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Ⅲー3 ミグルの神琴

■神琴と擬琴

 常設展の隣のシャンラ秘宝展では、スラが思わず声をあげそうになっていた。マロが持つ琴とうり二つの琴が展示されていたからだ。


 その日の深夜、オロが寝たことを確認してから、スラはマロに尋ねた。マロはしばし沈黙した。そして、「スラも知っておいた方がいいだろう」と前置きをしてから、ミグル(しん)(きん)の物語を教えてくれた。


「シャンラ王室秘蔵の琴は、ミグルの神琴なの?」

「そうだ。だが、完全な本物ではない。ミグルの神琴は、三つのものがそろわねば、その力を発揮できない。琴、弦、そして弾き手だ。秘宝展に展示されている琴の本体は本物の神琴だが、張られている弦は本物ではない。本物の弦はこちらの()(きん)に張っている」

 マロは、棚から琴を取り出した。

「擬琴? そんなものがあるなんて、知らなかった……」

 スラが怪訝そうな顔をした。

「そうだろうな。ミグルの神琴と神琵琶の秘密は、族長と祭祀長しか知らぬことゆえ」

 スラは息を呑んだ。


「神琴と擬琴が作られたのは、ルナ古王国と古代ウル大帝国の間の時期だ。われらミグルは、もとはルナ古王国でルナ神殿に仕えた祭祀集団――特別技能の民だ。月の神ルナから神託を受ける代わりに、音曲と舞を奉納した。音曲の奉納には笛を使っていたという。金の笛と銀の笛だ」

「銀の笛は見たことがある。母上が大切に保管しておられたから」

「うむ。金の笛は神の意思を聞く笛、銀の笛は神の怒りを(なだ)める笛――二つが揃って、はじめて効果を発揮した。これゆえ、ミグルはもとは〈笛の舞人(まいびと)〉と呼ばれたんだ」


「〈笛の舞人〉……? 母上と姉上が笛の名手だったのは、そのような()われがあったから?」

「そうだ。ルナ古王国が滅びたあと、〈舞人〉も歴史から消えた。ルナ神殿を失った〈笛の舞人〉は技能を発揮できなくなった。神殿そのものが持つ力を引き出すのが〈笛の舞人〉だったからだ」

「でも、金の笛は見たことがない……」

「そうだろうな。金の笛は、ルナ神殿に奉納された。ルナ古王国が滅ぶ直前に、金の笛を神に戻すよう、神託が下ったからという。ルナ古王国とともに金の笛も行方知れずになった」

「じゃ、ルナ大神殿には金の笛が残っているかもしれないってこと?」

「違うだろう。金の笛が奉納されたのは、〈月神殿〉という特別な神殿だ。ルナの神の声を聞くことができたのは、〈月神殿〉だけと伝わる」


 スラは眉根を寄せた。ミグル族長の直系であるスラにも、教えられてないことがいろいろありそうだ。

「〈月神殿〉っていうのは初めて聞いた。どこにあるの?」

「わからない」と、マロは首を横に振った。そして、顔を少し(かげ)らせながら、言った。

「〈月神殿〉は「隠された神殿」と伝わる。じつは、〈月神殿〉こそが、ルナ神殿の中核。大神殿は、行政と祭祀の場であって、託宣儀式はもっぱら〈月神殿〉で行われたという。ミグル神謡を付き合わせた結果、ルナの神々の世界への入り口が〈月神殿〉にあったんじゃないかと、わたしは考えている」

「ルナの神々の世界って、〈緋月(ひげつ)の谷〉のこと?」

「そうだ」

「神々の世界が実在するってこと?」

「難しいな。神々の世界は、人間の世界とは別の世界だ。時間も空間も、われわれの人間界とは異なるだろう。だが、人智を超える存在があったとしても、不思議ではなかろう。人間が理解できる範囲など、たかがしれている」


 スラはマロを見た。マロは、ミグル随一の学者でもある。その穏やかな表情は、幼いときからスラの荒ぶる心をゆっくりと宥めてきた。マロがそばにいなければ、スラの力は暴走してしまう。


