Ⅴー3 ばあちゃんと同居⁉――リト日記(3)
■新居は小屋⁉
ばあちゃんが来てから一週間たった。
風子たちに食事をおごって一カ月分は棒引きしてもらったが、残りは完納できなかった。結局、アパートを追い出された。アパートを出るとき、ばあちゃんの足取りが妙に軽かったのが不気味だ。
早朝、見上げた目の前には、壮大な門がそびえていた。オレの手にも背にも大きな荷物。ばあちゃんは身軽だ。
ひいひい言いながらも、オレは感動で目を輝かせた。
「さ、さすが、ばあちゃん。こんな高級ホテルに泊まらせてくれるなんて」
「アホぬかせ。こっちじゃ」
ばあちゃんは門を素通りし、塀に沿って歩いて行く。角を曲がり、巨大な塀がようやく途切れるころ、ぼうぼうと茂る草むらが見えた。ばあちゃんはかまわず中に入っていく。オレも足を踏み入れた。
「アホ! そこが畝になっとるのがわからんのか。ちゃんと畝間を歩かんかい!」
どうやら草むらは畑らしい。いったいどんな作物が植えられているのか、オレには判別不能だ。
広大な畑の奥に小屋があった。野良道具をしまう小屋なのだろう。これも荒れ果てて、半分くずれかけている。ばあちゃんがドアをあけた。
ギイイイ。
埃っぽいにおいだが、かび臭くはない。
「よっこらしょっと」
ばあちゃんは小さな包みを床に置いた。床といっても、土間に張り出した板敷きの狭い空間だ。
「どうじゃ、気に入ったか?」
「え、え、え、ええええ?」
ばあちゃんはさっそくあちこちを点検しはじめた。かつて誰かが住んでいたのだろう。小さくて古いが、風呂もトイレも台所も一通り揃っている。奥に小部屋が二間あった。
「ふうむ。もとの造りはよさそうじゃの」
「ば……ばあちゃん、まさか、ここに住むんじゃないよね?」
「ここじゃ。家賃はいらんぞ」
オレは頭をせわしく動かした。
――タダ!
タダなら、オレ一人くらいここで住んだって、なんとかなる。どうせ荷物はあまりない。まあ、いいか。
「ふたりにゃ、ちっと狭いが、まあ、部屋は好きなように造作してかまわんということやったけんのう。土間を床上げして部屋にすればええかの」
「ふ……ふたり? ふたりって、だれとだれ?」
「わしとおまえじゃ。ほかにだれがおる?」
「ばあちゃんとオレ? ば……ばあちゃん、日本に戻るんじゃないの?」
「予定変更じゃ」
「いや、変更しなくていいし。小じいちゃんも姉さんも心配するよ」
タッタラターン。
スマートフォンがなる。メールがはいったらしい。
――リトや。姉さんが世話になるけど、よろしく頼むよ。
ばあちゃんの弟である小じいちゃんからだ。おまけに、もうひとつメールが届いた。
――おばあちゃんに迷惑をかけないように。姉。
うわああああ!
