Ⅲー2 路地裏の家――オロと白ネコキキ
■月への祈り
「遅い!」
背の高いすらりとした女性が叫んだ。スラだ。
肩にかけた黒色のリュックサックを台所の隅に放り投げ、少年オロはあわてて膳を運んだ。今宵は月の蝕。一族伝統の祭祀を行わねばならない。
「義兄さんはもうとっくに出かけた。わたしたちも急がないと」
ふだんは家族三人が憩う小さな居室のほぼ中央。月の光を受けるように神棚をしつらえ、その前に食膳を祀り、御神酒をあげる。用意をすませると、スラ、オロの順にシャワーで身体を清め、白い衣をまとう。額には金の縫い取りがある帯をあて、濃いアイシャドウを引き、顔を白く塗り、緋の色をくちびるの中央にさす。肩から腕にかけてはおった白い薄絹はわずかな風にすらふわりとひるがえる。
この「羽衣」を身に着けた瞬間から、スラからもオロからも人としての性が消え、ふたりは神の使いとなる。はるか森の奥の滝では、姿の見えぬ水神殿に向かい、マロが琴をかなでていることだろう。
冴え冴えとした月の光が、神棚にそなえた銅鏡に反射する。
やがて、月がかげりはじめた。
スラとオロは額を床につけたまま、月の神に祈りを捧げる。しばしの闇が訪れる。ふたりはおごそかに顔をあげ、月の蝕を見上げた。一瞬、回りにうっすらと緋の光が放たれる。丸い首飾りを見えない月にかざし、緋の光を受け止める。そして、ふたりは目を閉じ、額を床につけた。
ふたたび現れた月への奉納がはじまる。スラは小さな笛を取り出し、ほんのかすかな音を奏で始めた。オロは優雅に舞い始める。細い路地が迷路のように張り巡らされた下町の夜の静寂。月明かりを受けるために窓を開けている家はほかにない。
■白いネコ
夕方遅く、オロはようやく目覚めた。だれもいない。
叔母のスラは休みをとっているはずだが、買い物にでも出たのだろう。父のマロは、少し離れた動物病院に助手として駆り出されたのかもしれない。時々、父に声がかかる。
一家で放浪し、この島に流れ着いてすぐに拾った白いネコが大けがをした。車に轢かれそうになったオロをかばったのだ。泣きわめくオロに気づいた初老の男がネコを抱きかかえて応急処置をしてくれた。それが獣医師虚空との出会いだった。虚空の手で回復した白いネコはそのままオロの家に居つき、オロの大事な相棒になった。それからすでに十年。キキと名付けた白いネコがオロの足元に顔を擦り付けてきた。
オロはキキを抱き上げて、古びた冷蔵庫を開け、なかに入った牛乳瓶を取り出して、少しだけコップに注いだ。全部を飲み干したら、スラとマロの分がなくなる。冷蔵庫はほとんどからっぽ。スラの給料前はいつもこうだ。今日もスラは少しでも安い食材を探して、遠くの市場まで自転車で出かけたにちがいない。
学校は退屈だった。今となっては、虚空のおせっかいが恨めしい。虚空は一家の相談相手となり、オロのために学校に通う手はずを整えてくれた。義務教育だ。適当に学校に行っておかないと家に担任がやってくる。マロは家に他人が入ることをとても嫌がる。
大好きな父が嫌がることはしたくない。だけど仕方なかった。何せ、教科書の文章も、テストの問題文も読めない。「識字障害」だとか。図表や数式・記号なら理解できた。数学と理科だけでなんとか卒業できたようなものだ。二度と学校に行きたくない。学費もない。オロの選択はほかになかった。ハンバーガー店でアルバイトもしたが、女子たちが妙にオロに関心をもってつきまとってくる。うっとうしい。結局、どこに行っても長続きしない。
虚空のおかげでマロとスラの仕事も見つかった。しかし、マロはある日事故で大けがをして右足が不自由になった。そのため、一家はスラの稼ぎで生活している。非常勤警備員として働くスラの給料だけでは、一家の生活は苦しい。虚空はマロに時々声をかけて、負担のないアルバイトの仕事を回してくれる。しかし、家計にとっては焼け石に水だ。
ひんやりした牛乳が、ほてったのどを潤しながら胃におりていく。ふと、片隅のリュックサックが目に入った。そうそう、昨日、やっとの思いで手に入れた大事なもの。このために、アルバイトの金を貯め、わざわざ格安の深夜バスで出かけたのだから。
そういえば、バスを降りたあと、大きな事故があったとだれかが言っていた。
――巻き込まれなくてラッキーだったな。
リュックを開き、オロはぎょっとした。
なかから出てきたのは、見知らぬものばかり。見なれぬ文字で書かれた本とピンク色の文具。女性用の衣類が少し。デザインやサイズからするとまだ子どもか。スケッチブックの絵はかなり幼い。だが、持ち主の手掛かりはない。いったいだれのものだ。いや、そんなことは問題じゃない。
――オレのリュックはどこへいったあ!
