Ⅶー3 九孤の擬薬
■あの夜のマイ――三つの疑問
ユウは、サキの自宅を訪ねた。いつもの定食屋でできる話ではない。
「八方塞がりだよ……」
サキは予想していたと言って、むしろユウを慰めた。
ファン・マイの事故は「飲酒運転事故」として片づけられた。事件性を疑う状況証拠は何もなかった。だが、マイの同僚サキも警部ヒューガ・ユウもその結論に納得していない。
すでに警察では処理済みの案件だ。他にも対応すべき事故や事件はいくらでもある。マイの事故調査に人も予算も割けない。しかし、ユウは慎重に調べ続けた。サキに届けられたマイのメッセージから察するに、背後に何か大きな組織があるかもしれない。とすれば、一民間人の事故では済まない。
ファン・マイの事故があった日、空白時間は夜九時から十一時までのおよそ二時間。夜遅いのに、マイは自宅ではなく、空港方面に向かっていた。
疑問は三つある。酒、行き先、目的だ。
酒――マイが自ら酒を飲んだとは考えられない。マイは下戸だ。誰かが、何らかの意図を持って、マイに酒を飲ませたのだろう。だが、酒だと分かっていて、マイが飲むはずはない。酒を飲んだと自覚していて、マイが運転するはずもない。
「あの夜、マイは酒を飲んではいなかった。だが、マイが気づかずに何かを飲まされたとすればどうだろう? 酒とは気づかず、酒と同じような効果をもつものを……?」
サキが自問自答している。
「ファン・マイはいつもどんなものを飲んでいた?」
ユウの問いに、サキは職員室でのいつもの光景を思い起こした。
「マイはいつもカバン一つしか持ち歩いていなかった。だけど、水を入れた小さなボトルをカバンに入れていて、職員室でもよくそれを飲んでいた。〈蓮華〉の教員なら、だれもがその姿を目にしているはず。そのボトルに薬を入れれば、マイは気づかずに口にするかもしれない」
「小さめのボトルだな。警察の記録では不審な点は報告されていなかったはずだが……」
ユウはサキにそう言いつつ、付け加えた。
「念のため、もう一度、調べてみよう」
行き先――調べれば調べるほど奇妙だった。
ユウはすでに二つを調査していた。マイ自身と〈蓮華〉の教職員の足取りだ。〈蓮華〉教職員の方は、簡単に調べがついた。ほとんどの者が自宅にいたようだ。ただ、校長は地域の校長会に参加し、理事長は有力なOGと会っていた。これもすべてウラがとれた。マイの空白時間に彼らがマイと接触した可能性はない。
だが、マイの二時間については、まったく手掛かりがなかった。ユウは、空白の二時間にマイが通った可能性がある道路の監視カメラを片っ端から調べた。マイの車が、事故の三十分前に空港方面に向かう高速道路に入り、直前に橋に入ったことまでは確認できた。だが、それまでの一時間半については、道路走行データがない。
マイがサキと別れてから高速道路に向かう一般道は五つある。しかし、それはほぼまっすぐ向かった場合だ。マイが別の場所に寄ってから、高速道路に向かったとすれば、どの道路を使ったかは特定しにくい。ともかく、マイと別れた場所から高速道路の入り口まで、コンビニやマンションなどの監視カメラも漏れなく調べた。日時と場所がほぼ特定されている。調べは簡単につくはずだった。なのに、情報が出てこない。
その時間帯に落雷があり、一部が停電したのだ。停電地帯でマイは動いていたということになる。かなり広範囲な地域であった。〈蓮華〉もアカデメイアも含まれる。
夜九時過ぎに、マイがわざわざ出向く場所――いったん自室がある〈蓮華〉寮に戻り、誰かに会った後、空港方面に向かったとすれば?
