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Ⅰー2 雨に震えるしだれ櫻

■訃報

 蓮華学院(れんげがくいん)――通称〈蓮華〉――の古ぼけた校舎の前庭には、樹齢五百年を超える桜がある。創設時に植えられたと(おぼ)しきそのしだれ櫻は、霧雨(きりさめ)(しずく)を含み、フルフルと震えていた。

 職員室に教員はだれも残っていない。みな授業に出払っているのだろう。

 斜め前のファン・マイのデスクに目がいく。まだ、手つかずのままだ。本もファイルもノートもそのままなのに、マイはいない。サキこと萌黄紗希(もえぎさき)の目にじわりと涙がうかぶ。


 〈蓮華〉の教師サキが同僚教師ファン・マイの訃報を受け取ったのは、昨日の未明。警察からだった。衝突事故を起こしてほぼ即死だったという。飲酒運転の疑いがあるとのこと。警察では、一昨日のマイの様子を事細かく聞かれた。


――一昨日の土曜日。一日をかけて、マイの車でシャンラのルナ遺跡巡りをした。夕方、同乗していた女子生徒を自宅まで送り届けたあと、二人で食事をした。サキが行きつけの定食屋だ。安くてうまい家庭料理が売り物だ。

 いつもはサキが軽くビールを飲むが、その日は夜に仕事が残っていたので、二人は料理だけを味わった。その後、サキは歩いてアパートに帰った。風呂から上がり、授業準備を終えて寝ようかというときに電話があった。


 事故現場は、マイが住む〈蓮華〉の女子寮とは反対方向。

 なぜ、夜遅くに空港方面に向かっていたのか? 

 夜九時頃に別れてから、事故が起こった十一時過ぎまでの二時間にいったい何があったのか?

 定食屋から事故現場までは車で三十分ほど。どこかで誰かと会っていたのだろうか?


 だが、何より()せないのは、飲酒だ。マイは下戸(げこ)だ。酒を飲めない。

 そんなマイが飲酒運転? 

 サキと別れた後、わざわざ大酒(おおざけ)を飲み、車を運転したというのか? 

 そもそもありえない。


 サキは、視線を戻して、校長室に向かった。


■〈蓮華〉の女教師

「モエギ先生、ご苦労でしたね」

 校長は、サキにソファに座るよう促した。蛇のような目だとみなが言う。厳格な表情を崩さず、校長はサキの対面に座った。制服のように彼女が好んで着用する紺色のパンツスーツは、生地と仕立てが良いのだろう。ほとんどシワがない。

 校長の隣には、教頭が立っていた。うだつのあがらない定年間近の男性だ。教頭のひとのよさそうな顔は(かげ)っていた。それもそうだろう。教頭とマイはどちらも社会科教師で、よく相談しあっていた。むろん、それは学校だけの同僚関係だ。マイは私生活にだれも入れなかった――サキを除いては。


「警察に行ってきました。ファン先生は天涯孤独(てんがいこどく)だったようです。ひとまず遺品はすべてわたしが預かることにしました」

「そうですか」

「事故に遭った車には、いつものカバンが一個だけでしたし、住んでいた寮母室(りょうぼしつ)には紙袋二つくらいの荷物しかありませんでした」

 学校の敷地内にある古い寮に寮母としてマイは住んでいた。


 五年前、マイは、この学校に理事長の紹介で採用された。縁故採用(えんこさいよう)だ。だが、それに目くじらをたてる者などいない。

 そもそもこの学校は教師集めに難儀(なんぎ)してきた。学校予算は乏しく、給料も低く、教師としてのキャリアアップにもつながらない。有名な「落ちこぼれ校」だからだ。マイのように優秀で若い女性が来たとき、それだけで大喜びされたらしい。

 だが、マイはまったく学校になじまなかった。職員会議では発言しない、宴会には来ない、同僚とも必要以上にしゃべらない。――「根暗教師(ねくらきょうし)」と陰口をたたかれた。教員のだれ一人として、マイが下戸だとは知らないはずだ。


 二年前にサキが着任したとき、教頭はサキとマイがうまくやっていけるか、ひどく心配した。二人ともアラサーの同年配だが、キャラが違い過ぎたからだ。サキが体育会系の陽キャラとすれば、マイは文系の陰キャラだった。

 教頭はサキに念押しした。

「どうか仲良くやってくださいね。でもほどほどに」

 そのとき、微妙な情報が提供された。マイには、論文盗用の疑いがあるとか、母親殺しの嫌疑がかけられたとか。――つまり、「マイは問題教師だから深入りするな」という警告だった。

 ただし、マイは〈蓮華〉に必要だということもあわせて強調した。マイは「(わけ)アリ」とは言え、犯罪者ではないので教員資格に問題はない、と。この人手不足のご時世(じせい)に贅沢は言えないというのがホンネなのだろう。


