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Ⅳー2 五月の別れ

■悲報

■弾けないピアノ

■嵐

■帰還

■悲報

 彪吾が岬の上病院を退院したのは、決勝予定日から一週間が経った頃だった。

 両親とともにホテルに戻り、父はその足で仕事に復帰した。母は彪吾を気遣い、ずっとそばに寄り添った。だが、病院から戻ったのは、レオンとともに泊まったあのホテルではない。父がいつも使う高層ホテルの一室だった。


――何だか聞いてはいけない気がした。


 母も父もレオンの話題を避けていた。母は、数日後に日本に戻る手配を終えていた。

(もうレオンには会えないのかな……?)

 寂しかった。でも、レオンが天月に戻ったのなら、仕方がない。天月はとても厳しいところで、レオンが山を下りるのもたいへんだったらしいもの。

 彪吾は、ホテル高層階の窓から遠い天月の山をみやった。晴れ渡った青い空にそびえる天月山には薄い雲がたなびき、背景の山脈は銀色にかすんでいる。


――子どもでも修士になれば、許可なしに山を下りることができるんだ。

 レオンはそう言い、できるだけその時期を早めるからまた会おうと言ってくれた。天月修士というのが何かはよく知らない。でも、早くレオンに会いたい。彪吾はレオンに、日本の住所と電話番号を教えた。

――修士になったら連絡して。ボク、ここに戻ってくるから。このホテルのこの部屋でキミを待ってるから。

 幼い約束だった。指切りをした小指の温かさに、二人の少年は顔を見合わせてニッコリした。


 日本に戻る前日のことだった。ホテルのロビーに、とてもきれいな女性がいた。金髪(きんぱつ)碧眼(へきがん)のその女性に見とれると、彼女が彪吾に笑顔を見せた。

「ひょっとして、九鬼彪吾くん?」

「はい」

「まあ、やっぱりそうだったのね。会えて良かったわ。コンクールを楽しみにしていたのよ。とても残念だったわ」

「すみません」

「謝ることなんかないわ。あなたのせいじゃないし、来年があるもの」


 向こうから、美青年が近づいてきた。

「ごめん、アメリア。待たせたね」

「いいのよ、ラウ。おかげでこの小さなピアニストとお話できたわ」

 青年は彪吾を見た。

「やあ、キミは九鬼彪吾くんだね」

 なんだか、いろいろな人に名前を覚えられている。彪吾は気恥ずかしい思いだった。

「キミの演奏は毎年聴いているよ」

「ホホホ。この人はコンクールのスポンサーの一人なのよ」

「よろしく」


 青年は彪吾に笑顔を向けたが、そこには値踏(ねぶ)みの色があった。彪吾は思わず後ずさった。

「それにしても、もう一人の子は残念だったね」

 彪吾がハッとして顔を上げると、青年は言った。

「事故にあったらしいね。遺体は見つかっていないそうだが」

 彪吾が震えだした。


――まさか……? レオンは天月に戻ったんじゃないの?


 彪吾の様子を見て、女性が青年の腕を引いた。青年も気づいて、口を閉ざした。

「いや……あくまで噂だよ」


 向こうから彪吾を呼ぶ声がした。彪吾の母が息子の元に駆け寄り、青年と女性は彪吾母子にていねいに挨拶して去っていった。

 彪吾は固まっていた。言葉すら出てこない。

 母が彪吾を強く揺さぶった。

「どうしたの? 彪吾、何があったの?」


 彪吾がブツブツとつぶやき始めた。

「レオン……。レオンは天月に戻ったはず……。事故なんてウソだ。……遺体ってどういうこと?」


 母はハッとして彪吾の肩に手をかけた。彪吾の目はうつろで、母親を見ていなかった。

 彪吾は同じ言葉を繰り返すだけ。完全に正気を失っていた。母親は呆然として我が子を見つめた。


■弾けないピアノ

 レオンの訃報を受けた翌年、彪吾は、レオンが行方不明になった日をはさんでアカデメイアのあのホテルを訪れた。


 わずかな時間だったが、天月のミライも来てくれた。ミライはレオンの死を受け入れておらず、彪吾も同じだ。二人でレオンの思い出を共有することは、生きたレオンを感じる時間だった。


