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Ⅴー1 音楽茶房〈ムーサ〉

■「五月の歌」その十五

 輝くせせらぎの中で 小さな(さかな)が 身をはねた

 わたしは 思わず 目をあげた

 生まれてまもない子鹿が せせらぎの向こうから わたしを見つめる

 五月の風が かすかな声を 伝え来る

 友よ 友よ きみなのか


 甘くなめらかな森の風が (ほほ)をなでて 通り過ぎた

 わたしは 思わず 耳を澄ませた

 高い天からおりた光が せせらぎを銀に染め わたしを包む

 スミレを()むと 子鹿が声を 運び来る

 友よ 友よ きみなのか


 森を照らす夕陽が せせらぎに (あか)い光を落とした

 わたしは 思わず 光を(すく)った

 摘み続けた野の草を 小さな花束にして わたしは浮かべる

 森の奥から かすかな声は 途絶えない

 友よ 友よ きみなのか


 夜は こころを 暴れさす

 月は こころを 狂わせる

 目を()らし 耳を澄ませ 声をかぎりに呼び続ける

 友よ 友よ わたしのこころは 眠れない


 月に静まる木の下で せせらぎは 尽きせず流れゆく

 わたしは 思わず (やみ)(たず)ねた

 流れに託した花束に 幾年(いくとせ)の思いを乗せて わたしは願う

 月を見上げる わたしの声が こだまする

 友よ 友よ きみなのか

 友よ 友よ きみなのか

 友よ 友よ こたえておくれ


■淡い期待

 新設の音楽学部。研究棟は(みやび)やかで、広々している。

「失礼いたします」

 レオンの低めの声が響く。

 礼儀正しく、レオンが研究室に入ってきた。いつも通り、乱れのないスーツ姿だ。会うたびにスーツもシャツもネクタイも違う。自分で選んでいるのだろうか。品が良く、相当にセンスが良い。

 いつものように、彪吾はレオンに見とれた。すべてが彪吾の好みだ。

「待っていたよ」

 彪吾は上機嫌でレオンを迎えた。若い男性秘書が紅茶を入れて運んでくる。秘書はチラリとレオンに目をやり、ポッと頬を染めたが、それを隠すように頭を下げ、静かに出ていった。