「ふたりともゆっくりしてこいと言うとったぞ。そのうちこっちにも遊びに来るとさ。さてと、まずは、寝床の確保じゃな」
オレは必死で説得に回った。
「ミオ姉のマンションのほうがいいだろ? あっちは広くて、きれいだよ。カコちゃんだっているじゃないか」
「イヤじゃ。ミオのところへなんぞ行ったら最後。子守にこき使われるのは目に見えとる」
ばあちゃんの指摘に、思わずオレは頷いた。
「だけど……ミオ姉もカコもきっとばあちゃんを待ってるよ」
オレは必死で最後まで抵抗した。
「ひ孫は世話するもんじゃない。たまに会うからこそ、かわいがってやれるんじゃ」
「じゃ、じゃあ、サキ姉は?」
「アホぬかせ。アイツがだれかと一緒に暮らせるもんか!」
もう反論の余地はない。
「つべこべ言うな。さっさと働かんかい!」
オレはこき使われた。ばあちゃんは座って命令するだけ。
文句を言うと、「わしゃ、年寄りじゃ」とぼやき、「おまえは年寄りをこき使う気か」とすごむ。ばあちゃんには絶対勝てない。
■ミオとカコ
「クション!」
高級マンションが建ち並ぶ一角。その中ではあまり目立たないマンションの中層階の一室で、ミオは鼻をこすった。
「風邪ひいたかな?」
ミオのそばに、五歳の娘カコが駆け寄る。
「ママあ、大丈夫う?」
「大丈夫よ。さあ、保育園に行こうか?」
とたんに、カコは足をふんばってぐずりはじめた。
「イヤアアアア!」
「もう、どうしてそんなにワガママ言うの? ママにはお仕事があるの。ほら、おとなしく保育園に行こうね」
「ヤダアアアアアア!」と、反り返って、娘が大泣きする。
「ダメだったら、ダメ!」
ミオは、左手でバッグ、右手で大泣きしている娘をかかえあげながら、車に乗り込んだ。中古の軽自動車だが、なかなか設備は充実している。ハイブリッドの車が音もなく発進したあとも娘の泣き声は止まらない。たまらずミオは叫んだ。
「今夜はリトに来てもらうから、がまんしなさい!」
カコの泣き声がピタッと止まった。
「ホント? ホントにホント?」
「ああ、ムリにでも呼び出してやるから安心して、もう泣かないのよ」
「ウン!」
とたんに上機嫌になった娘に、ミオはため息をもらした。
(ご馳走で釣って、ばあちゃんつきでリトをよびだすしかないか。……うう、今月はキツイ。また貯金を下ろすしかないな)
離婚した時、娘の養育費は一括先払いで手に入れた。結構な額だが、娘が大学まで行く学費を考えるとあまり手をつけたくはない。
マンガ家としての収入は不安定だ。自分が着る服もバッグもすべてリユース品。次の作品が売れなかったら、なじみのスーパーでレジ係をするしかない。手際が良いので、店長にはいつでも大歓迎と言われている。だが、仕事は相当きつい。
レジ係をバカにしちゃいけないよ。立ちっぱなしで疲れる上、お金を扱うのでミスが許されず、ちょっとでももたつくと客に怒鳴られる(カスハラだ!)。気を遣う割には時給が低いので、長時間働いても大した額にはならない。レジのおばさん仲間とはとっても仲良しなんだけど、マンガを描く時間がなくなってしまう。
――だれだ? 手っ取り早く性風俗稼業じゃないの、なんて言っている奴は?
手っ取り早く稼げる仕事などどこにもない。騙されて、心身を損なうのがオチだ。酔客を上手にあしらうには相当の手練手管が必要だ。どの世界もプロになるのは簡単じゃない。それに、酒は嫌いだ。酒臭いおっさんの相手などまっぴらごめんだ。なにより、夜は娘のそばにいたい。
途中でカコを降ろして保育士にあずけ、ミオはWEB雑誌の担当者との待ち合わせ場所に急いだ。新しい連載をはじめるための打ち合わせだ。
「WEBマンガの王道を」とか何とか言われているが、いまや華麗な薔薇を背景に目をキラキラさせて夢を見させる少女漫画の時代は終わった。女が突き抜けて強いマンガを描きたいのに、「売れないからダメ!」と言われている。
……参ったなあ。
ちっともいい案が浮かばない。でも、食べるためには連載を始めるしかない。
ここ数日、マンガ作りに没頭して、カコをほったらかしにしたせいだろう。いつも以上にわがままを言う。ベビーシッターになつくと母親に見捨てられるとでも恐れているのか、カコはシッターに預けられるのを極端に嫌がる。
ただ、保育園には友だちがいるらしく、ふだんは喜んで通う。その保育園にすら行きたがらなくなると、もうお手上げだ。子育てをするシングルマザーはなかなかつらい。
■ルルが来た!
小屋の外で甲高い声が響いた。
「お手伝いにきましたあ!」
ルルだ。淡いピンク色のドレスをひらめかせ、リボンで留めた長い髪を風にゆらしながら、雑草生い茂る畑の向こうから駆けてきた。
昨日の夜、バイト先でうっかり明日が引っ越しだと言ってしまった。ルルは手伝いに行くと言ってきかず、一方的な約束どおり、現れた。それもいつにも増して派手な身なりで。
ばあちゃんは口をあんぐりあけたが、ルルを招き入れ、オレを使うときと同様にこき使い始めた。ルルの華麗な衣装などおかまいなしだ。
さすが、ばあちゃん!