 ミライは、彪吾に録音データを手渡した。レオンの演奏をレオンの頼みで録音していたのだ。むろん、レオンはそれらの曲を楽譜にも収めたが、なぜか楽譜は行方知れずになってしまったという。

ミライはレオンの曲を録音したデータを天月幹部には渡さなかった。楽譜と同じ目に遭う恐れがあったからだ。彼女は、レオンが一番望むはずの相手にそれを渡した。


 翌年も、彪吾はあのホテルを訪れた。ミライは天月から下山できなかった。天月幹部は、レオンの失踪を「事故死」と記録した。ミライはもっとレオンを探すよう何度も懇願したが、受け入れられなかった。そのようなミライが山を下りることを天月幹部は歓迎しなかったようだ。


 それでも、彪吾は毎年、レオンの面影を探して、あのホテルを訪れ、山櫻が見えるあの部屋に滞在した。そのたび一カ月以上も学校を休んだが、父は何ら(とが)めず、母はいつも彪吾に付き添ってくれた。

 「天才少年ピアニスト」への求めはやまなかった。だが、ステージに立つと、レオンと気持ちを分け合ったあの瞬間が蘇る。ピアノを前に震える彪吾に代わって、母はすべての演奏依頼を断り、ひたすらそばで彪吾を見守った。


 日本の自宅で彪吾は毎日レオンの曲を聴いた。レオンの音で包まれることで、レオンを感じようとした。

――レオンと同じには弾けない。

 あれほど明るくは弾けない。いつも途中で涙があふれてしまい、最後まで弾ききれない。


■嵐

――クルーズ船に乗ってみないか?

 父の提案だった。

 

 十六歳を迎えてもなお(ふさ)ぎ込む彪吾を、両親はとても心配した。精神科医にも診てもらった。軽い(うつ)症状を発症しているとのことだった。父は二週間の休暇をとり、蓬莱群島をめぐる豪華クルーズを予約したのである。

 

 彪吾はクルーズにはさほど行きたいと思わなかった。けれども、そのクルーズ船からは天月山がよく見えるという。

(レオンが育った天月山。見たい!)


 二人でおしゃべりした夜、約束したのだ。

――日本においでよ。ボクの大好きな櫻の景色をみせてあげたい。

 レオンは目を輝かせた。

――うん、行きたい。キミも天月においでよ。いろいろな動物を紹介してあげる。いまのボクの一番の友だちは銀狼(ぎんおおかみ)の子どもたちなんだ。とってもかわいいよ。

――へええ。狼の子なんて見たことがない。すごく楽しみ。


 幼い約束だった。

 そのまま果たせずに数年たち、彪吾はいつしか十六歳になっていた。


 彪吾は、いまなおレオンがどこかで生きていると信じていた。もしかしたら、天月の動物のなかにレオンの魂が入り込んで、銀色の狼と一緒にいるかもしれない。無性(むしょう)に天月の山を見たくなった。


 両親は彪吾の顔が少し明るくなったことを喜んだ。旅の準備のために、かねてから一家に仕えているツネさん夫婦を含む五人でアカデメイアにやってきた。


 出航の日は、雲一つない晴れ渡った日だった。ツネさん夫婦に見送られて船は港を離れた。

 彪吾たちは特等船室でくつろいでいた。専用デッキがあり、そこから見える海は果てしなく青い。いつも飛行機か車で移動しているせいだろう。ゆったり進む船から見る景色はまるで違う世界にいるようだった。


 蓬莱群島は二百以上の島からなる。船から望む島なみはとても美しい。数日間、南をめぐって、船は北へと舵を切った。いよいよ天月山脈を臨む海に向かう。

 彪吾は毎日、大きなデッキで海の彼方を見つめた。遠い天月が次第に近づいてくる。天月山の全体を仰ぎ見るため、彪吾は船の先端にあるデッキに出た。


 海から見上げる天月は、巨大な山だった。島の北部は断崖絶壁に覆われ、荒波が岩を穿(うが)っている。船は絶壁に近づく、離れるを繰り返す。このあたりは、海底が複雑で、海流も激しく、かつては難所と言われた。


