Ⅲー5 ばあちゃん来訪
■ばあちゃん来訪
あやしい気配に、リトは思わず身構えた。
ストン。
気がつくと、地面に転がっていた。瞬く間もない。仰向けになったリトの顔をだれかがのぞき込んでいる。
「えらいなまっとるのう」
「ば……ばあちゃん!」
パッと起き上がり、老女の前にスックと立つ。背筋がピンと伸びた白髪の老女は、孫を見上げた。
「首がくたびれるやろが。ほんまにでかいやっちゃ」
リトはすかさず老女の荷物を持ち、後ろに回り込んだ。
「こら、なんでわしを先にする?」
リトは肩をそびやかしてつぶやいた。
「危険だもん……」
階段を途中まで上っていた老女が、突然、階段を蹴って宙を飛び、リトの背中を蹴りながら、軽やかに階下に降りた。はずみでリトはもんどりうって階段を転げ落ちた。
ドタン、ガタン、ガシャン、フギャン。
大きな白いイヌがリトの下敷きになって伸びている。
――ヤバイ。
大家のおばさんのイヌだ。おまけにおばさんが大切にしている鉢植えまで割ってしまった。
おばさんが飛び出してきた。
頭が泡だらけで、バスローブを羽織っている。入浴中だったのだろう。
「まあ、ガンちゃん。なんてこと。うわわあ、蘭ちゃんが、も……萌ちゃんまで……」
狂気のような叫び声がアパート中に響く。あちこちの部屋から顔がのぞいた。おばさんは、舌を出して目をまわしているイヌをなで、花々の名をいちいち挙げながら、壊れた鉢を拾い上げていく。
リトは謝った。もう三ヶ月も家賃を滞納しているのに、こんな騒ぎを起こしてはあとがこわい。
ばあちゃんはいつのまにか姿を消している。リトはひたすら謝り続けようとしたが、かたわらでイヌがむっくりと起き上がった。首を二、三回振り回し、リトに目を向ける。相変わらず目つきが悪いイヌだ。と思うまもなく、ガンちゃんがリトに飛びかかってきた。
「ひえええええええ」
リトの悲鳴が響く中、アパートの見物人たちがゾロゾロと姿をあらわしはじめた。
「わっはっはは。あははは。きゃははは」
笑い声が小さなアパートを包み込む。
リトはアクロバット並みに逃げ回り、ガンちゃんはひたすら追いかける。思いもかけぬ余興にみんな大喜びだ。結局謝るよりも、逃げるほうが先になった。
後ろで、おばさんの目が三角になっていることにも、リトは気づかなかった。
■最後通告
翌朝、おばさんは、ガンちゃんを抱いて、さんざん文句を言い、リトに最後通告をした。
「一ヶ月以内に出て行ってちょうだい。そして、過去三ヶ月分は一週間以内には支払うこと。今月分は出ていくときでいいわ」
「いや、あの、大家さん。ボク、ここを出たら行くところがなくて……」
リトは泣きべそをかきながら、懇願した。アカデメイアに近い場所はどこも高い。このアパートは安さでは掘り出し物だ。
「キミがこんなに無責任だったなんて、わたしの見込み違いだったみたいね」
「いえ。……あれはイヌに追いかけられて」
「ガンちゃんのせいだというの? ガンちゃんを押し殺すところだったくせに?」
おばさんは、ガンちゃんの鼻面をリトに押しつけた。リトの頭は真っ白になった。
ペロリ。
ガンちゃんのざらざらした舌がリトの頬を舐める。リトの身体は硬直し、失神した。おばさんはかまわず、怒りを背中に表したまま、階下に去っていく。
正気に戻って室内を見渡すと、ばあちゃんがちゃぶ台のそばに座り、饅頭を食っていた。
「ばあちゃん。ひどいよ。オレ、行くところがなくなったじゃないか」
「どっかほかをさがしたらええやろが」
「ないよォ! こんな安いところ、ほかにないんだ!」
頭をかかえる孫をチラリとみて、ばあちゃんは饅頭をペロリとたいらげた。もう一つの饅頭に手を伸ばす。その手の下をもう一つの手が目にもとまらぬ早さで動き、饅頭をかすめ取った。
「これはオレんだよ! 最後の一個くらい、孫に残しといてよ」
パシッ。
リトの手の甲がはたかれ、手から飛びはねた饅頭は、ばあちゃんの口のなかにすっぽりおさまった。
「もおおお!」
孫の泣き面を気にも留めず、ばあちゃんはゴックンと饅頭を飲み込んだ。
■森の獣医
モモの調子が悪い。下痢と吐き気が止まらない。
アイリは真っ青になっているし、風子もどうしたらいいかわからない。
――いったい、どこに連れて行けばいい?