「〈笛の舞人〉はどうなったの?」

「絶海の孤島に引き籠った。その島には、特殊な漆と栗が生えていた。それを使って作られた神器(じんぎ)が、神琴と神琵琶だ。神琴は神の言葉を聞くための道具、神琵琶は神の怒りを(しず)めるための道具だ。ルナ神殿がなくとも、二つの神器のおかげで、〈舞人〉は天候を読み、航海の安全を守ることができた」

義兄(にい)さんが探している〈水神殿〉が造られたのも、その頃?」

「そうだ。ルナ神殿と金の笛を失った〈笛の舞人〉は、ルナの神々の一柱(ひとはしら)である〈水の神ミク〉を守護神とし、ミク神を奉じる〈水神殿〉を造った。そして自らを〈ミク神に愛でられた民〉という意味で〈ミグル〉と名乗ったんだ。ミグルの技能の(すい)を集めて造られた〈水神殿〉は、大きくはないが、見事な神殿だったという。祖先は、ミグルの知識や技術を〈水神殿〉に奉納し続けた。ミグルの文化と伝統を後世に残すためだった」

「だから、〈水神殿〉にはミグルのすべてが詰まっているわけか……」

「うむ」


■〈選ばれし者〉

「なぜ、ミグル族は、島を出て、ウル大帝国に行ったの?」

 一瞬、マロは口を引き結んだ。

「脅しを受けたからだ。ウル大帝国最盛期の皇帝は、「天意を詠む一族」として名高いミグル族の力を得ようとした。ミグル族を丁重に迎え、大きな所領を安堵し、数多くの特権を与えると申し出たんだ。ミグルの託宣の力を治世に利用しようと考えたのだろう。ミグルでは、これに応じるか否かをめぐって意見が割れた。大帝国の申し出というのは、脅しに他ならないからな。弱い側には拒否する自由などない」


「ミグル族はどうしたの?」

「悩んだ末、ミグル族は三つに分かれて、生き延びる道を選んだ。ウル大帝国に行ったのが多数派の「神殿ミグル」、ミグルの島に留まったのが少数派の「島ミグル」、そして、どちらにも属さず、放浪の民となったのが「はぐれミグル」だ。ウル大帝国で皇帝の庇護を受けて栄華を極めたのは、神殿ミグルだ」

「じゃあ、滅んだのは神殿ミグルだけってこと? 滅ぶのを見越して三つに分かれたわけ?」


「そうだ。これまでおまえはこう聞かされていたはずだ。「ウル大帝国が崩壊するやミグルもほぼ全滅した。ミグルの存在は歴史からかき消されてしまった」とな。だが、事実は少し違う。ミグル族は、〈選ばれし者〉の予言に従ったんだ。「ミグルはウル神殿とともに滅びる」と。避けられない運命ならば、ウル神殿とともに滅びることのないミグル族を残す必要があった」

「それが、島ミグルとはぐれミグルということ?」

「うむ。神殿に奉納する音曲や舞は神殿ミグルのみの特技だった。島ミグルにはその能力はなく、海の知識と航海術に長けた根っからの漁撈の民だ。はぐれミグルは諜報役とでも言おうか、各地を放浪してさまざまな情報を神殿ミグルと島ミグルに届けていた。ウル大帝国の滅亡が間近に迫ったことを悟った神殿ミグルの族長は、島ミグルとはぐれミグルの協力を得て、慎重にかねてからの計画を進めた」

「計画?」


「子どもたちを逃す計画だ。ウル大神殿が攻撃されたとき、神殿ミグルは、子どもたちを逃がすために時間稼ぎをした。神殿ミグルは男女とも戦闘能力がある。大人たちが犠牲になって徹底抗戦し、十分な時間が経った頃に、抵抗をやめ、降伏の証として擬琴と擬琵琶を差し出すというもくろみだった。敵軍の主力である諸国の王たちは、謀反の(そし)りを避けるため、ウル大帝国の正統な継承者であると言いたがった。その正統性を証明するために、神器を欲しがったのだ。ミグル族は、神器を差し出すと見せて、秘密の通路から子どもたちに神琴と神琵琶を持たせて、はぐれミグルの手引きで島ミグルのところに逃がそうと考えたわけだ」

