Ⅴー5 アイツは三足烏?――リト日記(5)
■俊足
その日も何事もなく過ぎ、オレはカイに別れの挨拶をして、博物館を出た。
湿気た空気。雨が降りそうだ。オレは空を見た。あと二十分もすれば、土砂降りだ。
ふと、高い銀杏の枝に目が止まった。黒いものが、こちらを見ている気がする。見直すと、何も見えない。なんだ、錯覚か。オレは大慌てで駆けた。早く家に着かないとずぶ濡れだ。今日に限って、傘を忘れるなんて。
走るのは得意だ。というよりも、物心ついたときにはすでに走るのが日課になっていた。そばにはいつも小じいちゃんがいた。
――やばい。
予想より雨足が速い。すでにあたりは暗い。幸い、今日の服は黒色だ。回りを見回したあと、ツイと壁をよじ登り、屋根の上に出た。連なる屋根の上を飛ぶように駆けていく。
ストン。
オレは屋根から飛び降り、一目散に菜園を横切り、小屋に向かって駆け抜けた。ドアに駆け込んだとたん、雷鳴がとどろき、ザーッと大粒の雨が激しく窓をたたく。ギリギリ間に合った!
「おや、リトかい?」
「うん、ばあちゃん、ただいま」
「ひどい雨になったもんだ」
「そうだね」
「それで、買うてきたかい?」
「何を?」
「晩メシのおかずじゃ」
ゲッ、そうだった。雨に気をとられて、すっかり忘れていた。
小屋から放り出されたオレは、路地に出た。強い風に傘があおられ、傘が反り返る。それを直しつつ、スーパーまでなんとかたどり着いた。
(ちぇ。孫がどうなってもいいのかよ! 雷と大雨のなかに孫を放り出すばあちゃんなんて、いったいどこにいる?)
総菜を無造作にかごに放り込むオレの手がふと止まった。
向こうに見慣れた顔。カイだ。
スーパーで買い物カゴを下げ、ゆっくり歩く美貌の青年。回りの主婦たちがカイを見ながら、ウキウキ、ひそひそとうわさ話に花を咲かせる。
主婦たちの話を漏れ聞くと、カイは、毎日きっかり午後六時三十分にこのスーパーに現れ、無農薬野菜、昔ながらの製法にこだわった豆腐、添加物のない醤油などを買っていくらしい。ほぼ決まったコースで、脇目もふらぬという。その間わずか十分。美青年はしずかにスーパーを出て、雨のなかをどこかに消えた。
オレはカイのたどったコースを一巡した。そして、カイと同じものを買った。何となく良い気分。
スーパーの入り口付近に置かれた「地元の農家直送コーナー」。無造作に段ボールに入ったままのきゅうりは大きく曲がり、ごぼうもにんじんも泥だらけ。さやエンドウの大きさは不揃い。手造りという豆腐も油揚げもこんにゃくも形はいびつだ。
「ほう。うまそうな野菜じゃの。土の匂いがする」
ばあちゃんは喜んだ。
おっと、忘れてた。野菜を買ったということは、料理もしないといけないということ。あきらめて袖をまくり、野菜を洗い始めると、そばにばあちゃんが立った。
「久しぶりじゃな。どれ、漬け物でも漬けてみるか」
その日の夕食は大満足。
なんと、ばあちゃんが作ってくれたのだ。もちろん、こき使われたけれど。
ばあちゃん手作りの浅漬けは最高にうまかった。味噌汁もイリのダシがよく効いておいしい。ばあちゃんは、おまけにバラ寿司まで作ってくれた。涙がでるほど、目と舌と胃が喜んでいる。同じ素材をカイはどのようにして食べているのだろう。
夕立はおさまったようだ。やがて床についたオレは、まだカーテンのない窓から月夜を見上げた。丸い銀月を一羽の鳥が横切っていく。トリ……そういえば、あの妙なカラス。いまごろどうしてるかな。
ガバッ。
オレは飛び起きた。今日の夕方、博物館を出たときに自分をじっと見ていたのは、まちがいない。あのときのカラスだ。
■ばあちゃんとすき焼きする
ばあちゃんと差し向かいの夕食にも慣れてきた。
今夜は、〈ムーサ〉のアルバイト料が出たので大奮発した。ばあちゃんの好きなすき焼きだ!
