Ⅴー2 歌姫ルル
■歌姫ルル
布巾をはずされ、声の方をみたキキの前に、とてつもない美少女がいた。
大きな漆黒の目、長いまつ毛、赤く塗られた小さな唇。結い上げた黒い髪には鼈甲のかんざし。華やかな錦糸模様の着物。化粧を施した小さな顔は、雛人形のよう。
前足を籠にかけたキキが思わず首を引き、尻尾を立てると、その美少女がケラケラと大口をあけて笑った。
「キキ、びっくりしたのか? おまえは驚くといつも尻尾が立つものな。オレだ、オロだよ。ここではルルという名だけどね」
「ホギャアアン」(えええっ!)
キキは伸び上がって、尻尾を逆立てたまま、ルルと名のる美少女を見つめた。
「どう? きれいだろ?」
(た……たしかにきれいだ)
「おまえもきれいにしてあげよう」
オロは、キキの首に真っ赤な絹のリボンを巻いた。
「ルル!」
ドアを開けて、女性オーナーが声をかけた。
「そろそろ出番よ」
「はああい。今行きます」
オロは高い女声を出して応じ、キキを抱き上げた。
「今日は特別出演させてやるよ。昨日言ったヤツのところに連れていくから、思いっきり引っ掻いてくれ。いいな!」
無人のステージが暗転した。
暗い舞台から透き通った歌声が響き始める。とたんに開場がしんと静まった。やがて、声が次第に大きくなり、スポットライトの中央に一人の少女が浮かび上がった。
ライトの明度が次第に上がり、舞台中央に立つルルの顔にスポットライトがあたる。歌声はなお続く。客席はしんと静まりかえったまま。最初の歌を終え、まばゆいライトが行き交う派手なステージの上にルルが立ち、お辞儀をすると、割れんばかりの拍手があふれた。
ルルの腕に抱かれたキキ。落ちるのがこわいキキは、ルルにしっかりしがみつく。ルルの上半身のほとんどは、キキの白い毛の背中で見えない。やんやの大喝采のなか、キキが床におかれると、ルルの華やかな衣装が正面にあらわれる。いままでとは違う趣向。
キキは逃げ出そうとするが、あわてすぎたせいか、ツルリとすべってしまった。仰向いたキキの目に、ルルの舞が映る。会場は静まりかえった。キキも四方に足を伸ばしたまま、あんぐりと口をあけて見入ってしまう。
女性オーナーが笑いながらキキをひっくり返す。キキは、ネコポーズを決め、長い尻尾を立て、ルルを見上げた。ルルの舞にあわせてキキの顔が上下し、そのたびに首の赤いリボンがヒラヒラゆれ、長い尻尾も上下する。
「なんてかわいいネコちゃん!」
「おデブがかわいい!」
女性客が大喜び。
風子はステージに見入った。アイリはステージにはまるで興味がないようだ。ひたすら、デザートのケーキを食べている。足元のモモがやおら立ち上がり、耳をピンと立てた。窓の外を気にしている。何かいるのか? 目をこらすと、黒い鳥がじっと舞台を見ていた。
舞台が暗転した。
やがて、どこからともなく声が響いてきた。客席がシンと静まる。声はしだいに強まっていく。そして、ルルが振り向き、羽扇を下げた。打ち掛けのような上衣を脱ぎ、桜色のドレス姿だ。派手な化粧なので、年はわからないが、舞台映えのする美貌。新しい歌が始まる。そして舞が始まった。
店の奥まった座席で、二人の青年が一言も聞き漏らさぬようにと耳をそばだてている。二人とも驚いたようにステージを凝視していた。五分以上に及ぶ歌が終わった。
リトが飲み物を運んでいると、先ほどの男性客が声をかけた。ラフなジャケットを着た方の美青年だ。
「彼女へのリクエストは可能かな?」
リトは困った。気まぐれでプライドの高いルルのことだ。いままで、イ・ジェシン以外のリクエストに応じたことはない。
「できないことはないんですが……。あいつ、いや、あの子は、自分が気に入っている歌以外は歌わない主義でして、ちょっと無理かもしれません」
連れのスーツ姿の美青年が、店で最高級のワインを頼んだ。この店で一本十万円もするワインを頼む客などふつういない。
「わかりました。聞いてきます」