町の中は目立ってしまう。寮のだれかに見つかったら大ごとだ。
アイリは、町外れの一番人気のなさそうな動物病院を検索した。二人でお金を出し合ってタクシーに乗った。モモは風子のリュックの中に敷かれたタオルの上で眠っている。苦しそうだ。
タクシーから降りたふたりは絶句した。森の傍に立つ動物病院――とてつもなくオンボロだった。オンボロ加減では、岬の上病院を上回る。客などもう何年もいそうにない。やっぱり帰ろうとアイリが引き返そうとしたとき、中年女性が声をかけてきた。
「あら、この病院にご用?」
アイリはいつも通り愛想がない。風子が一生懸命取り繕った。
「はい。……うちの子がちょっと調子悪いみたいで」
中年女性はずうずうしく、風子のリュックの中をのぞき込んだ。
「あらまあ。とってもかわいい子イヌちゃん!」
かわいいと言われて、アイリの表情が一瞬デレッとなる。風子がモジモジしている。
「わかった! こんなオンボロ病院にかわいい子を預けて大丈夫かって思ってるでしょ?」
風子は思わず頷いた。
「正直な子ねえ。大丈夫よ。この病院は限りなくオンボロなんだけど、獣医の腕は確かなの。ちょっと変わり者、いや、ものすごく変わり者でね。客を選ぶのよ。そんなことやってる経営状態じゃないのにねえ」
「えらい言われようやな」と、初老の丸顔の男が、のっそり姿を現してこう言った。
「マリさんや。ものには言いようがあるで。わたしは客を選らんどんやない。わたしを必要としとる動物のために診とるんや」
親しみやすい関西弁だった。風子はなんだかホッとした。
「はいはい。あ、うちの子、どうでした?」
「大丈夫や。ちょっと脳しんとうを起こしただけやな。ほかはどっこも悪ない。向こうで、あんたを待っとるで」
「きゃああ! ありがとうございます!! ガンちゃあん、ママがきたわよお。どこお?」
マリと呼ばれた女性がけたたましく叫びながら、入り口の向こうに消えた。
「ありゃ、お客さんやろか?」
アイリがモモをぐっと抱きしめる。風子がつぶやくように言った。
「あの……この子の調子が悪くなっちゃって」
「どれどれ、おお、かわいいシバイヌやのう。むこうで診てみるけど、ええかな?」
アイリがまだうさんくさそうな目で男を見る。
「嬢ちゃんや。そんなに睨まんでもええで。わたしは、こう見えてもれっきとした獣医やけんの。虚空という」
診察台に乗せられたモモは、ぐったりとしたまま動かない。虚空は慎重に触診を続ける。
「産まれて一ヶ月ぐらいやな。本当は二ヶ月ぐらいまでは母親の元で育てなあかん。この子は捨てられとったんか?」
風子がこくりと頷いた。
「こんなにかわいいのにのう。捨てられとった子は、なんか病気をもっとるかもしれん。念のため、一晩かけて調べてみたいけど、ええかの?」
風子とアイリは顔を見合わせた。
「心配せんでええ。見た限りじゃ、ちょっとした食あたりやな。まだ、消化能力が乏しいけんの。ただ、念のために健康診断をしておきたいと思うんじゃ」
風子は「お願いします」と頭を下げた。アイリの手を強く握ったまま、風子は震えている。
後ろからふたたびけたたましい声が響いた。白い大きなイヌを連れている。毛並みはしっかり手入れされてきれいだが、目つきが悪い。これがガンちゃんなのだろう。
「大丈夫よ。お二人さん。言ったでしょ。この先生は名医だって。うちの子も捨て子だったの。拾ってすぐにここに来て診てもらったのよ。いまはこんなに元気でしょ。ああ、ここにきたのはねえ。アパートの店子がこの子に悪さをしてこの子が気を失ったからなの。まったくもう許せないわ!」
