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Ⅴー 4 麗しの天月修士――リト日記(4)

■二人の少女

「カトマールの副大統領一行がアカデメイアにも来るんだってさ」

 オレは饅頭を口にほうばりながら、愚痴った。

「ご一行を迎えるために選ばれた学生にはアルバイト料が奮発されるってのにさあ。オレははずされちまった」

 風子がオレを見た。呆れたような顔をしている。

 ばあちゃんがオレの頭を小突いた。

「アホ! 出来の悪いおまえが選ばれるはずがなかろうが」

「イテテ……。ひどいなあ、ばあちゃん。それって孫虐待、児童虐待だよ!」

「「児童」ってのは十八歳までじゃ。おまえは二十歳だろう。いつまで子ども気分でおるんじゃ」

「そうなの?」

 オレは、ひそひそと風子にたずねた。風子は頷いた。

「授業でそう習った。国際的常識だって」


 この前、オレが日本から来た少女のチューターをしていると聞いたばあちゃんは、その子を招くよう命じた。けれど、なぜか、その子には子犬を抱くもう一人の少女がくっついていた。オレはビックリ仰天。おそろしく無愛想なコミュ力ゼロのコイツが、噂の天才科学者アイリだって?


 今日も、食卓の向こうで、アイリがモモと遊んでいる。寮の部屋に隠れ住むばかりではかわいそうだと、風子は、週末ごとにモモをここに連れてきて、思いっきり走らせるようになった。風子に対してすら愛想のないアイリだが、モモだけは別らしい。溺愛だ。モモを外に遊ばせにいくと聞いて、今日も当然のようについてきたに違いない。

 モモもアイリにはべったりとすり寄る。いまもアイリのひざの上で濡れた鼻をならしている。

 オレもモモには少し慣れてきた……そんなわきゃない。


 風子によると、モモは並外れて臆病らしい。モモを見て大声をあげるオレを怖がって近づこうとしないだけなんだとか。いやいや、あれは大声じゃなくて、悲鳴なの! 怖がっているのはオレの方だよ。

 ともかく、互いにぜったいに近寄ろうとしないから、オレはモモとはかろうじて同じ部屋にいることができる。もちろんかなりの距離をとってだけど。


 ばあちゃんは饅頭をつまみながら、画面奥の人物に目をこらした。

「こいつが、カトマールの影の立役者か。なるほど、いかにも切れ者よのう。鋭い目をしとる」

「どういう意味?」

 オレの問いに、風子が答えた。

「カトマールの第二副大統領シャオ・レン。国のナンバースリー。今度のルナ大祭典の担当者だよね? おばあちゃん」

 ばあちゃんはやさしげな目で風子に頷きながら、足でオレのスネを蹴り上げた。

 痛いよう!

「リト! おまえは、国際政治もろくに知らんのか? ほんまに、情けなくて涙がでるわい」


 モモがぴくっと耳をたてた。

「お、マリちゃんが来たようじゃ」

 オレは、さっと裏口から走り出た。ガンキチはダメだ。あいつはオレを追っかけてくる。

「ミヨさああん。お元気いい?」

 マリおばさんの甲高い声が響く。


 オレの目や耳はとびきりのすぐれものだ。窓から部屋の中の様子がよく見えるし、一つ咳払いして耳をすませば、会話も聞き分けられる。聞こえすぎてイヤな時はもう一回咳払いをすれば元通りだ。


 おばさんは、戸口を開け放って、丸い顔に満面の笑みを浮かべて、手には大きなカゴと紙袋。

「風子ちゃんとアイリちゃんも来てるって聞いて。今夜は焼肉よう。上等の肉を大奮発しちゃった!うふふ。あたしの誕生日なの。ケーキもあるわ。みんな一緒に祝ってくれる?」

 答えを聞くまでもなく、ドサリと荷物を床に下ろし、マリおばさんはかいがいしく準備をはじめた。風子も手伝う。

 アイリもやむなく立ち上がったが、家事などしたことがないらしく、ウロウロするばかり。邪魔だから向こうでテーブルでも拭いておけとマリおばさんに言われ、アイリは雑巾を手にテーブルを拭き上げた。古ぼけたテーブルが俄然かつての輝きを取り戻す。