「成功したの?」

「半分は成功し、半分は失敗した。子どもたちは逃げることができた。だが、神琴と神琵琶が先に取り押さえられてしまった。だから、献上後に神器を弾くよう求められたときに、祭祀長は、調律の名目で二つの神器の神弦を擬弦にすり替えたという。「ミグル神器の秘密」を逆手に取ったんだ」


「ミグル神器の秘密?」

「ミグルの力を守るための秘密だ。もともと、神殿ミグルは、天意を聴く儀式のとき以外は、擬琴と擬琵琶を使っていた。神琴や神琵琶と音色はほとんど変わらない。だが、天意を聞くことができるのは、神琴と神弦がそろい、それを〈選ばれし者〉が弾いたときだけだ」

「〈選ばれし者〉は、どうやって決まるの?」

「特別な儀式を経て選ばれる。神殿ミグルが滅ぼされる前には、〈選ばれし者〉が数十年に一人は現れたという。その者のもとにミグルは天意を読む一族としてまわりに怖れられた 。だが、〈選ばれし者〉の存在は隠された。祭祀長が、敵軍の将たちの前で擬弦を張った神琴を奏でたんだ」


「子どもたちは逃げおおせたんでしょ?」

「うむ。だが、族長たちは、敵軍の真のもくろみを見誤っていた。彼らの本当の目的は子どもたちだった。彼らは、子どもたちを捕らえて洗脳し、ミグルの力――天意を聞く力――を手に入れようともくろんだのだ。彼らは、「ミグル神器の秘密」も〈選ばれし者〉の存在も知らなかったが、知らなかったがゆえに暴力的な方法でミグル族の将来を我が物にしようとしたわけだ」

「敵軍は怒っただろうね?」

「むろん。敵軍は、子どもたちがいないことに気づいて激昂した。結局、敵軍は、ウル大神殿を完全に破壊した。神殿が焼け落ちたとき、神殿ミグルも全滅したが、なぜか、敵軍も全滅した。これは「ウル神殿の祟り」と怖れられ、その後数百年も神殿は土と灰に埋もれたままとなった」


「逃げのびた子どもたちがわたしたちの先祖でしょ?」

「そうだ。神殿ミグルの子どもたちは、はぐれミグルの導きで、ミグルの島に落ち延びた。だが、敵もさるもの――ミグルの島にも追手が迫った。子どもたちが逃げたのはミグルの島と踏み、敵軍は、先回りして島ミグルの子どもたちを人質に取った。これを察した神殿ミグルの賢い娘は、はぐれミグルの助けを借りて、神殿ミグルの子どもたちと島ミグルの親子たちを率いて、大嵐の中で島を脱出したんだ。彼女は、大津波によって島が沈没することを予知していた。娘は〈選ばれし者〉だったからね。その娘こそ、新生ミグルの族長たるおまえの一族の先祖だ」


「そしてたどり着いたのが、わたしたちの故郷の島?」

「そうだ。嵐の中を島ミグルの船は漂流するように進んだという。たどり着いたのは、荒波に覆われた名もない無人島だった。周囲からは「魔の島」と怖れられた島だ。祖先はこの島を「月の島」と名付けた。真っ暗な海から星がきらめく夜空に向けて、くっきりとした島の輪郭が月明かりに映えていたという。島ミグルが漁業をして子どもたちの生活を支えた。あたりは航行の難所が多い。やがて、島ミグルは水先案内人として重宝されるようになった。われらはミグルと名乗るのをやめ、「月島人」と名乗るようになった。再び利用され、虐殺される恐れがあったからだ。だが、ミグルの伝統を棄てることは魂を棄てるに等しい。ミグルの神髄である音曲と舞は、島の中で引き継がれた。島の中でだけ、われらはミグルであることを確認しあった。そして、ミグル文化の粋を集めた水神殿を探し続けた。ミグルの島が沈没したときに、敵軍もみな水没したが、水神殿の在処を示す石板も海に消えてしまった。それから一千年以上も探され続けている」