マリは、そのときの光景を思い出したのか、プンプンと怒り始めた。
「それにしても、あなたたち中学生か、高校生くらい? 二人でイヌを飼ってるの?」
何か言おうとする風子をアイリが袖を引いて止めた。それに気づいた虚空が、マリを制した。
「マリさんや。そんくらいにしとけ。言いとうない事情はだれにでもあるけんのう」
ガンちゃんが首を伸ばし、モモの前足をそっと舐めた。モモがピクリと動き、かすかに目を開けた。
「モモっ!」
「モモお!」
風子とアイリがモモに飛びつく。マリも虚空もその様子をにっこりしながら見守った。
■マリおばさん
「きれいだね。そう思わない?」
雨上がりの空気は若葉の香りを含んでいた。かつてシャンラ王国王太子が愛した離宮だったというこの庭園は、二十年ほど前に、王太子の遺言に従って市民に寄付された。
自然を生かしたつくりで、広い芝生の上は自由に走ることができる。風子は向こうにそびえる白亜の宮殿にうっとり見とれた。
振り返っても、アイリの答えはない。向こうで、アイリは、喜んで走り回るモモをひたすら追いかけていた。
モモを拾い上げてから一カ月余り。
病院に運び込んだときにモモは外の空気の楽しさを覚えたようだ。ワクチン接種までは通常の散歩には行けない。だが、外に出たがるモモを連れてここにやってきた。モモはすっかり元気になって、うれしそうに駆け回る。早朝の公園にほとんど人はいない。ジョギングをする人がときどき通りかかるくらいだ。
あのアイリがはしゃぐ姿もはじめて見た。相変わらず古びたジャージ姿だが、きらめく朝日を受けてアイリは輝いていた。
「ワン、ワン、ワン」
突然、大きな声が響いた。
モモがひっくり返っている。足は動いていない。
アイリが血相を変えて走り寄った。風子もあわてて駆け寄った。声をあげたのは大きな白いイヌ。目つきが鋭い。中年女性が口を押さえて突っ立っている。
アイリが近寄るのより早く、白いイヌがモモに近づいた。大きな口から歯をむき出しにしている。
「やめろおおお!」
アイリが叫んだ。
白いイヌはかまわずモモに顔を近づけた。
――モモが噛まれる!
風子の足がもつれ、手が空を切り、風子は芝生につっぷした。その目の前で、白いイヌが大きな舌を出した。追いついたアイリが蹴り上げた足を引っ込めようとしてひっくり返った。アイリの目にモモの顔が映った。目を閉じたままのモモの顔を白いイヌが懸命に舐めていた。
アイリが這い寄り、風子も這い寄った。二人の目のなかで、モモの目が開き、白いイヌにすり寄って、くすぐったそうに笑った。見上げると、この前病院で会った女性だった。
「モモちゃんだったわねえ、その子。うちのガンちゃんが気に入ったみたい。あ、あたしはマリよ。あなたたちは?」
「風子です。こちらはアイリ。わたしたち、アカ……」
そう言いかけて風子は口をつぐんだ。寮はペット厳禁。知られたらモモは即座に追い出される。マリはふたりをじっと見てにんまりした。
「風子ちゃんとアイリちゃんか。よろしくね。しばらく一緒にいようか。ガンちゃんもモモちゃんも楽しそうだからね」
風子は頷いた。アイリはさっさと二匹と遊んでいる。
ほんとにアイリは変わっている。人間に対してはまるで無愛想なのに、なぜイヌといると人が変わったように明るくなるんだろ?