夜、〈蓮華〉は無人になる。当時は寮に生徒がおらず、寮母のマイだけが暮らしていた。〈蓮華〉寮の駐車場にも出向いたが、雷雨に伴う大雨で遺留物となり得るすべてが流されていた。だが、寮の懐中電灯は持ち出されていないようだった。寮の中の所定の場所にかかったまま、マイが触った形跡はなかった。とすれば、マイは〈蓮華〉に寄ったとしても寮には入っていないと考えるべきだろう。
では、どこに? 職員室か? 教室か? それとも、マイがよく過ごす図書館か? オンボロ〈蓮華〉には、電子錠もなければ、監視カメラを備えたセキュリティシステムもない。マイの足跡はたどれない。まして、〈蓮華〉ではなく、別の場所に行ったとすれば、お手上げだ。
目的――皆目、見当が付かない。
マイのスマホには一切の着信・送信履歴はない。通信局を当たってもなにもなかった。「事故」として処理されたマイの車はすでにスクラップに出され、検証はできない。現場検証に当たったのは、同僚刑事キザキだ。キザキによれば、マイの車はバスとの正面衝突を避けようとハンドルを切り、自らガードレールに激突したという。正面衝突になっていれば、バス乗客にも死者が出ただろうとキザキは言った。マイは、死の間際まで必死で事故の回避を図っていたらしい。
車の中には、マイのカバンが一個あっただけだった。サキと女子生徒の指紋以外は検出されなかった。つまり、マイが誰かを車に乗せたわけではない。
マイは、母の入信にともなって、天志教団に強制的に入信させられたらしい。天志教団は、布教組織を持つ実体がある組織だ。教団支部があるのは、空港とは反対方面だ。車を使っても、二時間で往復できる場所ではない。マイがそこに行ったとは考えにくい。おまけに、〈天明会〉とやらは、そもそも警察資料にいっさい出てこない。
■雷雨を呼ぶ異能
ユウは新しい缶ビールを開けた。テーブルには、サキが買ってきたチキンやサラダが並ぶ。サキは料理が苦手だ。おいしい惣菜を少しだけ買ってきて食べる方が、一人暮らしにはむしろ経済的だ。
ユウはグッとビールを飲み、ふうっとため息を漏らした。
「まさか、雷で停電とはな……」
「うん……あまりに都合良く、雷と大雨だったよね」
サキは、あの日を思い出した。朝は晴天、昼も穏やかな一日だった。ただ、春の嵐は突然襲ってくる。サキも自分のアパートに着いてすぐ大雨に変わり、濡れなくてよかったと安堵したから、よく覚えている。
「まさか、だれかが大雨を降らせたとかな?」と言って、ユウは苦笑いした。ありえない想定だった。
サキは一瞬黙りこんだが、真剣な顔を上げて言った。
「ユウ先輩は、異能を信じる?」
「異能? 超能力のことか?」
「まあ、そんなところ……」
「世にはさまざまな人がいる。特殊な能力が発達した天才ならば、いても不思議ではないな。だが、それがどうかしたか?」
「……いるらしいんだ」
「何が?」
「雷雨を呼ぶ異能者……」
「は?」
ポトッ――。
ユウは、持っていた唐揚げチキンを落とした。チキンが皿の上で跳ねた。
「……」
ユウが目を見開いてサキを見る。サキがつぶやくように言った。
「香華族なら雨を降らすことができる……。そう聞いたことがある」
ユウの目が点に変わった。
「そ、それはすごいな……。そんな異能があるのか?」
「うん」
「香華族といえば、あの有名なカトマール皇族の外戚一族だよな? あの誇り高い香華族が「魔女集団」として処刑されたのは、そうした異能のせいなのか?」
「確信はない。でも、天志教団は、香華族を「神に仇なす魔女たち」と呼んでいたらしい。カトマールで皇室や香華族が処刑されたとき、天志教団が暗躍した可能性は否定できない……」
「ならば、よけいおかしいじゃないか。香華族が、仇敵たる天志教団に苦しめられているマイを殺す理由などなかろう?」