スラが戻ってきた。手にした包みをテーブルの上に置こうとして、スラは手をとめた。あたりに散乱するものは、あきらかにオロのものではない。
スラは、オロのクビをつかみ、頬を一発殴ろうと手をあげた。
「アンタって子は、もう二度としないと誓っただろ!」
「スラ姉……違うよ。違うったら、オレはなにもやってない」
長身で屈強なスラの腕は、一本でオロをつり上げることができる。オロは目を白黒させながら、潔白を主張した。
「ほら、見てよ。なにも金目のものはないじゃん」
スラはテーブルを一瞥し、オロから手を離した。ドスン。床にオロがへたりこむ。スラも納得したらしい。
ひっつかまれた首を押さえながらオロは言った。
「オレこそ災難なんだ。オレのリュックが盗まれちまった」
スラはギロリとオロをにらむ。
「盗まれるようなものが入ってたわけ?」
「もち……」と言いかけて、オロは口をつぐんだ。
「いや……とくにないけど」
その答えにスラは肩をすくめた。
あの絵がなくなったことを父のマロに知られたらたいへんなことになる。いや、わかるまい。きっとだれにもあの絵が意味するものはわからないはずだ。
スラはキッチンに入り、夕食の支度をはじめた。晩ご飯は、決まって茹でた野菜と焼き菓子のようなもの。一族伝統の食事だ。
ドン、トトン、ドン、トトン。
階段を昇ってくるいつもの音。開いたドアのそばに立つしぶい中年男は、大きな荷物を手にしていた。父のマロだ。キッチンからスラが目でオロに合図した。オロはテーブルの上のものをすぐさま下に払いのけた。
片方の足を引きずりながら、マロは抱えた荷物を慎重にテーブルの上にのせた。布をはずすと、なかには、見事な細工をほどこした楽器。小さな琴だ。
「うわ……すげえ」。
思わず、オロが小琴に手を伸ばす。
パシッ。
スラがオロの手の甲をはたいた。
「水神殿祭で使ったの?」。
屈託のないオロの問いにマロは頷き、小琴を取り出して、弦をつまびいた。豊かな音が狭い部屋にこだまする。
部屋の隅から太った白猫がスラの足下ににじり寄ってくる。スラは猫を抱き上げて膝に乗せ、マロの奏でる音楽に目を閉じた。オロは立ち上がり、陶酔したように踊っている。
オロが払いのけたリュックの荷物は、机の下に散乱したまま。落ちたはずみにスケッチブックも開いたのか。クレヨンで塗られた森らしき絵のなかには、白い服の少年と奇妙な少女が描かれている。白猫はそれをジロリと見て、スラの膝でいつものように居眠りをはじめた。茹で上がった色とりどりの野菜からは湯気が上がり、古びた窓ガラスを曇らせている。
食事が終わってもマロは眠りにつかない。表情が硬い。オロがさっさと部屋に入って行く。キキがよたよたとついて行った。
「……義兄さん、何かあった?」
スラがそっと尋ねた。
マロは、奥の部屋に目をやり、聞き取れるかどうかの声で言った。
「今回の蝕は、いつもと違う。おまえも見たろう。緋の月が現れた」
予想通りのマロの答えにスラは頷いた。
「古瑶によれば、良くない兆候だよね」
壁にかけられた額絵にはカメかヘビかわからない奇妙な生き物。
扉の向こうで、オロはぐっすり寝入っていた。
