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Ⅵ―1 山鳴り

■キキ受難

 オロは週末には必ず〈ムーサ〉にキキを連れて行ってくれる。だが、肝腎の風子はあの日以来一度も〈ムーサ〉に現れない。

 キキは焦っていた。

(やはり、アカデメイアに行かにゃ会えんか……)

 

 その日も、キキは風子を探してアカデメイアに行こうとしていた。でも、橋のたもとに来るといつも疲れてしまう。天月川の広い土手には遊歩道が整備され、木々の下にはベンチ。色とりどりの花々を愛でてそぞろ歩きを楽しむ人も多い。

 だが、明け方近くに人はほとんどいない。

 ただ一人、毎朝同じベンチに腰掛け、朝日に輝く川面(かわも)を飽きずに眺める人物がいた。その老人は、いつもキキを手招きして、手ずからなにかしらの食べ物をくれる。その日もそうだった。


 男は、魚の干物をポケットから取り出した。ムシャムシャと食べるキキをみながら、男が語りかけた。

「ネコさんよ、ちょいと首にこれをつけてもいいかい?」

 男は、きれいな銀色の小さなペンダントを取り出した。スマホにつける飾りのようなものだ。首をかしげて男を見上げるキキ。ふさふさとした白い毛で覆われた首につけられた赤いリボンの首輪にそのペンダントがキラリと光った。

「ああ、きれいだよ。わたしの家では、かわいい子ネコが生まれたばかりなんだ。かわいそうに、その子の母ネコは子ネコを生んですぐに死んじゃってね。このペンダントはその母ネコがつけていたものなんだよ」

 キキは新しい魚をくわえたまま、男を見上げた。


 突然、男の顔が苦痛にゆがみ始めた。

「ウウウ……」と、胸をかきむしるように、男が呻いている。

「もし、……もし、わたしのことばがわかるのなら、お願いだ。舎村の薬師長の家にいる子ネコを助けておくれ。そのリボンは舎村長に……」

 男はそういってくずれるように倒れた。キキが動転して、周りを走る。

「うう、……もうだめらしい。どうか頼む。……だれにも知られぬ……よう……に……」

 そういって、男は倒れた。

 慌てふためきながら、キキは土手に上がって、助けを呼ぼうとした。


■夜の疾走

 夜の走りは爽快(そうかい)だった。

 だが、残り時間はもうわずか。まだ暗い東の空に、見上げるように大きいカゴロの小さな目が浮かんだ。

 約束の時間は、明け方六時。彼なら十五分前から埠頭(ふとう)に出向き、道路の左右に首を振り続けているだろう。少しでも遅れると、カゴロはキレる。オロには絶対に手荒なことはしないが、鼓膜を破るほどデカい濁声(だみごえ)でがなり立てるに違いない。そんなときは決まって、支離滅裂な言葉を十分は聞かされる羽目になる。


 走りながら、オロはバイクの腹をそっとなでた。カゴロがやっとの思いで手に入れたホンダのゴールドウィン一八〇〇。今日これに乗れたのは、カゴロの孝行心のおかげだ。母の誕生日には母のそばにいたい。そう言って、カゴロは大切なバイクをオロに貸してくれた。


 オロは急いだ。

――なんとか間に合いそうだ。

 

 このあたりは川沿いに山がせり出し、見通しのきかないカーブが続く。とくに急なカーブに差しかかった。さすがのオロもスピードを落とす。そのとき、漆黒のセダンが音も立てず、滑るようにオロを追い抜いていった。


 昨日まで降り続いた雨のせいだろう。若葉の青い匂いとむせかえるような土の息吹が川風にのって、オロの身体を突き抜ける。

 

 突如、目の前でなにかが動いた。曲がりきっていないカーブの向こうにあるはずの景色が鮮明に浮かび上がる。白いものがフラフラと道路に迷い出た。

「キキ?」

 

 そのとたん、腹の底を揺らすような轟音が響いた。

 ゴオオオオ……。

 右手の山肌が動く。何本もの木がもぎ取られ、大きな石が土砂とともに流れ落ち、アスファルトの道路を覆った。さきほど走り抜けた高級車は土砂に飲み込まれ、転がり落ちた大石が歩道を歩いていた老人をはね飛ばす。そして、キキの姿は……見えない。

 

 ダメだ!

