Ⅳー1 櫻館
■「五月の歌」その1
幼子の掌のごと モミジ葉の
かそけく重なる そのかなた
ゆっくりと 五月が目覚める
くすんだ葉陰が あざやかな色を帯び始め
若い緑の重なりが 織りなす木陰から
鳥たちが飛び立ち 獣たちが歩みを進める
息吹いたばかりの 五月の景色に きみはいない
遠いあの日 明るい調べを残し きみは暗い森に消えた
木漏れ日を背に受けながら 流れる涙を大地は拒む
晴れ渡る空を 陽気なひばりが舞い歌う
わたしはひとり 五月に取り残され
膝をかかえたまま 慕わしいひとの名を呼ぶ
友よ 友よ きみはいまいずこ
五月の雨の木の下で わたしはひとり 膝を抱く
背に受ける銀のしずくが 涙とともに 土に落ちる
友よ 友よ 帰り来りて その手をわが身に差し伸べよ
友よ 友よ かげりなき声を いまふたたびわが心に届けよ
切なる願いは 五月の雨に溶けゆくばかり
友よ 友よ きみはいまいずこ
■櫻館
櫻館の春は美しい。
九鬼彪吾は、二階のロビーから満開の桜を見渡した。まもなく客人がある。いつになく彪吾は緊張していた。
階下から声がした。この館を管理してくれているツネさんだ。
「お越しです」
彪吾が回り階段をゆっくり降りていくと、スーツ姿の美青年が丁寧にお辞儀をした。ラウ伯爵筆頭秘書レオンだ。
深いコーヒーのような色合いのウォルナットの腰壁と手すりは渋い光沢を放ち、床にはめ込まれた大理石のモザイクは上品さを醸し出す。腰壁の上は白の漆喰塗。クラシックな室内の天井は二階まで吹き抜けで、アイアンのシャンデリアが室内を淡く照らしている。
ツネさんがレオンを貴賓応接室のソファに案内し、彪吾もそこに座った。
「わざわざ来てもらってありがとう」
彪吾がそう言っても、レオンはとりたてて愛想はしない。
「仕事ですので」
簡潔に答えたが、こう付け加えた。
「この櫻館はじつに見事な意匠ですね」
レオンが仕事以外の話題を出すのは非常にめずらしい。彪吾は心の中で喝采した。わざわざ呼び立てた甲斐があったというものだ。
ツネさんが、紅茶を持ってきた。小さなケーキと色とりどりのくだものを盛り合わせた皿には、鮮やかな色のソースが絵のように白磁の皿を彩っている。
「どうぞ。ツネさんの手作りなんだ」
ツネさんがちょっと頭を下げ、レオンがそれに応じた。
彪吾はレオンの様子をうかがっていた。だが、最初に室内を褒めて以後、櫻館のことはまったく話題に乗せない。ついに彪吾の方から話題を向けた。
「この館は、もとホテルだった」
「そのように伺っております」
「だが、ボクが十四年前に買い求めた」
「存じております」
相変わらず、レオンにはとりつくシマがない。彼は、透明な壁で完璧に守られており、押しても引いてもびくともしない。
「ボクがこのホテルに初めて泊まったのは二十二年前の今頃。ピアノコンクールがあってね」
レオンの表情は変わらない。
「その時、ボクと競い合った子がいたんだ」
レオンのまなざしがわずかに揺らいだ。
「でも、その子は決勝に出なかった。彼は事故で亡くなったと聞いた。ボクと同じ十歳だった」
レオンは目を上げ、まっすぐに彪吾を見た。
「大切なお友だちだったのですね」
彪吾は遠い目をしながら、つぶやくように答えた。
「うん……ボクにとってたった一人の友だちだった。でも彼にとってはどうだったかな。ほんの二日ほどいっしょにいただけだもの」
レオンはしばらく言葉を選んでから、こう言った。