 気をよくしたのか。アイリは、今度は部屋の隅から隅まで雑巾がけをはじめた。凝り性のアイリだ。やりだしたら何事にも手を抜かない。ばあちゃんが満足そうにアイリを眺めている。

 

 小屋では大宴会がはじまったようだ。

 小さなテーブルの中央に、デンと鉄板が置かれ、野菜と肉が頃合いに焼けている。肉汁のニオイが、小屋中に満ち、小窓から闇夜に漏れていく。風に乗って、奥の木までそれが届く。


 オレは歯ぎしりしながら、下を見た。ガンキチがシッポを振りながら、オレを見上げている。そのシッポにモモがじゃれついている。

「ちぇ……。ガンの野郎め。おまけにモモまで……。おかげで晩飯にありつけないじゃないか!」

 マリおばさんは、しゃべりっぱなしだ。ばあちゃんはフムフムと聞いている。風子が適当に相づちをうつ。アイリは……黙々と食べている。満足している証拠だな。アイツは、食べるときさえ集中する。

 グシャリ。

 突然、鈍い音がした。マリおばさんが尻を半分上げ、下からなにやらヒョロヒョロしたものをとりだす。

「アッ、メガネ」

 風子が叫んだ。アイリが、湯気に曇るメガネをはずしてテーブルの上に置いたが、そのメガネがマリおばさんの大きな尻に敷かれてしまったらしい。

「まあああ、ごめんね。明日、同じものを買って返すわねええ」


 夜も更けたが、食卓をはさみ、酒が入ったマリおばさんとばあちゃんはふたりでますます怪気炎。小屋は大賑わい。

 小屋から少し離れた木の上では、オレの腹がグウウと鳴り続けていた。ガンキチは木の下で粘っている。モモはその腹のそばで寝入ってしまった。

 降りるに降りられないじゃないか!


 オレは枝に寝転がり、空を見上げた。澄み渡った空気に、満天の星がきらめく。銀河も今夜はひときわ輝きが増している。すべてが恒星。自分で輝きを放つ星だ。

――あれが銀河宇宙の中央部なのか?


 〈ムーサ〉のアルバイト仲間カンクローの言葉を思い出した。

――太陽系は銀河の中央からずいぶん外れたところにあるんだよ。その一惑星にすぎない地球など、星々の世界にあっては塵のような存在に等しい。けれど、ここは生命が宿る奇跡の星。水と空気をもつ青い地球はかけがえのない星なんだ。

 うわあ! 見た目さわやか系のカンクローが言うと、むちゃくちゃロマンチックじゃないか!

 

 カンクローは、宇宙物理学を専門とする大学院生なんだって。実験じゃなくて、理論なんだそうだ。説明してくれたが、見たことがないような数式ばかりで、オレにはさっぱりわからない。ただ、わかったのは、宇宙の広大さだ。銀河系ですら、無数の宇宙の一つにすぎない。その端っこにある小さな恒星が太陽。これだけの大きさの宇宙で、地球に似た星が存在しないはずがない。


■闇夜のカラス

 ふと見ると、闇夜のカラス。

 一つ向こうの木の枝から、両の目がじっとこちらを伺っている。

「オイ。おまえ。このまえのカラスだろ?」

 返事はない。だが、オレの声に飛び立ちもしない。

「こっちを見てるのはわかってるんだぜ。オレは目がいいんだ」

 カラスが飛び立とうとしたその瞬間、オレは、目にもとまらぬ早さで懐から糸を投げかけた。

 クエッ、クエッ、エエエエエ。

 妙な声に、ガンキチが身を起こす。モモが震えてガンキチのシッポの影に隠れた。


 オレはカラスに言った。

「上に飛び立とうとしてもムダさ。こっちへこいよ。オレ、ヒマなんだ」

 沈黙。

 オレは手にした糸を強く引いた。

 キェ、キェエエエ。

 悲鳴ともつかぬ声が響いた。ガンキチが立ち上がり、声の方向に目をこらしている。

「落ちれば、あのドデカいイヌにやられるぜ。いいのか」

 バサ、バサ、バサッ。

 