 時間が止まらない!

 この前、神琴を取り戻したときに使った力が回復していない。


 ブワロロ、ブワッ。

 思いっきりふかしたアクセルの音がカーブの向こうに消えていく。山はまだ動いていない。さきほどオロを追い抜いたレクサスを追い抜き返す。運転席の若い男が歯ぎしりをしてアクセルをふかした。老人が歩道をのんびりとこちらに歩いてくる。その向こう、キキが道路に向けて歩み出た。


 ――あと五秒。


 オロは猛スピードでハンドルを切り、レクサスの前をふさいだ。運転席の男が顔をゆがめ、大きな口をあけたままあわててハンドルを切る。


 キキイイ、イイイ。

 罵声とともに、アスファルトをえぐるような音が明け方の空をつんざく。(ほこり)一つないほど磨き上げられた車体がガードレールに突っ込み、そして川にせり出すようにして止まった。ふくらんだエアバッグが見える。


 そのままオロは直進し、老人の目のまえでハンドルを切り返す。あわてた老人は腰を抜かし、はずみで転倒した。やせた身体を道ばたの草むらが受け止める。気を失ったのか動かない。

 そのあと、オロはバイクを地面すれすれまで傾け、土手に上がってきたばかりのキキをつかみ、転がりながら飛び降りた。

 バイクは浅い弧を描きながら土手の遊歩道へと落ちていく。立ち上がったオロの腕から身を乗り出し、キキが土手のほうへと顔を向けた。


 ガッシャーン、ガラガラ。

 そのとたん、山がふるえた。

 ゴオオオオオオオオ。


 音は鳴り止まない。地面を揺らしながら、山がオロにむかって崩れ落ちてきた。土石流(どせきりゅう)だ。それはオロの横をかすめながら、()めるように川面(かわも)に土砂を運び込む。


 キキは目を見開いたまま、オロの胸にしがみついた。よほど怖かったのだろう。

「もう大丈夫だ。安心しろ!」

 ものの数分だった。えぐられた山肌がぱっくりと不気味な姿をさらし、もぎとられた木の根が天を向いたままピクリともしなくなる。オロはキキを抱いたまま、ぼんやりと土手のバイクを見ていた。


(やば……。バイク、どうしよう……)

 カゴロのショックが目に浮かぶ。カゴロはなけなしの金でバイクを買って、借金暮らし、オレは無一文。

 いったい、だれがバイクを買い換えるというのか。


 ため息をもらしたオロの目に、赤黒い液体が映った。バイクの下にだれかいる。オロは土手に飛び降り、バイクに走り寄った。白髪交じりの初老の男だった。やがて、サイレンが鳴り響き、放心したオロがパトカーに連れ込まれた。キキをしっかり抱いたままだ。


■ネコ語じゃオロを守れない!

 殺風景なドアの前。二人の刑事がキキとオロを引き離そうとしたが、キキが必死に抵抗した。噛みつき、引っ掻き、尾を振り回す。太った老ネコにほとほと手を焼いた刑事たちは、キキとオロを引き離すのをあきらめ、ひとまず、キキとオロを同じ部屋に放り込んだ。


 オロはぐるりと見回した。窓には格子がはめ込まれている。目の前にはスチール机。狭い取調室。いつ入っても変わり映えしない灰色の部屋だ。

 こんなとき、どうふるまえばいいか。オロは知り尽くしていた。


 部屋に駆け込んできた初老の刑事が来るなりたずねた。

「おい、オロ、今度はいったいなにをしでかした?」

「刑事さん……」

 オロの目に涙が浮かぶ。キザキ刑事は額の汗をしわくちゃの手ぬぐいでぬぐった。そして、一つ咳払い。

「う、うう……ごめんなさい。オレ、オレ……まさか人がいるなんて思わなくて……。オレ、どうしたら……」

「落ち着け。知ってることを全部オレに話せ。いいな?」

 オロは頷いた。キキはしっかりとオロにしがみついたまま、オロを守るかのように疑わしそうにキザキ刑事を見ている。


 オロの話は要領を得ない。しびれを切らした刑事がまとめた。

「じゃあ、こうか? 明け方、まだ薄暗いころ、カーブをまがったところで、このネコを道路でみかけて拾い上げた。だが、そのままだと川に落ちそうだったので、怖くてバイクから飛び降りた。そのバイクが、たまたま土手の下にいた人の上に落ちた……と、こういうわけか?」