「子どもにとっては、一日の思い出が一生の宝物になります」
彪吾は、レオンをじっと見て、フッと微笑んだ。
「そうだな。……うん、きっとそうだ。ボクは折にふれて、庭の木々や草花に問いかけてきた。その子のことを覚えているかと。ボクがその子を忘れたくなかったように、その子もボクを忘れていないと信じたい」
レオンは出された紅茶を飲み、供されたケーキを優雅に食して、来週のアカデメイア音楽学部特別招聘教授の就任手続きについて確認した。
ラウ伯爵の筆頭秘書がわざわざ出向くほどの用事ではない。それを承知で彪吾はレオンを自邸に呼び出し、レオンはそれに応じた。
帰り際、レオンは、ツネさんに、「じつに美味でした」と丁寧に礼を言い、玄関を去っていった。
レオンの後ろ姿を見送り、レオンが腰かけていたソファに座り、レオンが口にしたカップの縁を指でなぞる。ポットからすでに冷めた紅茶を注ぎ、彪吾はレオンのカップを口にした。大きなガラス窓の向こうで桜が揺れ、花びらが舞う。
――あとひと月で、また「あの日」が訪れる。
二階のロビーに上がった彪吾は、ピアノの前に座り、静かに鍵盤に指を乗せた。あの子にささげた初めての曲だ。調べは、ロビーから庭を抜け、塀の外へと流れ出た。
■山櫻――彪吾の記憶
櫻館――このホテルを買い求めたとき、九鬼彪吾が付けた名だ。
その二階にあるゲストルームから見下ろす庭は、彪吾が十歳のときに見た光景とほとんど変わらない。あの時の樹もそのまま残されている。樹齢三百年は超えるであろう山櫻の樹だ。
――いつもと違うホテルに、十歳のボクはワクワクしていた。
父さんがこのアカデメイアで常宿にしているホテルは最高級ホテルだったが、大き過ぎてあまり好きではなかった。国際サミット開催期間と重なり、いつもの部屋の予約が取れなかった。
やむをえず別のホテルを母さんが予約した。こぢんまりとしているが、庭が広く、植栽が豊かで、品の良いホテルだった。ボクは一目で気に入った。あさってには父さんも来てくれて、本選決勝の演奏を聴いてくれると言う。どんなに忙しくても、父さんはボクの演奏を聴きに来てくれる。
両親は、いつもボクを最優先する。ピアノを習いたいと言ったときには、すぐに最高レベルの教師を見つけてきてくれた。天才少年ピアニストと騒がれるようになってからは、過剰なマスコミ取材から守るように護衛もつけてくれた。学校生活に支障が出ないよう、スケジュールで過労がでないよう、母さんが細心の注意を払ってくれた。両親にとってボクは最愛の一人息子であり、ボクが天才と騒がれ、子どもらしさをなくすことを何よりも怖れていた。
ピアノを弾くことは楽しかったが、コンクールに来ると騒がれ過ぎていつも疲れた。期待された通りに答え、子どもらしいふるまいを求められつつ、天才と持ち上げられ、ボクはいつも自分でなくなるような気がしていた。だから、予選で聴いたその子のピアノは衝撃であり、救いだった。
――あれほど自由に弾いてみたい。
ピアノを弾き始めたばかりの頃に感じた楽しさがよみがえる。しかも、その子の演奏は、ボクの演奏とはかなり違う。その美しく伸びやかな音に、ボクは魅入られた。
――あの子と話したい。
明日から本選が始まる。昨年優勝者のボクは本選からの出場だ。ベッドにゆるやかな月光が落ちる。ボクは、その子の音を頭の中で何度も繰り返しながら、深い眠りについた。
その年のコンクールは、いつになく騒がしかった。