部屋には、木箱をひっくり返した机があり、その上には紙切れが散乱する。どの紙にもぎっしり図形と数式が書き込まれていた。粗末な布団の上には、太った白いネコが尻尾を巻いて寝ている。オロが寝返りをうつたびに、ネコがコロコロところがり、また丸くなった。下町の夜がゆっくりと更けていく。
■森の精
マロの朝は早い。スラもまもなく起きてくるだろう。
オロはいつまでも寝ている。だらしのないヤツだ。そう思っても、オロの顔を見るとつい許してしまう。ああまで屈託のない顔でいられるものか。
水を一杯飲み干し、窓を開けようとして、マロは足の指になにかがあたるのを感じた。白いものが棚の下で見え隠れしている。拾い上げると、小さなスケッチブックだった。
スケッチブックには、幼子の手になるとおぼしきクレヨン画が何枚も描かれていた。その絵に、十五年前に失った妻の姿が重なる。妻というのは正確ではない。婚礼をあげる前だったのだから。許嫁だった。
――ヒミという名だった。
ミグルの言葉で「森の精」を意味した。五歳離れたヒミは、絵を描くのが好きだった。上手だねと褒められるのは好まず、ただ自分のために描いた。生まれたばかりの妹を熱心にスケッチしていた。こっそり盗み見ると、口先をとがらせてそっぽを向いた。五歳になったころだったか。意思の強さはその後も変わらなかった。
「ミグル」という名が歴史から消えて久しい。ミグル族自身も外では「ミグル」を名乗らない。排斥され、虐殺された歴史をもつからだ。
ただ、ミグル族は細々と存続してきた。託宣に秀でた特殊な民としてルナ神殿やウル神殿に仕え、栄華を誇った時期もあったが、いまは絶海の孤島にこもり、ひっそりと暮らしている。ミグルの高度な文化や神器、宝物は水神殿に奉納されてきたという。しかし、その水神殿は、秘密を守るために部族の者にも隠され、いまや何の手がかりも残されていない。部族の栄華を語る神謡と古謡だけが残り、マロの一族が代々語り継いできた。
ミグル族は、部族の者以外との婚姻を許さない。数少ない若者たちのあいだで結婚相手を確保するのは容易ではない。このため、子が生まれるとすぐに親が結婚相手を決めた。
ヒミもそうだった。慣例にしたがって、祭祀長一族の嫡子と婚約した。しかし、相手は十歳のときに亡くなった。代わりとなったのがマロである。部族は母系原理で動いてきた。首長は女性がつとめる。一夫一婦制をとるが、首長は三人まで夫をおくことができた。最初の夫は家柄で母親が決めるが、二人目、三人目は自由に夫を選んだ。
ヒミとスラは、異父姉妹だった。二人の母はミグル族長。ヒミの父は正夫たる第一夫。スラの父は第二夫だった。父を早くに亡くしたヒミは、いつも孤独の影をしのばせていた。スラは、そんな姉に憧れた。姉の際立った美しさ、繊細な心、透き通った声のすべてが、スラにとっては尽きせぬ憧れとなった。
気難しいヒミも、異父妹のスラだけはそばに置いた。母は、スラの父からスラを取り上げ、ヒミとスラを一緒に育てた。ヒミは、自分の意のままにならずにむずかる赤ん坊にむしろ興味を抱いたらしい。まるでペットをかわいがるように支配欲を発揮して、スラに接した。