 オロはコクリと頷いた。いかにも気弱そうな美少年は、小刻みに肩をふるわせている。緊張のせいだろうか。澄んだ目には珠のような涙。横に座る刑事が思わず見とれている。


 キザキは、軽く二度目の咳払いをした。

(オイオイ、そう簡単にコイツの手のうちに入るなよ)

「あの高級バイクをグチャグチャにしてまで、なんで、このネコを拾い上げなきゃならんかった?」


 オロはウッとつまりそうになるのをこらえて、しおらしく答えた。

「だって……そばに車が来ていて、あのままだとキキは車に()かれると思って……」

「そいつぁ、妙だな。あの高級車は手前でガードレールに突っ込んで止まっちまったぞ。おまえのバイクがジグザグ走行したせいだと言うとる。ジグザグ走行が行き過ぎてバイクが倒れて、おまえは飛び降りたんじゃないのか? わかっとるのか? あのバイクの下敷きになって人が死んだんだぞ。おまけに、おまえのバイクにビックリして年寄りがひっくり返ってケガして入院した。ネコの話どころじゃねえんだぞ!」


「ニュアアアア!」

 キキが突然、大きな声をあげた。

「ニャ、ニャオウオウ、ニャアアアア」(違う! わしは見たんじゃ。あの人間は先に死んでおった。わしが証人じゃ)

 キキはオロにしがみついたまま、キザキに向けて大きくかぶりを振りつづける。だが、言葉は通じない。

「おい、オロ。このネコを黙らせろ。取り調べの邪魔だ」

「キキ……」

 オロがキキの背をなでたとたん、ドアが開いた。


「オロ! あんたって子は!」

 叔母のスラが仁王立ちのようにオロをにらみつける。わきで、二人の刑事がスラを押しとどめようとしている。スラはそれを振り切って、取調室に踏み込んだらしい。

「おう、スラか」

 キザキ刑事は、若い刑事たちにさがれと目で合図した。

「スラ。まあ、ここにすわれ」

「刑事さん。うちのオロがひとを殺すはずありません」

「わかっとる。人殺しとは言うとらん。オロのバイクで死んだのか、事故の前にすでに死んでおったのかはまだわかっとらん」


 また、キキが大きな声をあげた。

「フニャ、フギャアアアア、ニャオワン!」(スラ。オロはなにもやっとらんぞ。信じてやれ!)

「わかってる。キキ、あたしもオロを信じているから!」

 オロは下を向いた。ポトリ。握りしめた拳に涙が落ちる。キザキの胸がグッときた。これまで何度もこの涙にほだされてきたのに、また今度もオレはコイツの術中にはまるのか?


 スラはキキを抱き上げた。キキは相変わらずキザキ刑事を睨んだままだ。キザキはオロに噛み含めるように言った。

「未成年で無免許。おまえのジグザグ走行で車がこわれ、転倒した老人が入院中。つまり危険運転致傷罪。保護観察は確実だな。これに致死罪が加わった場合は少年院行き。覚悟しておけよ」


 うなだれたまま、オロがかすかにつぶやいた。

「保護司? また、あのばあさんか……」

 スラの拳骨(げんこつ)がオロの頬にとぶ。

「あんた、いったい何様? あの保護司さんほどいい方はいないだろっ!」

 オロは殴られた頬に手をあて、涙ながらにスラを見上げた。

 グス、グス……。

 スラは舌打ちしながら言い放った。

「泣くな、みっともない! その程度じゃ、歯は折れないし、跡も残らない!」


 今度は、オロのポロシャツの襟を締め上げた。

「で? いったい、だれのバイク?」

「カ……カゴロ」

「あ? あいつ? あんた、まだあいつとつきあってんの?」

「ぐ……ぐるじい……」


 オロが目を白黒させている。さきほどスラを止めようとした二人の刑事は、口をあんぐりあけて突っ立っていた。隣に座っていた刑事も目を丸くしてスラを見上げている。これほどの凄みをきかせれば、凶悪犯も色なしだ。キザキ刑事がスラを促した。

