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Ⅲ-6 エピローグ――父の思い出:リト日記(2)

■形見

 古ぼけたアパートの一室で、オレはパソコンを開き、データを呼び出した。父さんの形見だ。

 

 歴史民俗学の教授であった父さんは、地元の古老を訪ねては神話や古い言い伝え・慣習を聞き、記録に取っていた。調査の時、父さんは必ずオレを連れて行った。ゼミ旅行にすらオレを連れていった。「リトくん、リトくん」と、学生や院生のお姉さんたちにはずいぶんかわいがってもらった。

 

 ふだん一緒に暮らせない一人息子との短い旅を、父さんはことのほか楽しみにしていたらしい。息子が学校を休むことなど気にしなかった。学者でありながら、父さんは学校教育をあまり信用していなかったらしい。しかし、中学校で出会った一人の教師には、最後まで恩義を感じ、礼を尽くした。

 日だまりの縁側で、オレを膝に抱きながら、父さんが問わず語りに恩師との縁を教えてくれたのはいつだったろうか。


 わたしは孤児だった。施設で育ったんだよ。学校にはなじめなくてね。ずっと図書室に引きこもった。中学に入ったばかりの頃だったよ。その日も隠れるように図書室で本を読んでいたんだ。そしたら、ふらりとやってきた初老の人物がわたしに声をかけた。「おもしろいかい?」って聞くんだ。

 見たことも、話したこともない人だった。大柄で強面(こわおもて)だ。おののいて、わたしは身をすくめた。「どう?」と迫る男に、わたしがぎこちなく頷くと、彼は書架から数冊の本を引っ張り出した。

「これはもう読んだかい?」

 わたしはまたおどおどと頷いた。すると、彼はいちばん高い段の図書を数冊引っ張り出した。

「これは?」

 わたしはふるふると首を振った。まだ上背(うわぜい)が足りず、背伸びしても手が届かなかった本だ。

 次の日も彼はやってきた。こうして、わたしはその男から個人授業を受けるようになったんだ。彼が学校一の変わり者の社会科の先生だと知ったのはしばらくしてからだった。

 

 わたしがこうして研究できるようになったのは、すべてその先生のおかげなんだよ。先生は、わたしのためにいろいろな本を図書室にそろえてくれた。先生が持っている本も貸してくれた。いつからか、週末は、先生の家の書斎で本に囲まれて過ごすようになった。先生はご夫妻ともに学校の先生でね。夕食はいつもご夫妻で作っていたんだ。わたしも手伝ったよ。施設の食事の貧しさを知っていた先生は、わたしのために肉や魚を奮発してくれた。おかげで、中学の時にどんどん背が伸びたんだ。

 先生は、高校だけでなく、大学に進学するための手続も整えてくれた。十八歳で施設を出たら働くのが当たり前と言い聞かされていたから、大学に行けるなんて夢にも思ってなかった。わたしはびっくりした。「勉強ができるんだ!」って思って、思わず泣いたよ。先生のおかげで、大学の入学金も授業料も免除され、返済不要の奨学金を得て、寮生活を始めることができた。高校時代から始めていたアルバイトも続けた。

 

 進学した大学には、先生の後輩がいてね。わたしは、迷わず、歴史民俗学を専攻に選び、フィールドワークに明け暮れた。わたしが全国の聞き取りを速やかに行うことができたのは、先生の信用と人脈があったからなんだ。時間があるときは、わたしは図書館にこもってたくさんの本を読んだ。先生から得たご恩も、図書館で学んだこともすべて、今のわたしを支える力になっている。

 だから、リト、おまえも人との縁を大事にして、恩を忘れず、自分の知識をどんどん広げるんだよ。

 今見直すと、学校の学びはよくまとまっている。わたしはそれがわからずずいぶん遠回りしたが、学ぶことは決してムダにはならない。リト、きちんと学んで、たくさんの本を読みなさい。いつか、それがおまえを支えてくれるから。