ラウ財団が主なスポンサーを務めるルナ音楽祭の一環として開かれるジュニアピアノコンクール。ピアニストを目指す子どもたちのための国際コンクールとして注目度が高い。
今年も優勝は九鬼彪吾だとだれもが信じていた。メディアも彪吾にばかり注目していた。ところが、予選二日目の午後に登場した少年が話題をさらってしまった。どこの子かわからない。評判を耳にして、予選最終日に、彪吾もその演奏を聴きに行った。
本選での少年の演奏はさらに見事だった。身体の奥深くまで震わせる音色。音にまるで色がついているかのような豊かな表現。正確なタッチ。弾き終わった少年はピアノの横に立ち、ニコッと笑顔になった。そのあまりの美しさに彪吾の心が囚われた。自分の出場も忘れて、彪吾はその少年を探した。
その子はすらりとした女性のそばに立っていた。優しそうな女性だった。その女性は彪吾を見るとにっこり微笑み、こう尋ねた。
「九鬼彪吾くんでしょ?」
彪吾がコクンとうなづくと、女性は自分の後ろに隠れている少年を引っ張り出した。
「ほらほら、レオンさま。会いたがっておられた彪吾さまですよ」
レオンと呼ばれた少年はわずかに首をかしげ、モジモジしながらつぶやいた。
「……ボクはレオン……」
彪吾はうれしくてレオンに手を差し出した。レオンが彪吾の手を取る。
「ボク、彪吾」
二人はニコニコしながら互いを眺めた。いずれ劣らぬ美少年。黒い髪、黒い目も同じだ。ただ、レオンのほうが色白で、やや背が高かった。レオンの髪はまっすぐだが、彪吾の髪はやわらかくゆるくウェーブがかかっていた。
「彪吾!」
後ろから焦ったような声がした。彪吾の母が、彪吾を探して走ってきた。二人の少年が手を取り合っているのを見て、母は表情を和ませた。
「まあまあ、彪吾、よかったわね。お友だちになれたのね」
「うん!」
彪吾の母は、レオンと付き添いの女性に丁寧にあいさつした。
「九鬼彪吾の母です。さきほどの演奏はすばらしかったですわ。この子が感動してしまって、こうして会いにきてしまったようです」
「いえいえ、こちらこそ。レオンさまは彪吾さまの演奏をじかに聴きたくてこのコンクールにご参加になったようなものです。レオンさま、よかったですね。彪吾さまにお会いできて」
レオンは晴れやかな笑顔を女性に向けて大きく頷き、そして彪吾親子に満面の笑顔を向けた。
キュウン、と彪吾の胸が熱くなった。
(この子はボクに会いたがっていたんだ!)
うれしすぎて彪吾の胸が高鳴った。
トク、トク、トク、トク……。
彪吾は、自分の心臓の音がレオンに聞こえるのではないかと恥ずかしく思った。でも、聞こえてもいいや。うれしくて、うれしくて、その喜びを大声で叫びたかった。
出番があるからと母に引っ張られながら、彪吾は何度もレオンを振り返った。レオンは精一杯大きく手を振ってくれた。
■月下の少年
母と一緒に早めの夕食を終え、彪吾は部屋でくつろいでいた。
母は知人と会う約束があるとのことで出かけた。早めにかえってくるからと母は心配そうに彪吾を気遣ったが、彪吾はまったく気にしていなかった。レオンの音色を頭の中で反芻していれば、時間などあっという間にすぎる。
ホテルの二階の部屋からは、山櫻が見えた。すでに花の時期は過ぎ、葉桜になっている。満月だった。明るい月が煌々と桜の木を照らしている。樹上に、ふと何かが見えた。目を凝らすと、ひとのようだった。
――まさか……?