「うん、ないよね……」
サキは肩を落とした。ユウは眉根を寄せて呻くように言った。
「……だが、香華族が別の目的で雨を降らせ、天志教団がそれを利用して事故死に見せかけた可能性はないとは言えんな。だが、目的はさっぱりわからん」
二人は押し黙った。どう考えても、そこから先に話が進まない。
「ファン・マイの事件の背後に、天志教団と香華族がいるかもしれんということか……。天志教団はわかる。マイの母親が属した教団だからな。だが、どうして香華族が出てくるのか……。カトマール内戦の時に香華族は皆殺しにされたと聞くが、ファン・マイの周囲に香華族の生き残りでもいたのか?」
「ううん……マイはいつも一人だった」
「マイが気遣っていたという女子生徒はどうだ?」
サキの片眉がピクリと動いたのをユウは見逃さなかった。サキはユウと目を合わさず、つぶやくように答えた。
「あの子は岬の上病院の医師の娘。友だちもいないし、まったく目立たない生徒だよ」
「ふうん、そうか……」
「あの子からは異能は感じられないし、香華族のように目立って美しいわけでもない」
「なら、なんで、おまえは、雨の異能を口にしたんだ?」
ひくついたように、サキはユウを見た。ユウの勘は鋭い。隠してもいずれバレる。サキは目を落とし、いっそう小さな声でつぶやいた。
「マイはあの子を特別と思ってたみたいなんだ……」
「特別?」
「〈月の一族〉かもしれないと思ってたみたい」
「〈月の一族〉? 何だ、それ?」
「異能者集団のトップに位置する古い一族のこと。一般には知られていない。じつは、香華族は〈月の一族〉に属するらしい」
「なんだと? じゃ、本来の目的はその女子生徒ということか?」
「そうかもしれない。マイは、わたしにその子を守ってほしいと言い残した」
「守る? 何から?」
「それがわからない。ただ、その女子生徒が本当に〈月の一族〉だとすれば、雨を降らすことができるし、その子の力を利用してさらに大きなこともできるらしい。ただし、いまはまだその子は力を発揮していないから、だれにも気づかれていないはずだと言っていた。だから、その子が雨を降らせたわけじゃないと思う」
「……その子の存在に気づかれる前に、姿が見えない敵から隠して守れということか……」
「うん……だから、だれにも言えない」
「そりゃ、そうだな。その子の命に関わるだろうからな……。ヘタに動くとかなりヤバいな」
二人はまたため息をついた。
「あの二時間、ファン・マイはどこにいたんだろう。それに、どこに行くつもりだったんだろうな……」
■月蝕と森
サキは、テレビをつけた。学校教師たるもの、国内外のニュースには敏感である必要がある。生徒たちに教える内容に関わるからだ。
アカデメイア公共放送の定時ニュース番組だ。女性アナウンサーが落ち着いた口調で話す。
――十五歳の女の子が行方不明になっています。二ヶ月前、留学先に戻ると言って自宅を出た後、行方がわからなくなったようです。警察で慎重に調べてきましたが、手掛かりがなく、事故と事件の両面で公開捜査に踏み切ったとのことです――
「めずらしいね。アカデメイアは治安がいいことで有名なのに……」
「そうだな。子どもが失踪する事件はミン国とシャンラ王国でそれぞれ起こっていたが、アカデメイアでははじめてだ」
二人は顔を見合った。
――子どもの失踪事件だと?
「ファン・マイが心配していたことじゃないか?」
「そうだよ!」
二人はネットで過去の事件を検索した。共通点はない。この数年間で、いなくなった子どもは三人。何らかの秀でた才能があったわけではなさそうだ。裕福な家の子もいれば、家庭環境や心身になんらかの困難を持った子もいる。子の性別も、親の職業や地位もまったくバラバラだった。
――場所は?