リトは首をかしげながら、テーブルを後にした。あの白い服の人物の声は、どこかで聞いたことがあるような……。
「ルル。あちらのお客さんがキミにリクエストしたいって言ってるんだけど、どうする?」
ルルはリトを見た。
「行った方がいい?」と聞くと、リトは、「う……うん」とためらいながら答えた。あの二人連れはルルを冷やかしで呼んだとは思えない。
「じゃ、行く!」
リトのためになるならかまわない。
リトに案内されて、ルルはテーブルに向かった。イ・ジェシンが目でその姿を追ったが、連れの女性にせがまれて、新たなワインを注文しようと別のウエイターに声をかけた。
ルルは二人の青年の前に立ちはだかるようにして言い放った。
「あんた、あたしに何を歌わせたいわけ?」
「ちょ……ちょっとまて!」
リトは真っ赤になってルルを制止した。
「失礼いたしました。礼儀知らずで……」
そうだった。ルルはおよそ客商売向けじゃない。多少マシになってようやくこのレベルだ。リトはルルの頭を押さえて、お辞儀させようとした。ルルが身をよじる。
白いシャツの美青年は、笑いながらルルの問いに答えた。
「モーツァルト『魔笛』の「夜の女王のアリア」を聴きたいのだが、どうかな?」
「は?」
ルルがリトの顔を見た。またもや、リトがあわてた。ルルがリトの脇をつつきながら尋ねた。
「モーツァ……って、なにそれ?」
ルルのそばで、リトが青年に釈明した。
「あ……あの、ちょっとそれはムリかもです。ルルはオペラを知らないようなので……」
青年はじっとルルを見つめて言った。
「さきほど最初にきみが唱った歌のすぐあとに流れた曲ですよ。きっと気に入ったはずですが、どうですか?」
ルルに笑顔がもどり、青年を見た。
「ああ……あれ!」
オロオロするリトを尻目に、ルルはステージに戻った。
「みんな! きょうは新しい歌をうたうよ! いいね?」
「おーっ!!」
場が大きくざわめいた。
ルルは大きく息を吸い、アカペラでのっけから信じられないような高音域の声を出した。並み居る者がびっくりしてのけぞっている。
ルルの声は続く。息継ぎもなく、あでやかに。はなやかな音がステージのうえで飛び跳ねた。魔術のような音を次々と繰り出しながら、ルルは笑みを絶やさない。歌は唐突に終わり、ルルが頭を下げた。一瞬の沈黙。そして、割れるような拍手がわき起こった。
「おい、ルル。いまのはいったい何だ?」
「すごかったねええ」
「もう一曲やってくれねえか?」
ルルは青年を見た。青年は立ち上がって拍手をしている。
「じゃ。こんどはバラード風に」
魔笛がバラードになり、最後にはロックになった。ステージには客が入り乱れ、てんでに踊っている。ルルも乗りに乗って踊っている。
リトがあんぐり口をあけた。
「いや……なんで? モーツァルトがロックになるの?」
青年の口元はほほえんでいるが、目は笑っていない。驚愕と歓喜が入り交じった表情で、青年は立ち尽くしていた。その横で、スーツ姿の青年も目を見開いていた。
ステージの真ん前に陣取るイ・ジェシンは、もはや驚きすぎて、手にしたワインがこぼれるのにも気づかなかった。リトは大慌てでテーブルに駆け付けて、隣の部下青年に新しいお手拭きを何本も渡した。
彼は、上司イ・ジェシンの高級スーツにワインの染みが残らないよう、必死でワインを拭いとろうとしている。隣の女性もお手拭きを持ってジェシンの身体に触ろうとしたが、部下青年はいっさい彼女に手出しをさせない。テーブルと床を拭きながら、リトは思った。
――ふうん。彼はイ・ジェシン命なのか?
ルルが舞台を終えてしばらくしてからテーブルを見ると、すでに二人の青年の姿はなかった。テーブルにはルルに向けて高額なチップが置かれていた。リトがはじめて見た高級ワインはグラス一杯を飲んだだけらしく、残りは店の人で飲んでほしいというメモが残されていた。
そのとき、リトは唐突に思い出した。
――あの人は!