彪吾は窓際に駆け寄った。
樹上から笑顔が向けられた。レオンだ。
彪吾は、思わず樹上に手をかけようとしたが、バルコニーからはかなり離れている。
「待って!」
レオンがあわてて止めた。そして、ヒラリとバルコニーに飛び移ってきた。彪吾が驚いていると、レオンがにこやかにこう言った。
「天月の者は、樹に上ったり、飛んだりできるんだ。でも、キミには無理だよ。手をケガしちゃいけない。大事にして」
レオンが彪吾の手を取った。やわらかい手の感触に、彪吾の身体がカッと熱くなる。
「ねえ、入って」
彪吾はレオンを部屋に招き入れた。
「ボクの部屋とはちょっと違うね」
部屋を見回しながらレオンが言った。
「キミもここに泊まってるの?」
彪吾は思わず大きな声をだした。
「うん。四階の部屋だよ。ここよりだいぶ狭いけど」
二人はクスクスとしゃべりあった。
「天月ってどんなところ?」
「すごく厳しいところ。はしゃぐのは禁止、遊ぶのも禁止、樹に上るのも禁止。でも、こっそりやっているけどね」
夜九時前、彪吾の母が戻ってきたとき、ロビーに青い顔をした女性がいた。昼過ぎに会った女性、レオンのそばにいた女性だ。声をかけると、震える声でミライと名乗った。
「レオンさまが見当たらないのです。もしや彪吾さまとご一緒ではないかと思って……」
二人は急いで部屋に戻った。
続き間になっている奥の部屋のドアを開けると、広めのベッドの上に二人の子どもが眠っていた。手をつなぎ、幸せそうな寝顔だった。窓は開いていて、レースのカーテンがかすかに風にそよぎ、満月の光が二人の子どもをやわらかく包んでいる。
二人の女性は顔を見合わせた。彪吾の母は、窓を閉め、二人にそっと羽毛布団をかけて、部屋のドアを閉めた。
彪吾の母久美は、ミライにくつろぐよう伝えて、電話でフロントに紅茶とデザートのサービスを頼んだ。
ミライが、子どもたちの寝室を見やりながら、軽いため息をついた。
「おそらくレオンさまはバルコニーからお部屋に入ったのでしょう。レオンさまなら、二階のバルコニーくらい、いとも簡単に飛び移れます」
「まあ……すごいのですね。やはり、うわさ通り、レオンくんは天月の子なのですか?」
「ええ、そうです。ですが、いくら天月の者でも、十歳の子がこんなことは普通できません。レオンさまなればこそです」
「レオンくんは、ピアノも天月の技も並外れているのですねえ」
久美に褒められて、ミライは面映ゆい。
「いえいえ。お宅の彪吾さまこそ、すばらしいピアノでした。レオンさまが聴きたがっていたはずです」
久美がうれしそうに微笑んだ。二人とも三十歳代半ば。同世代の気安さが、二人の女性の距離をぐっと縮めた。
「それにしても、木に登ったり、バルコニーから忍び込んだり……。いつものレオンさまからは考えられません。レオンさまは天月の模範で、いたずらも悪ふざけもできないお立場なのです」
ミライはまたため息をついた。
「でもそれでは息が詰まってしまうでしょう。まだ十歳なのですよ」
久美は母親らしい心配を示した。
「そうなのです。レオンさまはいつもご自分を抑えておられ、わがままを言うことなどございませんでした。はじめてなのです。レオンさまが何かしたいとご自身でおっしゃったのは……」
「レオンくんがコンクールに出たいと言ったのですか?」
「そうです。周りは止めました。なにせ、天月です。天月の子が、しかも、天月の模範となる子がコンクールに出て人目にさらされるなどもってのほかと、だれもが反対しました。でも、レオンさまは行きたいと……会いたい子がいる、聴きたいピアノがある。そうおっしゃったのです」
「それが、彪吾のことなのですか?」
「そうです。レオンさまは、何かのきっかけで、昨年のコンクールでの彪吾さまの演奏をお聴きになったようです。めずらしく意思を通そうとするレオンさまに、とうとう天月幹部も折れました。わたしが付き添いとなり、レオンさまをマスコミに晒さない、他の天月関係者にも知らせないという条件で許可がおりたのです」
「まあ、厳しいのですね」
「ええ。でも、やはり十歳の子ども。レオンさまは初めて山を降りてとてもうれしそうでした。何もかもが新鮮だったようです。天月の子のうち、特に優れた子は、十歳過ぎにご老師さまと世界をめぐる修行の旅に出ることがあります。レオンさまもいずれその予定でした。その前に少し、山以外の世界を見るのも良いだろうという判断も幹部にはあったようでございます」