肉はバーゲンの安物だが、質より量だ。ばあちゃんに百グラム、オレには二百グラム。三百グラム入りのパックをカゴに放り込んだ。おまけに、ついつい大バーゲンの焼き鳥五本入りパックまで買ってしまった。
ばあちゃんは目を細めて、ふうふう言いながら肉をほおばっている。だが、焼き鳥盛り合わせをみるにつけ、オレは、以前に見たカラスがどうにも気になってしかたがない。
「ねえ、ばあちゃん」
「なんじゃ」
「人の言うことがわかるトリなんているかな?」
思案顔のオレなどお構いなし。ばあちゃんは目を輝かせて、めざとく肉を見つけていく。
「ちょいと固いが、肉には違いない。わはは、うまいのう。おっ、これはわしのじゃ」
頃合い良く煮えた肉に、ばあちゃんはサッと箸をたて、縄張りを宣言した。オレは首をひねるばかり。心ここにあらずだ。
「こりゃ、リト!」
「なに?」
「いったいどうした? 最後の肉もいらんのか?」
「えっ? あ、ああああ、あああっ!」
オレは、悲鳴のような声をあげた。三百グラムの配分などどこ吹く風。たっぷりあったはずなのに、最後の肉が、すでにばあちゃんの箸の上だ。オレが我に返ったのを確かめて、ばあちゃんは最後の肉をさもうまそうに口に運んだ。
「もおおおお。またかよ、ばあちゃんには孫に対する思いやりってのがないの?」
「なんじゃ、その思いやりってのは? 老い先短い老人に好物をあきらめろってことか?」
「ちがうよっ! オレ、肉をぜんぜん食べられなかったじゃないか。せめて一切れ……」
「おまえが勝手に物思いにふけっとたんだろうが。なになに? このまえのガアルフレンドに振られてしもうたか?」
そう言いながら、ばあちゃんは、焼き鳥盛り合わせに手を出した。これまでとられてならじと、オレは両手に焼き鳥の串をつまみあげた。残った三本は、ばあちゃんがさっさと口に運ぶ。また、負けた……。
「違うってば! カラスだよ!」
「カラス?」
リトは頷いた。
「人語がわかるカラスなんている?」
茶をすすっていたばあちゃんが、いきなりむせた。
ゴホゴホッ、コホ。
「ば、ばあちゃん、大丈夫?」
オレはあわててばあちゃんにかけより、背中をさすった。
「ごめん。……驚かせちゃった?」
「いや。それより、おまえ、なんで、そんなことを聞く?」
「見たんだ。いや、オレの錯覚かもしれないけど、アイツはおれの言ったことに、たしかに頷いた」
「アイツとは?」
「カラス。黒いカラスだよ!」
「黒いは余分じゃ。白けりゃ、カラスとはいわん」
オレは肩をすくめた。
「それで」と、ばあちゃんが続ける。
「いつ、どこでじゃ?」
「ここに来た日だよ。ほら、ガンキチ野郎に追いかけられてさ、向こうのあの大きな木によじ登ったとき。ガンキチがなかなか木から離れなくて、降りるに降りられなくてさ。そのまま木の上で居眠りしてしまったんだ」
ばあちゃんは、目で催促する。続けろ。
「寝てたら、そのカラスがオレをつついたんだ。とっさに足を掴んだけど、結局放してやった」
「それのどこが人語なんじゃ?」
「焼き鳥になったらかわいそうだと言ったら、ソイツが頷いたんだ」
「なんで、カラスが焼き鳥になる?」
「んんん! もう、細かいことなんてどうでもいいじゃない。とにかく、アイツは頷いたんだ。ヘンだろ?」
ズズズ。
ばあちゃんはお茶を飲み干した。
プハア。
一息入れたばあちゃんは、ガサガサと袋を取り出し、なかのかりんとうをつまみ始めた。
カリカリ、カリッ。
「ばあちゃん! 真面目に聞いてよ!」
「聞こえとるわい」
「ソイツをこの前も見かけたんだ。オレを見張ってたような気がする」
カリッ。
「リトよ。……おまえは、とことん修行が足らんのう」
「は?」
「おまえが犯した過ちは一つや二つではないぞ」
オレには意味がわからなかった。過ち……過ちって何?