「おい、スラ。ちょっと出ようぜ。おっと、そのデブネコも連れていけ」


■二人の弁護士

 安物のソファに座り込んで、スラは頭を抱え込んだ。ひざの上でキキが心配そうにスラを見上げる。向かいに身なりの良い青年がふたり座っている。

「弟さんには会えましたか?」

 青年のひとりがスラにたずねた。

「弟?」

「さきほど、うちのオロに会わせろって叫んでたじゃないですか。親子には見えないし……なら、姉弟かなと」


 スラは、ふたりの青年を見た。話しかけたのは、いくぶん小柄なほうの青年だった。奥の青年はいかにも高級そうなスーツを着込み、黙ったまま、スラのほうをじっと見ている。

「あなたがたには関係ないでしょ?」

 スラは憮然(ぶぜん)として言った。

「いや、それが大ありなんです」

 いぶかしむスラに、青年はこう言った。

「息子さんがバイクをぶつけた車の持ち主が、こちらの方でして……」

「は……はあ?」

 スラは面食らった。

「高級車です。前半分がかなり壊れてしまいましたがね。おたくさまの保険でお支払いいただけるかどうか……」

「保険?」

 やばい! 免許すらもっていないオロは保険になど入っていない。カゴロにしてもそのあたりは危しい。

「いったい代金はどのくらい……?」

「車そのものはざっと二千万です。特注部分をかなり含みますし、買ったばかりの新車です」

「二……二千万!?」

 スラは腰が抜けそうになった。どこをどうひっくりかえしてもそんな大金は出てこない。

――オロのやつめ。


 男はきわめて事務的に言った。

「当方の保険金を使えなどとはおっしゃらないでしょうね」

「甥のせいでお宅の車が壊れたことはあやまります。ですが……そんな大金、うちにはとても……それに、甥がいなければ、あなたがたは土砂に埋まっていたかもしれないし……」

 青年は言葉につまって、助けを求めるように、連れの青年に目をやった。奥の青年はピクリと一瞬ほおをゆがめたが、スラを見ようとはせず、一言も発しなかった。端正な顔立ちだ。


 突然、大きな足音が廊下に響いた。鬼のような顔をひきつらせて、大男が部屋に突進してくる。何かを探すように目をぎょろつかせていた。

「おう、カゴロか。来ると思ってたぜ」

 キザキ刑事が目を向けた。カゴロが跳ねるように走り出す。周りの刑事が思わず道を空けた。

「刑事さん、オロは、オロは……? まさかケガでも?」

 両腕で机を押さえ込むようにして、ニュッとキザキの目の前に顔を突き出し、カゴロは泣き声で言った。

「大丈夫だ、安心しろ」

「ホントッすか?」

「まったくおまえときたら、オロのことになると見境(みさかい)がなくなるな」

 キザキは呆れ顔のまま、右手でカゴロの顎を押し上げた。

「ちっとはオレから離れろ。しばらく風呂に入ってねえだろ? 臭いぞ」

 カゴロが頭をかいた。その後ろから、明るい声が響いた。


「こんにちは。キザキ刑事」

 いかにも上等そうな光沢を放つスーツの襟元にバッジが光る。青年は、非常に美しい顔立ちを笑顔でくるんだ。

「やあ、これは、これは……オロには強力な味方がいるようだ。タダキ弁護士までお出ましとはね」

 タダキという言葉を聞いたとたん、帰り支度をしていた二人連れの一方が思わず荷物を落とした。その者とタダキの目が合った。

「おや、イ弁護士ではないですか」

 奥にいた美男子が軽く会釈した。

「久しぶりですね、タダキ弁護士」


■アマゾネス

 挨拶を返そうとした瞬間、タダキの視線が凍り付いた。向こうから、走り寄る女性が目に入ったのだ。「カゴロ。あんた、よくもうちのオロによけいなことを!」

 スラがカゴロの襟首をつかむ。スラも背は高いが、カゴロに比べると二回りは小さく細い。刑事たちは思わずスラをかばおうとした。だが、キザキは動かず、笑いながら言った。

「スラ、手加減してもダメだぞ。ここが警察だということを忘れるな。殴っただけで公務執行妨害になる」


 カゴロの顔が真っ赤になり、白目を()いている。スラは手をゆるめた。

 ゴホ、ゴホッホッ。ゼハゼハ。ヒファーッ。

 カゴロが思い切りむせかえり、巨体をくの字に曲げて、息を整える。刑事たちの足がスーッと後ろに引いた。イ弁護士は目を丸くして、スラを見ている。タダキの口元にうっすらと笑みが浮かんで消えた。


