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Ⅳー3 消された少年

■消された少年

 十五年以上も前のこと――彪吾の父が存命であった頃、何度か出向いた日本の九鬼家で、一度だけ、ラウ伯爵は美しいピアノの音色を聴いたことがある。

 とても哀切で、ガラスのように繊細で、祈るような音が高く舞い上がる。おもわず足を止めて聞き入った。


 少年彪吾が弾いているのだろう。ラウも招かれていたコンクールの本戦決勝の出場を辞退した後、彪吾は演奏をやめたと聞いていた。てっきり自信をなくしたのかと思っていたが、そうではなかったようだ。

 彪吾の父は、息子は今もときどき一人でピアノに向かっていると言って、話題を変えた。だが、ラウにはわかった。あれほど美しい曲なら、ラウの耳に触れないはずがない。自分がいまだ聴いたことがないとすれば、彪吾の自作かもしれない。とすれば、天が与えた才能だ。


 最初の〈五月の歌〉に、ラウは「レオ」の限りない才能を感じた。数年前に九鬼家で耳にした美しい曲とどこか似ている。「レオ」は彪吾に違いない。そう直感したラウは、すぐさま彪吾に面会を申し出た。あっさり断られた。だが、あきらめきれない。


――彪吾の気持ちを変える手立てはないものか。

 

 ふと、思い出した。決勝がなくなり、そのコンクール自体が黒歴史(くろれきし)となった例のコンクール。彪吾が人前での演奏をやめるきっかけとなったコンクールだ。あのとき、彪吾ともう一人の少年が決勝に進出した。当時、「天月の少年」と噂されていたが、本当に天月の少年だったのか、それとも美貌で知られる天月の少年のようだという意味だったのか、真相はわからない。

 コンクールの最大スポンサーであるラウ伯爵にはこう報告された。二人とも出場を辞退したことが決勝中止の理由とのこと。そのとき、担当者がポロリと口にした。もう一人の少年は事故で亡くなったらしいと。


 ラウは、部下に八年前のコンクールのことを調べさせた。ところが、まったく情報がない。彪吾が決勝で争うはずだった少年の名前も写真も映像もすべてかき消されたように、完全に情報が消えていた。


――おかしい! 


 たかだか十歳の子どものことだ。しかも、八年前のこと。なにがしかの手掛かりがあるのが普通だ。

警察の情報では、確かに、当時一人の少年が行方不明になり、捜索が行われたという。急峻な崖で少年の持ち物が発見され、崖に張り出した下方の木に少年の衣服の切れ端がかかっていた。少年は崖から急流に落ちたのだろうと判断され、捜査は終結した。その少年は身元不明として処理されていた。

 その少年が天月の者だったとしたら、なぜ隠すのか? 天月が少年のことを隠したのだろうか? でも、なぜ? 決勝まで勝ち進んだ子だ。隠す必要が見当たらない。


 主宰者なら何か記録をのこしているに違いない。問い合わせたが、コンクールの主宰者は、いかに最大スポンサーのラウといえども、個人情報を教えることはできないと回答した。映像も記録もすべて廃棄処分にされたという。当時の担当者とも連絡がつかないとのこと。八方(はっぽう)(ふさ)がりだった。徹底的に情報が消されている。

 ただ、準決勝に出た子の親が自分の子のビデオを残していると部下が報告してきた。その録画の最後に例の少年が舞台に登場したところまでが映っていた。届けられたごく短い映像にラウは驚愕した。とてつもなく美しい少年だった。その子が「レオン」と紹介されたところで映像は終わっていた。


――レオンだって?


 ラウは驚いた。「レオ」の由来かもしれない。ただ、彪吾はだれとも会おうとしない。船の事故の後、彪吾はアカデメイアの小さなホテルを居と定めていたが、ラウが何度面会を申し出てもすべて門前払いにされた。


 最初の〈五月の歌〉から五年がたった頃、ラウ伯爵は賭けに出た。


 アカデメイア理事として、ルナ大祭典という大きなプロジェクトをはじめて担当する。副理事長への昇任がかかっている。失敗は許されない。「レオ」が必要だ。「レオ」は、これまで〈五月の歌〉以外を公表したことがない。もし「レオ」の音楽を使えたら、それだけで十分な評判になるだろう。

 だが、「レオ」おそらく彪吾は、通常のやり方では会ってもくれまい。何か、彪吾の心を動かすものはないか?


 ある夜、客を招いた別邸の庭で、客に付き添い、部下のレオンが月を見上げていた。傍で淡白の薄い櫻の花びらがゆるやかな風に舞っている。その美しさにラウは目を奪われた。

――そうだ、レオンだ! 

