Ⅴー6 エピローグ――天月烏カムイの憂鬱
■カムイ、しょげる
カムイはしょげていた。
つややかな黒い翼を折りたたみ、頭を垂れ、部屋の隅でいじけている。滝に現れた者を追ってきたが、やはり途中で見失ってしまう。似たような人物を見つけては後を追ってみるが、いつも人違いだ。
仕方なく止まった梢であくびをしていたカムイの目に、ステージで歌い踊る少女の姿が映った。あまりのかわいらしさに思わず近寄ろうとしてガラスに頭をぶつけ、茂みに落ちてしまった。どうやら一晩気を失っていたらしい。
クラクラしながら飛び上がると、朝焼けの天月の山頂から細いけむりがたなびくのが見えた。老師からの合図だ。カムイはあわてて山頂へと向かった。
老師はすこし痩せたが、元気そうだった。カイに伝えれば安心するだろう。老師はカムイの足に伝書を巻き付けた。伝書をもつときに道草は禁物だ。
なのに、やってしまった。
戻ってくる途中で、あの美少女を見かけてしまったのだ。この前、ステージで見かけた少女だ。これまで四百年を生きてきて、これほど美しい少女を見たことはない。
美しさでは、主人のカイにまさる者はいない。そう信じていた。だが、ルルの大きな瞳を見た瞬間、カムイの心はノックアウト。またまた、梢からストンと落ちてしまった。下が柔らかな草むらだったのがもっけの幸い。落っこちたことがショックだったのではない。心臓はバクバク。額から妙に汗が噴き出る。己の使命のすべてが、頭のなかから一瞬にして吹っ飛んだ。
ちぎれた草を頭に乗せたまま、カムイは飛び立った。羽ばたくたびに草の切れ端が宙に舞う。その少女が一瞬、自分を見たような気がした。だが、まさか、あの高さで飛ぶカラスの様子を見定めることはできまい。
この少女のことを少しでも知りたい。後を追い回しているうちに、その娘は楽しそうに菜園に入っていき、あばらやに消えた。小さなあばらやの窓はくもっているうえに、間に合わせの布がかけられていて、中の様子はわからない。ときおり聞こえる楽しそうな声に男の声も混じっている。
「まさか、まさか……」
いてもたってもいられなくなったカムイは、あばらやの上空を旋回し続けた。
やがて、中年女性がイヌを連れてやってくると、中から一人の若い男が飛び出してきた。彼は菜園のなかを逃げ惑ったあげく、高い木にスルスルと登ったのだ。
カムイは様子をうかがっていた。下で吠えていた犬が眠りこけ、青年も枝で眠り始めた。カムイは青年に近づいた。健康そうな若者だ。もっとよく見ようと近づいた瞬間、足首をつかまれた。もがいたが逃げられず、結局、大切な書信まで盗み読まれてしまった。
■カイのなぐさめ
白いきれいな手が、カムイの背に伸びる。象牙のようになめらかな長い指が、カムイの漆黒の羽をゆっくりとなでた。
カムイは指の主を見上げた。細面の柔和な顔にかすかにほほえみが浮かんでいる。仏のように端正で、慈愛に満ちた面差しだ。カムイ以外にはほとんど見せない表情だ。
ピョンピョン。
カムイは、その美しい主人の膝元にすり寄った。カイの指が動いた。
(この暗号を解くには特殊な技術がいる。このことはおまえも知っているな?)
美青年の口元から漏れる風の音。カムイは頷いた。
(その者があの記号を一瞬ですべて覚えたとしても、解読はできぬ)
美青年に声はない。カムイは風に隠された声ならぬ声にじっと耳を傾けた。
(だが、その若者には興味がある。天月の暗号だと即座に見抜いたうえ、それほど高い木に登り、まるで気配を消して寝入ることができるとは、人間技ではない。おまけに、あの特殊な封印を破ったことをふつうなら見破られないほどの技術をもつとは……)
カイは老師からの伝書を開いた。絵文字のような記号が並ぶ。
ろうそくに火を灯し、ふところから小さな固まりを取り出して皿にのせ、ろうそくの火を固まりに近づけた。白い固まりが熱によって溶け、かすかな蒸気があがる。カイは伝書を蒸気の上で軽くあぶった。いくつかの絵の背景に朱がうかびあがる。
《アカデメイアで一瞬、時が止まった。龍族かもしれぬ。留意せよ》
〈水の一族〉たる龍族は、海の中に壮大な珊瑚宮を構え、大嵐や大津波を呼ぶ異能をもつ。ミグル族とは因縁浅からず、〈水神殿〉をめぐって対立関係にあるという。緋月の蝕は、〈月の一族〉だけでなく、〈水の一族〉までも目覚めさせたのか? おまけに、〈森の一族〉に属する雲龍九孤族までがここに?