「義兄さんはこの蓬莱群島のどこかに水神殿があると考えているんでしょ?」

「そうだ。ミグル神謡、古謡のすべてを調べつくして、たどり着いた結論だ。水神殿には、ミグルがもつすべての力の根源がある。だが、わたしがここにきてすでに十年。水神殿はいまだ見つからない……」

「水神殿の手がかりはまるでないの?」

「一つだけ可能性がある。神琴を〈選ばれし者〉が弾いたならば、神意を聴くことができるはずだ」


「なんとか神琴を取り戻せないかな?」

「取り戻したいさ。だが、おまえも見ただろう。警備は厳重でスキはない。だが、たとえミグル神琴を手に入れても、それだけじゃダメだ。〈選ばれし者〉でなければ、神琴の真の力は引き出せない」

「〈選ばれし者〉が現れたら、ミグルは復活する?」

「そうだな」

「じゃ、いつかは現れる。いや、神琴があれば、その〈選ばれし者〉を見つけることができるかも。違う? 義兄さん」


 マロはかすかに微笑んだ。この義妹の発想はいつもじつに鋭い。マロが言わなくても多くを悟る。神琴は、自らの弾き手を選ぶと伝わる。神琴が選んだ者こそ、すなわち〈選ばれし者〉なのだろう。そうであれば、神琴が〈選ばれし者〉をたぐり寄せる可能性は十分にある。

 深夜、マロの静かな語りをオロもまた聞いていたことには、マロもスラも気づかなかった。


■秘宝展

 先週の予想通りだ。九時の開館までまだ二時間もあるというのに、すでに人が並んでいる。

 午前にやむない用事が入ったアイリは、恨みがましくその列を眺め、夕方には列が減っていることを祈った。


 無理もない。

 一ヶ月ほど前からはじまったシャンラ王室秘宝展。今年は、ルナ遺跡発掘百周年とシャンラ両王即位十周年を祝して、門外不出の秘宝が多く出展されている。中でも三点は「秘宝中の秘宝」と言われる品だ。その分警戒も厳重だ。あちこちに警備員が立っている。カメラはもちろん禁止。荷物はロッカーに預けなければならない。


 午後四時ごろ、アイリは最後尾についた。先週よりは多少人が少ない。整理券を渡された。なんとか六時の最終グループに入れそうだ。並んでいるうちに肌寒くなっていく。

 昨日の雨で洗われた遠い天月の山並みが夕焼けに染まり始めた。


 ふと見ると、博物館入り口脇の木陰に二匹のネコがくつろいでいた。太ったヨボヨボの白ネコとやせた黒ネコだ。アカデメイアでは、古くからネコが大事にされる。その昔、ネズミを捕る希少な益獣と見なされたかららしい。とくに茂みでくつろぐネコにうかつにさわると祟りがあると怖れられている。

 一瞬、白ネコが尻尾を挙げた。しかし、一歩踏み出した足をすぐに引っ込め、またベタッと寝そべった。すぐ前の少年がわずかに手を挙げ、ネコの動きを制したように見えた。

 少年の横顔がチラリと見えた。質素な出で立ちには似つかわしくないほど美しい横顔だった。だが、人間に興味がないアイリは、自分の記憶からその顔を削除した。


 アイリは人混みをかき分け、やっと主展示室に来た。目玉となる三つのシャンラ王室秘宝が厳重に展示されている。これから二時間。入場制限のおかげでゆっくりと見られる。

 秘宝の一つは、シャンラ王位の正統性を証明すると伝わる神器たる琴。もう一つは、百年前にはじめて発掘されたルナ大神殿の模型だ。三つ目は、シャンラ男王と女王の王冠――。参観者は華やかな王冠に集中している。だが、アイリが見たかったのは、神殿模型。地味に見えるのか、観客は少ない。来る人、来る人、みなさっと見て去って行く。おかげでじっくり観察できた。