アカデメイアの子は〈蓮華の森〉の近く。シャンラ王国の子は〈王の森〉の近く。ミン国の子は〈伯爵の森〉の近く――いずれも〈森〉が関わる。
「〈蓮華の森〉ってのは、おまえがつとめる蓮華学院の近くだよな?」
「うん、そう!」
「今までに妙なことが起こったことはあるか?」
「いや……聞いたことがないなあ。カエルがちょっと大きいってのは、生徒から聞いたことがあるけど……」
「カエルが大きい? なんだ、それ? で、〈王の森〉とか、〈伯爵の森〉は知ってるか?」
「〈王の森〉は、シャンラのルナ第二神殿遺跡が出た近く。マイから聞いたことがある。〈伯爵の森〉は知らない」
「よし、わたしのほうで調べてみよう」
ふと、サキが言った。
「ねえ。この子がいなくなったのは、例の月蝕の日だよ」
「なんだと?」
二人でネット記事を確認し、呆然とした。他の子の失踪日も調べてみた。月蝕は年二回起こる。今回ほどではないが、部分月蝕が起こった日に事件が起こっていた。
「月蝕……自然現象じゃないか。どうして、月蝕と子どもの失踪が関わる? ファン・マイの予測は当たっていたのか?」
「天志教団が子どもを選別して拉致してるってこと?」
「そうだ」
「でも、シャンラ王国では天志教団の影響力は強くないはずだよ。あそこはもともとヨミ教の国だから。ウル教起源の天志教団に入り込む余地はないって聞いたことがある」
「……そうか……なるほどな……」
「でも、〈森〉ってのは気になる……」
「どうしてだ?」
「わたしの村で、幼いときに〈森〉に迷い込んだ者がいる。〈禁忌の森〉と呼ばれる神域で、「神隠し」と言われて怖れられていた。その子は月蝕の夜に行方不明になって、一年後に戻ってきたという。でも、その間の記憶はまったくなかったらしい」
「〈禁忌の森〉か……妙にものものしい呼び名だな。ともかく、天志教団と行方不明の子どもたちの情報を集めてみる。おまえは、異能と月蝕の関係を調べてくれないか?」
「わかった!」
■山葡萄
ユウが去ったあとも、サキは片づけられたテーブルに向って、唸り続けていた。
――子ども、森、異能、月蝕、雷雨、アルコール、天志教団、月の一族……。
どうにもこうにも、関係がさっぱりわからない。
ふと、棚のワインが目に留まった。何かの行事でもらった安物のテーブルワインだ。飲む気にもなれなくて放置していた。
――どうせ眠れんな。明日は土曜日だ。休みだし、ワインでも飲むか。
まずかった。色も悪い。香りもない。
――こんな代物をワインなんて呼ぶなよな。
だが、アルコール度数はビールに比べて格段に強い。サキはふうわりとした気分になってきた。
――こんなボロ酒で酔っぱらう自分が情けない……。
サキは、右手で小さなワインボトルを掲げ、グラスに最後の一滴まで注ぎ込んだ。
――ああ、雲龍のあの山葡萄も山葡萄酒もおいしかったなあ。
サキは、幼い時に山で見つけた山葡萄を思い出した。
雲龍の山のみに自生する特殊な葡萄で、干し葡萄にするとたいへん甘い。サキは山葡萄を見つけると、その房が猿や狐に見つからないように隠し、カラカラに乾いた時期を見計らって採りにいったものだった。禁じられている森に入るため、極秘の行動で、山葡萄の実もだれにも明かさなかった。ただ、弟のリトには必ず分け与えて、一緒に食べた。食べるとものすごくハイテンションになって、夜中騒ぎ、二人はいつも叱られた。
九孤の里では、山葡萄を発酵させて葡萄酒をつくる習わしがあった。雲龍山葡萄はあまり量が取れない。山葡萄酒は貴重な酒とされ、特別な儀式のときだけ、大人たちに一杯ずつふるまわれた。干し葡萄で味を占めていたサキは、干し葡萄よりもはるかによい香りがするその酒を飲みたくてしかたがなかった。だが、子どもはダメと禁じられた。
ある日、宴会があった。その午後、あまりに芳醇な香りにふらりと誘惑され、密かに蔵に入り込んだサキは山葡萄酒を「ちょびっとだけ」舐めてみた。濃厚な甘いジュースのような味だった。やがて天井が回り始め、そのままコテンと横になった。気が付くと布団に寝かされ、そばでばあちゃんが青い顔をしていた。
「おお、気が付いたか?」
サキは、キョロキョロと周りを見回した。ばあちゃんがいつも過ごす座敷に寝かされていた。
「わたし、なんで、ここにいるの?」
「山葡萄酒を飲んだようじゃな? これから二度と飲んではいかんぞ」
「あ……」
思い出した。気分が良くなって、寝てしまったようだ。
「ごめんね。戒めを破っちゃった……」
「わかればええ。あの酒には魔のような力がある。どんなにうまかろうが、おちょこ一杯以上は大人でも危ないんじゃ」
「危ないの?」
「そうじゃ。気を失って、大事なことを忘れてしまうでの」
その後、蔵には厳重にカギがかけられるようになり、サキが二度と忍び込むことはなかった。山の葡萄も二度と見つけることはできなくなった。
――山葡萄酒の魔の力? 気を失って、大事なことを忘れる?