■キキとモモ
家で見るオロとは大違い。上品でありながら妖艶。舞い終えたルルは、艶然とほほえんだ。歓声がとぶ。
ルルは、キキを抱き、客席の間を歩き始めた。あちこちで客に愛想をしながら、チップをもらう。常連客だろう。
「わはは、ルル。そのデブネコはなんだ?」
「うちのキキ。どう、かわいいでしょ?」
「よぼよぼだけど、なんだか愛嬌があるぜ」
「そうだよ。これからいつもつれてきな」
「おう、そうしな。お前が踊る姿をそばでけなげに見上げる白いデブネコ。なかなかサマになってたぜい」
「うふふ、おじさまたち。ありがとう」
ルルはキキを抱いたまま、一番奥まったところにあるテーブルにたどりつく。そばに一人の若者が立っていた。ウエイターの服を着ているところを見ると、彼がオロの想い人なのだろう。
「今日の歌と踊りはとくにすばらしかったね!」
若者はルルに笑顔を向けた。なるほど、オロが気に入るのも無理はない。さわやかな好青年だ。
もっと青年を見ようとして、キキが身体を動かしたとたん、長い尻尾の先が何かに浸かった。
(ありゃ?)
首が回らないので、尻尾を動かしてみる。ガチャン。何かが倒れた。
「わっ! 大丈夫? 服が濡れちゃったね」
青年が誰かに語りかけ、腰をかがめた。何かを拭いているようだ。
「あーら、ごめんなさい。うちのキキが粗相をしちゃって。ジュースがこぼれちゃったわね」
濡れた尻尾が気持ち悪い。
ブンブン。
キキは思い切り尻尾を振った。尻尾の先がなにかにあたった。
ベチョッ!
「わっ!」
青年がとびあがる。
「こら、キキ。尻尾を振るな!」
男声になったルルを青年が驚いて見あげた。一瞬の沈黙。ルルはあわてて取り繕う。
「いえ……あの、ごめんなさい。リトの顔にキキの尻尾があたっちゃったわね。これ、キキ、おとなしくして」
女声に戻る。
「いいよ。気にしてないから」
リトが手をふる。
「わたしも大丈夫だよ」
キキが仰天した。聞いたことのある声だ。
あわてて振り向こうとしたキキがルルの手から滑り落ちる。あわわ、わわ。あわてふためいたキキの前足が少女の腕を引っ掻いた。
「いたあい!」
「フギャン!」
少女が叫ぶのとキキが床にドテンと落ちるのとが同時だった。青年があわてて少女をのぞき込む。キキも少女を見上げた。
「うわっ、風子。大丈夫か?」
(ええええっ!? 風子?)
赤いトレーナーを着たやせっぽちの少女は間違いない。風子だ。
「あらあ、ごめんなさい。大丈夫ですかあ?」
ルルの声がやけに明るくなった。
尻餅をつき仰向けになったキキは、なんとか風子のそばに行きたくて、身体を返そうとしたが、足がじたばたするだけ。おまけに、そばにいた子イヌが風子をキキから守るように、キキの前に立ちはだかった。及び腰で、迫力ゼロだったが。
(風子、わしはここだよ。風子、わからないかい? 大ばあちゃんだよ)
キキがネコ語で必死に話しかける。
「ニャアア、ニャ、フギャ、ニャワワン」
「ルル。頼むからこのデブネコをどっかに連れていってくれないか。風子が嫌がってる」
「べつに嫌がってなんかないよ」
風子がキッとリトをにらみ、ネコに手をさしのばした。それを巧みに払いのけ、ルルが言った。
「ごめんなさいねえ。キキを連れてくわ。じゃあね」
ルルはキキを抱き上げ、クックと笑いながら楽屋に引き揚げた。
この間、アイリはひたすら最後に注文した果物を食べ続け、目も上げなかった。
「キキ、よくやった! ご褒美をあげるよ」
ルルはご満悦。
(風子ォ。風子やァ!)