 神殿模型は、ルナ大神殿遺跡の発掘を記念して、百年前にカトマール皇室からシャンラ王室に贈呈されたものだ。かつて、両家は婚姻関係を結ぶほど親密で、それがなくなったあとも、シャンラ王家の王子たちはカトマール帝国大学で学ぶとのしきたりが続いていたという。

 模型は、原寸の二十分の一の復元模型で、可能な限り現物と同じ材料を使うという立場から、精巧な白い大理石造りである。長方形の素朴な構成のように見えて、じつに手が込んでいる。柱や回り縁に施された彫刻まで再現されており、ルナ古王国の美意識の高さがうかがえる。


 この神殿模型に激怒したのが、ヨミ神官団である。かつて、シャンラ王国の国教はヨミ教であった。今日、国民には信教の自由が保障されているが、王室はいまでもヨミ教を奉じている。ヨミ神官団は、シャンラ王家の女王を輩出する一門であり、王室はヨミ神官団を無視することができないからだ。

 ヨミ神官団にとって、ルナ教の文化遺産などは邪魔以外の何物でもない。ヨミ教はルナ教を否定して成立した宗教だからだ。これゆえ、貴重な文化遺産は、長く王室の秘宝庫に埋もれていた。しかし、サユミ女王は、ルナ文化遺産を世界で共有すべきとの考えから、初の公開に踏み切ったのである。


 帽子が見える。帽子の少年が楽器の前からいなくなり、アイリは楽器に見入った。美しい象眼(ぞうがん)細工を施された優雅な琴。七本の弦が張られている。

 一瞬、アイリは軽いめまいを覚えた。

 軽く首をふって、再び楽器に見入った。


――え?

 アイリは目を疑った。楽器の端の一箇所がごくわずか違っていたからである。普通ならだれも気づかないだろう。だが、集中したときのアイリの記憶力と観察力はカメラよりも正確だ。

 周りを見回した。だれも騒がない。警備員も立ったまま。


――何があった?

 アイリはもう一度のぞき込んだ。

 絶対に違う。だけど、だれも気づかない。

――どうして?

 アイリが博物館を出たのは夜八時。もうネコたちはいなかった。


■すり替え

 あれは、五歳の頃、蓬莱本島に来たばかりの頃だった。

 オロは、アパートの前の道端で遊んでいた。白いネコが姿を現した。オロの代わりに事故に遭って以来、オロ一家の飼いネコとなったネコだ。オロになつき、いつもオロについて回った。人間の友だちのいないオロにとって唯一の友だちだった。そのネコが大きなイヌに追いかけられた。


「やめろっ!」

 オロは思わず叫んだ。

 イヌが止まった。ネコも止まった。周りのすべてが止まった。

 動いているのはオロだけだった。オロはネコを抱きかかえ、一目散にアパートの階段を駆け上がった。オロがホッと息を継ぐと、すべてが動き出した。


 そのとき初めて、オロは自分に「時」を止める力があることに気づいた。でも、そのあと、オロはひどい高熱を出して寝込んでしまった。キキと名付けた白いネコがオロに寄り添った。ふだん病気とは縁のないオロが寝込んだことをスラはものすごく心配した。


