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Ⅳー4 エピローグ――塀の向こうの調べ

■美しい調べ

――十四年前から変わっていない。

 門を出たレオンは、いったん車を止め、櫻館の塀の前に立った。


――ここで、わたしはラウ伯爵に拾われた。

 

 理由はわからない。

 夕闇が迫る中、何かを探していたような、何かから逃げていたような……。走り続け、服がやぶれ、とてつもなく疲れていたことはよく覚えている。

 気力も体力も尽きようとしていたその時、この塀の向こうから、静かな調べが聞こえてきた。物悲しく、美しい調べだった。どこか懐かしく、どこか慕わしい。

 わたしは塀に背を預けて、ずるずると座り込んだ。どうせなら、このままこの調べに包まれて眠ろう……。


 いつの間にか気を失っていたのだろう。

「……き……き……きみ……きみ? 大丈夫かね?」

 何度も呼びかける声にうっすらと目を開けると、立派な服を着た紳士が、わたしを見下ろしていた。部下らしき者がわたしに近寄ってくる。そのまま完全に気を失ったのだろう。


 わたしが再び目を覚ましたのは、ゆったりとした寝台の上だった。広々とした部屋には医師と看護師がいて、わたしに点滴を打っていた。やがて、あの立派な紳士が現れた。すべての者が下がらされ、わたしは紳士からいくつかの質問を受けた。


 どの質問にも答えられなかった。わかったのは、わたしには記憶がないこと、自分の名も知らないこと、年齢すらわからないこと、どうしてあの場所にいたのかもわからないことであった。


 紳士はラウ伯爵と名乗り、こう告げた。

「きみは事故で記憶を失ってしまったようだね。きみの名はレオンという。わたしの遠縁なんだよ。ミン国からここに来る途中に事故に遭ったんだ。残念ながら、きみの母上は亡くなった。こちらですべて手配したから、落ち着いたら墓を訪れるがいい」


 わたしは頷くしかなかった。伯爵はさらにこう提案した。

「きみをここに呼んだのは、アカデメイアで学ばせるためだった。きみの母上もそれを望んでおられた。法律学を学んで、弁護士資格をとってはどうかね?」

 これにも断る理由がなかった。


 アカデメイアで学び始めると自分のことで悩む時間などなかった。すべて一から始めねばならなかった。覚えることは膨大で、考える時間はほとんどなかった。

 それでも、何か自分の過去の手がかりがないか、あの時期の事故や事件の記録、家出人や行方不明者の情報を調べ尽くした。結局、何もわからなかった。何を探し、何から逃げていたのか。それも皆目手がかりがなかった。きれいさっぱり、わたしという存在が消えてしまっていた。

 伯爵が語ったレオンとその母の事故が、唯一の事実だった。


 アカデメイア大学在学中に国家司法試験に通った。伯爵は大喜びで、わたしをラウ財団に迎えてくれた。それまでの過去をもはや問うまい。わたしは伯爵の遠縁のレオンなんだ。どんなに違和感があろうと、そう信じて生きていくしかない。そのときそう決意した。


■〈五月の歌〉のレオ

 ラウ財団は、世界トップクラスのグローバル総合企業グループだ。金融・IT・軍事技術・医薬・教育などのあらゆる分野に関連企業を持ち、ラウ伯爵はその総帥であった。伯爵は、文化振興にも力を入れていた。


 わたしは、財団の中枢をなす戦略秘書室に配属された。戦略秘書室は専門家集団で経営の戦略を練る組織でもあり、弁護士・会計士・軍事分析家・環境測定士などが集まるトップエリート集団であった。わたしはあまりに若かったが、ラウ伯爵の縁者として、粗雑な扱いは受けなかった。

 伯爵はたびたびわたしにチャンスをくれた。試されているのはわかっていた。それをこなしていくうちに、仕事のやり方を覚え、人脈が広がり、経営の表と裏も見渡せるようになった。


 ラウ伯爵の供として、はじめて九鬼彪吾に会ったのは八年前。伯爵は、アカデメイア理事として第一回ルナ大祭典を手掛けることになった。まだ駆け出しのわたしも、ルナ大祭典の準備にかり出された。

 そのとき、伯爵から九鬼彪吾を紹介された。「レオ」の〈五月の歌〉は知っていた。目の前の人物がその「レオ」だと知って、いささか足が震えた。


 「レオ」こと九鬼彪吾が曲作りを引き受けたことでルナ大祭典の準備は順調に進み始めた。わたしは、カトマールやシャンラにのこる遺跡に出向き、能う限りの情報を仕入れた。

 仕事を超えて、それは知的刺激を伴う楽しい時間だった。朱鷺博士やファン・マイの論文を知ったのもその頃だ。

 だが、九鬼彪吾とは深い関わりがないまま年月が過ぎた。


 第一回ルナ大祭典の成功によって、伯爵はアカデメイア副理事長に昇格した。

 伯爵は、しだいにわたしの職位を上げ、三年前、最側近の筆頭秘書に据えたのだった。その最初の仕事が、アカデメイアに新設の音楽学部をつくること、その目玉として九鬼彪吾を教授として招くこと、カトマールで開催予定の第三回ルナ大祭典の準備をすることであった。


「九鬼彪吾だって? 彼を教授に迎えることなんて、絶対不可能だ。いくらラウ伯爵でも無理だ!」

 だれもがそう言った。


 九鬼彪吾は、すでに「レオ」であることを公表して、当代一の人気作曲家に上り詰めていた。かつてはピアニストとしても著名な人物であって、芸術家肌で、金銭や世事には無関心であり、ほとんど他人と直接顔を合わすこともない非常に気難しい人物との世評であった。


 しかし、なぜか、九鬼彪吾は承諾した。伯爵が驚喜したのは言うまでもない。彼が承諾した理由はいまだにわからない。

 

 ただ、ルナ大祭典の仕事は、九鬼彪吾にあっていたようだ。いま、彼はルナ大祭典の準備を嬉々としてこなしている。ラウ伯爵は、芸術の本質をよく心得ていて、口出しせず、資金だけを出す。無駄に思われることも必要経費とみなす。九鬼彪吾は、調べれば調べるほどルナの物語に魅了されたようであった。

 

 九鬼彪吾は、わたしに対しては、しばしば様子見をする。なにか探りたそうな目をよくするが、何もわからなくても、ちょっとしたことで喜ぶことが多い。どうやらわたしの反応を見て楽しんでいるようだ。そして、わたしに対してだけは、時々おもいがけないほど無邪気になる。その理由もまたわからない。

 かつて塀の中から聞こえてきた調べは、ややあって〈五月の歌〉としてリリースされた。


 それ以降、九鬼彪吾は毎年〈五月の歌〉を発表している。どれも哀切な歌だ。

 大きな空洞を抱えるわたしのこころに染み入るように響く。わたしは〈五月の歌〉を通して九鬼彪吾の楽曲のファンになっていた。むろん、それを彼に告げたことはない。


 十四年ぶりに訪れたこの櫻館――。わたしの胸の奥深くに封印してきた思いがチクリと頭をもたげる。


――わたしはいったい何者なのか。


 あの春の夕暮れのように、塀の向こうから忘れもしないあの調べが響いてきた。わたしは目を閉じて、その調べに身を委ねた。

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