 レオンが使える! ()しくも、あの少年と同じ名ではないか。


 彪吾にとって、レオンという少年は果たして吉か凶か。賭けだが、これしか方法がない。

ラウは、品の良い繊細なイラストを描くことで知られるイラストレーターを呼び、秘かにレオンの姿を見せて、十五歳くらいのレオンを絵に描いてほしいと依頼した。バックは古代ウル帝国のイメージ。

 イラストレーターは喜んで仕事を引き受けた。モデルになりうる美青年などそういない。彼女が描いてきたイラストにラウは大満足した。


■美青年レオン

 「天才少年ピアニスト」彪吾は、世間から忘れられた。

 しかし、生活には困らなかった。両親が遺した遺産は、このホテルを買い取ってもなお余りあるほどだった。財産は万蔵さんが管理してくれた。


――作る曲はすべてレオンのため。

 すでに演奏はしていなかったが、作った曲も公表しなかった。ただ、〈五月の歌〉だけは、毎年発表し続けた。レオンへのメッセージだったからだ。レオンと初めて会った日にあわせて、リリースした。レオンであれば、その意味がわかるはず。


 〈五月の歌〉の人気があがるにつれ、「レオ」の名も世間に知られるようになった。〈五月の歌〉を心待ちにするファンが増え、発売されればすぐにミリオンセラーになった。そんな「レオ」を業界が放っておくはずがない。しかし、彪吾は決して表に出なかった。正体不明の「レオ」という名だけがマスコミに広まった。


 六つ目の〈五月の歌〉を公表してまもなく、ラウ伯爵から手紙が届けられた。

「あなたの父上が望んでいたものをお渡ししたい」

 そう言われては無碍(むげ)に断るわけにもいかない。

 ラウ伯爵のことは知っていた。かつてしばしば父のもとを訪れていた人物で、辣腕(らつわん)の事業家。日本での父の事業のパートナーの一人だった。昨今では芸術・文化のパトロンとして名を馳せている。彪吾の生還後にいちはやく演奏活動の支援を申し出てきた人物でもある。

 

 迎えの車に乗って向かったラウ伯爵の別邸は、アカデメイアの中心部からやや離れた小高い丘の上にあった。

 和風の瀟洒な(ひのき)造りの平屋住宅で、品の良い庭が広がる。多趣味なラウは、あちこちに自分の気に入った趣の建物を建てて別邸としているらしい。和風の接待を選んだのは、彪吾への配慮だろう。御影石(みかげいし)の敷石が配された前庭を抜け、引き戸の広い玄関で迎えられた。


 静かな客間に通されると、庭からは絵のような光景が広がる。大きな青石、松、モミジ、椿、ツツジなどの木の影が小さな池に映り、緩やかな流れが庭をめぐっている。かつて彪吾が暮らした屋敷の庭に似ていた。


 室内では、漆塗りの棚の上に毛氈(もうせん)が敷かれ、一枚の絵画が立てかけられていた。

 たしかに、父が収集していた画家の小品で、生前に父がほしがっていた一品だった。カトマール帝国の黄金時代を代表する女性画家で、人物画を得意とし、作品は幼い男の子を描いたものだった。カトマール帝国の富裕な貴族一家の肖像画とされ、この少年図を加えれば、一家四人全員の肖像画がそろう。やや横向きの少年の姿はじつに愛らしく、衣装のレースが繊細に描かれている。

 その絵は、たまたまオークションに出品され、ラウが落札したという。しかし、ラウの思惑(おもわく)がわからない。相当高価な絵を無償で贈りたいという以上、何か裏があるに違いない。

 彪吾は作品の買い取りを申し出て、すぐに辞そうとした。


 すると、ラウ伯爵は、せめてお茶でもと彪吾を引き留めた。そして、すかさずテーブルの上に何枚かのイラストを並べた。

 思わず、彪吾は目を(みは)り、その一枚を手に取った。


 月光の中にたたずむ美少年――背後に櫻が揺れている。絵に見入る彪吾のまなざしをラウは見逃さなかった。

「新しく作る映画の主人公のイメージです」

 ラウの言葉に、彪吾の目の奥でさざなみが揺れ、一瞬、目が潤んだ。


 ふたたび腰を下ろした彪吾の前に、鮮やかな若緑色の煎茶と桜色の和菓子が載せられた黒塗りの漆盆がスッと差し出された。

 盆を持つ指のきれいな所作(しょさ)に目を奪われ、彪吾がふっと見上げると、思いがけない美青年がそこにいた。彪吾は固まってしまった。手にしたイラストがはらりと落ちた。