ヒミが十八になったすぐあとの満月の日に、マロとヒミの婚礼が決まった。部族長の正統な跡継ぎと祭司長の跡継ぎとの婚礼だ。部族全体が沸き立っていた。
ヒミの婚礼衣装は部族の伝統にならった赤い長着。随所に華やかな金色の刺繍があしらわれていた。ヒミの母も着た最高の晴れ着だ。族長の家では、祝いに来る人たちにその衣装を見せて、酒と料理がふるまわれた。
ヒミの顔は冴えなかった。もともと愛想がよいとは言えない。冷たい美貌で口数も少ない。
だが、おかしいところはなかった。ヒミは気位が高い。結婚相手が自分では不満なのかもしれない……。マロはそう思っていた。マロは祭司長の一族に属したが、嫡流ではなく、傍流にすぎない。本家の嫡子亡きあと、才能を買われて一族の長に養子に迎えられたのだった。
山間の小さな家に住んでいたマロは、突然、都の屋敷に招かれ、とまどった。勝手がわからず、広大な屋敷のなかで迷ってしまったときに、一人の少女に出会った。
少女は、森の精のような透明感をまとっていた。しなやかで流れるような動きには無駄がない。瞳の力は強い。少女はマロを見据えた。それも一瞬で、すぐに身を翻して消えていった。マロは胸がざわつくのを感じた。少女の面影はその後も離れなかった。
それがヒミだった。
正式に婚約者として紹介されたとき、ヒミはマロを見ようともしなかった。
となりにいたスラがマロのそばによってきた。小さなスラはマロが気に入ったようだ。それからもスラはしょっちゅうマロのところにやってきて、演奏をねだった。
マロは、スラをさがしてヒミが来ることに気づいた。ヒミは決して姿を見せなかったが、マロはヒミに聴かせようと腕をふるった。その後も精進を重ねた。すべてはヒミに聴かせるためだった。祭司長はよい後継者を得たと喜び、さらに多くを教え込んだ。マロが来てから十年以上、そのような日々が続いた。
その間に、スラはヒミの護衛となるべく育てられていた。ミグルがもっとも重視するのは音曲と舞。その舞が発展してミグル特有の武術が発展した。スラの父は、ミグル武術の最高師範――。スラは、父からその伝統を引き継ぐべき者と見込まれたのである。
ヒミは、族長になるべく育てられていた。ミグルに関する古代からの言い伝えとあらゆる秘儀を習得した。ヒミは早熟で、抜きんでて聡明だった。その舞は「比類なき美」と称えられた。陶然として神に舞をささげるヒミは、ひととしての仮面を脱ぎ捨てたかのようだった。
マロはそんなヒミを見るのが好きだった。
――ヒミはひとであってひとを超える。
だが、ヒミは、ついぞマロを見ようとはしなかった。
そんなヒミが子を孕んだのである。
ヒミの母たる族長は、子の父を問いただした。ヒミは決して口を割らなかった。マロは自分の子と申し立て、ヒミもこれを否定しなかった。
婚礼前の妊娠は恥ではあったが、罪ではない。婚礼の日取りが早められた。しかし、ヒミは日ごとに憔悴していった。婚礼の前日、ヒミは姿をくらました。マロとスラが密かに彼女を探した。洞窟で探し当て、医術の心得をもつマロはヒミが子を産み落とすのを助けた。早産ながら、元気な子であった。
瀕死のヒミはスラとマロに懇願した。
――この子を守って!