 熱がようやく引いた日、オロは仕事を休んで看病してくれるスラに話した。何も自慢できるものをもたない幼いオロが、初めてうれしそうに鼻をうごめかしながらスラに語った。

「ねえ、ボク、時間を止めたよ!」

 スラの表情が一瞬で変わった。スラは血相を変えてオロを叱り、そして、泣きながらオロを抱きしめた。

「この力を二度と使っちゃダメ。今度使ったら、オロを殺して、わたしも死ぬ」

 いままで見たこともないスラの剣幕にオロはおののきながら、涙目で頷いた。

「うん……」

「それから、この力を持っていることをぜったいに誰にも知られてはダメ。義兄さんにも、いい? オロ」

「うん……」


 スラは泣き続けた。腕の力はどんどん強くなる。その中で、オロはぼんやりと考えていた。この力は、大好きなスラを死なせてしまう。……使ってはいけない力なんだ。

 だから、ずっと力を封印してきた。けれども、神琴を取り戻すのは自分にしかできない。オロは迷わなかった。周到な計画を立て、すり替えを決行したのである。


 決行は、無料入館日である月曜日の夕刻。

 準備は念入りに行った。前週に下見に行き、防犯カメラと警報装置、警備員の配置を確認した。琴は高透明度の強化アクリルケースの中に収められている。上部スライド形式の最新型で、全方位から鑑賞できる。カギは最下部にある。中央管理室で、防犯カメラ・警備状況が二十四時間体制で管理され、カギもそこで厳重に保管されている。数日前、カギの複製は作成済みだ。


 博物館入り口の茂みにキキとクロを置き、その下に父の琴を隠した。


――展示室で琴の前に立ち、オロは「時」を止めた。


 スライドレールを開け、慎重に神琴を取り出し、弦を取り除く。茂みの中から擬琴を取り出し、代わりに神琴を置いて、擬琴に外した弦を張り、ケースに据えた。その間、ものの十分。

 キキとクロは何も知らぬげにゆうゆうと寝そべっている。

 

 「時」が動き出したとき、オロは平然と歩み始めた。何もかも、「時」が止まる前と同じだ。

 オロは速やかに博物館を出て、茂みに向かった。日が沈み、あたりは暗い。茂みを見渡す防犯カメラはなく、人通りもない。オロはキキを抱き上げ、琴をかついで自転車乗り場に向かった。


 今日はマロもスラも帰宅が遅い。

 オロは、食卓の上に置いた神琴をじっくり眺め、慎重に弦を張った。マロやスラが気づくとまずい。

 父が奏でる音と同じか、つま弾いてみた。同じような音がする。ただ、マロのいつもの音よりも芳醇(ほうじゅん)で豊かな音色だった。

 思わずオロはその音色に我を忘れそうになった。一瞬、目の前に白い浜辺の珊瑚礁が浮かび、すぐに消えた。以前のように、高熱が出ることもなかった。すべて首尾良く進んだのである。


 スラもオロも出かけた部屋で、しばらくぶりにマロは琴を手にした。つま弾いたが、音が出ない。

 ハッとして、念入りに琴を調べた。躯体(くたい)はいつもの琴と変わりない。弦も同じだ。だが、何かが違う。もう一度つま弾いた。やはり音が出ない。


――こ、これは、まさか……ミグルの神琴!?


 擬琴や擬琵琶なら誰でも音が出せる。もちろん天意は聞けない。

 神琴に擬弦を張った場合や擬琴に神弦を張った場合には、祭祀長やマロのように特別な訓練を受けた者だけが音を出せる。シャンラ秘宝は、擬弦を張った神琴――シャンラのだれ一人とて音を出せなかったはずだ。だから、神器として披露するのは難しかったのだろう。

 しかし、神琴や神琵琶は、そもそも〈選ばれし者〉以外には音を出せない。ミグル最高の教導師マロですらも……。これが、「ミグル神器の秘密」だ。神琴を奏でることができる者こそ〈選ばれし者〉に他ならない。


――すり替えなど不可能なはず。


 秘宝展はまだ続いている。神琴がなくなったなら、大騒ぎになるだろうに、いっさい動きはない。

 マロは、すぐさま秘宝展の会場に向かった。シャンラ王家に献上された神琴は、そこに展示されていた。最初に見たときと寸分違わない。ただ一箇所、琴の片隅の花弁模様が一つだけ、やや色が薄い。神琴と擬琴を区別する唯一の手掛かりだが、そのことはマロしか知らない。

――たしかにすり替えられている!


――いつ、だれが、どうやって?

 ミグルに伝わるすべての知恵と知識を総動員してもわからない。ただ一つ、古代龍族には時間を止める異能者がいたと伝わる。


――まさか……オロか? 

 オロにはアザがある。あのアザは、邪龍の印ではなく、古代龍族の血を引いている証なのか? 