ひとしきり遊んだモモは疲れてきたらしい。ガンちゃんの懐で眠り始めた。ガンちゃんはアイリのひざまくらだ。
すこしずつ日が高くなってきた。人も増えてきた。ヤバい。戻らないとだれかに見つかってしまう。風子が焦り始めたのを見越すように、マリおばさんが提案した。
「あなたたち、もし時間があるなら、ちょっとうちに寄る? このすぐ近くなんだけど。ガンちゃんも喜ぶだろうしね。朝ごはんもまだなんじゃない?」
風子は迷った。出会ったばかりの人の家にいきなり行くなど失礼だし、そもそも危ない。モモを抱いたアイリがすかさず言った。
「行く!」
目的はタダメシだ。
マリおばさんがガンちゃんと連れだって、下り坂を先に行く。その後ろで風子がアイリにささやいた
「ホントに行くの?」
「大丈夫だ。モモがまったく警戒してない」
そういえばそうだ。
モモは怖がりで、寮ではちょっとした音にも敏感に反応する。この前の夜、ひそかに散歩に連れ出そうとしたら、寮の玄関口まで来たとたん、階段下に逃げ込んでしまった。ちょうどそのときだ。寮長ロジーナが寮に戻ってきた。寮長はジロリと二人を見てこう言った。
「もうすぐ門限よ。こんな遅くにどこへ行くつもり?」
「ちょ……ちょっと図書館に本を借りに。……明日の授業で本がいるのを思い出したから」
風子が言いつくろっているうちに、アイリはさりげなくモモの前を塞ぎ、寮長は何も気づかず二階へ上がっていった。寮長の姿が見えなくなるのをみはからって、アイリが耳打ちした。
「アイツ、あたしたちが目障りみたいだな。モモが見つかったら、きっと一番に規則を持ち出してあたしたちをモモもろとも追い出そうとするぞ」
怖がりのモモだが、ガンちゃんとマリおばさんに対してはまったく警戒していない。風子はモモを信じることにした。
■古楽器と古書
マリおばさんの家は広い屋敷だった。立派な門構えからすると、相当の旧家だろう。ギイイ。門はきしんだ音がした。
門から続く庭はきちんと手入れされており、かなり広かった。これならモモは存分に走り回ることができる。そう思う間もなく、モモはガンちゃんについて走っていった。
庭の奥には見事なしだれ桜があった。吉野桜よりも少し遅く、ちょうどいま満開を迎えている。風にわずかにゆれる姿が池の水面に映り込み、風子は思わずみとれた。
マリおばさんの声を聞いたのか、一人の老人があらわれた。その老人に案内され、二人は広い庭を望む座敷に通された。風子の胸を何かがかすめた。どこかで見た光景に似ている。
マリおばさんがあらわれた。やがて、老人が膳を持ってきた。
「朝ご飯よ。どうぞ」
ぐううう。
礼を言うより前に風子の腹が鳴った。目の前の膳には、質素ながら、あたたかい白飯と味噌汁、卵焼きと青菜が載せられていた。
「いただきます!」
アイリも風子も夢中で食べた。朝の散歩は思いのほか運動になったようだ。腹ぺこだ。マリおばさんは二人の様子を楽しそうに見ていた。
アイリがふと飾り棚に目を留めた。なかに見慣れぬ形の楽器らしいものが置かれている。琵琶だ。マリおばさんがそれに気づいた。
「素敵でしょ? あれはある部族にだけ伝わる楽器らしいの。亡くなった夫の形見の一つなのよ」
アイリが引き寄せられるように楽器に近づいていく。マリおばさんが楽器を取り出して、アイリに持たせた。
「さわっていいわよ」
アイリが弦をつまびく。厳かな音色だった。マリおばさんが驚いた。
「まあ。この楽器、音がでるのねえ」
マリおばさんが弦をつまびいてみる。しかし、音は出ない。風子もつまびいた。やはり音はでない。アイリだけが音が出せた。
「不思議なことがあるものねえ。夫が亡くなって二十年。この楽器を鳴らせた人はだれもいなかったのよ。あなただけだわ」
アイリも首をかしげた。なにも特別なことをしているわけではない。そもそもこの楽器を見たのもはじめてだ。音楽には興味がなく、今まで習ったこともなければ、覚えている曲もない。
「二人とも、ちょっとこっちにおいで」
マリおばさんが二人を別室に誘った。そこは書斎で、隣に書庫がついている。
「夫の書斎なの。亡くなったときのままにしているのよ」
今度は風子が目を輝かせた。空調が効いた部屋の書架に並べられているのは、貴重な書物ばかりだ。風子のただならぬ様子に気づいたマリが尋ねた。