いやいや、山葡萄酒は、色も濃く、香りも強い。まちがって飲むような酒ではない。酒としての効果も強い。ただし、決して悪酔いせず、リラックス効果もあるらしい。山葡萄酒のこうした特性に着目し、精製して薬の原料にする……いつか、だれかがそう言っていたような気がする。
――酒から造る薬……?
■九孤の擬薬
「ばあちゃん、教えてくれ!」
翌朝、サキは、菜園小屋に飛び込み、ばあちゃんに懇願した。途中のコンビニでかりんとうを買うのは忘れなかった。好物のかりんとうをもらったばあちゃんは、ホクホク顔で孫娘に尋ねた。
「いったい、どうしたんじゃ?」
「酒を酒と気付かずに飲んで、酔っぱらってることに気づかないまま行動するなんてことはあるのか?」
かりんとうの袋を開きかけたばあちゃんの手が止まった。
「……なんで、そんなことを聞く?」
「同僚の飲酒事故のからくりがどうしてもわからんのだ!」
サキは、ばあちゃんににじり寄った。隣でリトがポカンとしている。ばあちゃんは、サキの迫力に負けじと顔を突き出した。
「わかるように話せ」
「同僚が飲酒事故を起こして死んだんだ。だが、飲酒運転がそもそもありえない!」
リトが不安そうな目でサキに訊ねた。
「ねえ、サキ姉、それって、ファン・マイのこと?」
「そうだ」
「この前の月蝕の夜に起こった交通事故だよね。ファン・マイの車がバスに衝突して、大勢のケガ人が出た。まさか、それが殺人事件ってことなの?」
風子もあの事故の被害者だ。
「その可能性がある」
「なぜ、そう思うんじゃ?」と、ばあちゃんが聞いた。
サキはばあちゃんの方を向いた。
「マイは下戸だ。酒は全然飲まない。彼女のカバンには、いつも持ち歩くボトルが残されていたが、中身はただの水。念のために指紋も調べてもらったけど、本人の指紋以外はなかった。なのに、マイの遺体からは相当量のアルコールが検出されたという。警察の調べでは、マイは正面衝突を避けようと必死でハンドルを切って、自らガードレールに激突したらしい。だから、バスの乗客には死者が出なかった」
ばあちゃんが思案顔に変わった。
「水と酒のう……。その者はおまえになにか言い残したのか?」
「うん。ある生徒のことを頼むと言われた。マイには、ひとの異能の〈気〉が見えたようだ。その生徒が異能者かどうかまではわからないけれど、〈月の一族〉かもしれないと言っていた」
「ふうむ……〈気〉を見る者はたしかにおるがな。じゃが、〈月の一族〉かもしれんとは、相当のことぞ。その者は何か言っておったのか?」
「〈月の神は、白銀の髪、緋色の瞳を持ち、地上に舞い降りる〉とかという一節が、ルナ神話にあるとか」
リトが大きく頷いた。
「そうだよ。父さんもそういうメモを遺してる」
「そうか、要がのう……。ならば、〈月の一族〉との見立てはまちがっておらんかもしれんな」
ばあちゃんは、リトの父を「要」と名で呼ぶ。要には親がいない。そんな要が大学生のときにばあちゃんの許を訪れて以来、ばあちゃんは要を実の息子のようにいとおしんできた。
サキはマイの最後のメッセージを伝えた。
――このままだとあの子も遺跡も危ない。それだけじゃない。国も地球すらも危ないかもしれない。あの子の力が善か悪かはわからない。あの子の力を封じ込めている謎を解くのがよいかどうかもわからない。
「それに、これまで、あちこちの森の近くで子どもが行方不明になっているらしい。どれも月蝕の夜らしいんだ」
ばあちゃんが驚いたように顔を上げた。リトが尋ねた。