 とすれば、事態ははるかに深刻だ。マロは頭を抱え、そして、低く呻いた。


■マロの事故

 帰宅したとたん、スラはめまいを感じた。この島に来て十年。欠かさず続けている日曜日ごとの鍛錬で、これほど疲れを感じたことはない。


「おかえり」

 食卓にはマロが座って、ゆっくりと朝食を取っていた。斜め隣の椅子にすわる。マロが用意した皿にはささやかな野菜と半熟卵とパン。マロが牛乳をカップに注いでくれた。とくに会話もなく、いつもの平穏な朝のはじまり。静かな時間が流れる。

 スラが食べ終わったのを見届けて、マロは立ち上がり、自分の食器をきれいに洗って片付けた。


「じゃ、行ってくるよ」

 スラの行き先をマロが問い(ただ)したことがないように、マロの行き先をスラがたずねたこともない。ただ、予想はつくし、その予想はおそらくはずれていない。

 マロは、毎週末の朝、スラがどこかひっそりとした場所で鍛錬をしていることを知っているし、スラは、マロが、満月の夜に不自由な足で水神殿を探していることを知っている。

 ふたりの間には確かな信頼感がある。だが、マロはスラが踏み込めない壁をはりめぐらせている。そんな気がすると思い始めたのは五年ほど前。マロが瀕死の事故にあったときだった。


 マロが交通事故で意識不明との連絡を受けたとき、スラは気を失いかけた。

 岬の上病院に駆けつけると、マロは青白い顔でベッドに横たわっていた。そばにいたオロは泣きじゃくっていた。

「ボクのせいだ。ボクが父さんに内緒でオーディションなんか受けたからだ」

 そのときも生活費に事欠(ことか)いていた。十歳のオロは道ばたのポスターの前でだれかが話しているのを聞いた。飛び入り参加可能で、入賞すれば賞金が出る。賞金をもらってスラに渡そうと考えたらしい。


 仕事からの帰り道、マロは奇妙なうわさを耳にした。

 あるテレビ局の人気番組の歌唱オーディションに飛び入りできれいな男の子が参加し、あれよあれよという間に勝ち抜いているという。広場に設置された舞台の周りに人だかりができていた。

 昨日からオロの様子がおかしかった。ふと不安になったマロは、人混みをかき分け、首を伸ばした。壇上では、オロがマイクをもって登場したところだった。これに勝てば決勝戦。決勝戦はテレビで放送されるという。

 マロはためらうことなくオロに近づき、オロを壇上から引きずり下ろした。群衆がぽかんとし、司会があわてて制止しようとした。しかし、マロは周りを見向きもせず、オロを抱きかかえて走り去った。オロがジタバタと暴れる。番組の関係者が血相を変えて追いかけてきた。


「人さらいだ!」

「だれかつかまえて!」と口々に叫んでいる。

 マロの足は速い。腕の力も強い。追いかけてくる者の姿が見えなくなったところで、マロはオロを下ろした。オロは涙目でマロをにらみ、走って会場に戻ろうとした。

「オローッ」

 マロがオロを突き飛ばした。悲鳴がブレーキ音の中に消えた。気がつくと、マロが路上に倒れていた。

 血まみれで、マロが苦しそうに手を上げた。

「……オロ、大丈夫か……?」


 マロは救急車で岬の上病院に運ばれた。

 スラが駆けつけた。スラは、オロの細い肩を震える指でなで続けた。あれほどまでにオロが泣きじゃくっていなかったら、スラが泣き崩れていたことだろう。スラはマロを失うことを怖れた。マロを失ったら生きていけない。そう気づいてしまった自分を怖れた。

 マロがオロの出場を阻止しようとしたのには理由がある。しかし、オロはそれを知らない。


 マロとスラは、産まれたばかりのオロを守るために一族を棄てたのだ。一家は目立たぬようにひっそりと生きてきた。実母によく似た少年オロの姿がテレビで流れようものなら、せっかく十五年も隠れ忍んだ居場所が露見してしまう。