 オレのそばに一羽のカラスが舞い降りた。

「さっさと来ればいいのに。だれもおまえを取って食ったりなんぞしないさ」

 カラスは足に巻き付いた糸をなんとかはずそうと嘴で必死に糸を切ろうとする。かえって逆効果。糸はカラスの嘴にまで巻き付いていく。

「おい、カラス。やめとけ。抵抗すればするほどがんじがらめになるぞ。オレが編み出した秘術だからな」

 カラスは動きを止めた。


「やっぱり、おまえはひとの言葉がわかるんだな?」

 ギクリ。

 カラスの羽が固まった。

「天月烏なんだろ? そんなありがたいカラスを傷つけるような罰当たりなマネはしないさ。さ、こっちに来い。糸をはずしてやるから」

 ツツツ。

 カラスがオレに近寄ってきた。オレはからまった糸を指先で解いてやった。


 木の下で音がした。アイリが、肉と野菜を炒めたものを椀に入れて、ガンキチとモモに届けにきたのだ。味付けをせずに犬用に取り分けておいたものだろう。まず、モモが飛び起き、アイリに飛びつく。ガンキチが目を開け、ちぎれんばかりにシッポを振っている。

 だが、ガンキチはモモを優先している。モモが食べ終わるのを待ってから、椀に鼻面を押し込んだ。モモが食べ散らかしたものをきれいに拾って食べている。

 いいところあるじゃないか。

 オレはガンキチを見直した。でも、恐怖心は消えない。


 アイリの背後から大きな声がした。

「ガンちゃああん、帰るわよ。リトも、じゃあねえ」

 マリおばさんに連れられて、ガンキチが去っていく。名残惜しいのか、何度もオレのいる木を振り返る。

(ちぇっ、以前は「リトクン」だったのに、いつのまに呼び捨てになったんだよ)


「おーい、アイリ。オレのメシは?」

 木の上からオレが投げかけた声に、アイリが上を向いた。

「知らん!」

「ええっ、まさか」

 オレが木から下りようとした瞬間、アイリの顔に月の光があたった。マリおばさんの尻に踏みしだかれてメガネのないアイリの瞳は闇夜と同じほど黒く、長い睫毛に彩られている。


 バサササ。

 一瞬硬直したオレの脇で、カラスが飛び立とうとして頭を梢に打ち、地面めがけて落ちていく。カラスは低い木の茂みに頭から突っ込んだ。なんてドジなヤツだ!


 スルスルスル。

 オレは木から降りた。モモが思わずアイリにしがみつく。アイリがオレを睨んだ。

「近寄るなよ。モモがいやがってるんだから」

「いやがっているのはこっちだろ。はやくソイツを向こうに連れてけ」

 くるりと背を向けたアイリに、オレは叫んだ。

「オイ! このカラスはどーすんだよ?」

 アイリは、茂みのなかから尾を出すカラスをチラリと見た。尾先がふるえている。

「知らん。あんたの勝手にしろ」

「イヌは大事にするが、カラスはほったらかしか。動物愛護が聞いて呆れるぜ」


 アイリが、またキッとオレを睨んだ。オレは思わずひるんだ。

 メガネのないアイリの顔を間近で見るのははじめてだ。妙な迫力がある。おまけに、とんでもない美貌だ。

「小汚い泥棒カラスなんて、どうでもいい」

 アイリは大事そうにモモを抱え、小屋に向かって去っていく。オレは、カラスの尾をつかんで茂みから引っ張り出した。

「聞いたか? おまえのことを小汚いだってさ。さぞショックだろうな」


 アイリの後ろ姿を見つめるカラスがちょっと気の毒になって、オレは言った。

「おまえ、メンクイだな。あいつに見とれてたのか? いや、オレですら、一瞬、不覚にも我を忘れたが……」

 カラスが羽をふるわせた。

「だけど、アイツ、ヘンなこと言ってたな。おまえのことを泥棒カラスだって……」

 カラスが、膨らませていた羽をすぼめた。

「おい、本当なのか? おまえ、泥棒なのか?」

 カラスはフルフルと首を振った。カラスが何か言っているような気がしたが、カラスの言葉はオレにはわからない。まあ、信じておいてやろう。このカラスはドジだが、ウソをつくようには見えない。