「来年のルナ大祭典のミュージカル企画の原案なんだ。ラウ伯爵に見せる前に、ぜひキミの意見を聞いておきたいと思ってね」

 彪吾が差し出した書類を手にすると、レオンはさあっと目を通していく。ポイントとなる箇所を一通り確認したあと、目をあげて、「すばらしいと思います」と、彪吾を見た。

「キミにそう言ってもらえると、とてもうれしい。キミはムダなことを言わないもの」

 レオンは書類をテーブルの上に置き、紅茶を口にした。


「〈五月の歌〉も使われるのですね」

 レオンが尋ねると、彪吾はにっこり笑った。

「あれらの曲は、ミュージカルをまったく想定していないからね。うまくいくかどうかは、正直ボクにもわからない。だけど、ある日、なんとなくいいかもって思ったんだ」

 レオンはゆっくりと頷いた。

「〈五月の歌〉を心待ちにしているファンは多いですし、過去の〈五月の歌〉が新しい生命を吹き込まれるのを待っているファンも多いでしょう」


 カップを持った手を止め、彪吾の目が期待に輝いた。

「……キミは、〈五月の歌〉を聴いたことがあるの?」

 しかし、レオンの答えは、いつものように期待外(きたいはず)れだった。

「教授をお迎えするにあたって、教授のすべての曲を聴かせていただきました」

 彪吾がそっと目を伏せた。長いまつげが少し震えている。

「そっか。……キミにとっては、曲を聴くのも「仕事」なんだ……」


 彪吾は立ち上がって、ピアノの前に座った。そして、曲を(かな)で始めた。

 美しく、やさしい曲調が一転して激しくなり、最後は昇華するように晴れやかに閉じられる。

「最新の〈五月の歌〉ですね」

 彪吾がパッと顔をかがやかせて振り向いた。

「聴いてくれたの?」

「はい。〈五月の歌〉は、リリースされる前に、毎年、決まった日にラジオで初めて公表されます。昨日がその日でしたので、お聴きしました」

「どうしてその日か、わかる?」と、彪吾が探るように尋ねた。だが、レオンの答えはいつも通りそっけない。

「いえ、存じ上げません」


 彪吾はやや首をかしげながら、ピアノを指さし、こう言った。

「キミも弾いてみる?」

 彪吾の提案に、レオンは驚いた。

「まさか……わたしはピアノを弾いたことなどありません」

 彪吾はまたレオンをじっと見た。

「そう……」


 彪吾は鍵盤(けんばん)を閉じ、ソファに戻った。

「以前にも言っただろう? ボクは五月に友達を得て、その友達を失った。……もうずっと昔の話。二十年以上も前のことだ」

 レオンは余計な言葉を挟まず、じっと彪吾を見つめている。


「ボクは幼いときからずっと周りから期待されてきた。そのコンクールでも優勝は確実と言われていた。ところが、ダークホースのように現れたその子が話題をかっさらった。初出場で、実は天月の子だった。むろん、天月は音律もすぐれているから、音楽教師もいたのだろう。だが、ピアノコンクールに出たのはその子が初めてだった。ボクと同い年。とてもきれいな子だった」

 彪吾は目を閉じる。遠い思い出を呼び戻しているのだろう。

「正直言って、ボクはその子には勝てないと思ったんだ。ボクは技術で弾きこなしていたけれど、その子は魂全体で弾いている感じだった。名前はキミと同じ「レオン」といった」


 レオンが驚愕(きょうがく)に目を見開くのを確認して、彪吾は続けた。

「その子は事故で亡くなったと聞いた。だからね。〈五月の歌〉は彼への鎮魂歌(ちんこんか)なんだ。ボクだけはぜったいにキミを忘れないというメッセージ」

 レオンは静かに目を伏せて、そっと頷いた。

「その子はボクが進むべき道を教えてくれた。ボクがしたかったのは、ピアノ演奏じゃなかった。音楽を(つく)ることだった。〈五月の歌〉で、毎年、ボクは彼に問いかける。この曲は気に入った? でも、いい答えはもらえない。十八歳のときから毎年創りつづけてもう十四年にもなるのにね」


「十八歳と言えば、船の事故から二年後ですね」

「うん。事故から一年間の記憶はまったくない。ただ、その経験をきっかけに、ボクは作曲活動に軸足を移した。作曲は「自分探し」でもあったような気がする」

 レオンは静かに頷いた。

「今年の〈五月の歌〉が明るいものになった理由は、自分でもよくわからないんだ。だけど、彼ははじめて喜んでくれたように思う。過去ではなく、未来を向けと、そう後押しされたような気がする」


 レオンの携帯が鳴った。それを止め、レオンは彪吾にこう言った。

「思わず長居してしまいました。これで失礼いたします」

「あ……待って!」

 彪吾はやや逡巡(しゅんじゅん)しながら。こう切り出した。

「今夜、少し時間があるかな? ……〈ムーサ〉というカフェに気になる歌い手がいるんだ」

 レオンは事務的な表情を変えないまま答えた。

「承知しました。ルナ大祭典のミュージカルの候補者になるかどうか見極(みきわ)めたいとお考えなのですね。六時にこの建物の玄関にお迎えに上がります」


 レオンが去った部屋で、彪吾は最新の〈五月の歌〉を弾いた。これまで、かすかな期待はいつも叶わなかった。

――今度はどうだろうか。


■デブネコキキ――風子を探して

 大橋を渡り、大通りを抜けて、アカデメイアに向かう。

 老猫キキにとって、それは命がけの大冒険だ。何度か試みたが、いつも橋の前で倒れてしまい、志を果たせない。よたよたの足では、河川沿いの広い産業道路を渡りきれないのだ。

 老人が杖をついて歩いているときには車も待ってくれるが、老猫を気にする車はほとんどいない。あやうく車に轢かれそうになったことも一度や二度ではない。そのたび、クロに救われた。気を失って重くなったキキの首をくわえ、ダウンタウンまでつれ戻してくれるのだ。