「これが何かわかるの? あたしにはさっぱりなんだけど……」
風子は興奮していた。
「これは七世紀の写本。こちらは十五世紀の揺籃期印刷本のグーテンベルク聖書。一四七〇年以前のものは世界で三七〇点ほど。それにこれは、禁書扱いとされたガリレオの『天文対話』の初版。一六三二年のものです!」
これにはアイリが驚いた。本にではない。風子に驚いたのだ。
「お……おまえ、これが全部わかるのか?」
「うん」
「どうして?」
風子は突然我にかえったように立ち尽くした。
「どうしてって……どうしてだろ?」
庭の木陰でモモとガンちゃんが一休みしている。そのそばで、さきほどの老人が庭掃除を終え、離れに戻っていこうとしていた。しだれ桜を風が揺らし、池の水面もさざめいた。
二人の少女は屋敷で夕飯まで食べ、日が暮れてから去っていった。風子は何度もお辞儀をしてお礼を言ったが、アイリはろくに礼もせず、モモのことしか頭にないようだった。
夜遅く、マリはアパートに戻った。小さな古ぼけたアパートだ。室内は二部屋とDK。だが、こちらのほうが落ち着く。
若いときに女優をめざし、日本からこの町にやってきた。映画一本に端役で出ただけで、結局、芽は出なかった。アルバイトに明け暮れ、爪に火を灯すように節約を重ねて、やっとの思いでこのアパートの家賃を払った。大家が亡くなって売りに出されたとき、虎の子の貯金をはたいて思わず買い求めた。
ぼろくなっても思い出がつまりすぎて、建て替えはおろか、改装すらできない。かつての自分のように貧しいが夢をもつ若者たちのために家賃は上げたくない。その思いでわずか八室ばかりの小さなアパートを経営してきた。
あの大きな旧家は所詮、亡夫のもの。相続したとはいえ、居心地が悪い。代々仕えてきたという使用人の老夫婦に任せ、ふだんはこのアパートに住む。ここは自由で、だれにも気兼ねがいらない。
だが、最近の若者は、ワンルームマンションを好み、こんな安アパートにあえてやってくる者は少なくなった。まあいい。一人でも住みたい者がいるかぎり、このアパートを維持しよう。
マリは古びた写真の前で手をあわせた。写真のなかの夫はまだ若い。夫は三十歳になる前に世を去った。結婚して二年足らず。夫の親族からは財産目当ての姉さん女房とさんざん罵られた。だから、遺産のほとんどはアカデメイアに寄付した。今では、特別奨学金として活用されている。
亡夫が経営していた病院と家は処分できなかった。それを手放すことは夫の人生をも手放すように思えた。広大な敷地と古い家を維持するのはたいへんだ。家を維持管理するのに必要な資産だけは残したが、自分の生活費にあてたわけではない。やがて、マリをいじめ続けた親族も世を去り、マリは自由になった。年に一度、日本を一ヶ月ほど旅するのが唯一の贅沢だ。
故国の日本には、家族はおらず、故郷もない。マリは大阪の養護施設で育った。公立高校を出てすぐに働き、必死でお金を貯めて、アカデメイアにやってきた。
アカデメイアは外国人に対する差別がほとんどない。アルバイトの仕事には事欠かない。当時から、時給は日本の倍以上あった。だが、賃金が高い分、物価も高い。仕事もすべてを自由に選べるわけではない。学歴や専門技能がない場合、正規雇用の職種が限られる。マリは飲食店でのアルバイトを経て、旅館で仲居をするようになり、旅と料理に興味を持つようになった。それをエッセイにしたためた本が売れた。その頃、夫と出会ったのである。
夫もまた旅と料理が好きだった。夫の実家はシャンラ王家に仕えた由緒あるご典医の家系で、代々の当主が貴重な古書と古楽器を収集していた。いま、マリはオンボロになった岬の上病院の理事長を務め、口うるさくて嫌われている。
マリは引き出しから封筒の束を取り出した。宛名は、アカデメイア特別奨学基金の名誉理事。封筒表面にはアカデメイアの学園章。封筒に書き記した年号から、今年のものと三年前のものを選び出した。中には数枚の書類。
マリはそれぞれを並べた。特別奨学生のリストが顔写真と略歴付きで並ぶ。
マリは二人の人物を確認した。アイリ・トゥルガと都築風子。
「三年前の天才と今年の逸材か」
マリはガンちゃんの頭をなでた。
「ふうん。あの小柄な子のチューターはリトクンか。これも何かの縁だね」




