい。この島でもっとも古い仙門で、前身のウル学舎から数えれば三千年の伝統をもつ天月仙門。そこにすら伝わらないものとは?
(ルルという少女も、キキという老ネコも気になる。……アカデメイアの町で途方もないことが起こっていることはまちがいなかろう)