そのままヒミは息絶えた。
腕の中の赤子を見たマロは戦慄した。赤子は男児で、背中に鱗の形をした小さな青いアザがあった。スラも口を押さえた。
――ミグルに災いを及ぼす龍のアザだった。
このアザをもつ男児は海に返されるものと定められている。
マロとスラは顔を見合わせた。心は決まっていた。命懸けでこの子を守るほかない。
マロとスラは崖から落ちたように装い、ヒミの葬儀で村中が混乱している隙に、赤子を連れて島をでた。そして、三人の逃避行が始まった。
マロはふたたびスケッチブックに見入った。
スラの声がした。
「義兄さん。朝ご飯ができたよ」
また、いつもの一日がはじまる。亡き母に似た老女の絵を棚の上に開いたまま、マロはその場を離れた。
■大ばあちゃんとキキ
(ふううう。やっと出られたよ)
絵からでてきた稲子は、見たこともない部屋にびっくり仰天。
(あれまあ、寮の部屋とやらはこんなに殺風景なのかい?)
部屋の隅々を見て回っていると、ドアに中年男があらわれた。
(お、しぶいええ男だの。じゃが、教師にしてはいささか無骨じゃな)
稲子は男をつついてみた。いっこうに反応がない。よほど霊感がないのか。
男と入れ替わりに、太ったよれよれの老いた白ネコが入ってきた。稲子が見ている前で、ネコは棚に飛び乗り、ドテッと身体をひろげ、スケッチブックの上で居眠りをはじめた。稲子はパニックに陥る。
(どけ! 絵に戻れなくなるじゃないか!)
三分間のうちに絵に戻らなければ、稲子の魂は消滅する。ネコをつつき、引っ張り、ついには蹴ってみた。ビクともしない。
(ええい、いちかばちかじゃ)
稲子は、ネコの身体をすり抜けて、絵に戻ろうとした。そのとたん、ふわっと稲子の体が浮き、すぐにドスンと落ちた――失神。
気づくと、窓が正面に見える。下を見ると毛むくじゃらの手。ネコの手だ。
(なにい?)
手というか、足というか、体を伸ばすと、下に稲子の絵があった。
(やったぞ。絵に戻れる!)
なのに、いくらじたばたしても絵に戻れない。ニャアアア。悲鳴のかわりに出てくるのはネコ言葉。飛んだら絵にもどれるか?
ドカン。ドテン。ドタン。
机の下に落ちただけだった。
「ニャアゴウ」(ウソだろ?)
そろりそろりと抜き足差し足。これは得意らしい。違和感がない。鏡のまえにすわった稲子は呆然とした。目の前にうつるのは、太った白ネコ。さっきまで見下ろしていたネコそのものだ。
「フウウウ、ニャオゥン」(オマエはダレダ?)
口がそのとおりに動いている。
(おいおい、わしゃ、こんな不細工なネコになっちまったのかい)
稲子はガックリしてしまった。とたんにいい臭い。臭いにつられて部屋を出ると、小さな皿に焼いたばかりの小魚。
(うげええ、魚は大嫌いだ)
なのに、体が勝手に動いて、魚をハグハグと食べ始めた。
「ウミャアアアァ」(うめえ!)
さっき見かけた渋い中年男のそばにいた三十歳ほどの女が、ネコの首元をくすぐる。
「キキ。今日はご機嫌だね」
小魚をたいらげ、稲子は椅子に飛び乗って考えはじめた。中年男とアラサー女はさっさと片付けをして、どこかへ出かけていった。
(いったい、どうなっとる?)
ドスン。
突然、押しのけられて目がさめた。
「ニュアアウン」(痛いじゃないか!)