「スラさん、久しぶりですね。相変わらず、あなたの腕は素晴らしい」

 タダキはスラに近寄った。スラは一瞬首をかしげたが、思い当たったように叫んだ。

「あ、あのときのイヤミな弁護士!」

 タダキは苦笑した。

「ええ、そうです。あなたに殴られたあと、一週間は寝込みましたよ」

 刑事たちの足がまた一歩ずつ下がる。


「立ち話もなんですから、座りませんか?」

 そう言いながら、タダキは率先してソファに座った。ほかにも席が空いているのにわざわざスラの隣を選んだ。スラが迷惑そうに体をよじっている。

「イ弁護士にもお話をうかがいたいのですが、お時間はありますか? いえ、ほんの十分ほどで結構です」

 帰ろうとするイ弁護士をタダキが引き留めた。タダキは、裁判で負け知らずとして有名な辣腕弁護士。


 タダキは、結論を手短に述べた。

――オロは無免許で速度違反のため、危険運転罪は認める。しかし、オロが主張するとおり、死体は事故死ではなくて、病死かなにか。司法解剖で事故死以外の証明ができなければ、私費でしかるべき機関に解剖鑑定を依頼し、事故死ではないことを証明する。したがって、オロを危険運転致死罪には問えない。オロには保護観察が妥当。保護司は、タダキが見つける。

 また、イ弁護士の車の破損事故については速やかに和解し、慰謝料と修理代はオロとカゴロが分担する。速度違反による過失相殺と車体価値を基準に算定すると、損害賠償額は慰謝料込みで五百万を相当とする。

 無免許と知りながらバイクを貸した責任を問い、バイクの修理代はカゴロ自身がもつ。支払いは一括払いとし、足りない金額についてはタダキが立て替える。そのための金銭貸借証は、タダキとオロ保護者とのあいだで作成する。

 

 弁護士イ・ジェシンは舌をまいた。なんという手回しの良さ。

 キザキ刑事はだまって聞いていた。うわさどおりの切れ者だ。いわゆる「ヤクザ」集団であった(たか)丸組(まるぐみ)がTMカンパニーに衣替えできたのは、この人物の手腕による。カゴロはよくわからなかったものの、タダキがオロを救おうとしていることだけは察することができた。


 突然、スラが立ち上がった。

「ダメです。受け入れられません!」

 カゴロがスラを見た。キザキもスラを見た。イ・ジェシンも驚いた。タダキだけが答えを予想していたかのように苦笑している。

「スラさん。わたしに借りを作りたくない気持ちはわかりますが、ほかに方法があるとでも?」


 スラはだまった。ほかの方法などあるはずもない。どこをどう押しても金など出てこない。借りる当てもない。だが、元ヤクザとつながっているタダキに借りをつくってしまっては、オロの将来のためにならない。

「オロくんはカゴロの友だちであって、子分じゃない。わたしも金でオロくんを縛ったりなどしませんよ。それに鷹丸組は、もうヤクザではありません」

 スラの懸念を見通したように、タダキは穏やかな口調で言った。そのことばにウソはない。


 タダキは知っている。オロの自由なこころと体をだれが縛ることができようか。カゴロはオロの崇拝者だ。これからさきも、カゴロはオロを守り抜くだろう。オロもカゴロを放っておけないようだ。これまで、オロの天才的頭脳と神業(かみわざ)のようなスリ術が、何度もカゴロと母とハナちゃんの危機を救った。鷹丸組改めTMカンパニーがカゴロを通じてオロから恩恵を被ったことも一度や二度ではない。タダキだけがそのことを知っている。

 タダキは考えた。オロを配下に入れたいが、それはオロをつぶすことなる。それに、組=カンパニーの知恵者は自分一人で十分だ。むしろ、無邪気なカゴロを通じてオロを利用するほうが得策だ。タダキの打算は、結局カゴロとオロを守ってきた。しかも、オロの正体をあばこうとしているうちに、タダキはスラを知った。スラに殴られて以来、タダキはスラを忘れたことはない。