最初は衣装を気にしてぎこちなかったルルだけど、やがて腕まくりをし、ひらひらするかざりものを縛り、身動きしやすいようにして、せっせと働き始めた。
へええ。
驚いた。家事など無縁だろうと思っていたけど、なんの、なんの。掃除でも洗濯でも料理でもできないものはないようだ。しかも、洗剤一つとっても、節約の仕方が半端じゃない。ばあちゃんが感心した。
昼が近づいたころ、声が響いた。
「ミヨさあーん! お元気い?」
「おう、マリちゃんか。よう来たの。さあ、入れ入れ」
――ミヨさん? マリちゃん? いったいダレ、それ?
オレが振り向くと、正面にガンキチの鼻面があった。横に大家のおばさんがいる。
「うわあああああ!」
悲鳴を上げて、オレは部屋の隅に逃れた。ガンキチが入り口を塞いでいるので出るに出られない。ガンキチがさらににじりよってくる。後ずさりするオレの横で、マリおばさんがルルに目を留めた。
「あらまあ、かわいい子!」
「リトのガアルフレンドじゃ」と、ばあちゃんがルルを紹介した。
「違うって!」というオレの叫びは、軽くかき消された。
「まあ。リトクンも隅におけないわねえ。こんなにかわいい彼女がいるなんて」などと、おばさんがニコニコ顔で言ったもんだから、ルルはすっかり気をよくしたようだ。
「おばさま。こちらへどうぞ」
熱いお茶をすすめるルルに、おばさんは目を細めた。
「まあまあ。若いのによく気がきくこと」
マリおばさんはあたりを見回した。
「すごいわあ。なんとか住めるようになったわねえ。たいへんだったでしょ? ほら、お昼ご飯よ。あたしの手作りなの!」
おばさんは、愛想いっぱいに包みを広げた。色とりどりのおかずが並ぶ。なんと、おにぎりまである。
「日本にいたころを思い出して作ってみたのお。ほら、あなたもどうぞ」
マリおばさんはルルにも食事をすすめた。
「ありがとうございます!」
目の前のごちそうに、ルルの目が輝いている。
「すまんのう。お、うまい、うまい。これは絶品じゃ」
ミヨさんとよばれたばあちゃんは、うれしそうにほうばっている。
――そうだったのか。
ばあちゃんの名前はミヨというのか。長年「ばあちゃん」と呼んできたせいで、孫ながら祖母の名前を知らなかった。
腹ぺこだ。オレはおにぎりにそっと手を伸ばした。ばあちゃんがピシャリとそれを封じる。
「まずは、マリちゃんの許可を得てからじゃ」
マリおばさんはジロリとオレを見て、しぶしぶ頷いた。
「一個だけ許す」
「ありがとうございますっ!」
オレはペコリと頭を下げ、おにぎりをわしづかみにして、口に放り込んだ。
「でも、たいへんじゃなあい? この菜園を管理しなくちゃならないんでしょ?」
「わはは、簡単なことじゃよ。わしは天下の農民じゃ」
「まあああ、頼もしいわああ!」
「それにしても、この菜園はよほどほったらかされていたようじゃの」
「そうなのよ! 十五年ほど前にホテルのシェフが亡くなったの。そのあとホテルは別の人が買い取ってね。畑はシェフの土地だったんだけど、畑を管理する人がだれもいなかったらしいわ。もともと、シェフの菜園で取れた野菜を出すのがレストランの看板メニューだったのよ。新鮮野菜がほしいっていうんで、このまえ、お隣が畑も買い取ったの。それで、畑を管理してくれる人を探してたのよ。ミヨさんはぴったりだったってワケ。ランチが終わったら、一緒にお隣に挨拶に行くわよ。いくつか、必需品を分けてもらわなくちゃね」
■久しぶりの木の上だ!
三人の女たちは楽しそうにワイワイ言いながら、ランチをしている。
オレが口にできたのはおにぎり一個だけ。それも口に含むや、ガンキチに追いかけられて、畑中を走り回ることになった。しかも、畝に足跡をつけると、ばあちゃんにこっぴどく叱られる。草ぼうぼうのなかで畝を見つけ、それを飛び越えながら走り回る。ガンキチは大喜び。
さんざん走り回ったあと、畑の端に立つ大きな木によじのぼって、ようやくガンキチから逃れることができた。ガンキチは口惜しそうに下でオレを見上げている。
やがてあきらめたのか、木の下で眠りはじめた。
――降りるに降りられないじゃないか!