「わたしの部下です」

 ラウ伯爵が紹介した。姿勢をくずさず、美青年は低めの静かな声で彪吾に挨拶した。

「レオンと申します」


 名前のせいなのか、その秀麗な美貌のせいなのか。レオンは彪吾の心を強く揺さぶった。気がつくと、彪吾はラウ伯爵の申し出を受諾していた。

 ラウ伯爵は賭けに勝ったのだ。


■ルナ大祭典

 映画音楽の製作は、思いのほか、楽しかった。彪吾は生き返ったように曲作りを楽しんだ。


 映画は、古代ウル帝国をルーツとするシャンラ王国、カトマール共和国、舎村自治国、そしてアカデメイアの協力で開催される初のルナ大祭典にあわせて公開予定とされた。

 映画の中に、〈十歳のレオン〉と彼の音楽を蘇らせよう。曲想の参考にと提供されたあのイラストは、額縁に入れて彪吾の部屋に飾られた。

 彪吾は、主人公の少年に〈十歳のレオン〉の姿を重ね、天月が成立した背景を古代ウル帝国の中に見いだして遠く思いを馳せた。


 青年レオンはルナ大祭典の準備を担当するとのことで各地にしばしば出張していたようだ。彪吾がレオンに会う機会はあまりなかった。会ったときもレオンは寡黙で、決して仕事以外では彪吾に近寄ってこなかった。だが、レオンのうわさはあちこちから聞こえてきた。


 それによれば、レオンはラウ伯爵の遠縁で、ミン国にあるラウ伯爵領に住んでいたが、十八歳のときにラウ伯爵にひきとられたとのこと。母とともにこのアカデメイアに向かう途中で事故にあい、母は亡くなり、レオンは記憶をなくしたとか。だが、どの人も口をそろえる。ラウ伯爵は、本当に優れた人材を手に入れた、と。


 レオンはアカデメイアを飛び級で首席卒業し、司法試験にも首席で通ったという。ラウ財団の司令塔たる戦略秘書室に迎えられ、ラウが手を焼いていたすべての難事を解決しているとか。いまや、レオンなきラウ財団はありえないともっぱらのうわさだ。

 レオンは忠実で、仕事が早く、交渉術にもたける。秘書止まりではもったいなさすぎる。独身のラウが遠縁のレオンを後継者として育てているという人もいる。

 一方、レオンは、禁欲主義者らしく、浮いたうわさ一つない。あの美貌に憧れる女性はあとを絶たないらしいが、レオンはうまく距離をとり、決して自分に近寄らせないという。

 

 ラウ伯爵肝いりの映画は順調に完成した。試写会の日、レオンもやってきた。彪吾から遠く離れた隅に席を取り、映画を観ていた。CGを駆使した映像で、主人公は若い新人俳優だった。美青年だったが、あきらかにレオンの方が美しい。彪吾は主人公を勝手にレオンに置き換えて、映像を楽しんだ。

 自分のイメージの中に浮かぶレオンが〈十歳のレオン〉の成長した姿なのか、今接している生身(なまみ)の青年レオンなのか、彪吾にもわからなかった。音楽はほぼすべて彪吾のオリジナルだったが、主題曲は〈十歳のレオン〉が残した曲をアレンジした。すべてに「レオ」のクレジットを入れた。映画がレオンへのメッセージになるようにと彪吾は期待した。


 映画は空前の大ヒットを記録した。ゲーム化もされ、これもまた爆発的にヒットした。

 マスコミやネット上での「レオ」探しが過熱し、周囲に迷惑をかけるようになったため、彪吾は「レオ」であることを公表した。しかし、取材も作曲の依頼もすべて断った。「レオは傲慢」という悪評も流れたが、意に介さなかった。


 その点、ラウ伯爵は巧妙だった。彼自身は彪吾に直接接触せず、すべてレオンを通じてやりとりをした。依頼する内容も控えめであった。〈五月の歌〉を最優先する彪吾のスケジュールを尊重し、〈五月の歌〉の特集版の作成やアレンジの依頼にとどめたからだ。こうして、ラウは彪吾を消費して使いつぶすつもりはないとの姿勢を示し、彪吾の信頼を得た。


 ラウ伯爵のそばにいるレオンの地位は次第に上がっていったようだった。ラウ伯爵がレオンを隣に呼ぶことが多くなった。彪吾はますますレオンへの関心を強めた。しかし、彪吾が踏み込もうとすると、レオンはさっと引いて距離をとる。そんな繰り返しが五年近く続いた。