「じゃあ、その子も拉致されるかもしれないってこと?」
「その恐れがあるとマイは考えていたようだ。怪しいのは、天志教団」
「天志教団って、最近、アカデメイアでも広まってるカルト系の新興宗教?」と、リトが怪訝そうに聞くと、「そうだ」と、サキが頷いた。
ばあちゃんは座り込んで、目を閉じ、じっと何かを考えているようだった。ものすごく重大な決定をするときだ。
サキもリトも、ばあちゃんの言葉を待った。おもむろに、ばあちゃんが口を開いた。
「擬薬かもしれんの」
「擬薬?」
首をかしげるサキとリトに、ばあちゃんは、慎重に言葉を選びながら、言った。
「九孤の秘薬の一つに、意識や行動をコントロールする薬があっての。酒精擬薬という。服薬してもそのまま放置すれば一時間ほどで跡形もなく蒸発し、体内に吸収されたあとはアルコールに変わる。よって、薬は検出不能じゃ」
「ば……ばあちゃん、意識や行動をコントロールするって、どういうこと?」
リトが震えている。まさか、九孤族が殺人をするというのか?
「それを飲んでしばらくのうちに耳に入った情報に左右されるということじゃ。たとえば、自白させるとか、何かをしろという指示に従わせることができるでの」
「まさか、誰かがファン・マイに事故を起こせと言ったの?」
「いや、それはあるまいて。事故なんぞ起こして目立つのはむしろ不都合じゃ。おそらく、その者に何かをしゃべらせようとしたんではないかの? サキ、どうじゃ?」
サキは眉根を寄せた。そして、深刻な表情に変わった。
「彼女は重大な秘密を知ったらしい」
「秘密?」
「〈月の一族〉に関する秘密だとか……」
「〈月の一族〉? あの古い一族のことはほとんどわかっておらん。いったい何を知ったというんじゃ?」
「わからん!」
「わからんままなら、秘密とは言わん。謎と言うんじゃ」
にらみ合う二人の間に割って入り、リトが叫んだ。
「ファン・マイは死んじゃったんだよ。けが人も大勢出た。それに九孤族の薬が関わってるっていうの?」
リトは泣かんばかりだ。サキは弟を見た。この弟は、心優しく、純粋で、まっすぐだ。その性質を損なわぬために、ばあちゃんはあえてリトに多くを教えなかった。だが、このまま、何も知らないわけにはいくまい。
サキは、ばあちゃんの方を向いた。
「九孤にはいくつも秘薬があるけど、秘薬って、厳重に管理されているはずだよね?」
「そうじゃ」
「酒精擬薬とやらも?」
「もちろんじゃ。特に、酒精擬薬は、あまりに危のうて、扱いが難しい。ゆえに、九孤族でも特別な秘薬として厳重に管理され、門外不出じゃ。使った用途・日時も、在庫本数もきちんと記録されておる。今では作ることが禁じられておるし、製造方法も抹消されておる」
「なら、酒精擬薬ではないってことだよね?」と、リトがホッとしたような顔で尋ねた。
ばあちゃんの顔が翳った。
「いや……複製が作られたのかもしれんな」
「複製?」
「うむ。最後の一本が所在不明になっての。当時、一門総出で探したが見つからなかった」
リトがまた真っ青になった。
「九孤族の誰かがその薬を盗んだってこと? 九孤族にそんな裏切り者がいたというの?」
雲龍九孤族の結束は固く、規律も厳しい。犯罪などにつながるはずはない。でも、もし……リトは不安げな表情を隠さない。
サキは、弟を見ながら思った。
(コイツはホントに単純で素直だ)
感情がすぐ顔に出る。九孤忍術の直系子孫は、みな相当屈折しているのに、めずらしいヤツもいるもんだ。だからこそ、かわいいんだが……。