「わたしも提案は受け入れられません」

 みなが発言の主を見た。弁護士イ・ジェシンがにっこりとほほえみながら、目をあげた。

「今回の事故の原因は何であるか、それはわたしには関係がない。ですが、わたしの車は大きな損傷をうけました。損害は賠償していただきます。五百万Jには同意しましょう。ただ、その支払いは一括でなくても結構です。タダキ弁護士を通じてではなく、何年かかってもいい。オロくん自身に支払っていただきます。もちろん、オロくんのかわりに親族が支払ってくださっても結構ですが」

 

 スラがわからないという顔をした。が、タダキはすぐに意味を理解したらしい。

「まさか、スラさんに借金のかたに働けとでも?」

「強制はしませんが、そのような方法も否定しません。ちょうどうちは警備員兼事務員をひとり雇い入れる予定なのです。こちらの方は最適だと考えますが、あとはご本人次第でしょう。もちろん、二十年かけてオロくんが支払ってくださってもいっこうにかまいません。それなりの利子はいただきますが」


 即座にスラが言った。

「わたしが働きます。おたくの警備員兼事務員になればいいんですね? 期間はどれくらいですか?」

「年収五百万を保障しますので、三年ほど働いていただければ返済も可能でしょう」

 五……五百万? スラは目の前がクラクラした。いままでそんなにもらったことはない。警備員のアルバイトだって年収二百万が限界だった。しかも、予算減で警備員のアルバイトが今月末で切れ、つぎのアルバイト先を探していた矢先だった。

 

 オロに接見するために去っていくイ・ジェシンの後ろ姿を見送りながら、タダキは静かに目を怒らせた。

(イ・ジェシン、わたしへの宣戦布告ととっておこう。いままでまともな仕事はなに一つしていないくせに、わたしに勝てると思っているのか? 金持ちばあさんの財産頼みの事務所経営などすぐに破綻するぞ)


 ジェシンのそばを歩くパラリーガルのムトウが、困ったようにジェシンに小声で問いかけた。

「まったくもう……。わかってるんですか? 事務所はア・カ・ジ! 赤字経営ですよ」

「バアサンが何とかしてくれるさ」

「バアサンって、会頭のことをそんな風に言っちゃいけませんてば。いつか見放されたらどーするんですか?」

「うん、ありうるな。一年以内に黒字経営にしなければ手を引くと、このまえ脅されたばかりだ」

「えええっ? そんな大事なこと、なんで黙ってたんですかっ!」

「だって、言ったってしょうがないだろ?」

「こりゃ、たいへんだ。なんとか仕事を探さないと!」

「安心して、キミの転職先はバアサンに見つけてもらうから」

「ダメです! こんな実績のない事務所にもう五年もいて、ボクは無能者扱いです。お情けでひきとられてもいじめられるに決まってる」

「そうなの?」

「世間のジョーシキです。ちょっと本気出しますから、先輩もきちんと仕事してくださいよ!」


■舎村

 カゴロが心配そうにタダキとスラを交互に見つめる。キザキ刑事が言った。

「いまオロに会えるのは弁護士だけだが、イ弁護士が接見するとなれば、タダキ弁護士、あんたはどうする?」

「まあ、お手並み拝見といきますよ。まあ、あのオロくんが事故で人を死なせるなどありえないでしょうし、しかも相手は舎村関係者だ。陰謀のにおいがしませんか? そうなると、イ弁護士の手には負えないでしょうね」

「なにい? 舎村だと?」と、キザキ刑事の声がうわずった。

 キキを抱くスラの手に力が入った。キキは思わずスラを見上げた。くちびるから声にならない声が漏れる。

(舎村……)


「その通りだ」

 後ろで張りのある声が響いた。一人の女性が足早に部屋に入ってくる。

「もう、わけわかんない! 遺体がとっくに舎村に運ばれたなんて! やってらんない!」

 毒づきながらも、彼女が値踏みをするようにタダキを見た。

「ああ、紹介しよう。タダキ弁護士だ。今回の事故の件でお出ましだ。こちらはヒューガ警部」

「よろしく」

 ヒューガ・ユウはちょこんと挨拶し、こんどはカゴロを見上げた。

「カゴロ、あんた、また何かしでかした?」

 カゴロが身をすくめるように横に首を振った。


 タダキもヒューガ・ユウ警部の名は知っている。一年ほど前にこの管区に異動になり、二ヶ月前、鷹丸組と張り合う黒獅子組の幹部が関わった殺傷事件を担当し、五人の容疑者を逮捕した。しかも全員が肩を脱臼するか、足を打ち抜かれていた。スラと並ぶ豪傑だ。