 あるとき、たまりかねたクロが言った。

「キキばあさん。いいかげんにしてくれ。もう一月(ひとつき)になるぞ。これ以上はオレも面倒見切れないよ」

 しゅんとするキキに、クロはやさしい声をかけた。

「オレが必ず、その風子って子の居場所をつきとめてやるからよォ。もうちっとだけ我慢してくれねえかなァ」

 キキは肯くしかなかった。


 若いクロやその手下ならば、アカデメイアまで行くのはさほど難しくはあるまい。だが、アカデメイアの一画は広大で、寮も多く、風子が住む寮がどこにあるかは、簡単に見極められまい。クロは風子の顔を知らない。人語がわかるわけでもない。

 しかし、なにより、クロ一家の者が金獅子の縄張りに入りこむことは、金獅子がメンツにかけて許すはずがない。その目を欺きながら風子の居場所を確かめるのはたいへんな仕事になる。もし、数日も逗留(とうりゅう)するとなれば、金獅子との縄張(なわば)り争い、果ては全面戦争に発展する恐れがある。

 全面戦争になれば、舎村ネコというプロの戦闘集団と贅沢な食べ物をエサに傭兵(ようへい)ネコを確保できる金獅子一家が圧倒的に有利だ。だからこそ、クロも慎重に時機をうかがっているのだろう。


 キキはとぼとぼとマロの家に戻った。灯りのついた台所の窓の外でニャァとひと啼き。スラが窓を開ける。キキは大好きなスラの手をなめ、窓際の定位置たる(かご)に潜り込んだ。スラが夕食の残りを運んでくれる。キキの頭を軽くなで、スラは言った。

「もう年なんだから心配させないでよね」

 フニャアアと甘えた声で啼で鳴く。

 今夜は小鰺(こあじ)の唐揚げ。近海で水揚げされた旬の味だ。

――うまい! 

 キキが魚をたいらげるのを見届け、スラは台所の電気を消し、自室へと去っていった。時計はもう十時をまわっている。スラは今日もキキの帰りを待ってくれていたのだ。


 ウトウトしていると、ふたたび灯りがついた。見ると、オロが冷蔵庫の扉を開けている。なにか食べ物を探しているのだろう。

(もう夜中だよ。このところ週末はいつもこうだ)

 キキは眠いながら、片目を開けた。

 今日のオロからも少し酒のにおい。

(未成年のくせに! 不良じゃないか。スラに見つかったら殴られるぞ)


 オロは鰺の南蛮(なんばん)()けをちらりと見たが、それには手を出さず、牛乳を飲み、取り出したトマトをパンにはさんで食べ始めた。

――おっ、ミルク! 

 大好きな牛乳の臭いにつられて、首をあげてしまったのがいけなかった。オロが近寄ってくる。

(おっと、しまった。あいつと目があってしまったよ。ほら、来るなって。あっち行け。おまえが来るとロクなことはない)


 キキはあわてて丸まってみたが、ときすでに遅し。

「おい、キキ。おまえも起きてんのか?」

 オロはキキを籠からつまみだし、自分の膝の上においた。

 ニャワン。

 抵抗して足をバタバタさせてみるが、オロには通用しない。

「おっ。おまえのこの太短い足がチョーかわいいんだよな」


 オロにとって、キキの抵抗はじゃれる動作にしか見えないらしい。オロはキキを膝の上に仰向けに寝かせ、脇や腹をなでながら、キキが手足をばたつかせるのを楽しんでいる。

 噛みついてやろうにも、首の贅肉(ぜいにく)がジャマになる。引っ掻こうにも、前足も後足も短すぎて届かない。腹をさすってもらうこと自体は気持ちいいが、なにぶんオロの太ももはやせて骨張っている。その骨がキキの背に突き刺さる。まるで()(だい)()ばしの拷問(ごうもん)にあっているような気分だ。オロが夜食を終えるころには、いつもキキはぐったりしてしまう。


■オロの恋煩い

 だが、今夜のオロは少し違っていた。いつもの生意気さが影を潜め、やや憂い顔だ。

 夜食の途中で、オロはキキを食卓に乗せ、自分の牛乳を分けてやった。ペチャペチャとうまそうにミルクを舐めるキキにオロが話しかける。


「なあ、キキ。悩みを聞いてくれるか?」

(なんだよ。おまえみたいなノー天気なヤツにも悩みがあるのかい?)