木の上は久しぶりだ。アカデメイアに来てから登ったことがない。登ってもいい木がなかったからだ。だが、菜園のなかにあるこの木なら気兼ねなく登れそうだ。
木の上から見渡すアカデメイアの光景は格別美しい。隣のホテルらしき建物の庭も一望できる。
スルスル。
オレはもっと上まで登っていった。
紺碧の海に蓬莱群島の島々が浮かぶ。振り返ると深い森に覆われた天月の山脈。山の頂近くに少しだけ覗く尖塔は、天月仙門本山の五重の塔に違いない。山のふもと近く、緑に覆われた天月川がゆるやかに湾曲しながら、島の中央を流れる。ほとりにたつ鈍い銀色の大屋根は、天月別院。
父さんからたびたび聞かされた天月本山。
父さんは天月が所蔵する古文書と資料の素晴らしさばかり語っていたが、世間の評判はそれとは違う。天月はすぐれた武術と厳しい修行で知られていた。オレもそっちの方に興味がある。だから、天月に行ってみたいと思って努力してみた。だが、天月へのハードルは想像以上に高かった。
天月への世界的関心が高まるにつれ、入山希望者が増えた。これを規制するため、二十年程前に新しいルールができたらしい。天月山の途中までは行けるが、中腹以上の天月本山は、今では一見の訪問者を受け入れなくなった。別院で認められた者しか、本山への入山証が交付されない。道があまりに険しく、難所も多いため、一定の訓練を経た者でなければ、実際に本山にたどり着けないという。
本山とは違い、平地にある別院にはだれでも入れる。だから、オレも別院には一度行くには行った。紹介なしで本山の訪問を希望する者は、いくつかの試験と面接を受けねばならない。勉強とアルバイトに追われて、とても時間はとれなかった。というよりも、そんな面倒くさいことはオレには向いていない。
ただ、天月に銀麗月が誕生したとかで、門弟たちが儀式の準備にあけくれていたことはよく覚えている。
聞いた噂をまとめると、銀麗月とは、天月修士の特別位階だそうだ。数百年に一人ほどしか、その位階を持つ者はあらわれないらしい。
ところが、今年、慣例をやぶり異例の若さで銀麗月に叙階された者がいるとか。天月はじまって以来の秀才で、武芸も学問も群を抜いた存在らしい。だれもが見とれる美貌で、別院の門弟がみな儀式のさいにやっと噂の銀麗月の姿をみることができると騒いでいた。
銀麗月は本山の奥深くに住まい、儀礼などの特別な時以外は姿を現すことがないという。オレなんかには縁遠すぎて、もはや雲上人みたいなもんだ。
今のオレには本山はおろか、別院ですら遠い。だが、ばあちゃんも来たことだ。いつかかならずあの山にそびえる名だたる本山を訪ねてみせるぞ。ばあちゃんはきっと腰を抜かすに違いない。
オレは、いつか聞くはずの(聞けないかもしれない)ばあちゃんからのほめ言葉を思い浮かべて気分がよくなった。張り出した枝の上でついうとうとしはじめた。ガンキチに追い回されて小一時間走り回った疲れがでてきたのか。そよそよと吹き渡る風が髪をゆらし、頬をなで、至福の心地だった。
■カラスが頷いた?