さきほどの椅子に少年が座り、何かを食べている。日が高くなっているところを見ると、考えながらうたた寝してしまったのか。年のせいか、しょっちゅう寝てしまう。
少年は、ときどき黒いリュックを見やってはため息をついている。
(そうだ、張本人はこいつだ。こいつが風子のリュックをまちがえたんだ。困ったヤツめ)
稲子ネコは、少年の足を思い切り噛んでやった。だが、軽く足を振られていなされ、クビをつかまれて持ち上げられた。手も足もでないとはこういうことか。
「おい、キキ。おまえまでオレをバカにすんのはやめな」
投げ捨てられると覚悟したが、少年は稲子ネコを窓際のカゴに入れた。
「おまえの居場所はここじゃないか。ぼけて忘れちまったのかい? おまえもトシなんだから、ムリしちゃダメだぞ」
少年は手の平に小さなまんじゅうをのせていた。祭儀用にスラがつくった蒸しまんじゅうだ。なかにはほんの少しの小豆あん。
「最後のひとつはおまえにやるよ。好きだろ?」
稲子ネコがまんじゅうをほうばっているあいだに、少年は上着を着て、出て行った。
(キキ……? この白いネコはキキと呼ばれていたのか。こいつの魂が空いて、その代わりにわしの魂が入り込んだってことかい? 吉か凶かはわからんが、ひとまずキキですごさにゃならんようじゃ。それにしても、体が重い。いくらなんでも肥えすぎじゃな)
稲子ネコならぬキキは、ちょっとだけ開けられた窓から外に出た。
絵のなかに魂がとどまってから十年近く。久しぶりの外の景色だ。うらぶれた小さな家が立ち並ぶ。キキの主人たちの住まいがある地区は、かなりの下町なのだろう。
風子のいるアカデメイアはいったいどこなのか。
あてもなく、キキは歩いた。
■キキの散歩
快適な散歩……とはいかない。
キキの体は重い。足はたびたびよろめいた。ドテン。ついに足がもつれた。バシャーン。顔から水たまりにのめり込む。
「あっはっはっは!」
高みから大きな笑い声。泥にまみれた鼻面をあげると、塀の上に、痩せた黒いネコがゆうゆうと寝そべっていた。
「キキばあさん。久しぶりだな」
黒ネコはひらりと身をかわし、キキのまえに降り立った。
「てっきりくたばっちまったと思ってたぜ」
「ヘン。そう簡単に死んでたまるか」
キキはそっぽをむいて、胸を張った。体のなかでただ一カ所やわらかな胸毛までドロドロだ。強い日差しをあびて、みるみる固まっていく。なめてみるが、ドロが舌にまつわりつく。
「こっち来な」
地理不案内では、ついていくしかあるまい。まさかこんなデブの老ネコから何かを巻き上げる気もなかろう。よたつきながらついていくと、まもなく小さな泉に出た。黒ネコは躊躇なく、水に足を浸す。ネコって水嫌いじゃなかったっけ。だが、そんなこと言ってられない。キキも水に顔と胸を浸した。ほんわりと温かい。
(こりゃ、温泉じゃないか)
つい気持ちよくなって手足を広げた。ふわふわとよく浮く。
「ここはオレの新たな縄張りだ。いつでも来ていいぜ」
黒ネコが自慢気に言う。
柔らかな草のうえに寝そべる。大きな木が適度な日陰をもたらす。
そよそよ、そより。
キキの胸毛と、黒ネコの背中の毛をなでて、風がやわらかに通り過ぎる。
「おまえさんの新たな縄張りって、どういうことだい?」
キキは黒ネコに聞いた。
「あいつだよ、あいつ。斑の甚兵衛と闘って勝ったんじゃねえか」
黒ネコの鼻がピクピク動く。よほど自慢なのだろう。
「……斑の甚兵衛って、何者だい?」
黒ネコが驚いて、キキを見た。顔を近づけてきて、まじまじとキキの目を見つめる。キキは思わず体を引いた。
「そうか。やっぱりなあ……。ウワサはホントだったんだ」。
「ウワサってなんだ?」。