「オレさあ、好きなヤツがいるんだよ」

(ほう)

「オレのバイト先の仕事仲間なんだ」

(ふうん)

「まあ、一目惚れって感じ~」

(そうかい)

「アカデメイアの学生でさ、オレよりずいぶん賢いんだ」

(まあ、オロよりバカはそういまい)

「オレにやさしくてさ。オレにぞっこんだって思ってたんだ……」

(ありえんぞ!)

「だけどよお。明日、そいつが彼女をつれてくるんだって」

(彼女だって? じゃ、おまえの好きなやつは男かい?)

「その彼女ってのは、アカデメイアの生徒なんだってさ」

(なに、アカデメイアの生徒じゃと?)

「なあ、どうしたらそいつを彼から引き離すことができると思う?」

(わしに聞いても無理じゃな)


 オロはじいっとキキを見つめた。

「決めた! おまえを連れて行くよ。その子をしっかり引っ掻いてくれ!」

(いやじゃあ!)

 オロは、もがくキキを籠にもどし、籠ごと自室に運んだ。キキは抵抗して飛び降りようとしたが、オロの手は案外大きく、籠の端から前足を出すのが精一杯。オロはその足裏のふわふわした肉球(にくきゅう)をさわりながらこう言う。

「年をとっても、この肉球はやっぱりかわいい」

 フギャアアア。

 助けを求めてみるが、スラはすっかり寝入っているのだろう。深夜、静まりかえった古ぼけたあばら屋に、キキの鳴き声だけがこだました。


 朝から籠に入れられ、キキは不安な時間を過ごしていた。

 フタ代わりの布巾の隙間から見える限りでは、オロのオンボロ自転車の前カゴに入れられ、大橋近くまで来たようだった。キキを散歩に連れて行くと言って、いぶかしむスラをうまくごまかし、オロはキキをここに連れてきた。

 周りはやけに騒々(そうぞう)しい。オロの声がした。

「ほら、キキ。用意ができたよ」

「二、ニャ」(いったいだれ?)


■音楽茶房〈ムーサ〉

 音楽の女神たちを〈ムーサ〉という。


 音楽(おんがく)茶房(さぼう)〈ムーサ〉は、岬の途中にあるカフェ&バー。どっしりとした店構えだ。室内の(はり)は太く、天井は高い。室内はやや薄暗いが、陰影を帯び、独特の落ち着きがある。壁はさらりとした漆喰壁(しっくいかべ)で、床は土間。もとは、このあたりの地主の離れ屋敷だったと聞く。


 東からのアプローチは花にあふれ、南と西の大きな窓からは大海(たいかい)が望める。北側の窓は(ぞう)木林(きばやし)の庭に続いて、四季の移ろいを楽しめる。

さほど大きくはないが、女性オーナーのこだわりが詰まった店だ。朝十時から午後二時のランチタイム、夕方五時から夜十時までのライブステージ付きのディナータイムに店が開く。


 〈ムーサ〉の名に恥じず、名物はライブステージ。定例のミニコンサートが開かれる。

 火・水・木曜日は、夜七時から大人向けのジャズコンサート。パブとしてアルコールがメインに提供され、未成年は大人の同伴者がいないと入ることはできない。金曜日と土曜日は夜七時からアラカルトだ。比較的若い層をねらって、バンドやダンス、歌が披露される。

 日曜日は朝十時から夜八時までオープンしており、終日ファミリー向けサービスが多い。廉価(れんか)な臨時託児コーナーも設けられ、育児から解放された若い母や父たちの憩いの場となっている。日曜日にはアカデメイアの音楽系サークルの演奏会が催されることも多い。

 昼はランチセット千円、夜はワンドリンクと簡単なつまみあるいはケーキとセットで一律千円となる。それ以上の飲食は追加料金だ。

 一番奥にはテラスデッキ入り口から入るペット同伴コーナーもある。〈ムーサ〉が飼うネコたちもいて、客の()やしになっている。


 このところ、金曜日の舞台で大人気なのが、美少女ルルのステージ。動画も配信され、人気に火がついた。客席はいつもほぼ満席。常連客の中高年男性以上に、若い男女が多い。ルルの衣装、ルルの髪型、ルルの化粧が、ティーンの少女たちのトレンドとなっている。