 この地域の海上交易を支配するのは、天月と並び、島のもう一つの勢力をなすウル舎村だ。舎村も古い一族で、アカデメイアとも縁が深い。舎村が海上交易で名をなしたのは、この海域を知り尽くし、行き交う船を守ったからだった。いまは、デジタル装置が発達し、航行の安全が保障されているという。クルーズ船は、舎村の傘下企業が展開する観光産業の一つだった。


 あと二日でクルーズが終わるという日だった。


 すでに天月の絶壁を離れ、船はいくつかの小島の間を縫うように航行していた。彪吾は船の最後尾の大きな窓のそばで、天月の最後の眺めを惜しんでいた。

にわかに嵐が襲ってきた。横殴りでたたきつける雨が船窓を曇らせる。巨大な船はわずかに揺れていたが、船内はいつも通り、ショーやゲームを楽しむ人たちで賑わっていた。

 

 ガタン!

 

 大きく船体が揺れ、いきなり停電した。母と父は船室に残っていた。一瞬嵐がやみ、真っ暗な船内から雨に煙る天月の頂が見えた。雷鳴がとどろき、雨雲が湧き上がっている。


 荘厳(そうごん)な眺めだった。


 雨と雲と稲妻が、暗い天と荒れる海を結びつけ、また引き離す。さながら巨大な龍が天を目指して昇りゆくように――。人の知恵も力も及ばぬほど猛々しく暴力的なこの光景は、自然のほんの気まぐれかもしれない。

 彪吾はさらに窓に近づいた。

 

 再びガタンと大きく船がかしいだ。


 緊急サイレンが鳴った。船員が救命胴衣をもって走り回っている。彪吾にも胴衣をつけるよう指示して、船員は走りさった。船内はパニックに陥っていた。


――両親は? 

 彪吾はあわてて走り出した。しかし、船室から逃れ出す人の波の圧力で前に進めない。

 どこかで声がした。

「彪吾!」

 母の声だ。彪吾は精一杯答えたが、とどいたかどうかわからない。救命ボートが下ろされた。我先(われさき)にと人が乗り込む。しかし、そのボートを大波がのみ込んでいく。


 悪夢のような光景に、彪吾は固まっていた。

 ふいにドンと突かれた。父だった。

「彪吾、逃げろ!」

 母が言った。

「はやくボートに乗って!」


 多くのボートが流され、最後のボートらしい。父が彪吾をボートに突き落とした。

「生きろよ!」

「愛しているわ」

 父母の声が嵐にかき消された。ボートの上で彪吾は気を失ったらしい。

 ……それからあとの記憶はない。


■帰還

 彪吾は森のはずれで息を吹き返した。

 頭が猛烈に痛む。どうやら助かったらしい。


 だが、いったい、ここはどこだ? 母は、父は、どこにいる?


 彪吾は、自分の服を見た。着ていた服と違う。素朴な服だ。

――なぜ?


 彪吾は歩き始めた。小さなせせらぎがあった。水の流れに沿っていけば、ふもとに出られるはず。

 歩いているうちに夜になり、また朝を迎えて、また夜になった。せせらぎの水は澄んでいて、のどの乾きを癒やした。だが、食べ物は見つからない。

 二度目の朝を迎えたとき、人家が見えた。その戸をたたき ながら、彪吾はくずおれた。

 少し離れた木の陰で、銀色の狼がだれにも気づかれないように、そっと彪吾を見守っていた。


 気がつくと、小さな民家で寝かされていた。窓から、重なり合う山桜の花が見える。

 老女が、あたたかなスープをもってきた。

 聞くと、ここは島の北部、天月領国のはずれという。なんと、船の事故から一年近くがたっていた。アカデメイア中央駅に行きたいというと、老女がバス賃を出してくれた。一日に一便、直行バスがあるという。握り飯も持たせてくれた。彪吾は心からの礼を述べ、アカデメイアに向かった。