■擬薬の謎
「擬薬のことを詳しく教えてよ、ばあちゃん」
リトは気になって仕方がない。九孤族にそんな危ない薬があったなんて。ばあちゃんは、ゆっくりと話し始めた。
今から五百年近く前のことじゃ。乱世での。戦国時代というが、武家頭領の勢力争いよの。駆り出される農民は足軽として戦の先陣で矢や鉄砲の的にされた。雲龍は、どの勢力にも与しなかったが、やがて戦乱の影響が及んだ。このままでは、里は略奪され、田畑は焼かれ、山も荒らされる。雲龍の山と九孤の谷を守るために、わしらの祖先が知恵を絞った。それで作り出したのが、擬薬じゃ。
擬薬とは、薬にも毒にもなるものを言う。使うた痕が残らんため、暗殺に向く。じゃが、暗殺を繰り返したところで、次々と代わりの者が出てくるのならば、意味がない。そこで、相手を操る術を考え出した。いくつかのものが生み出されたが、最も強力で、最も重宝されたのが、酒精擬薬じゃ。無味無臭、痕跡は一切残らず、盛られた者は酒に酔ったように見える。よって、疑われにくい。何より、その薬が効いている間は、耳元でささやかれたことに従う。薬の効力が切れた後も潜在意識の中に命令が残る。操るのにうってつけの薬じゃった。
この擬薬を雲龍忍者たちは各地の頭領に盛り続け、ささやいたんじゃ――戦いをやめよ。民を殺すな。女を犯すな。村を略奪するな。
やがて、戦いは収まり、九孤の里も守られた。
じゃが、この擬薬には副作用があるらしいこともわかってきた。薬を盛られた頭領たちは、やがて精神を破壊されていったからの。そうなると薬で埋め込まれた潜在意識も消えてしまう。反動のように残虐な行為を命じる頭領も現れた。
九孤族は、この擬薬を新しく作ることをやめた。製造方法を記した書物も破棄した。じゃが、最後に残った一本が行方知れずになった。四十年前のことじゃ。
そもそもこの擬薬の存在は、代々の宗主とごく一部の側近しか知らぬことじゃ。管理も厳重であった。なぜ、わかったのか。どうやって奪ったのか……。わからぬことだらけじゃった。じゃが、あるとき、気がついた。時空を超える異能者であれば、擬薬の存在を知り、擬薬を隠す結界を破ることができるのではないかとな。
サキは厳しい表情を崩さず、リトに言った。
「雲龍九孤族の守りは鉄壁だ。内情を知っていたとしても、そう簡単に秘薬を盗むことなどできない。だが、例えば、時空を歪める異能者であれば、九孤族の蔵も結界も難なく破ることができるはず……。ばあちゃん、そういうこと?」
「え?」
リトがまたビックリしている。リトには多くのことがまだ教えられていないのだろう。サキは弟にそれを教えようとしている。
サキの重い声に、ばあちゃんが思案気に低い声で言った。
「〈森の一族〉たる雲龍九孤族には、本来は時空に関する異能は発現せん。じゃが、〈森の一族〉に他の一族の血が交われば、時空を歪める異能をもつ者が現れることもありうる」
ばあちゃんは、めずらしく肩で息をした。あまりに重い秘密なのだろう。そんなばあちゃんに追い打ちをかけるような質問はできない。……リトが逡巡していると、サキが言った。
「ばあちゃんは、その異能者に心当たりがあるんだね?」
ばあちゃんは頷いた。
「そうじゃ……。じゃが、それが誰かは言わさんでくれんか。まだ、わからんこともいくつかあるでの」
サキはばあちゃんを見て、しっかり頷いた。
「わかってる。ばあちゃんが言わない限り、わたしからは聞かない」