「おい、カラスよ。オレはおまえに妙に親しみを覚えるぜ。なにしろ、おまえもオレもすぐれた一族の出来損ないだもんな」

 オレのことばは慰めにもならなかったのか。カラスは精一杯羽を膨らませて、カッカッカッと三度短く鳴いて夜空に舞い上がった。


 小屋ではばあちゃんのいびきが響いている。冷気を身にまとって戻ってきたアイリに風子が聞いた。

「リトは?」

「さあ」

 そう言ったきり、アイリはモモを布団の上に置いて、風子の隣に潜り込み、すぐに寝入ってしまった。夜十二時になると、アイリは眠る。きっかり正確で、どんなときにもそのサイクルを崩さないそうだ。

 風子もうとうとしはじめたのだろう。


 オレは絶叫した。

「うげええええ。肉がない、メシがない、饅頭もないいいい!」


■美しき天月修士

――「あの子」だ!

 オレは固まってしまった。

 忘れようもない。あの日の「あの子」――雲龍の山で出会った子だ。うわあ、やっぱりすごくきれいだ。ますますかっこよくなってるし! 

 握りしめたオレの拳のなかに汗が染み出る。まさか、まさか、まさか……! 夢に見続けた「あの子」がすぐそばにいる!


 博物館のアルバイト募集に応じた仕事の初日。仲間の二人とともに、助教から仕事内容の説明を受けていた。後ろのドアから、何人かが部屋に入ってきた。ふと振り向いたオレは固まってしまった。

 中央にすらりとした背の高い美青年と黒い服を着た少年がいる。その美青年に釘付けとなったのだ。

説明する助教の声が耳をすり抜けていく。隣の仲間がオレをつついた。助教が眉をひそめて、オレを目で叱る。


 案内者に誘われて、美青年がこちらに近づいてきた。助教が彼を紹介した。

「こちらは天月修士のカイさん。特別研究員として一年間こちらに在籍します」

 冷たく美しい表情を崩さず、カイという名の青年は静かに頷いた。黒衣の少年がカムイと名乗り、こう語った。

「カイさまはお声を出せません。これゆえ、わたしが代わりにカイさまの言葉をお伝えします。はじめまして、どうぞよろしくお願いします、とおっしゃっています」


 オレたち三人のアルバイトは、ぴょこんと頭を下げた。助教が三人を見渡した。

「みなさんのうち、どなたかカイさんのお手伝いに……」

 最後まで聞かず、オレは握りしめた拳に力を込め、手を突き挙げた。

「はいっ、はいっ、はいっ。オレ、いやボクがやりますっ!」

 助教がニヤリと頷いた。隣の二人が半ば呆れた目でオレを見ていた。

「そ、よかった。では、明日からお願いね」

 カイたちは、案内役とともに去って行った。


 初アルバイトは簡単な資料整理だ。三人だけ残った部屋で、仲間二人がオレを突っついた。

「おい、リト。おまえ、わかってて志願したのか?」

「え? なに?」

 二人は顔を見合わせた。

「やっぱりな。……おまえさ、あの美男子に見とれて、説明を聞いてなかったろ?」

 オレはそっぽを向いて反論した。

「ち、ちがうよ。仕事は、ルナやウルの古文書の整理を補助するんだろ? 簡単じゃないか」


 大きい方が肩をすぼめた。

「ちっちっち。それだけじゃないって。ウルもルナも過去の研究資料全部を検証して、天月資料と付き合わせるんだぞ」

 小さい方が首を突き出した。

「おまけに、ルナ文書の解読もするって」

「え……?」

 オレは一瞬青くなった。

「それは……つまり……?」

 大きい方が、「そうさ。保管されている資料を出しておけば済むってもんじゃない」と言えば、小さい方が、「どんだけ作業があると思ってるんだよ」と哀れむ目でオレを見つつも、「だけど、ボク、手伝わないよ」と釘を刺すのも忘れない。

(たしかに、半端じゃないな……)


「なによりもだ。おまえはこのバイトがはじめてだろうから、天月修士の仕事速度を知らないかもしれんが」と、大きい方が言えば、小さい方が、「常人の三倍だ」と言葉を継ぐ。