――母さんと父さんを探さなくちゃ。きっと心配してボクを待っているはず。

 

 バスが中央駅のターミナルにつくと、すでに夕暮れだった。彪吾は記憶を頼りに歩いた。

――目指すはあのホテルだ。


 小一時間歩くと、山桜に囲まれたホテルが見えてきた。彪吾の今の服装は、ホテルに入れるようなものではない。菜園脇を通り、裏口に回った。ドアは開いていた。取引先が来ているらしい。

 彪吾はそっと身を隠し、様子をうかがった。来客が帰り、中年女性がドアを閉めようとした。


「ツネさん?」

 ツネとよばれた女性は、びっくりしてあたりをキョロキョロ見回した。

 彪吾が姿を現した。ツネさんの目がまん丸に開き、そこからとめどなく涙があふれた。声にならない。ツネさんが彪吾に駆け寄った。

「坊ちゃま。彪吾坊ちゃまですね?」

「うん……」

 彪吾は頷いた。ツネさんは彪吾を迎え入れた。

 ツネさんの夫である万蔵さんも駆けつけてきた。

「坊ちゃま……」

 こちらも言葉にならない。

 ツネさんは、彪吾に温かい飲み物を用意した。

「父さんと母さんは……?」

 ツネさんに(すが)るようにそう言いながら、彪吾は気を失った。


 目覚めたのは岬の上病院だった。

 一週間昏睡(こんすい)していたという。

 ツネさんが(そば)にいた。しかし、父も母もいない……。

 彪吾はその意味を理解した。


「巨大な船が沈み、乗船客の半分以上が犠牲になるという本当に痛ましい大事故でございました。坊ちゃまをはじめ、多くの方が行方不明となり、今も行方がわかっておりません。わたしどもはあのホテルに雇っていただいて、坊ちゃまをお待ちしたのです」

「父さんと母さんは? 二人はどこ?」

「ご遺体は見つかりました。わたしどもが埋葬し、お位牌を預かっております」

 彪吾は口を閉ざした。両親の姿が蘇る。二人は最期まで彪吾を生かそうとした。


 彪吾の生還はマスコミには秘匿された。あまりに心と身体の傷が大きく、静養が必要と、主治医が診断した。

 ツネさんはあのホテルに部屋をとってくれた。思い出の二階の部屋だった。自分たちが勤めるホテルなら、いつでも彪吾の様子を見に行ける。


 やがて、彪吾は両親の莫大な遺産の相続手続を完了した。そして、料理人を失って閉鎖を考え始めたそのホテルを買い取ったのだ。

 このホテルがなくなったら、レオンとの思い出がすべて消えてしまう。レオンはどこかで生きている。レオンが戻ってきたときにこのホテルがなければ、レオンと彪吾の絆が断たれてしまう。

 ただそれだけの思いでホテルを買い取り、「櫻館」と名付けた。


 ツネさん夫婦が一緒だった。一階に置かれていた大きなピアノを二階のロビーに移し、レオンとともに泊まった部屋の前に置いて、いつでも弾けるようにした。

 一年間の記憶は戻らない。しかし、〈十歳のレオン〉と彼が残した音楽の記憶は鮮明だった。


 生還して一年ほどたったある日、十八歳になった彪吾は櫻吹雪が舞う庭を眺めながら、ふとピアノの前で美しい曲を奏でた。レオンが弾いていた曲をアレンジしたものだ。彪吾はそれに詞をつけ、「レオ」という名で公表した。


  はじめての〈五月の歌〉だった。


 「レオ」という名には「レオンと彪吾の合作」という意味を込めた。

 たまたま出かけた街角で、〈五月の歌〉が聞こえてきた。彪吾の胸からなにかが吹っ切れた。


 レオンが残したものを形にすればよい。そうすれば、レオンは生き続ける。たとえ、彪吾のように一時的に記憶を失っていたとしても、街頭やカフェに流れる〈五月の歌〉は必ずレオンに届くだろう。


 彪吾は再び生きる意味を見いだした。父と母がくれた命。レオンが輝かせてくれた命。この命を精一杯大切にして、三人に報いよう。

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