 カゴロは、さきほどスラに締め上げられた首の苦しさが蘇ってくるのを感じた。カゴロの母も強いが、スラも強い。ユウも強い。腕自慢のカゴロは、強い女に弱い。そう、恋人のハナちゃんだって強い。走る姿は神々(こうごう)しいほどだ。小学一年の運動会で爆走するハナちゃんを見たときから、ハナちゃんはカゴロの女神になった。


「へえ、タダキ弁護士ほどの大物がどうして少年事件を?」と、ユウはタダキに向き直った。

 キザキ刑事が笑って言った。

「タダキ弁護士はTMカンパニーの顧問弁護士。カゴロはその関係者。そして、オロはカゴロの友だちなのさ」 

「ふうん。なんかよくわかんないけど」

 ユウはいたずらっぽい目でタダキを見た。

「ま、美少年好きというわけではなさそうね」


 おもわずカゴロが拳を握った。タダキがそれをたしなめながら、ユウにたずねた。

「舎村で遺体解剖というのはほんとうですか?」

「まあね。でもこれ以上の質問には答えない」

「捜査情報は秘密というわけですね」


 ユウはにんまりとした。タダキがため息まじりに言った。

「遺体が舎村に渡されてしまったなら……やっかいですね。警察は手が出ない」

「舎村もバカじゃない。無実の人間に罪をなすりつけるなどしないんじゃない?」

「だから、よけいやっかいなんです」

「なぜ?」

「オロくんの無実は証明されるでしょう。でも、すぐにじゃない。舎村に不都合な証拠をすべて消してからだ。いつまで待たされるやら……」

「そこまでわかってんなら、お互い助け合える部分は協力するってことでどう? 鷹丸組、いやTMカンパニーだったっけ? おたくは舎村と因縁があるみたいだし」

 タダキも微笑を返した。


「あの……」と、口をはさんだスラにユウが気づいた。

「容疑者少年の親族です」と、タダキに紹介され、スラはお辞儀した。キザキ刑事が付け加えた。

「警部も聞いたことがあるだろ? 五年前の銀行強盗事件のとき、犯人逮捕に協力してくれたひとだよ」

「え? じゃああ、あの伝説のアマゾネス? 拳銃をもった犯人三人をあっという間に素手で倒してしまったという、あの……」

 キザキ刑事は頷いた。若い刑事たちも一様に驚いたあと、納得した表情に変わった。

 スラは真っ赤になった。アマゾネスって……まさかそんなふうに呼ばれてたなんて。タダキがスラに見えないようにクスリとした。ユウとスラという強い美女二人を前にカゴロは固まったままだ。


 ユウ警部はまじまじとスラを見た。そして、右手を差し出した。

「わたしはヒューガ・ユウ。どうぞよろしく。一度あなたに会いたいと思っていたんです」

「あ……スラと言います。それであの……オロはいつまで拘束されるんでしょうか? 父親が心配しますので……」

 ユウとキザキとタダキが顔を見合わせた。舎村がらみだ。そう簡単にはいくまい。答えがないことの意味を察したスラはうつむいた。そんなスラのそばで、キキは決意した。


――舎村か……。

 クロに手助けしてもらわんといかんな。


 カゴロが心配そうに警察の建物を振り返る。タダキ弁護士はそんなカゴロの肩に手を置いた。

「オロならうまくやるさ」

 カゴロは小さな目にいっぱい涙を溜めて、深くうなずいた。

「岬の上病院だろ? 送っていこう」

 車のなかでカゴロは終始無言だった。手のひらを開いては握るをひたすら繰り返す。オロを守ってやれない自分が歯がゆいのだろう。

「言っておくが、カゴロ、ぜったいに何もするな。いいな。おまえが動くと、オロにはまずいことになる」

 タダキは念を押しながら、カゴロを送り出した。カゴロはぼんやり頷いた。

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