 サキは公募で採用されたため(応募者がサキ一人だったとは後で知った)、教頭はサキには好意的だった。だが、彼は、マイに対しても他の教員ほど距離を置かず、比較的親切に接していた。根が善人なのかもしれない。


 蓮華学院では、学校の運営方針をめぐって理事長派と校長派の対立が年々厳しくなっている。

 理事長は、〈蓮華〉の独立性を維持すべきとの立場だ。校長は、〈蓮華〉はアカデメイアと組み、その傘下(さんか)で保護されるべきと唱える。

 それぞれが自派の教員を縁故採用し続けた結果、わずかばかりの教員なのに二派に分かれ、人事や予算をめぐって熾烈(しれつ)な駆け引きがある。

 教頭とサキは縁故採用でない点で完全な中立派であり、マイは理事長のツテで採用されたとは言え、どちらにも協力しないという意味で中立的だった。


 中立と言えば聞こえは良いが、要は(はず)れ者だ。

 マイが顧問を務める古代文化同好会では数年前から副顧問ポストが空いていたが、だれもマイと協力しようとしなかった。サキが副顧問になったときには、どの教員もホッとした。二人の変わり者がセットになっても何ら影響はなく、だれも気にしなかった。

 こうした状況で、校長が自派の教員をマイの遺体や部屋の確認に送り出すわけにはいかない。マイのスマホに唯一登録されていたサキが警察に呼び出され、校長は彼女の報告を待っていたのだ。


「カバンも紙袋も中味を確認しましたが、身の回りのものばかりで、学校関係の書類はいっさいありませんでした。パソコン一台がありましたが、パスワードがかかっていて開けられませんでした。学校や生徒に関するデータが流出することはないと思います」

 そう言いながら、サキは心の中で毒づいた。

(ホントはわかってるんだろ? アンタはもうとっくにマイの部屋もパソコンもチェック済みのはずだ。でも、残念だったね。マイはそれを見越して、ちゃーんとフェイクのパソコンを用意していた。だから、お目当てのデータは何もなかっただろ?)


「確認をありがとうございました。ファン先生の携帯には先生の連絡先だけが登録されていたそうですね」

「はい、そのようです」

「親しかったのですね。たしか……古代文化同好会の活動でもよくご一緒されていたとか」

 サキは気分が悪くなりそうだった。この校長は、いつもじっとりと絡むような物言いをする。マイが懸念(けねん)していたとおり、マイとサキの行動も監視されていたらしい。

 校長は続けた。

「ヘンですねえ。出張報告はほとんど見たことがないのですが……」

 ムッとした。マイは、人付き合いは悪いが、不正なことなどしない。

「ファン先生の趣味を兼ねた調査です。週末にすべて自費で行っていたはずです。わたしもよく一緒に行きました」

「そうですか。先生以外に、部員の生徒もいつも同行していたのですか?」

 知っているくせに! ……心の中でそう毒づきながら、サキは、わざと口ごもったように答えた。

「……警察にも同じことを聞かれました」

 校長は余裕を見せるように、少しだけ笑みを()らした。

「生徒を連れていっていたなら、学校としての責任も出ますのでね」

「生徒といっても一人だけですし、いままでトラブルや事故を起こしたことはありません。行くときには保護者の同意も取っています」

 サキは努めて冷静を装った。


 校長は話題を変えた。

「ご遺体は?」

「明日、わたしが遺体をひきとって供養(くよう)します。以前に冗談でこう言い合っていたんです。ふたりとも独り身だから、なにかあったら互いの最期(さいご)を頼むねって」

 校長はふたたび頷いて、こう言った。

「ファン先生の後任を探さないといけませんね。社会科の先生が教頭先生だけになるのは困りますからね」

 教頭は禿()げ始めた自分の頭をツルリと撫でた。

「はあ、そうですな」

 

 ダメだ。だんだん吐き気がしてきた。早くこの部屋から出たい。サキは校長の目を見据えて、切り出した。

「校長先生、お願いがあります。ファン先生が担当していた古代文化同好会の顧問をわたしが引き継いでもいいでしょうか?」

 口元を引き締め、校長はサキを見た。サキは続けた。

「ほとんど潰れかけですし、わたしは専門外なんですけれど、一人だけとはいえ、部員の生徒がおりますし」

「もちろんいいですよ。こちらからお願いしたいくらいです。その生徒も喜ぶでしょう」

 

 校長は、蛇のような目をゆっくりと開いて、静かに言った。

「モエギ先生、きょうはもう授業はないですね」

「はい」

「もうお帰りになっていいですよ。お疲れでしょうから」

 サキは頭を下げた。

「ありがとうございます。そうさせていただきます」

 サキはさっさとドアを閉め、校長室を出た。教頭もそれに続く。

 