「天月の厳しさはうわさでは聞き及んでおりますけれど、聞きしに勝る世界ですのね」
天月仙門は、創建二千五百年の名刹。そのルーツは、古代ウル帝国の学舎に遡る。
学識、武術、音曲、医術のすべてに秀でる一門で、修行を重ねた者はさまざまな超人的能力――異能――をもつという。組織の詳細は公表されていないが、世界中の多くの学者や政治家が天月出身であり、さまざまな天月伝説が生まれている。
ただ、天月山に暮らす者が山を下りることはめずらしい。ミライは、高校・大学時代にアカデメイアへの留学経験があり、山以外の生活を知る数少ない人物だった。
「レオンさまが一番期待していたのは、彪吾さまとお会いになることでした。まさにそれが実現して、どれほど喜んでおられるか。わたしにはよくわかります」
久美も頷きながら笑顔で応じた。
「彪吾も同じです。昨日までとまるで表情が違います。じつは、彪吾は、今回のコンクールには出たくないと言っていたのです。あの子は好きでピアノを弾いているだけで、コンクール自体にはまるで興味がありません。ただ、あの子の才能に目をつけた大人たちがいろいろと脇を固めて、彪吾を身動き取れない状態に追い込んでしまって……。わたしはそれがとても心配でした」
「そうだったのですか……。うちのレオンさまも似たようなものです。ただただピアノでご自身の気持ちを表現するのが楽しいようで、遊びのように毎日新しい曲を作るのです。でも、レオンさまはその能力が抜きんでているあまり、同じ年頃の友だちがおりません。いつも一人でした。それが、こちらに来て、彪吾さまにお会いしたとたん、本当に子どもらしく生き生きとしておられます。それだけでもお連れしてよかったと思っています」
「それはこちらも同じです。彪吾も早くから注目されて、学校にまともに通えなかったせいか、友だちが一人もいないのです。それが、レオンくんと会ったあとは、決勝でレオンくんのピアノを聴きたいと、それはそれはうれしそうに言うんですよ。はじめての友だちに彪吾も舞い上がっているみたいです。わたしにはそれがとても、とてもうれしい」
二人の女性は顔を見合わせてにっこりと笑い、奥のドアを見やった。子どもたちはぐっすりと寝入っているのだろう。コトリとも音がしない。
■夢のような一日
朝食は四人で一緒にとった。
朝から、子どもたちははしゃいでいる。昨日の本選初日で選ばれた十人が、今日の二日目で演奏し、明日の決勝に進む二人が選ばれる。レオンも彪吾も出番は午後だった。本選会場は、ホテルから歩いてすぐ。二人の女性と二人の子どもたちは、午前の時間を一緒に過ごすことにした。
彪吾はレオンを一階のピアノの前に誘った。宿泊客はほとんど出払っているようだ。
彪吾がポロンとピアノの鍵盤を鳴らすと、レオンがポロンと応じた。二人は椅子を並べて、一緒に弾き始めた。二人の女性は、少し離れたところでお茶を飲みながら、子どもたちを見守った。最初は、課題曲の一つであるショパンの曲を二人で一緒に弾いていたが、やがて、聞いたことのない曲になった。二人でセッションを始めたらしい。
ウキウキするようなリズム。高まる音色。
ホテルに残っていた客も、従業員も、そして二人の女性も、思わず聞きほれた。二人の美少年が、大きな黒いグランドピアノを自在に使って、軽やかで自由な音を響かせる。
二人が顔を見合わせながら弾き終わると、万雷の拍手が起こった。二人の少年は手をつないで、お辞儀した。そして二人の女性のもとに駆け付け、用意されたフレッシュジュースを飲んだ。
彪吾たちの部屋でゆっくりとランチを済ませ、四人はそろって会場に向かった。ホテルフロントの助言にしたがって、ホテルのメイン入り口からではなく、裏口から出て、菜園脇を抜け、本選会場の裏口から入った。すでにマスコミが二人の美少年のツーショットを撮ろうと待ち構えていたからである。
決勝に向けた課題は、指定曲一曲と自由曲一曲の演奏だった。指定曲はいくつかの中から選ぶことになっている。そして、自由曲は、自分が作曲した曲でもよかった。
先に出場したレオンが自由曲として披露したのは、聞いたことのない美しい曲だった。彼が作った曲なのだろう。彪吾は、月下の彼を思い出した。二人のおしゃべりを思い出した。そして、二人で手をつないでぐっすり寝入ったことも。彪吾の頬がうっすらと染まっていく。うれしくて、うれしくて。
――レオンは、自分との昨日の一夜を曲にしてくれている!