ツンツン。
軽く額をつつかれ、オレはあわてて飛び起きた。はずみで落ちそうになる。なんとか枝にしがみつき、体勢を整え直した。あたりを見回す。だれもいない。いるはずないか。
もういちど目を閉じると、ふたたびツンツン。
オレはさっと手を動かした。落ちこぼれとはいえ、雲龍九孤族の直系だ。動きの素早さは誰にも負けない。
手の中には細い足。
「キエエエエエ!」
開けた目の前に、大きな黒い鳥が嘴をパクパクさせて羽をばたつかせていた。
「なんだ、カラスか。脅かすなよ」
一瞬、カラスは目を怒らせて嘴を閉じ、オレの額をつつこうとした。その嘴をオレはつかんだ。
「やめとけ。これ以上やったら、おまえの首をへし折らなくちゃならなくなる」
足と嘴を押さえられたカラスが必死でもがく。かなりの力だ。
オレの手に何かがあたった。カラスの足首になにかが巻き付けてある。小さな筒だ。カラスの足を自分の足に挟み直し、指を器用にあやつって封印を慎重にはずすと、カラスの形相が変わった。
押さえ込まれた嘴から、声にならない声が漏れる。
「ウグウウウ」
「へえええ、おまえは伝書ガラスだったのか?」
オレは、巻き付けられたものを広げ直した。小さな筒に入れられた小さな紙。上質の和紙に、水にもにじまない特殊な墨で書かれた小さな文字。だが、なにかの記号なのか、判読は不能だ。
「まさか、これって、小じいちゃんが言ってた天月の暗号か? 本物なのかなあ。はじめて見るからわかんないや」
小じいちゃんは、ばあちゃんの弟だ。
カラスが泣きそうな目をしている。羽が小刻みに震える。
「よしよし。ちゃんと元通りにしてやるよ。もし、これをなくしたら、おまえ、殺されちゃうんだろ?」
カラスが頷いた。
「カラスならまずくて焼き鳥にはされないだろうけど、まあ、おまえが殺されるのはかわいそうだ。それに心配しなくていいぞ。書いてある内容は、オレにはさっぱりわからないし、知りたくもない。だから、この秘密文書はだれにも見られなかったのと同じだ。オレもだれにも言わないから安心しろ」
オレは、紙を元通りに丸め、筒に入れ、封印をもとどおりに直し、カラスの背をなでてやった。
「さあ、行けよ。オレももう戻らなくちゃ」
カラスを解き放つと、カラスは上空で何度か弧を描いて、飛び立っていった。
木の下でばあちゃんの声がした。
「おーい、リト。ミオから連絡じゃ。晩ご飯に来いとさ。ご馳走を用意するとか言うとるぞ」
「うわお! ホント?」
ミオ姉の「ご馳走」は半端じゃない。ほんとうにご馳走だ。昼を食べ損ねたオレは舌なめずりをした。
「その前にお隣さんへの挨拶じゃ。はよ降りてこい」
お隣さんが木の上から見ていたホテルとは知らなかった。いまはホテルではなく、個人宅だという。いや、この大きさ、この贅沢さで個人宅っていったい誰だよ?
ばあちゃんは勝手知ったるごとくにスタスタと歩いて行く。菜園からホテルへは、通用口があるらしい。ホテルの裏口らしいところに行くと、いかにも人の良さそうな中年女性が顔を出した。
「まあまあ、わざわざお越しいただいて。こちらから持ってあがりましたのに」
「いやいや、立派な布団をもらうのにそんなお手間はかけさせられません。こっちも図体がでかいのがおりますけんの。ほれ、リト、挨拶せんかい」
オレはペコンと頭を下げた。
「こんにちは」
「あらまあ、素敵な青年だこと。さきほどお話になっていたお孫さんですね。どうぞ、こちらです」
褒めてくれたので、好感度百パーセント。オレにとって「とってもいい人」になった中年女性は、わんさと積み上がった布団を指さした。ばあちゃんが珍しく恐縮しているように見えるが、やっぱり表面だけか?
「すんませんのう。こんな立派なもんをタダ(・・)でいただいて」
「いえいえ、どうぞご遠慮なく。先日、ゲストルームの備品や消耗品をすべて新しいものに入れ替えましてね。いままでゲストルームに置いていたこれらのものを処分することにしたんですよ。十年たったものですが、お客さまは来られませんでしたので、だれもこれを使ってはおりません。手入れだけはしてまいりましたので、すぐにご利用になれるはずです」
(ひえええ。未使用品を十年で廃棄? だれも来ないゲストルームってなにそれ?)
オレがビックリにビックリを重ねていると、さらにいろいろ出てきた。すべてゲストルームにおいていた消耗品や備品だという。
タオルやら、シャンプーやら、ポットやら、カップやら。高級品に縁がないオレにでも、普通のものとは違うってことはわかる。ついでに、作ったばかりという菓子までもらった。
(金持ちっていうのは、ケタが違うんだあ……)
小屋は荷物でいっぱいになった。ばあちゃんはルルに菓子を全部与え、他にも好きなものを選ばせたが、ルルが選んだのはきれいなカップ一客だけだった。ルルはタオルでそれを大事そうにくるんで、カバンに入れた。
――いったい、だれにあげるんだろ?