 父さんは、異例の速さで母校の教授に抜擢され、その博識ぶりは広く知られたという。オレが父さんの恩師に会ったときには、その人はニコニコと人の良い老人になっていた。死期を悟ったその先生は、若いときから収集していた聞き取り資料をすべて父さんに託した。

 そんな父さんもまた、五年前、不慮の事故で世を去った。四十歳だった。このアカデメイアに調査に来ていたときのこと。たった一回、オレが父さんについて行けなかった旅だ。高校入試のためだった。それが今でも悔やまれる。だから、オレは決心したんだ。ぜったいにアカデメイアに行こうって。


■憧れの女人

――明るく快活な性分はおまえの母さんによく似ている。

 父さんはよくそう言って、オレを切なそうに見つめた。父さんと母さんは、オレが五歳の頃、離婚した。ふたりの()()めを、父さんは恥ずかしげもなく、オレに何度も話してくれた。


 若い頃、わたしは、調査で訪れた民家で一人の女性に出会ったんだ。知的で美しい横顔だった。わたしは釘付けになってしまった。いわゆる一目惚れってヤツだな。初恋だったよ。

 聞き取り相手となってくれたのが、いまのリトのおばあちゃんだよ。おばあちゃんは、先生の古くからの知り合いだったんだ。

 普通なら聞き取りに応じてくれる相手ではない。九孤家は一千五百年以上も続く名家で、地元の山林のほとんどを所有する大地主だもの。生業は林業と農業で、何人もの雇い人がいた。九孤家に関わることは聞かないという約束で、おばあちゃんは聞き取りに応じてくれた。


 おばあちゃんが話してくれた物語は、すでに(すた)れつつあった言い伝え。わたしは夢中で聞き入ったよ。障子の向こうには、さきほどの女性もいた。あとで聞いたが、そのときにわたしに多少興味を持ったらしい。わたしは一目惚れだったのに、彼女は興味をもっただけだったなんてね。


 お母さんは、気鋭の歴史学者で、当時すでに有名だった。わたしは、帰宅してすぐに彼女の本を買い求めた。奥が深いのにワクワクするほど軽々とした筆致だった。

 その後、わたしはものすごく頑張った。恋の力って大きいね。なんとかして彼女に会いたくて、彼女が出席しそうな学会にはぜんぶ参加し、やっと再会できたんだよ。でも、彼女は壇上のパネリスト、わたしはフロアにいるその他大勢のしがない大学院生。彼女の凜とした姿に、わたしはさらに惚れ直してしまった。

 わたしはフロアから思わず手を挙げて意見を述べたんだ。居並ぶ有名どころの教授たちを差し置いて、彼女はわたしの意見を採り上げた。十歳も年下の大学院生の意見がとても面白かったらしい。


 わたしは彼女に夢中だった。彼女と結婚できたとき、天にも上る気持ちだった。そして、おまえが産まれて、わたしは本当に幸せだったんだ。お母さんとは別れてしまったけれど、わたしにおまえを与えてくれた。

 おまえは、わたしにとって何よりの宝物だ。だから、リト、どうか元気に育っておくれ。


■合格通知

 母さんと別れた父さんは、長い一人暮らしを研究だけに捧げた。調査と資料購入に収入のほとんどを充てていたのだろう。

 家も持たず、官舎で過ごした父さんには財産らしい財産はなかった。生活用の荷物はわずかで、ただ、山のような本と資料が残された。

 父さんの貯金はわずかだったけれど、オレ名義の貯金を残していた。ビックリした。そして泣いた。


 几帳面な父さんは、聞き取りデータをきちんと整理していた。ただ一人の遺族といっても、高校生のオレにデータを分析する力などない。頼れる教師もいなかった。

 それでも父さんとつながっている証がほしくて、毎日少しずつ、オレは父さんの著書と論文と残されたデータを読み続けた。父さんの著書に何度か名前が出てきた人物の著書や論文も父さんの蔵書として残されていた。それも片っ端から読んだ。


 アカデメイアの入試では、父の論文の書式を参考に、ウル学に関する論文を書いて提出した。これが評価され、超難関大学アカデメイアの合格につながった。

 すべて、父さんのおかげだ。

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