キキはルルの手を逃れようともがいたが、ルルの力は強い。ふたたび籠に入れられ、鰯の干物を放り込まれた。風子よりも、鰯が気になる自分が情けない。
鰯をほおばっているうちに、布巾でふたをされてしまった。しまった、もう出られない。巻いた尻尾の先から、風子が好きだったオレンジジュースの甘い香り。
風子は、引っ掻かれた傷を見ながら、思い出していた。あのとき、大ばあちゃんの声が聞こえたような気がする。
(大ばあちゃん。いったいどこにいるの?)
■ルルってすごいんだ……
閉店後のステージを掃除するリトにルルが近寄った。ルルはいつになく高額なチップに大喜びだ。
「今日のはとくにすごかったね。思わず聞き惚れたよ」
「ホント? ねえねえ、ホントにホント?」
「ああ。ルルがオペラを知ってたなんて意外だったし」
「オペラ?」
「うん。「魔笛」の「夜の女王のアリア」を歌ってたじゃん」
「へええ。あれってオペラなんだ」
「え?」
リトの手が止まった。
「ねえ。今日来てたあのハンサムなおじさんたち、いったいだれ?」
「一人は知らないけど、もう一人は、聞いて驚くなよ。きっと、レオだ」
リトの聴力は並外れている。声で相手を聞き分けることができる。
「ええええっつ? レオって、まさか、あの〈五月の歌〉のレオ?」
「そうだよ」
「そうか……だからなのか」
「なにが?」
「あたしが歌った最初の歌」
「うん。とてもすてきな曲だったよね」
「あれ……レオの新しい〈五月の歌〉」
「えっ? オレ、レオの曲は全部集めているけど、あの曲は聞いたことない……」
「うん。今月末にリリースされてオンライン配信もされるけど、昨日特別にラジオで一回だけ、彼が弾き語りしたの。大切な人の思い出の日だって」
「は?」
「だから、あのひと、魔笛のリクエストをしたんだ」
「意味わかんないんだけど……」
「その曲のあとに、今日歌った歌が流れたから。その大切な人の大好きな曲だったんだって。あたしがラジオを聞いてたことがわかったからかあ。……ふううん。あたしを試したってことだね」
リトは面食らったまま、立ち尽くした。
ルルが言っていることはほとんどが意味不明だが、一つだけわかったことがある。レオの新曲を一度聴いただけで、ルルはそれを全部覚えたということだ。そして、『魔笛』のアリアまで。……しかも、リトが大苦手のドイツ語で歌っていた。
――そ……そんな。
リトはクラクラして、その場に倒れそうになった。キキがリトを見上げ、ルルがすっとリトの腰を支える。ルルの顔がにまーっと輝いたことをリトは知らない。
■櫻館ふたたび
レオンは、彪吾を自宅まで送り届けた。
ツネさん夫婦が出迎えてくれた。すぐに辞そうとしたが、ワイン一杯で酔ってしまった彪吾が、「はいっていけ」と、レオンを離さない。
ツネさんが申し訳なさそうに、もう少しだけそばにいてやってもらえないかと頼んできた。これほど酒に弱いとは知らず、ワインを勧めた自分にも責任がある。レオンは申し出を断れなかった。
桜の時期は過ぎ、モミジの若葉がライトアップされている。足元にはあざやかなツツジが咲き誇る。彪吾はソファにゆったりと腰掛け、ツネさんが用意した特製飲み物を口にしている。酔いざましらしい。彼女は、テーブルにソフトドリンクと果物の盛り合わせを置いてレオンに勧め、かいがいしく彪吾の世話をしている。
一段落するのを待って、レオンは声をかけた。
「いい庭ですね」
「ありがとうございます。夫が毎日、世話をしております」
「この建物は、もとホテルだったと伺っています」
「はい。たまたまこちらのホテルを使ったときに、若さまがたいそうお気に召され、それ以来、ずっと常宿になさってきました。ただ、船の事故で先代ご夫妻がお亡くなりになり、若さまも行方不明になってしまわれて、わたくしどもはこちらのホテルに雇っていただき、若さまをお待ちしたのです」
「ご苦労なさったのですね」
「いえいえ、若さまのご苦労に比べたら、私どもの苦労などものの数にも入りません。若さまが戻ってこられたとき、服装も容貌もまるで変わっていました。お身体には大きな傷まで。……どのようなご苦労があったのかは存じません。若さまも覚えておられません。私どももうかがったことはありません。若さまが戻ってこられたことだけがただただうれしく、信じてお待ちした甲斐があったというもの」