「ひとつ、おまえは、だれも登れん木にスルスルと登った」
「あ……」
「ふたつ、そのカラスがおまえをつついたのは、おまえが気配を消しておったからじゃろう」
オレの顔がゆがんでいく。
「みっつ、カラスの足をつかんで説教するなんざ、ふつうはだれも考えつかん」
ばあちゃんは真顔になっている。
「よっつ、カラスが焼き鳥にされるのを怖がるとすれば、なにかそのカラスは特別の役割をもっとったのじゃろう? 伝書カラスだったか?」
「う……」
「どうせ、おまえのことだ。それに気づいて封印を破り、中身を見て、元通りになおしたつもりで、カラスに安心しろとでも言うたか?」
オレは青くなった。
「ば……ばあちゃん。なんで、わかるの?」
「孫じゃからの。おまえのやりそうなことはお見通しじゃ」
オレは肩を落とした。
「ごめんなさい。……オレ、掟をやぶったんだね。不用意にワザを使っちゃダメなのに……」
「わかればええ。済んだことはしかたあるまい」
「ほんとにごめんなさい」
オレの声は消え入りそうだ。
「で、おまえはその伝書をどう見た?」
「……小じいちゃんが言ってた天月カラスの伝書かなって」
ばあちゃんは小さくため息をついた。
「小次郎め。あやつはおまえに甘すぎるのう。で、小次郎からいつ聞いた?」
オレはあわてた、今になって思い出した。これは秘密だよ。小じいちゃんはそう念押ししていた。オレは上目遣いにばあちゃんを見た。
「そんな顔をしてもムダじゃ。ほれ、言わんかい。あやつはどこまでおまえに教えた?」
ぼそぼそとオレは話し始めた。
■伝書カラス
父さんの一周忌だった。墓の前で泣くオレの背を小じいちゃんはやさしく撫でてくれた。そのとき、一羽のカラスが墓の横に立つ木の枝に止まった。オレは、かつて山で出会った「あの子」を思い出した。
「ねえ、小じいちゃん。カラスって人に懐くの?」
「ふうむ。カラスは賢いでの。訓練すりゃ、人に慣れるだろうの」
「オレもできる? カラスを飼える?」
「リトよ。カラスは賢いが、あんまりきれいな鳥とは言えんぞ。雑食で獰猛なところもある。子ネコを狙うことも多い」
オレはゾッとした。末姉が子ネコを拾ってきたばかりだ。
「リトは何か動物を飼いたいのか?」
「そういうわけじゃないけど……そばに何かいたらいいかなって」
「イヌはいやなんじゃろ?」
オレはブルッと身を震わせた。幼いときの記憶がよみがえる。数頭の野犬に囲まれた記憶。小じいちゃんが血相を変えて飛んできた。イヌを蹴散らした後、泣きじゃくるオレを小じいちゃんはよしよしと抱きしめてくれた。
小じいちゃんは、枝のカラスを見上げた。小じいちゃんが右手を軽く挙げると、クルクルと旋回して、カラスは去っていった。
「あのカラスは伝書カラスじゃ」
「伝書カラス?」
「代々、我が雲龍忍術で仕込まれておる」
オレは目を見開いた。そんなカラスがいたのか。
「じゃが、伝書カラスの存在は秘密にされておる。じゃから、リトよ。誰にも言ってはならんぞ」
「うん。でも、どうして秘密なの?」
小じいちゃんは教えてくれた。
今のように通信技術が発達していなかったころ、もっとも早く確実な通信手段は鳥を使うことだった。だが、その鳥を捕らえれば、敵の枢密情報を簡単に得ることができる。めずらしい高価な鷹は狙われやすく、季節性の渡り鳥は使えない。いちばん身近で、いちばん紛れやすいカラスを雲龍は選んだ。何代もかけて、カラスを改良し、できるだけ早く、できるだけ正確に情報を伝える伝書カラスを開発したのだ。今もそれらのカラスたちを見捨てず、大切に遇している。
「雲龍の伝書カラスは、知る人ぞ知るたいへんな宝物じゃった」
「ふうん」
「じゃがな。上には上がおる」
「上?」
「うむ。天月じゃ」
「天月?」
「知っとるのか?」
「父さんから聞いたことがある。あの古文書とかをいっぱいもっている天月のこと?」