 オレはぽかんとした。

「つまりだ。彼の仕事についていこうとすると、こっちは三倍の時間がかかる。寝る時間なんかなくなるぞ。あの天月修士がどれほどきれいでも、オレなら願い下げだね」

「ボクだってそうだ。私生活を犠牲にはできないもん。だけど、あの顔を間近で見てられるというのは、やっぱりうらやましいけど……」

「ばか言うな。仕事に追われて、顔に見とれている時間などぜったいにない!」

 大小の仲間が矢継ぎ早に繰り出す言葉を聞きながら、オレは明日までの段取りを考えて、にんまりした。オレの表情に驚いたんだろう。仲間二人が首をかしげながら、ささやきあっている。

「なあ、あいつ、ショックでおかしくなったのか?」

「そうかも……」


■ルンルン気分のアルバイト

 ここアカデメイアには多様な人が住む。男性の長髪も珍しくはない。だが、カイはやはり別格だ。

 漆黒の絹糸のような長い髪をゆるく垂らし、途中から軽く三つ編みにして束ねている。やや切れ長の黒目がちの瞳は長いまつげで覆われており、ゆるやかな孤を描く眉、スッと通った鼻筋、形の良い唇が、色白の瓜実顔にバランス良く収まっている。なのに、この麗しい顔は、ほとんど感情を示さない。

 博物館でも行き交う人だれもが、ついカイに見とれる。だが、ずっと見続けることはできない。人形のような美貌と無表情にむしろおののいてしまうからだ。


 カイがここに来てから半月。毎日、古文書を開いて、何かを調べている。三倍どころではない。五倍以上の速さだ。やはり、並みの天月修士でない。

 カイの作業を順調に進めさせるため、オレは午後の時間を有効に使い、時には夜まで準備作業をしてカイの仕事に備えた。苦になるどころか、ルンルン気分だ。アカデメイアで三年の専門課程に進んだら役立てようと思っていた知識が、いまここでこんな形で活用できるとは。しかもカイを支える形で。

 どの資料をどの程度準備すべきか。天月に保管されている資料の目録も、アカデメイア博物館に所蔵されている資料のリストもすべて頭に入っている。どの資料がどこまで解読済みかも承知している。図書・研究文献の場所も量もとっくに把握済み。

 もともとウル学を志してこのアカデメイアに来たんだから。父さんが遺した資料はすべて記憶している。カイの予定を把握しておけば、何を準備すべきか、オレにはすぐに予想できた。ほとんど無表情なカイだが、オレが揃えた準備資料に満足していることは伝わる。それだけでオレは舞い上がってしまう。


 たしかに、時間給で雇われているアルバイト学生としてはつらい。〈ムーサ〉のアルバイトはやめるわけにはいかない。生活費が足りなくなるもんな。授業は進級に必要な最低限に抑えた。

 体力と集中力には絶対的な自信がある。小じいちゃんに鍛えられた。効率的な睡眠の取り方も習得済みだ。亡き父と雲龍医療忍術のおかげで得た知識と体力と精神力がこんな形で発揮できるなんて。やっぱり、ルンルンだ。


 カイに声がなくとも、意思疎通にまったく不自由はない。カイは、オレの声を聴く。オレは、カイの口の動きでカイの意思を知ることができる。雲龍忍術では、声が聞こえなくてもくちびるの動きで相手の意思を読むことができるんだ。カムイの介助はもともとオレには不要だ。だけど、カムイの顔を立ててやや騒々しいのを我慢している。

 カイとの静かなコミュニケーションはじつに気持ちが良い。でも、カイはオレに親しみは示さない。


(覚えてないのかなあ……)

 すでに十年たっている。そうあきらめようとしても、ちょっと、いや、かなり寂しい。自分はこんなにも鮮明に覚えている。あのときの彼のしなやかな動き、やや冷たいが驚いたようなまなざし、優雅な指先、すべて覚えているのに……。

(まあ、しかたないか)


 あれはほんのひとときの出会いだった。名前すら聞けなかった。出会ったのは、結界が張られた雲龍の山。天月の者が入っていたことがわかったら、カイとオレの問題ではすまなくなる。だからか?とカイの様子をそっと伺ってみるが、やはりまったく反応はない。

 いつか、カイとあの日の出会いを語り合う日が来るだろうか……? でも、いまの状況では絶望的かも。

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