 ただ、今夜はいつもと少し違う。

 〈ムーサ〉の奥まった席に、静かに客が腰かけていた。ステージはよく見えるものの、他の客席からは陰になる場所だ。ステージの開演より一時間ほど前にやってきて、ステージに近い良い客席がまだたくさん空いているにもかかわらず、わざわざそんな奥まった席をとる客など普通はいない。


(変わった客だな……)

 そう思いながら、アルバイトウエイターのリトは注文を取りに行った。

 リトは驚いた。とてつもない美青年が二人座っていた。

 スーツ姿の美青年が、飲み物と果物、いくつかのつまみを頼み、リトに尋ねた。

「今日は、歌姫のライブステージと聴いたのですが、開催予定ですか?」

「はい。まもなく七時からです」

「ステージに楽器が置かれていないので、今日は中止かと思ったものですから……」

「ルルはどれもアカペラで歌うんです。しかも踊りますから、ステージを広くしています」

 二人の青年は驚いたようだった。客はみなこうして驚く。そしてルルの舞台を見るともっと驚く。


 やがて、夜七時の開演を目指して続々と客が入って来た。大忙しのリトは思わずため息を漏らした。

――また来た……。

 女性オーナーのお気に入り客の一人イ・ジェシンだ。やたらと目立つ。


 このところ、毎週金曜日に〈ムーサ〉を訪れ、最前列の一番良い席に陣取る。美少女ルルのステージが目当てらしい。いかにも高級そうな服に身を包み、王様気取りで、金払いが良い。隣には、いつも彼女らしき美女と部下らしき青年を伴っている。だが、同伴の美女に密着することはなく、店のウエイターにも出演者にも、下品なセクハラ言動はしない。そこはわきまえているというべきか。

 ただ、毎回、同伴美女が変わる。ものすごくもてるのか、すぐに振られるのか、いったいどっちだ?


――あ、ヤバイ!

 見つかってしまった。イ・ジェシンがリトに向けて手を振っている。


「おーい、ラビットくーん!」

 〈ムーサ〉では、店員は愛称で呼ばれる。リト(理兎)は、本名の一字を取り、ラビットと呼ばれた。

今夜も、イ・ジェシンは、リトをそばに呼んで、高級ワインと高級な一品料理をいくつか頼んだ。

「ねえ、今日も歌姫に一曲リクエストしたいから、よろしくね!」


 ルルはインテリや金持ちが大嫌いだが、イ・ジェシンは別らしい。

 ジェシンは、毎週、ルルに最新の音楽CDを贈り、次の週にその一曲をリクエストする。彼が選んでくるCDには、ルル好みの楽曲が詰まっている。ルルは彼のCDを毎回楽しみにしていた。ルルは、金や権威では梃子でも動かない。けれども、好きな楽曲を示されると弱い。イ・ジェシンはルルのそんな性格を知り抜いているようだった。


 リトがふと気づくと、いつのまにかあの二人も来ていた。風子とアイリだ。大家のおばさんに、この二人に夕食をごちそうすれば、滞納している家賃のうち、一ヶ月分を棒引きしてやると言われた。たまたま動物病院でモモがあのにっくきガンキチ野郎に妙に気に入られ、大家おばさんが大感激したそうだ。

 おばさんは、オレにこう命じた。

「あの二人に夕食をごちそうしておいで。ただし、女の子が喜ぶようなしゃれた店にしな」

 二人が満足して、おしゃれで、安くて、安全な店。オレが新しく勤めはじめたこの〈ムーサ〉しかない!

――従業員価格は三割引だ。


 風子たちのテーブルに近づいて、リトは硬直した。

「な……なんで、ここにコイツがいる!?」

 アイリがモモを撫でながら言った。

「ここは、犬猫同伴可能ゾーンだ。いくつか条件があるけどね。――リード装着、吠え続けたら退出、同伴可能ゾーンでの着席。ほら、ぜーんぶクリア。問題ないだろ?」


 モモがジトッとリトを見上げた。

 アーモンド型のその目をアイリはかわいいと悶絶(もんぜつ)し、リトの足は震えた。

「ち……注文は、な……何だ」

 アイリがわんさと注文した。

(そんなに注文したら、一カ月の家賃を上回ってしまうじゃないか!)

 リトの冷や汗を楽しむかのように、アイリがさらにデザートまで頼む。

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