 二人の姿を見送ったあと、校長は受話器をとった。心なしか緊張が伝わる姿のまま、受話器の向こうの声にいちいち小さく頷きながら、最後に大きく頷いた。

「わかりました」 


■旧女学院の凋落

 外に出るとにわかに曇り、ふたたび雨が降ってきた。ただでさえくすんでいる〈蓮華〉の校舎が、ますます色あせて見える。

 小雨(こさめ)(けぶ)木立(こだち)の向こう、はるか遠くの天月山脈を借景に見え隠れする赤煉瓦の建物に目を移した。アカデメイア附属博物館――世界文化遺産にも認定された歴史的建造物で、蓮華学院のもととなるシャンラ王立女学院の本館だ。


 サキは小さなため息をついた。

(はあああ。名門女子大がここまで落ちぶれるとはな……)


 教育機会のない女性たちのための専門的な高等教育機関として五百年前に創設された王立女学院は、かつてその名を世界中に知られた。当時、女性に高等教育を授ける機関はこの女学院しかなかったからである。創設者であるシャンラ王家からの潤沢な寄付金をもとに、世界中から優秀な女性が招かれて学び、医学や歴史学などの優れた研究を次々と発表したという。

(いまは、さびれた〈蓮華〉だもんな……)


 五十年ほど前のこと。蓬莱群島がシャンラ王家から独立し、体制が変化した後、経営をめぐる権力争いに敗れてシャンラ王立女学院は廃校寸前に追い込まれた。多くの教職員が去ったあと、女学院は追われるように天月川の下流にある別館に拠点を移した。広大な丘陵にそびえる本館はアカデメイアが獲得し、博物館として改修した。

 かろうじて女学院は再開された。だが、シャンラ王立女学院という旧来の名を使うわけにはいかない。さりとて、アカデメイアと名乗ることも許されず、そばを流れる天月川の名を使うこともできなかった。今は、別館のそばにあった蓮華池の名をとって「蓮華学院」と名乗り、大学教育を手放して、小学校から高校までの初等・中等教育機関に縮小している。


――プ、プシュー……。

(なんで、こいつはいつもこんな音を出すんだ?)

 小さな車のハンドルを握ったサキは、思わず車体を蹴りそうになり、すんでのところで思いとどまった。


「蹴っちゃダメだよ。この車だって、好きで古ぼけたわけじゃない」

 マイは、いつもそう言って控えめに笑った。

 マイがもっとも長く過ごした図書館の前を通りながら、サキは思わず涙ぐんだ。

「この図書館にはいいものがたくさん保管されてる。だれにも顧みられないけど。さすが元王立女学院だけのことはある」

 マイの口癖だった。図書館の空気感が何よりも好きなのだとか。


 シャンラ王立女学院が長年にわたって収集してきた文物のほとんどはアカデメイアに移管された。ただ、〈蓮華〉最古の建物である図書館とその所蔵物は、死守された。パトロンとして最後まで女学院を保護してくれた当時のシャンラ女王キハのおかげだ。

 キハ女王は、広大な土地を女学院専用の資産として残してくれた。女学院出身のOGたちの尽力で、別館の建物を学舎として確保することもできた。これまでは、経営危機に陥るたびに土地を切り売りしてしのいできた。しかし、それも限界に近付いている。アカデメイア自治国政府からの補助金も厳しくなってきた。惜しまず寄付をしてくれたOGたちも次々と鬼籍(きせき)に入っている。


 女子校としての存続は無理と、二十五年ほど前に共学化した。その判断は誤っていたらしい。学校は伝統と特色を失い、ますます落ちこぼれ校になっていった。

 学年がなく、教科書がなく、校則がない学校――教育理念としてはすばらしい。しかし、大学受験には不向きだ。その結果、他に行き場がない子どもたちが集まってくる。

 シャンラ王家の傍系のそのまた傍系にすぎない理事長が自分の財産を切り崩しながら、なんとか教育理念を維持しようと努めている。しかし、今はどの建物も往年の栄光をとどめていない。色あせた壁、割れた屋根瓦、手入れされていない木々――〈蓮華〉の予算難が見て取れる。人件費をまかなうのがやっとというありさまで、いつ閉校になってもおかしくない。


 アカデメイア学園本部は、蓮華学院がもつ土地資産と歴史的建造物に興味を持っているらしい。アカデメイアは蓮華学院の経営難に付けこむように入り込み、校長職をはじめ一定のポストにアカデメイア関係者を送り込んだ。

 アカデメイア附属中等部で落ちこぼれた生徒もまた、〈蓮華〉に送り込まれた。努力次第でアカデメイア大学への復活進学もあるという触れ込みだったが、復学した生徒はほとんどいない。それでも、アカデメイアから送られた生徒は黙々と勉学を続けた。アカデメイアと蓮華学院の連携事業により、奨学金が継続するからだ。これらの生徒を送り込むにあたり、アカデメイアは蓮華学院に補助金を出している。これは蓮華学院の貴重な財源であった。

 〈蓮華〉はアカデメイアに従属しつつ、伝統の自律性を維持するという綱渡りを強いられてきたのである。

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