「そうじゃ。天月は学識でも有名な仙門じゃ。じゃが、それだけじゃない。我が雲龍と同じく、武術や情報戦でもよく知られる。自分たちが戦うことはないが、戦術や戦法を教える軍師を排出する仙門としても知られる」
「へええ、そうなの」
「天月もカラスを使う。じゃが、さらに伝説があっての。三足烏を使うことすらあるという」
「三足烏って、あの太陽の使神とかいうヤツ?」
「そうじゃ。天月伝説の一つじゃな。ただ、リトよ。天月伝説はみだりに口にしてはいかん」
「どうして?」
「伝説の真偽を確かめようがないからじゃ。じゃが、まことではないことも皆がそう信じればまことになる。それが天月伝説の怖さじゃ。情報戦の一つじゃな」
■ばあちゃん、呪文を唱える
「ふむ」
ばあちゃんは口をへの字に曲げた。
「まあ、雲龍カラスの話は、雲龍九孤族直系の者ならいつかは知るべきことじゃ」
「天月のことは?」
ばあちゃんは答えなかった。代わりにこう尋ねた。
「で、そのカラスはどんなものを運んでおった?」
「うん。見たことのない奇妙な絵文字でさ」
「ふーむ」
ばあちゃんは腕組みをした。
カリッ。
それでもかりんとうは口に運ぶ。
「でも、足は二本だったから、三足カラスじゃないよ。オレ、掴んだんだもん」
「アホ! ふだんは三本目の足をかくしておる。もし、三本目の足を使っておれば、おまえなどひとたまりもないわ。木から落とされて、今頃はおだぶつだろうよ」
「ええっ? まさか……」
「おまえごとき若造に足をつかまれても三本目の足を出さなかったとすれば、何かの呪文で殺傷力を封印されておるのかもしれん。天月に仕えているとすれば、十分にありうる。天月一門は殺生を嫌うでの。人語を解したとすれば、余計その可能性が高い」
カリッ。
ばあちゃんはかりんとうを食べ尽くしたのか、袋を裏返して見ている。なにも出てこない。やがて、あきらめたようにオレのほうを向いた。
「のんきにしておる場合ではないぞ。おまえは多くの手がかりをあのカラスと天月に与えてしもうたのじゃからな。気配の消し方や封印の破り方から雲龍九孤かもしれんと、天月がおまえを見張るのは当然じゃ。雲龍と天月は仇敵じゃからのう」
「そんな……」
オレはあわてた。
ばあちゃんは目をつぶった。そしてなにごとかを唱えはじめた。
ドサッ。
窓の外に何かが落ちた。
ばあちゃんの命令で見に行くと、草むらの上にカラスが落ちていた。失神している。
カラスが気づいたとき、ばあちゃんとオレはカラスを覗き込んだ。カラスは、あわてて逃げようともがいたが、羽が動かないようだった。
「大丈夫だよ。しばらくじっとしていて」と、オレが言った。
「おまえじゃな。人語を解するカラスとは」と、ばあちゃんが眼光鋭くカラスを見た。
カラスなりに精一杯の抵抗をしようとしていたが、ムダだった。羽も足も嘴もしびれている。
ばあちゃんが告げた。
「おまえの主人に伝えよ。わしは隠居の楽しみで孫のところに来ておるだけ。ほかに理由はない。この孫も出来は悪いが、勉学に精出しておる。わしらを見張っても、何も出てこんぞ。それとも、天月があわてふためくほどの凶事が起こるのか?」
カラスのまん丸な目は、ますます丸くなった。
「わしらにも災いが及ぶとあれば、手伝いもするがの。そうでなければ、時間を無駄にせず、調べ甲斐がある者を調べるがええ。そう、主人に伝えるんじゃぞ」
カラスは頷いた。ひどく情けない顔をしている。しばらくしてしびれがとれたカラスは、舞い上がって、しばらく上を旋回した。
ばあちゃんがぼそっとつぶやいた。
「三足烏を使うことができるとはのう……」
「そんなにすごいことなの?」と、リトはばあちゃんを見た。
「ふむ。わしも三足烏を見たのははじめてじゃが、伝え聞く限り、三足烏は古来より誉れ高き一族での。人間よりはるかに知恵があり、気性も荒く、数百年は生きる異能の者じゃ。だれにも仕えぬが、三足烏のことばを聞き取ることができる者にだけ服属するという。天月にそうした逸材があらわれたということじゃな」