 救急医碧海恭介の優れた技術のおかげでマロは一命をとりとめた。だが、右足の膝から下は切断せざるをえなかった。

 それ以来、一家の家計はスラが支えている。何でもした。建設作業員もキャバレー従業員も。しかし、建設現場では言い寄る男たちをこてんぱんにのしてしまってクビになり、キャバレーではつとめる女たちがスラをめぐって刃傷(にんじょう)沙汰(ざた)になった。

 いちばん(しょう)にあったのが警備員だった。帽子と制服姿なので容貌が目立ちにくく、相棒となったのは、人の善い初老の男だった。彼はスラを娘のようにかわいがってくれた。

 だが、その警備員の仕事もあと少しで終わりだ。岬の上病院の経営は苦しく、警備費用が削られた。現メンバーのうち残れるのは半数で、半数は解雇だ。病気の妻を抱え、転職がむずかしい相棒を残すしか選択肢はなかった。


――なんとかなる。

 そう思ったが、甘かった。どこに行っても足元を見られ、セクハラ言動を繰り返される。見た目が支障かと思い、化粧もせず、ひっつめ髪で行くと、面接担当者は言った。

「あなたは、受け答えも上々で、ひとを引きつける魅力にあふれている。化粧をせずにこれほど美しいのなら、少し磨けばどれほどの美貌になることか。どうです? 本社の系列に会員制の高級クラブがあります。高給を保証しますので、そこで働いてみませんか?」

 高給と言われて一瞬グッときたが、即座に断った。苦い思い出が蘇る。


 アカデメイアに来る前、スカウトされてつとめたクラブでは、マダムにいろいろなことを教えてもらった。マダムは人生経験が豊富で、仕事に誇りをもっていた。だが、顧客の一人がスラに夢中になった。どんなに断っても追いかけてくる。それがマダムの愛人だった。彼を本気で愛していたマダムは愛人の心を取り戻せないと知ると、無理心中をはかった。愛人は死に、マダムは殺人罪で懲役になった。莫大な借金も背負って、マダムはすべてを失った。面会に行ってもマダムは会おうともしてくれない。この事件以来、スラはけっして夜の商売には近寄らないと誓った。


 スラは冷蔵庫を開けてみた。中にはほとんどものが残っていない。サイフのなかには千円札が二枚。これで家族三人、二週間を過ごさねばならない。

 二週間のうちに新しい職場が決まらなければ、マロが入院したときのように、また大家のマリに借金せざるをえない。マリは喜んで貸してくれるだろう。だが、あのお節介なマリは、ここぞとばかりに、スラに縁談をすすめてくるにちがいない。

 五年前には、役所に勤める実直な青年を紹介された。ぜったいに嫌われるようなふるまいをわざとしたにもかかわらず、相手はスラに一目惚れし、ストーカー騒ぎに発展した。さすがのマリも心配して、青年を説得しようとしたがムリであった。スラはマロを恋人としてでっちあげ、青年にあきらめさせたのだった。


 マリもいまは寡婦として気ままに暮らしている身だ。独り身でいても不幸ではないことになぜ気づいてくれないのだろう。マリから金を借りないためにどうするか。手立てはない。いま、この町で応募可能な職場にすべて足を運んでこのありさまだ。さすがのスラも途方にくれた。

 棚に置かれた楽器に目をやった。稀少な独特のクルミ材を彫り、ミグルの島にしか生息しない特殊な漆を塗って、極上の絹糸をより合わせて弦を張った小型の琴だ。今では、その木も漆も手に入らない。同じ琴をふたたび作り出すことはできない。

 スラが仕事を失うことをマロはまだ知らない。マロが知れば、大切なこの楽器を売り払うというに違いない。ミグル伝統の楽器。いまやただ一つ、一家が手にするミグル族の証だ。それすら失ったら、ミグルの神話と文化を語りつぐ術はなくなる。だが、その価値を知る者がこの世にどれほどいるだろうか。二束三文でひきとられ、乱暴に扱われて、二度とマロの手元にはもどってくるまい。

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