(カムイ、その若者をしばらく見張ってくれぬか)
カムイは小さく頷いて、窓から飛んでいった。黒々と静まりかえる山の木に、黒い影が吸い込まれていく。その姿を見送りながら、カイは遠い目をした。
(老師さまがおっしゃったとおり、たしかにこの島には尋常ならざる者が集まっているようです。まだ、だれが「天満月」なのか、手がかりはありませんが、かならず見つけ出します。それまでどうかお健やかでおいでください)
カイは障子の入った小窓をそっと開け、高い木々の上にかかる銀色の月を見上げた。
(いまの日本にそれほどの技術をもつ者がいるとしたら、考えられるのはただ一つ――雲龍九孤族。だが、なぜこの時期に、雲龍九孤族がこの島に……?)
■リトは天敵だ!――カムイのひとりごと
博物館に出向いた初日、オレは仰天した。
カイさまが調べてほしいとオレにおっしゃった当の相手が、目の前にいた。
ソイツは、リトと名乗った。カイさまに懸想しているようだ。けしからん! 分を知らぬにもほどがある。
だが、アイツは妙な力をもってやがる。オレの足に括り付けられた天月の密書を取り上げて中身を見やがったし、別の日には、おれを妙な糸でグルグル巻きにしやがった。完全にオレを舐めてやがる。
だから、十分気をつけていたはずなのに、事件が起こった。
あろうことか、オレが……オレが……失神しちまったなんて! このオレが! 天月烏の頂点にいるオレさまがだぞ!
おまけに、リトといっしょに暮らすばあさんに、呪文を唱えられてまた失神した。眼光鋭いあのばあさんは、オレを三足烏だと見破ったようだ。いったい、あのばあさんは何者だ?
夕立がおさまった夜、町外れの木立に囲まれた一角にある小さな平屋の台所にカイさまは立っておられた。
トントントン。
小刻みに包丁の音が響く。コンロの上では、玄米飯を入れた小ぶりの釜から湯気が上がっている。ささやかな夕食を作るときにも、カイさまはじつに手際よい。
カイさまは、買い物でも料理でも、なんでもご自分でなさる。誰かに命令するのはお嫌いらしい。従僕のオレにさえ、丁寧に頼み事をなさる。だが、カイさまのそのようなお姿を知っているのはオレだけだ。
オレは、開け放たれた窓から部屋に入った。
カイさまは、オレの報告をじっと聞いておられた。老女の言葉を伝えると、フッと笑みをもらされた。
ああ、なんて麗しいんだろう……。
カイさまの心の声が、風にのって伝わってきた。
(見事な挨拶だ。おそらく、そのご老女は「九孤の賢女」。しかし、あのリトくんが、雲龍九孤族宗主の孫とは、じつに奇遇だな)
カイさまは、オレの頭をなでてくださった。オレはうっとりした。
(カムイ、よくやった。おまえのおかげで、雲龍一族とのつながりができたよ。いつかきっと役立つだろう)
オレは、うれしさのあまり舞い上がってしまった。
でも、次の瞬間、ガーンと打ちのめされた。
(彼は、資料も見事に整理できる。知識も知恵も群を抜いている。雲龍九孤族だったからなのか)
カイさまがひとを褒めるなんて初めてだ。
オレは、声にならないことばを口のなかでころがした。
(でも、あいつは、お調子者の落ちこぼれですよう!)
リトのような青二才など、カイさまがお心に留めるべき相手じゃない。
あろうことか、アイツはオレにこう抜かしやがった。
「おまえもオレもすぐれた一族の出来損ないだ」
くそお! ホントの出来損ないのおまえと一緒にされてたまるか!
思わず、オレはリトをつつこうと思ったが、やめた。このところ、失態が続いているのは事実だ。このカムイさまともあろう者が……どうにも調子が狂う。
汚れなきカイさまによこしまな思いを抱き、オレを出来損ない呼ばわりするとは――リトは、オレの天敵だ! よし、これからは、アイツがカイさまに近づけないよう、思いっきり邪魔をしてやるぞ!
それに、オレは泥棒カラスなんかじゃないぞ。
アイリとやらの部屋を漁ったんじゃない。隣室の少女の持ち物が目的だった。あの子イヌの飼い主だ。あの子が首からはずしたペンダントの模様にびっくり仰天したんだ。オレの最初の主人が大切にしていたものとうり二つだったんだから。
でも、それ以上に驚いたのはアイリそのものだ。アイリは、四百年前のカトマールで、オレをつかまえて三足烏としての力を封印し、オレの最初の主人となった少女に生き写しだった。
カイさまに申し上げると、珍しく考え込んでしまわれた。天月至高の銀麗月が考え込むなど、よほどの重大事だ……。ひょっとしたら、アイツら二人は、とんでもない秘密とかかわっているのかもしれん。