「キキばあさんが耄碌しちまったってウワサさ。ひょっとしてオレのことも忘れちまったんじゃないのかい? なあ。オレの名前はわかるかい?」
キキは黙った。
(知るわけないじゃないか。よし、見たままじゃ)
「クロ?」
「ばあさん!」
黒ネコが飛びついてきた。
「そうだ。クロだ。ばあさんがオレのこと忘れるはずはねえ。オレはばあさんの息子も同然だもんな」
(えらく安直な名前だねえ)
「お……覚えてたさ。ほかのことは忘れちまったけど」
クロはまだうれしそうに目を輝かせている。キキの背にこびりついたドロをなめてやった。
「よっしゃ、まかせとけ。オレが助けてやるよ。何でもオレに聞きな。ちっとは思い出すかもしれねえからよ」
黒ネコは妙に張り切っている。人助けならぬ、ネコ助けが好きなのだろう。
「クロ、頼みたいことがあるんだが……」
「おう。なんでえ」
「アカデメイアとやらに行きたいんだがね」
クロの顔がこわばった。
「……アカデメイア?」
「どうした? 何でも任せていいんだろ?」
「そりゃそうだが……アカデメイアはいけねえ」。
「どうしてさ?」
「オレの縄張りじゃねえんだ。あそこは、お銀という名の賢いネコが支配している。そのお銀はいいんだけどよ。そこに行く前に金獅子という名のネコの縄張りを通過しないとなんねえ。ソイツは、名のとおり見た目は派手でよ。おまけにとてつもねえ金持ちだ」
(ネコにも金持ちがいるのか……)
「わしが行ったらどうなる?」
「ばあさんだけで行けば、半殺しの目にあうだろうな。金獅子はダウンタウンのノラネコを認めちゃいない。子分の尾長を使って、ノラ一掃をはかっている。町を清潔に、安全に保つのが金獅子の使命なんだそうだ。オレたちノラはクズってわけさ」
「てことは、金獅子は飼い猫なのかい?」
「そうさ。あの界隈で一番の有力者の飼い猫でね。かの有名なウル舎村長の家にいるんだ。だからチョー威張っている」
「なんだ。虎の威を借りたネコかい」
クロは一瞬、目を見開いて、カラカラと笑った。
「あはは。キキばあさんの毒舌は相変わらずなようだ」
どうやら、この島のネコたちは、島を南北に分ける川と東西に分ける稜線をはさんで、いくつかの縄張りに分かれているらしい。クロは、ダウンタウン北部のボス。縄張り内には岬の上病院や〈蓮華〉学園がある。斑の甚兵衛はダウンタウン南部のボス。そこには空港と港がある。境界をめぐって、両派はつねに抗争している。そして、舎村を牛耳る金獅子と子分の尾長。アカデメイアを支配するお銀。
「へええ。お銀ってのは、そんなに強いのかい?」
「そりゃそうさ。アカデメイアの長ネコは、島で一番賢く、強いネコじゃなくちゃなんねえ。闘いに負けたら最後、自分で死を選ぶしかないってウワサだ。お銀は、歴代のアカデメイア長ネコのなかでも、ダントツの頭脳と腕前をもつと評判だ」
キキはクロに連れられて見晴らしのいい高台に上った。河をはさんで手前にはアカデメイアの瀟洒な町並みが広がる。河の向こうには塀で囲まれた広大な地区、それがウル舎村。そして遠く向こうには、神域とされる天月の山脈。
(アカデメイアに行くのはそう簡単ではなさそうじゃな。じゃが、所詮は同じ島のなか。おいおい方法を考えるとしよう)。
キキは隣のクロを振り返った。
「まあ、なんじゃな。おまえさんは、いちばん弱体の縄張りのボスってことだな」
キキのさらりとした結論に、クロは肩を落とした。
「……その通りさ」
半日かけて歩き回ったころ、ぜいぜいと息が荒くなったキキを振り返り、クロは言った。
「キキばあさん。今日はこれくらいにしようぜ。明日もここに来な。待っててやるからよ。それ以外でオレに会いたきゃ、岬の上病院の裏手に来てくんな」