 かつて、〈十歳のレオン〉は、彪吾が差し伸べた手をうれしそうに取ってくれた。しかし、美青年レオンは決して手を取ってはくれない。彼は、あの明るく無邪気な〈十歳のレオン〉ではない。


 三年前のある日、ラウ伯爵が再び大きな企画を持ってきた。しかも、彪吾が断れないようなしかけを周到に施して……。

 レオンはラウ伯爵の左隣に立っていた。筆頭秘書に昇格したとラウがレオンを改めて紹介した。彼の最初の仕事として、彪吾を教授としてアカデメイアに招き、音楽学部を新設するという。


 レオンの表情はいつもと変わらない。彪吾に期待の目を向けるわけではない。(すが)るわけでもない。レオンは、静かに書類を差し出した。アカデメイア特別招聘教授として、四年後のルナ大祭典の目玉企画を考えてもらいたいという。


 彪吾の脳裏に(ひらめ)いた。舞台の上――森の精霊たちと音楽を奏でる美少年の姿。ルナの精霊たちのミュージカルにしよう。

――構想は決まった。


「大祭典もキミが担当なんだね?」

 彪吾の問いかけに、「そうです」とレオンは答えた。

「ならば、やろう。教授の件も承諾した」

 彪吾は依頼を引き受けた。他の条件をまったく考慮せず、レオンが担当かどうかだけを確認した。

 ラウ伯爵が驚喜した。

 

 それから三年――。彪吾とレオンの距離が縮まったわけではない。

 レオンの態度は常に礼節に(かな)っていたが、あくまで事務的で、誰にも付け入る隙を与えなかった。もどかしかった。だが、レオンと会う機会は格段に増えた。

 彪吾はレオンを見続けた。レオンだけを見つめ続けた。気づくと、それが彪吾の生きがいになっていた。


――会ったら何をしゃべろうか。どんな曲を聴かせようか。

 それを考えるだけで、胸が高鳴る。レオンの声、レオンの表情、それを身近に感じるだけで、〈十歳のレオン〉が彪吾の心に舞い降りてくる。


 翌週のアカデメイア特別招聘教授就任を控え、彪吾はレオンを試すつもりだった。この櫻館に来てくれるかどうか――。レオンは、迷わず承諾した。だが、それも「仕事」だと言い切る。

 このゲストルームこそ、〈十歳のレオン〉とともに眠った部屋。思い出を封じ込めるために、調度もカーテンもずっとそのままにしてきた。いつか、この部屋に青年レオンが泊ってくれることがあるだろうか。彪吾は、すべらかな指でベッドのシーツを撫でた。


■待ち合わせ

 レオンは時計を見た。まもなく朝九時。約束の時間だ。


 穏やかな日差しを受けて、レオンの表情がかすかになごむ。向こうから、一人の青年が近づいてきた。

 彼はレオンに軽く会釈すると、こう言った。

「おはよう。いい朝だね」

 レオンも会釈を返した。

「ようこそ、お待ちしておりました。九鬼教授」

 二人は互いの目の奥をじっと見た。


 レオンの記憶のどこかがかすかにうずく。この声、この瞳、この姿。どこか慕わしいが、それ以上は思い出とつながらない。

「先日はお邪魔しました」

 彪吾はレオンをじっと見て言った。

「また来てよ。ツネさんが喜ぶから」

 礼儀に反しないよう軽く頷いたものの返事はせず、レオンは手を建物の方に向けた。

「いまから研究室にご案内いたします」


 レオンは彪吾と並び立ち、歩みを進めた。ほぼ同じ背格好だが、レオンのほうが五センチほど高い。

 紺色のスーツ姿のレオンは冷然とした表情のまま、黒いジャケットの下に白いスタンドカラーのシャツを着た彪吾は柔らかな笑みをかすかに浮かべている。


 すれ違う人びとが、思わず二人を振り返った。美しい二人が連れ立って歩くさまは、アカデメイアの清々しい朝をいっそう輝かせる。

 一枚の若葉がヒラヒラと風にゆられ、芝生に寝そべっていた銀色の美しいネコの上に舞い降りた。ネコがふと起き上がり、二人の後ろ姿を見送った。

 そのそばで、一人の若い女性も同じように二人の姿を目で追った。彼女は、一瞬ごくわずかにレオンから立ち上った高雅な香りが淡い紫色のかげろうとなって清涼な空気に溶けていくのを見逃さなかった。


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