彪吾は最後の登場だった。
自由曲を急遽変更した。もとは、子どもには弾きにくい、難易度の高い巨匠の作品を選んでいたが、それをやめた。レオンの気持ちに対する返礼をしたかったからだ。
彪吾の奏でる曲は、明るく、楽しく、ウキウキとした喜びに満ちた曲だった。彪吾は、客席にレオンの姿を見つけた。レオンの顔がうれしそうに輝いている。伝わった。自分の気持ちが伝わった。彪吾はますますうれしくなり、乗りに乗って、演奏を終えた。レオンの時とかわらぬほど、すさまじい拍手の嵐だった。
彪吾はレオンだけを見ていた。レオンも彪吾だけを見ていた。
■消えたレオン
夕食を一緒にとる予定だった。彪吾の父も到着していたので、母が、今夜は五人分の予約をしてくれた。
なのに、いくら待っても、レオンが来ない。ミライも来ない。母が心配して、何度も確認に行った。でも、何もわからなかった。
夜遅く、ミライが戻ってきた。憔悴しきっている。そばにレオンがいない。彪吾は焦った。母がミライのそばに飛んでいった。母の胸にくずおれるように、ミライが泣き始めた。
「レオンさまが……レオンさまが……」
ミライの声は言葉にならない。彪吾の顔が青ざめていく。父がホテル関係者に確認に走った。
いつかはわからない。
レオンの姿が忽然とホテルの部屋から消えたという。
ミライが必死で探し、ホテル従業員も手伝った。天月別院からも数人が駆け付けた。総出で周囲を探し、警察にも届けた。だが、レオンの行方がわからない。すべての演奏が終わったあと、だれもレオンを見た者がいないのだ。
今も夜を徹して、警察と天月の者が捜索を続けているという。母はミライのそばで励ましの言葉をかけ続け、父は捜索情報を得るためにフロントに張り付いている。彪吾はそんな父のそばで、父の手を握り続けていた。
母が彪吾とミライを部屋で眠るように連れて行こうとした。だが、ミライも彪吾も動かない。大きなソファの上で、彪吾は父のそばに座り続けた。父がずっと彪吾の肩をさすり続けてくれる。その大きな手すら、不安をなくしてはくれなかった。
窓の外は満月。昨夜あれほど美しくやさしく感じた月の光が、今夜はあまりに禍々しく、よそよそしい。やがて月蝕が始まった。彪吾の不安を煽るように、月が欠けていく。
夜が明けると、ふたたび動きがあわただしくなった。捜索が本格化したのだ。捜索範囲が拡大され、警官の数も格段に増えた。天月の者も一挙に増えた。ミライは震え続けている。そばに母が付き添っている。
彪吾は目を大きく見開いたまま、これが現実ではないことを祈り続けた。彪吾の顔は蒼白で、くちびるは荒れ、身体が小刻みに震えている。ついに吐いてしまい、ソファに横たえられた。
前代未聞のことが起こった。コンクールの決勝が消えたのである。
決勝進出の二人とも出場を辞退した。理由は明らかにされず、子どもたちを守るためにマスコミはいっさいシャットアウトされた。
彪吾が目覚めたのは、三日後だった。
救急車で運ばれた病院のベッドの上だった。岬の上病院。母と父の顔が見えた。父はすべての仕事をキャンセルし、彪吾のそばにいた。母は泣きはらしたようで、目が赤くなっていた。でも、ミライもレオンもいなかった。
「レオンは……?」
彪吾は、弱々しい声で尋ねた。
父と母は互いの顔を見合わせ、父が言った。
「大丈夫だよ。二人は天月に戻った。安心して眠るんだ」
そう、よかった……。彪吾は小さくそうつぶやいて、ふたたび深い眠りに落ちた。