レオンはやさしげな目で頷いた。ツネさんはさらに話を続けた。
「その後、しばらく若さまはここで療養なさっていたのですが、やがて、ご相続なさったすべての資産を売却し、このホテルをお買いになったのです。若さまは、このホテルに特別な思い入れがあるようでございます。それから後の若さまのご活躍はだれもがご存知の通り」
「そうですね」
「ですが、若さまがこのお館にご自身でお客さまを招くことはございませんでした。もちろん、ここをご存知の方が若さまをお訪ねになることは何度かございましたが……そのようなお客さまがお越しになると、若さまは決してお会いになろうとせず、決まってたいそう不機嫌になりましたので、あるときからわたくしどもの一存ですべてのご訪問をお断りしてまいりました」
「そうだったのですか……」
ラウ伯爵が彪吾に会えなかったのはそういう事情だったのか……。
「ですので、先日あなたさまがお越しになったときは、たいそう驚きました。この櫻館に若さまがお招きになったお客さまは、あなたさまただお一人なのです」
レオンの瞳が見開かれた。それはまったく予想外だった。
「若さまがお酒を召しあがったのは二回目です。初めてのお酒は、ここに戻られて、ご両親のご位牌を目になさったときでございました。そのときもこのようにわずかなお酒ですぐに酔ってしまわれたのです」
レオンは、酔って目を閉じている彪吾を見た。
「ですから、あなたさまは若さまにとって何か特別なご縁がある方とお見受けいたします。若さまは孤独なお方。どうか、若さまをお頼みいたします。ずいぶん夜も更けました。もしよろしければお泊まりください。二階のゲストルームをご用意しております」
ツネさんは、なにかあれば声がけしてくださいと付け加えて、奥の部屋に引っ込んだ。
彪吾はだいぶ正気を取り戻したようだ。二階にレオンを案内する。
二階のロビーにはすばらしいグランドピアノが置かれていた。彪吾はピアノの前に座り、一つの曲を弾き始める。いちばん最初の〈五月の歌〉だ。彪吾が歌い始めると、レオンも思わず唱和した。
この曲はレオンにとっても忘れられない曲だった。十八年間の記憶を失い、始めて刻まれた記憶が〈五月の歌〉だったからだ。
いま奏でられた最初の〈五月の歌〉にうっすらと涙したレオンは、彪吾が勧めるまま、ゲストルームに泊まり、部屋から庭を眺めた。いつかはわからない。このようにこの庭を眺めたことがあったような気がする。失われた記憶の中で、ここがまだホテルだったときに泊まったことがあるのだろうか。
翌朝、彪吾が目覚めると、すでにレオンの姿はなかった。ツネさんが用意した朝食を済ませ、レオンは庭を一巡りしてから、自宅に戻ったという。
彪吾は二階に上がり、ピアノを撫で、レオンが泊まった部屋のドアを開けた。彪吾宛てに感謝のメッセージが残されていた。それを大切に手に取り、彪吾は再びピアノの前に座った。新しい曲が流れるように紡ぎ出される。
ツネさん夫婦はにっこりと頷きあった。
最近の若さまは、うれしいときに曲を作る。昨日のお客さまは、若さまにとってとても大切な人なのだろう。いつでもあの方をお迎えできるように二階のゲストルームを日々手入れしておこう。あの方が初めてお越しになったあと、もしやと思って、新しい夜具に取り替えておいてよかった。ひょっとしたら、数日間滞在なさることもあるかもしれない。ならば、普段用のお召し物も取りそろえ、簡単な仕事ができるようデスクを新調して、パソコンも設置せねば。
いっそのこと、この館に移り住んでくださったらどんなに良いか。これまでひとを寄せ付けなかった若さまの笑顔がずっと見られる。あのお客さまがそう思ってくださるよう万全を尽くそう。なにしろ、若さまがだれかと一緒に歌を歌うなど、これまでまったく考えられなかったのだから。月光の中で寄り添うお二人は本当にお美しかった。
夫婦は新たな仕事にウキウキしながら、階上の若さまを見上げた。