そういえば、ルルは〈ムーサ〉のオーナーの姪だと聞いた。あのデブネコのキキ以外に、どっかに家族がいるのか?
まあ、いい。ルルはたしかに可愛いが、オレの心には「あの子」しかいない。もう十年も会っていない相手を想い続けてるなんて、われながらけなげだよ。
満足そうに布団を眺めて、ばあちゃんが言った。
「さてと行くか」
ルルがついてくる。
「あれ、なんでルルまで?」
「おまえのガアルフレンドじゃろが。よう働いてくれたお礼じゃ」
「うそおお、違うって!」
誰も聞いちゃいない。
ルルとばあちゃんはうれしそうにしゃべりながら、先を歩いて行く。
■カコとルル
ルルの前にカコがむんずと立ちはだかった。
「リトクンはカコのもん!」
くりくりした目を精一杯怒らせて、ちっちゃなカコはルルを睨んだ。
(ふん! ガキのくせにませたことを。叔父と姪は近親婚タブーだぞ)
そう思ったが、ここは下手に出ておこう。ルルは猫なで声を出した。
「そうよねえ。リトクンはかっこいいものね。カコちゃんの気持ちはよくわかるわ」
カコのかわいらしい口元が少し緩んだ。
「リトクンをカコからとらない?」
「取るもんですか。ねえ、相談だけど、ふたりで共有しない?」
「キョウユウ?」
「そう。ふたりで一緒にリトクンをもっておくの。ふたりだけのものよ」
「ふたりだけ……?」
「そう。わたしは家の外でリトクンがだれにもつかまらないように見張っておくわ。だから、カコちゃんは家のなかでリトクンを独り占めしたらいい。ねえ。悪くないでしょ?」
「うん!」
カコはこの提案にすっかり乗り気になった。ルルに対する態度も一変する。
「おねえちゃん、すごくきれい。カコもおねえちゃんみたいになれるかな?」
「カコちゃんならお姉ちゃんをはるかに超えちゃうわ。ほら、リボンを結んであげる。どう?」
(将を射んとすれば、馬を射よ、だな)
夜八時を回った。カコが眠い目をこすりながら、リトにすがりつき、そして、ルルに向き直った。
「じゃあねええ、おねえちゃん、またきてねえ!」
振り返ると、カコがちぎれるほど手を振っている。ルルも思い切り手を振った。先をいくリトを見ながら、ばあちゃんがボソッとルルに言った。
「あんたはカコに気に入られたようじゃな」
「ウフッ、そうかも」
「なかなかの演技じゃった」
「え?」
「このわしの目はごまかされんぞ」
ばあちゃんはカカカと笑った。ルルは一瞬、背筋がゾクッとしたが、続く言葉にすっかりそれを忘れた。
「じゃが、まあええ。わしはますますあんたが気に入ったぞ」
「ホントですかあ?」
「ときどき菜園に来るがええ。いろいろと教えてやるでな」
「ハイッ!」
四つ角で二人と別れたルルは、ひたすら〈ムーサ〉の小屋に向けて走った。
■人語を解するカラス⁉
深夜、寝付けない。寝返りを打つばかり。
隣の元ホテルからもらった廃棄予定の羽毛布団は、もともと超高級品だからなのだろう。ちっともへたれていないし、温かい。枕も上々。
だけど、ばあちゃんのいびきがうるさい。これを毎晩聞く羽目になるのか?
うわ、最悪!
まだカーテンのかかっていない窓から天空高く、銀の月が見下ろしている。その月を一羽の黒い影が横切ったような気がした。昼過ぎのカラスを思い出す。
オレはハタとふとんをはね飛ばした。
(まさか!)
あのカラスは頷いたじゃないか。殺されるかと聞いたとき、たしかに頷いた。
あはは……オレもおちたもんだ。とんだ錯覚だな。人語を解する鳥など、神話のなかの物語だ。
隣のばあちゃんを見た。ばあちゃんを怒らすとやっかいだ。明日からまじめにやらなくちゃ。そう心に決めたとたん、オレは眠りについた。




